はてなキーワード: 形而上学とは
同じことを繰り返す。やり直しではなく、現在を作り出すために。生きる、ということの経験は、同じものとの再会に満ちている。すべてに思い出がまとわりつく。鏡でないものがあるだろうか。彼岸花、水道、ドアの開閉、沓脱ぎ、階段、見るということは似たものを同じものと見なすこと、知覚は感受を名前によってくくる。くくられた以上、感受はかつて出会ったものの異なる再来となる。そうなってはじめて、世界への知識が可能になり、予測と後悔が切り開かれる。それに慣れすぎて、異なるところにしか気がつかない。異なるという意識を可能にする同じであるという知覚には気づけない。
花だと思うから、異なる花だと思うことができる。繰り返し、繰り返す。けれど、同類であることと同じであることは違うのでは? 彼女は彼女の状態のクラスではなく、彼女という個体のはずで、そこにはやはり何か違いがあるはず。たとえ、彼女の細胞が一定の時間ですべて入れ替わるのだとしても。絶対的に分割不可能な単体であるということ、それはきっと不可能な形而上学だが、それなしでは人間的な関係性は成り立たない。わたしがあなたを個体ではなくカテゴリーやクラスだと考えたとき、ひとは現象に出会うことができるのか。であれば花が再来することと、この花が再来することはどのように違うのか。
後悔は理想に通じ、そこから、夢が涌く。存在の再来を回想であると理想主義者は信じている。誰もが予め知っている、あのユートピアを、世界の不完全さを通じて思い出す。トラウマのようなフラッシュバック。思い出す。ぼくらは知っている。あの美しい世界を。あの美しい花を。それがイデアという追想のイデオロギー。逃れられない、繰り返し。まるで、先生にやり直しを命じられているかのよう。追憶への繰り返しは後ろ向きの反復、すなわち、やり直し! 正解はあるし、それはみんなあの夜のまどろみの中で知っている、憶えている。ああ、懐かしい、追憶の、日々よ。
だが、それでは繰り返したことにはならない。(歯車は、繰り返し回転することで、機械を作動させる。それは、仕事をする。だから、回帰は、元の木阿弥ではない)繰り返す。こぼれ落ちたものは失敗だったのか。失敗シークエンスでは、何も起きてはいないのか。起きないのか。何かが起きる。というか、何かは起きる。繰り返しは、どのようにして、同じことではないのか。内容が違う、というのは、結果であって原因ではない。繰り返す。記憶喪失だとしよう。世界は五分前に創造された。わたしが、歌を、それを繰り返しであると信じて歌ったとき、それは繰り返しなのか。本当は世界で初めての行為でも。然り、といおう。それは繰り返しだ。だが、と、そこで、疑問がわく。「誰にとって?、そして何に対しての?」
右と左は、端的に違う。内容的には違うとかではない。同じように、内容が全く同じ繰り返しの1度目と2度目は、端的に違うのであって、こことかそことかが違うのではない。だが、と悪魔はいう。世界の外から観測する悪魔にとっては違う。なぜなら、悪魔は憶えているから。では、繰り返すということ、それは意識の、記憶の属性で、事柄の属性ではない? 奇妙な話だ。歴史は世界の属性か、観測の属性なのか。
いや、もちろん、悪魔などいない、と宣言して片をつけることは可能だ。それが常識的な線でもある。結局、まったく同じ繰り返しなどないのだし、世界に痕跡を残さない行為もない。だから、繰り返しは、必然的に、内容的にも一度目とは異ならざるを得ない、と言い切ることもできる。時間も歴史も世界の側の属性だ、と。
だが、ひとは忘れる。もう、たいていのことを忘れている。
しかし、繰り返さない、ということはどういうことか、と考えてみる。それは、きっと、不可能だ。少なくとも、ひとが意識的に何かをするということは、何かという名前で知っていることを、再来させようと企むことだから、定義上、それは未聞のことではありえない。バンジージャンプをしようと思うということは、わたしがバンジージャンプを飛んだことがなくても、飛んだ人がいることが前提で、それは、繰り返しを意図することのはずだから。(死ぬことですらそうだ、ともいえるし、そうでもない、ともいえる。自殺は、必然的に失敗するから)
だから、意識的にするのでなければ、たしかに、ひとは、繰り返さないことができる、かのようでもある。しかし、今度は、意識的ではない行為は、たいしたことを成し遂げない、という現実が現れる。たいしたことではない以上、たいしたバリエーションはない。そのかぎりで、それは似たようなことの繰り返しだ。けれど、それは、繰り返すという行為とは、わけて考える必要がある繰り返しだろう。それは重力と自然法則の支配権であり、反復というよりも、永遠というべきだ。日常は永遠によって捕らえられている。悪い意味で。
だから繰り返す。そうすると、完全には繰り返せない。それが、繰り返しの成果だ。この認識自体は割と普通だ。だから、考えを始めるのは、ここからだ。繰り返すと、何かが蓄積し、わりと逸脱して、新しいことが生まれる。そうやって、歴史が存在できたし、してるし、進行中。
えーと、これは違うだろう。前半はその通りだ。誰でも人権を持っている、って言うことにしよう、ってことになってる。後半部分が問題。
ちょっと難しいかも知れんが、マイケル・イグナティエフ『人権の政治学』って言う本がある。余り大きな本じゃないから読んでみたらどうだ。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000200271/
ここにそれをベースにした論文がある。短いからオススメ。引用はここから。
イグナティエフは、「切り札」として行使される人権には反対だ。例えば人道的介入っていう概念があって、人権を守るために国家主権を侵すことも辞さず、むしろ「人権を守る」と言うことが万能のジョーカーとなってそれを正当化する役割を担っている。これは完全な間違いだ。「人権は政治を超えた道徳的な切り札ではなく、政治以外の何者でもない。」
そして、「偶像崇拝としての人権」にも反対している。人権は宗教じゃない。絶対的な道徳を担保するものでもない。人権教に加入しちまった奴は、逆に人権を理解していないってことだ。「人権へは…宗教的な意味での信仰ではないし、形而上学的な信念でもない。」
人権ってのは倫理的な規範なんかじゃないし、絶対的な真実でもない。全てを正当化する魔法の言葉でもない。当たり前のことだが、それはもっとリアルな政治の中で、人の生き死にに関わる状況で、どうやって誰かを守るのか、ということから発展した思想だ。あんまり濫用すんな。特に今回のレイプAVを云々ってのは最初は人権問題なんかじゃない。社会の倫理がどうなってるのかって問題だ。
「ある要求を権利と呼ぶことは、その要求には交渉の余地がないと言っているのと同じなのである」とイグナティエフは言っている。あんまり濫用するもんじゃない、ってこと、分かってくれ。
あと、お互いハテサだのウヨだのレッテル張りするのはやめて、自分の頭で考えて議論をした上で間違いは認めろよ。議論ってのは勝負じゃねーんだ。お互いの理解を深めるためのプロセスなんだよ。本も読まずに下手な発言するんじゃない。こんなところで言っても意味ないかも知れんがね。
