折に触れて、出産予定月をまたいだほどの生来の出不精からすると少し気が触れて、旅行することもある。するとその土地にはその土地のジジイがおり、ガキがおり、折々の少年時代があるんだと感じる。商店街通ったり、ローカルの電車に乗ったりしてるとね。
するとここで自分が過ごしてたら、とか、ここの方言使うことになるんだろうか[1]とか思