id:magician-of-posthumanが仕掛けた罠とは何だったのかについて一考した。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131
id:gerlingは、何の技も会得せずに、「メディア論」という一つの学問分野に対して「道場破り」を挑んできた。しかし学術の道場では、何の技も会得していない雑魚と同じ「土俵」に立つような真似はしない。雑魚は「門前払い」だ。しかしながら、メディア論の道場では、「門前払い」になった雑魚を<踏み台>にすることによって、より高き土俵を造ることが可能なのである。
どういうことか?今id:gerlingが陥っているパラドクスは、自らの反論が何ら相手にされずに、反論対象を好都合にしてしまっているというパラドクスなのである。id:gerlingがメディア論に反論しても、メディア論の必要性を助長させてしまうのだ。
増田的には注目度は低かった「科学的な議論」ではあったが、この議論は最初から茶番だった。
id:gerlingの反論が非科学的な反論(笑)であったために、
id:magician-of-posthumanはそれを都合よく「利用」したってことだ。
id:gerlingは、最初から手のひらの上だったのだろう。
議論の流れはこうなる。
1.id:gerlingは、id:magician-of-posthumanの「メディア論」を「ミクロ権力論」と混同して反論(笑)した。
2.だが、id:magician-of-posthumanは、「メディア論」がシステム理論の「コミュニケーションメディア論」と
フランクフルト学派の「メディア論」的転回に関係し、「ミクロ権力論」とは全く違うと言う事を説明した。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798
客観的に第三者視点からみても、この時点でid:gerlingの敗北は決定的。
3.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が
同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら
証明する事にあったが、id:gerlingは「論旨のずらし」によって不当に応戦した。
4.id:gerlingは、システム理論の「コミュニケーションメディア論」を完全スルーしたまま、
システム理論を「観念論・形而上学・精神分析学」だと決め付けてかかった。
5.だがid:magician-of-posthumanは、形式とメディアの理論やオートポイエーシス・システム論を説明し、
システム理論が「観念論・形而上学・精神分析学」とは全く別物である事を完璧に論証した。
6.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が
同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら
証明する事にあり、
かつ、システム理論が「観念論・形而上学・精神分析学」と同じだと言う事を
形式とメディアの理論とオートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、
id:gerlingはまた「論旨のずらし」によって不当に応戦した。
7.http://anond.hatelabo.jp/20090222172805の増田が言っていたが、
id:gerlingは、「コミュニケーションを人間的な単位に還元する事は不可能」だという
「メディア論はガキくさい」から「id:magician-of-posthumanはガキくさい」へと
「論旨のずらし」を行った。
8.だがid:gerlingのこの「論旨のずらし」だと、
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798を全く言い負かす事も
できないまま主張してしまうために、全く全然具の骨頂な「論旨のずらし」になってしまった。
9.id:magician-of-posthumanは、追い討ちをかけるかのごとく、
id:gerlingの「孫引き」=他者が引用した文章をそのまま引用する不正行為を行っている事、
id:gerlingがルーマンの文献を読まずにルーマン理論に反論している事の調査不足さ、
id:gerlingがボルツの文献を読まずにボルツを馬鹿呼ばわりしている事を指摘した。
10.id:gerlingは、このid:magician-of-posthumanの追い討ちを受けて、
id:magician-of-posthumanのシステム理論が誤読だと反論した。
実はこの誤読だという反論も、客観的に見れば「論旨のずらし」だとわかる。
id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が
同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら
証明する事にあり、
かつ、システム理論が「観念論・形而上学・精神分析学」と同じだと言う事を
形式とメディアの理論とオートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、
id:gerlingはこれらの説明責任の論旨を「id:magician-of-posthumanのシステム理論」へと
ずらす事で、id:magician-of-posthumanの波状攻撃になんとか対応しようとしたって事だ。
11.しかしid:magician-of-posthumanは、id:gerlingが罠に落ちたと言う。
id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの
「id:magician-of-posthumanのシステム理論は誤読だ」という主張を、
これまた正確に反証している。
id:gerlingは、ルーマン理論が神経や意識を「一度も」説明していないというが、
id:gerlingが読んだ事のあるルーマン本は、「一冊だけ」だった。
id:magician-of-posthumanはこれに向かって、
神経や意識を取り上げているルーマン本を数十冊取り上げ、その頁数まで正確に記載して、
id:gerlingの「知ったかぶり」を説明した。
12.さらにid:magician-of-posthumanは、id:gerlingこそがシステム理論を誤読していると説明する。
形式とメディアの理論、オートポイエーシス、自己言及と外部言及、システムと環境の差異、構成主義的認識論、
コミュニケーションメディア論、間テクスト性、パラドクス化と脱パラドクス化。
id:gerlingが自分自身の「調査不足」の責任を相手の「説明不足」へと転嫁していると説明する。
13.1-12までのながれをみると、どうも客観的な立場の第三者からみると、
id:magician-of-posthumanがid:gerlingの相手をする理由がないように思えてくるのは気のせいだろうか?
id:magician-of-posthumanが言うように、id:gerlingは議論の入り口に立ててない。
14.しかしid:magician-of-posthumanは、「メディア論」に反論(笑)してくるid:gerlingを
最初から相手にならない無害な素人と見做し、「メディア論」の必要性を高める為に、
好都合に利用していたのである。
詰まり、id:gerlingの「メディア論」批判が「メディア論」に栄養を与えていたってことになる。
15.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「孫引き」が知のデザインだという。
。「孫引き」を行なったid:gerlingは、これらの引用記事を読んではいない。読んだ上で言及するならば、最初から正確に引用であることを記したはずだからだ。したがってid:gerlingは、引用記事を読まずに「孫引き」した上で、引用されている記事のバックグラウンドに無学なまま反論(笑)を成し遂げていたと言うことになる。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131
16.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「論旨のずらし」も知のデザインだという。
増田が批判していたが、magician-of-posthumanは肯定的に取り入れているっという事になる。
「論旨のずらし」は、今現在顕在化している論旨では到底勝つことができないという惨めな気持ちを埋め合わせるために形式化されているのである。言うなれば、「論旨のずらし」とは、既存の論旨に反論したいけれども反論(笑)になってしまうというパラドクスを、別様の「形式」と「メディア」の区別を構成することによって、脱パラドクス化しているのである。つまり、「論旨のずらし」とは現状無害化による問題の隠蔽なのだ。しかし脱パラドクス化はそれ自体がパラドクシカルである。パラドクスの隠蔽はパラドクスの発見を伴わせる。だからこそ今現在id:gerlingは、稚拙なバックグラウンドのままメディア論に反論(笑)することが、逆にメディア論の必要性を助長するというパラドクスに向き合わざるを得ないのだ。
17.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンの文献を読むように誘導していた。
案の定id:gerlingは、ルーマンの本を「一冊だけ」(←ここポイント)読み、誤読し、自爆した。
誘導していたid:magician-of-posthumanにとって、ここまで計算どおりだったってことなのである。
id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンを付け焼き刃で論じても、100%誤読すると
確信していたんだろう。
id:magician-of-posthumanは、システム理論を完璧に説明し、id:gerlingのルーマン読解を完璧に反証して、
と言っていた。確信犯以外の何者でもない。
こうしてid:gerlingは、id:magician-of-posthumanの手のひらの上で転がされていたんだ。
とくに、id:magician-of-posthumanがわざと「id:gerlingがルーマンの本を読むように誘導」し、「案の定誤読した」ところを
知のデザインの要素として好都合に動員したあたりは、実にしたたか。
今までトニオは周囲から煙たがれるだけの存在だったが、これほど真正面から「利用」されてしまったのは
おそらく初めてではないだろうか?
だが僕らには、id:magician-of-posthumanのしたたかさにネガコメを突きつける資格があるのだろうか?
実際問題、id:gerlingの「メディア論」批判が十分な調査不足と正確な反証だったなら、
こんな事は起こらなかっただろう。「メディア論」の必要性を助長させてしまう「メディア論」への反論(笑)を
書いて、付け焼き刃の知識と「論旨のずらし」や「孫引き」を繰り返して非科学的な反論をしてしまった
id:gerlingにも、問題はあっただろう。
たぶん僕らが教訓として言えるのは、
普段から努力をサボってる奴には、努力した者だけが参加できるハイレベルな議論に
参加する事が許されないってことなんだろう。サボりは悪い。
トニオとポマえもんの議論からスゴイ事発見しちゃった増田が通りますよ
http://d.hatena.ne.jp/gerling/20090217/p1
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798
http://d.hatena.ne.jp/gerling/20090221/p1
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090221/1235173303
議論を一通り読んで疑問に思ったんだが
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」というのが
ポマえもんのシステム論的な主張のひとつなんだよな?(そういえば宮台も言ってた気がする
で、反論する立場のid:gerlingは、
システム論の文献をひとつも読解しないまま
知ったか → 孫引き → 論旨のずらし
を繰り返す事で反論(笑)していたんだろ。
その反論(笑)の内容が
「メディア論はミクロ権力論・観念論・形而上学と同じでガキ臭いから止めてしまえ」だったんだろ?
でもポマえもんはシステム論のコミュニケーションメディア理論と
ポマえもんの「メディア論」が「ミクロ権力論・観念論・形而上学」とは全然違うと
説明したんだろ?
id:gerlingはトニオ戦法(知ったか → 孫引き → 論旨のずらし)しかできないから
反論する事ができないでいたんだろ?
要するにこの時
「メディア論はミクロ権力論・観念論・形而上学と同じでガキ臭いから止めてしまえ」と反論する立場の
id:gerlingは、トニオだし、
もう議論の敗者になったってことだ。
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」という
システム論的な分析も、当然反論できてないよな?
じゃあなんでid:gerlingは
ポマえもん自身をガキ臭いって反論(笑)してんだ?
論旨をずらすのはトニオ戦法なんだしもう見慣れていたけど
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」
という主張を反論できないからといって
「メディア論はガキ臭い」 → 「ポマえもんはガキ臭い」という
トニオお得意の論旨のずらしは通用しないんじゃないのか?
なぜなら、この論旨のずらしは
id:gerlingを敗北者にした議論というコミュニケーションを
つまりid:gerlingが「メディア論はガキ臭い」という論旨を
「ポマえもんはガキ臭い」という論旨にずらしたいならば
まず「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」を
完璧に反論して間違っている事を証明しないとならない。
id:gerlingは
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」
という主張を反論できないからこそ「ポマえもんはガキ臭い」という論旨へとずらそうと
しているんだろうが、
その論旨へとずらすためには、まずid:gerlingがどうしても反論できていない
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」というポマえもんの主張を
反論しなければならない。
なにこの一人堂々巡りw
論旨をずらして反論(笑)すると、勝手に一人堂々巡りにハマッテしまうんだなww
(追伸)
待てよ、これがポマえもんが仕掛けた魔術なのか?www
自分が自分らしく生きる最大の方法は、自分の身体を知ること、自分の身体を動かすこと、自分の身体で体験することである。
自分の身体なしに(脳なしに)何かを考えられると、あなたは思うのか? 魂がものを考えるのだとでも?
自分の身体なしに(目をなしに)何かを見られると、あなたは思うのか? 魂がものを見るのだとでも?
以下同様に、身体なくして、何かを聞いたり、味わったりできると、あなたは思うのか? 魂がそれを行うのだとでも言うのか?
あなたは身体の外で思考が行われることがあると思うのか? あなたの表皮の外側の空間で思考が起きているとでも言うのか?
ところで、あなたは心があることを信じるのか? 心は表層である。その人とは、行為である。
脳の前頭葉はブレーキの役割を果たす。社会活動に対するブレーキのはたらき。
脳の扁桃体はアクセルの役割を果たす。社会活動に対するアクセルのはたらき。
中庸はあらゆる事の徳である。前頭葉と扁桃体がほどよく、極端にならない程度で機能していることが望ましい。そのためにはそのための、健全な生活が要求される。偏った生活(室内に閉じこもってばかりいる、ゲームばかりしている)は中庸さを失わせるかも知れない。
あなたは、(身体的機能としての衝動抑制が唯一前頭葉にのみあると仮定した場合)前頭葉のはたらきが弱い甲氏が、我慢強いと言うことがあり得るというのだろうか?
あなたは、扁桃体のはたらきが強い乙氏が、何に対しても白黒をハッキリつけないことがあり得るというのだろうか?
この話においては、それらがあり得ると言うことは、脳はいったい何のはたらきをしているというのか? あり得るのだという人は、脳がなくても人は生きてゆけると思っていると言うことだろうか?
ところで、脳は中枢機関である。
あなたとは、あなたの脳ではない。
あなたとは、あなたの右腕ではない。
あなたとは、あなたの臓器ではない。
あなたとは、あなたの皮膚ではない。
あなたとは、あなたの身体である。あなたの身体とあなたは等号で結ばれる。
あなたは身体である。あなたがあなたであるためには、身体を知らなければならない。
身体とは、肉体と等号では結ばれない。身体は収縮拡大される領域である。
あなたは髪型を変えたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたは服を着替えたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたは装飾品をつけたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたとは、あなたの身体である。あなたの身体が変化したとき、あなたは変わる。新しいあなたになる。
あなたが風邪を引いたとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたが爪を切ったとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたが垢を落としたとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたとは、あなたの身体である。万物は生成、変化、消滅の過程を辿る。万物は時間により変化を余儀なくされる。故に時間と共に身体は変化する。
あなたが睡眠をとったとき、目覚めたときのあなたは以前のあなたではない。あなたは新しいあなたになっている。
あなたとは身体である。あなたがあなたとして生きる最良の方法は、あなたが身体を知ることである。あなたは不連続の点である。
身体を知るためには、体を動かさなくてはならない。あなたは物事をどのように知覚していたのかを、体を動かすことで体験しなくてはならない。あなたはあなたの歩幅がいかほどなのか、頭のどこかで知っているべきである。
身体を知るためには、身体との対話が必要不可欠である。身体と対話するのはあなたの意識である。あなたの意識はあなたではない。しかし、あなたの意識を欠いた身体はあなたであり得る。睡眠中も、あなたはあなたである。新しいあなたに移りゆく、不連続の点である。
あなたはあなたの身体に健康的な活発さを与え、持続しなくてはならない。
あなたは身体である。
あなたの前頭葉は中庸あるブレーキのはたらきを持つべきである。
あなたの前頭葉は中庸あるアクセルのはたらきを持つべきである。
それらは偏ることもある。偏っているとき、それはあなたの身体である。すなわち、偏った身体である。偏ったあなたである。偏ったあなたは一体何ものなのか? 偏っているものは良きものか?
あなたは自転車を持っているか? あなたの自転車は両方のハンドルがついているか? ハンドルが片方しかついていない自転車に乗ったことはあるか? それは良き自転車か? それは偏った自転車である。あなたは偏った自転車を好むか?
あなたは一枚のドアの中央にノブがついていることを見たことがあるか? ドアノブは一枚のドアの端についているものである。偏っていることで役割を果たす。偏っていることで、偏りのないはたらきを持つ。
あなたは身体の正面で重たい荷物を持ったことがあるか? あなたは荷物の重さのために、前に倒れそうになるが、身体を後ろに反らしてこれを支える。全体の偏りをなくすためである。荷物を持っているあなたは、荷物も含めてあなたの身体である、荷物はあなたの一部である、あなたは全体の偏りをなくそうとする。あなたは全体である。
あなたは砂時計を見たことがあるか? 砂時計の砂は下方に偏っていく傾向にある。それは自然のことわりである。自然に従うと言うことは偏りをなくすことである。水槽に食紅を流したときに拡散が起きるように、自然は偏りを好まない。
ところで、偏ったあなたは、良きあなたであり得るだろうか?
あなたは身体的に成熟した大人であろうか? そうであれば、子供に回帰することが必要であろうか? 大人よりも子供の方が良きものであろうか?
万物は流転する。生成、変化、消滅する。あなたは生成点から消滅点へ引かれる不連続の点の集合体である。変化することが自然である。子供が大人になることは自然である。
あなたはあなたをそのまま肯定しなくてはならない。これはあなたを正義とするという意味ではない。
あなたは大人になること、大人であることを肯定しなくてはならない。あなたは確かに子供よりも良きものに近づくことができるとして、思考しなくてはならない。
大人は思考できる。子供よりも高度な思考ができる。大人はその点を賛美せねばならない。
子供は未分化である。大人は分化された存在である。大人はその点を賛美せねばならない。
子供はただ自己を肯定するのみである。大人は思考を持続することで、いっそう身体を良く知ることができる。身体を知ることはあなたを知ることである。あなたはあなたを知らずにあなたを賛美、肯定することはできない。存在し得ないもの、明確でないものの賛美、肯定はただ形而上学的なものに過ぎない。あなたはいっそうより良くあなたを知らねばならない。それこそがあなたの生きる最良の方法である。
あなたは身体である。あなたは全体である。あなたは行為である。
877 :トニオ:2008/12/04(木) 03:56:47 0
そもそも、お前の何が形而上学と関係があって、何を脱構築するのか説明できる奴がいるのか。
ゼロアカだのゼロ年代だの無能の群れどもに。 ... 約1時間前 from web
お前、指導教官に定義聞かれてちゃんと説明できんのか ... 約1時間前 from web
自らのプラトン的振る舞い(デリダのプラトン解釈も問題があるんだけれども)に対してはちっとも含蓄とかないわけね ... 約1時間前 from web
そもそも、リアルタイムで対話して結論を出そうなんてマネじたい、
プラグマティストで社民主義者でテクスト主義を批判する分析哲学者なんだぞ。 約2時間前 from web
ローティは政治の部分はわりかし分かりやすくて単純で(だから嫌いなんだけど)、
なんかこねくり回した理屈をひねる余地はないと思うけどなあ ... 約2時間前 from web
リチャード・ローティの設問だ 約7時間前 from web
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
もし、汐音ちゃんの小学校の教師が「そのとおり、声に場所を与える必要があるはずだ!ロリコン(もしくはドブネズミ)に権利を!」なんて言ったら、
無論東だって辞めさせようとするに違いない ... 約7時間前 from web
878 :トニオ:2008/12/04(木) 03:57:48 0
誰も聞いてねえし、そもそも俺はこんな素朴な見地を披露するのは嫌だが、例の無能たちはわけのわからない宇宙語を話しているわりには
こういうことにちゃんと答えることどころか、理解できてるのかも怪しいときたもんだ。 ... 30秒前後前 from web
「近代などなく、それぞれの国民国家の成り立ちがあるだけです」 ... 10分前 from web
ついったーイライラすんなああああああ 14分前 from web
だめだ、まとまらねえ。
表のブログは映画の公開が終わるまでプリキュアの看板を下ろす気はないから。 ... 14分前 from web
もう一つは、「大きな歴史」、「形而上学の支配」というものの真実性。 15分前 from web
一つは、西洋哲学と東洋人である自分との関係性(これはハイデガーの段階で言われている) 16分前 from web
すなわち日本で脱構築なんて志向するなら、二つ困難がある。 16分前 from web
あの尊大なカルナップはハイデガーの言うような壮大な形而上学に確かに関係ないかもしれない。 25分前 from web
そもそも、「大きい歴史」ソクラテスから連綿と続くような巨大な「哲学史」、
「死にたい奴は死ねばいいじゃん、その方が楽でいいだろう」って、
親も、教師も、上司も、総理大臣も、当たり前のようにいうような社会になったら、
秋葉原のあのバカなんざ、迷惑かけるくらいなら一人で死ね! って
誰もが思っただろうけれど、そんなことは公の場ではとてもいえないし、
それはもう本当に同意です、秋葉原の彼について、一人で死ね!などと、個人的には特に思ってませんけれども、そう思った方も割と多い可能性があるでしょうね。
もし仮にお偉い方や人気者が自殺で死んで自殺がいい物だなんて言ってしまうと、ウェルテル効果(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C)
できっと激しくやばいですからね。社会現象になること間違いなしです。
そうなると、自分のことは棚にあげて、この子に先に死なれたりしたら俺はとても生きていけない!
とか思う。親の子に対する感情って、俺はなってみるまでわからなかったけど、
他の全てを吹き飛ばすくらい強いものだ。親が子に、「死なないでくれ!」という感情がウソなら、
この世に真実なんてものは、ひとつもない気がする。
全くもってその通りだと思います、自分が子を持ったら、きっと全力で愛するでしょう。そして子が自殺でもしようものなら全力で助けるかもしくは心中すると思うw自分もかかわいい子供がほしいです。><
では仮に、両親、親類、兄弟が他界している状態の場合だと、自殺を否定することはできないのではなかなと思う、「あの世で両親が泣くぞ、だから、自殺はするな」と言うのは形而上学的過ぎる。
そして、親が子に死なないでくれと思っていない場合も、少なからず存在する。その例は父親などが起こす一家心中。この場合ちょっと例外色がある気がする。けれど他にも、親が子を殺す場合があります。
三国志の時代の中国では「親は子を産むが子は親を産まない」「子が盾となり親を守ることが義である」とする思想が社会通念化しており、中世以前の中国では親の都合で子供を殺すことは正当行為であると考えられていた。人格者と言われている劉備ですら逃亡中に荷物になると言って自分の子である幼児を馬車から放り投げたと伝えられている。
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E5%AD%90%E6%AE%BA%E3%81%97
なので、親が悲しむからいけないという理由は、正しいのだけれども、どこか欠点があるように思える、だから本当の理由では無いと思う。
自殺が絶対にダメだという否定しがたい理由が無いのであれば、自殺を肯定する記事を書いてもいいかなと思っている。
まぁ完全無欠な理由なんてこの世にはなかなか無いと思いますし、無いと思っているから自殺をしてはいけない本当の理由って?というのを書いたわけです。
もちろん、自殺を肯定すると言っても全肯定するわけでは無いです、というかそれはきっと不可能です。
世の中が「論理的」に動いている、「論理的」に物事が解決する、というふうには、
俺は年取って、あまり思わなくなった。
同意。自分も全く思っていない。
物事を論理的にしたいのは自分自身および、その論理を利用しようとしている人自身を納得させるためでしかないような気がする。
論理的に正しくても、生理的になんかイヤ><とか言われたらどうしようもないです。
そしてそれは、自殺がいけない理由が、道徳的にダメとか、倫理的にダメとか、そういう言葉でごまかされ、かたづけられているのと同じ気がします。
論理的に、自殺が絶対にいけないと証明することが不可能なのではないかと思っていたわけです。
が、下の方に鬼才?が現れたようです。
それにしても、本当に丁寧にレスしてくれてありがとうございます。
とりあえず30まで生きる、ですか。それは死にたいと思っている人に効果的な言葉であるように思えました。なんかその、とりあえずっていうのが、いいよね。
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
やぁみんな、元気?
今日僕は、15歳のころからずっと探し求めてたモノについに出会ったんだ。
あんまり嬉しかったから、ここでそれについて軽く報告させてもらうよ。
さて、僕がずっと探し求めてたモノ。それって一体なんだと思う?
勘のいい人なら題名を見た瞬間にピンと来ただろうね。
今日の午後の話だよ。
そうだね、あれは確かランチを食べた後だったから、1時かそのくらいだったと思う。
いつも通りその約30分後に便意を感じ、
けど、そこで僕が対面したウンコは決して「いつも通り」なんて言葉じゃ片付けられないシロモノだったんだ。
完璧だったのさ。
何がって?
ウンコだよ。
ウンコがだよ。
あまりに完璧すぎたから僕、思わず半ケツでつぶやいちゃったよ。
「パーフェクト・・」ってね。
それは実際、ネスカフェのメグ・ライアンもびっくりするくらいのパーフェクトっぷりだった。
その瞬間確かに僕は感じたんだ。
いつも見慣れた薄汚い灰色の密閉空間が、朝日が燦燦とさしこみカーテンが朝の爽やかな風に揺れる
あのリビングへと一瞬で様変わりするのを。
さて、あまりに興奮してたからかな、ここまで一息で書いちゃったんだけど、今読み返してみたら、
上の文章がいくらか読者のみんなに対して不親切だったかなという感が否めない。
というのも、みんなと「完璧なウンコ」という概念についてコンセンサスを築くことが出来ているのかどうか、
確認することを怠っていたからだ。
そこで以下では、みんなに僕がどれだけ興奮したかをもっとよくわかってもらうためにも、
僕がここで「完璧なウンコ」と呼ぶものが一体どのようなウンコを指すのかを簡単に説明しておきたいと思う。
この概念を一番最初に提唱したのは、イタリアの哲学者、フンバルト・エーコだ。
みんなも名前くらいは聞いたことがあるだろう。
彼は記号論の分野で世界的な名声を得ているんだけど、同時に小説家としての顔も持っていて、
多くの人はむしろ彼を哲学者ではなく小説家として認識しているかもしれない。
処女作「ウンコの名前」は世界24カ国で大ベストセラーになって(当然日本でもだ)、
ハリウッドで映画化もされたし、なんと主演のショウン・コネリーはアカデミー賞までとってる。
そしてその彼が初めて「完璧なウンコ」について言及したのが、第2作「フーコーのウンコ」だ。
彼はその中で、こう語っている。
「世の中には二種類のウンコしかない。すなわち、完璧なウンコとそれ以外のウンコだ。ここで私がいう完璧とは必ずしも形而上学的な意味ではなく、ただ単純に、ウンコがいかにウンコらしくあるかという意味での完全性のことを指す。(中略)そして、ウンコがこのように自同律的であるためにはいくつかの条件を満たしている必要がある。臭気、色艶、フォーマット、コンテクスト、訴求力、含有物。これらがウンコが完璧であるための必要条件となることは言うまでもないだろう。だが実はこれらはあくまでも前提にすぎない。真に重要な条件はその先にある。そしてそれが限りなく実現不可能に近いために世の中のほとんどすべてのウンコは完璧となることができないのだ。その条件とは、『肛門にまったくその残骸を残さない』ということだ。そう、完璧なウンコとはそれだけで自己完結しているウンコのことを指すのである。」
ごめんよ、少し引用が長くなってしまったね。
全文引用するのが無理だったから、ちょっとわかりづらい文章になってしまってるかもしれない。
理解できなかった人のために、一応僕が簡単に補足説明しておこう。
エーコがここで言ってる「完璧なウンコ」っていうのは、まず第一に、ニオイも色艶も形もウンコらしくなきゃいけない。
普通の人は完璧なウンコって言ったら無味無臭で誰にも迷惑をかけない、そんなウンコのことを指すのかななんて
想像するだろうけど、エーコの主張はそれとはまったく違うものなんだ。
おもしろいよね。
ウンコが完璧であるためには、一目でそれとわかるような形であり、色艶であり、鼻から一息吸い込んだだけで
それがウンコであると理解できるようなニオイも持ってなきゃいけない。
エーコはこう言ってるんだ。
「コンテクスト」っていうのは、果たしてそれがどのような場面でなされたウンコかっていうような意味だと思う。
エーコ曰く、完璧なウンコはある程度の緊張感が隣り合わせとなっている場面でなされなければならないらしい。
これについては、今回僕が中略した箇所で詳しく述べられてるんだけど、これを説明してたらあと1000文字は
くだらないだろうから、ここでは遠慮させてもらうよ。
「訴求力」っていうのは、ウンコがどれだけその行為者の心を動かすことが出来るかっていう意味だ。
実は彼、「完璧なウンコというものはその行為者がそれを食べてしまいたいと思わせるほどに魅力的でなくてはならない」
とまで言ってるんだけど、ちょっとこれは変態っぽいからさすがに省略したよ。
けど彼が言いたいこと、なんとなくわかるだろ?
もう見るからにウンコで、ニオイもウンコでしかないんだけど、なぜか、「おいしそうだな、ちょっとかじってみようかな」
「含有物」については説明する必要はないだろう。
ニンジンやコーンのことだ。
そして彼が言う、最終にして最大、最重要の条件が、肛門に一切残骸を残さないということ。
これはつまり、ウンコをしたあとにトイレットペーパーでお尻を拭いても、そこに何もつかないってことを意味している。
確かにウンコをしたはずなのに、菊門にはそれが存在していたような形跡がまったくない。
(余談だけど、昔の人はこれを「紙隠し」って呼んだらしい。そう、これが神隠しの語源さ。)
今まで一度でもウンコをしたことがある人なら、これがどんなに難しいことか、容易に想像がつくだろうと思う。
だからこそ、エーコはこんな本を書いてしまうほどに、完璧なウンコというものに魅了されたんだろうね。
さて、ずいぶん長くなってしまったね。
何はともあれ、僕がどれだけ興奮しているかはわかってもらえたんじゃないだろうか。
だって15歳のころからだよ?
15歳のころから、僕はずっと完璧なウンコに出会いたくて仕方なかったんだ。
ちなみに、僕が完璧なウンコの存在を知ったのは、東野幸治がテレビ番組でそれについて喋っていたからだ。
彼には感謝しなくてはいけないね。
僕にこんな素晴らしい体験をさせてくれたんだから。
幸福論って皆がまるで人間の規格は同一で、こう動かせばみんな同じ一つの「幸福」が得られるんだよ。つー、ことを語りたがっているような、胡散臭いところがある。
まあ確かにその通りだと話を進めると、今度そのみんな共有できる「幸福」という状態は何か、っていうと、単に個体差の認められない「脳」というシステムの一つの状態じゃん、となる。
さぁこれで安心だ。で、だからって、どういうときに「幸福」フィーバーが起こってたかとか、そんな類型を蒐集することが幸福論なのか。違うんじゃねえの。せっかくなんだから幸福ボタンを作ろうよ。
私は人に認められたとき幸せです。私はお金があると幸せです。こんなこと聞いてどうするんの。てか、育ちが分かってしまうじゃん。何が欲しいか、一発じゃないか。ギブミーチョコレートだよ。
じゃあボタンを作るとしてその前哨戦である幸福の定義付けがどうして出来ないか、という話なんだけど、まぁ誰もがすぐ分かる通り、幸福を定義してしまうと定義した事柄が起これば必ず幸福でなければならない。でも、美男美女で大金持ちで不老不死で王様だとしても、ほら、簡単に「でも」「幸せじゃないかもしれない」という発想が浮かぶでしょ。外界と内的な感情の距離は、今現に自分から起こっていることから切り離されて形而上学的な話になると、千里の径庭があるんだよね。これは別に幸福に限らず人文的な単語は全部そう。でも最初に脳の規格を統一していることが前提だったはずなのに、アドホックを認めてこんな例外的なことを想定し始めると、例外例外で結局脳全部個体差ありました、となって、あーあ…、というか。だから胡散臭いんだけど。
じゃあ個体となった脳が現に起こっていることからどう幸福を目指すのか、というと、教えてよほんと。
うわーん。幸せになりたいよー。
でえー、いつも思うんだけど、幸福について語ることが幸福を目指している訳じゃないのが興味深いな。
俺の幸福論でみんなを幸福にしてあげよう。というような形の論。確かに「論」なんだけど、語っているモノと重複しているつーか、出力と入力が同じところにあるというか。
え、と、ぐだぐだになりそうなんで切り上げ。
僕の場合幸せとは、運動というか、弁証法というか。お金がないー、はいお金ありますよ。これ。
人に認められないー。はい認められました。これだよね。ただこれだとふと日常を振り返って「ああ、俺って幸せだなぁ」的な感情をフォローできないけど、俺そんなの、しらねえし。体感したことねーから、わかんえーや。
http://anond.hatelabo.jp/20061205142007
娼婦B「あらまぁ、はてなスタッフのお仕事が増えちゃったみたいね。」
紳士C「要するに、『AnonymousDiaryにおいてmovie記法が使えるようにすること』、これがたった今生じたはてなスタッフのタスクなわけだな。」
娼婦A「Anonymousってなかなか洒落た英語だわぁ。でもきっと和英辞典で「匿名」って検索しただけの、ローコストなんでしょうけど。」
紳士C「それがWeb2.0的じゃないのかな?所謂バズワードだけどね。」
紳士C「どういうこった?」
娼婦B「バズワードという言葉自体、まさにバズワードだ、って言うこと。」
娼婦A「そんなことより、ほら、ASINにアフィリエイトのIDが付かないわ。気の毒だけど、はてなスタッフ第二のタスク発生ね。」
紳士C「はてな記法のプログラミングに関しては門外漢だからなぁ。未だはてなアイデアにはAnonymousDiaryの要望が出る気配はないし(http://i.hatena.ne.jp/idealist?did=20&status=&word=&st=modified%20desc)、暫し愚弄な要望はここで垂れ流すしかないな。」
紳士C「どした?」
娼婦B「足跡のFabiconを丁寧に見てるんだけど、まだ近藤社長がお出ましになってないみたいなの。AnonymousDiaryの存在に気づいてるのだか気づいてないのだか、一言『これはひどい』とか評価を聞きたいなぁって。」
娼婦A「『これはひどい』も、なぜこんな形に定着しちゃったわけ?『これはあかん』とか『これはあかんばい』とかが標準タグとして普及したほうが、はるかに楽しいのに。」
紳士C「楽しいが先行したんじゃなくて、やはり、しかたなく、標準語に落ち着いた、という、なんとも情けない結果。」
紳士C「グローバリゼーションは各国間の言語の往来を容易にさせるが、こと一国の言語、例えば日本を例にとれば、グローバリゼーションにおける言語往来の容易化と同程度に、方言の往来も、いわば比例的に容易になるのではないかな。」
娼婦B「五月蝿い、五月蠅い、ゆーとる間に、えらいハックされとるやないの!」
娼婦A「Web2.0においても、悪は確かに、いや、未だ存在してる、ってことだわねぇ。」
紳士C「その『悪』を規定するのは、誰なのかなぁ?」
娼婦A「誰なんでしょうね?」
娼婦B「さっぱり。」
紳士C「各人の倫理観による、って言ったらば、きっと『これは無責任』っていうタグが付くんだろうな。」
娼婦B「…って、ちょっとあなた、私たちの住んでいる町が一面に…六麓壮が…?」
娼婦A「ああ、貴方その話ね。先ほど報道の方がお見えになって、建築制限条例改正案についてお聞かせ願いたいって、お越しになられたわ。」
紳士C「(ああ、あの窓から見えた、黒いダウンのやつは、そうだったのか。)」
紳士C「いや、なんでも。それにしても、AnonymousDiaryもそろそろ落ち着いてきたな。」
紳士C「おぅい、ちょっと君。そうだ、古畑のあのテーマをやってくれ。」
娼婦A「(あのパーカッショニスト、腕冴えてるわぁ。確かid:intelligen...、忘れたわ。)」
娼婦B「わが町の行政も、しっかりしてきたわね。地方自治のいろはも知らない国会議員には、この事実をとくと受け止めて欲しいわね。」
娼婦A「確かあの方をご推薦なってから、見違えるほど地方自治は機能し始めたわ。今度お越しになられたら、御礼でも差し上げないと。」
娼婦A「わかってますわ。私に限って、へまなど致しません。」
紳士C「よし。そろそろ北ドイツ放送交響楽団のチケットの手はずを整えねば。久々にドホナーニが来日される。」
娼婦A「ドホナーニさんって、なかなか硬派な演奏をされるけど、日本での認知度って低いのかしら?」
娼婦B「確か、作曲家の父を持ってらっしゃったのですわよね。硬派な演奏になるのは、楽譜に重きを置くお父様の影響なのかしら。フルトヴェングラーみたく、音楽に形而上学を求める理想主義的な演奏は、長らく、正に理想とされてたけれども、作曲家にとっては我慢ならないのでしょうね。」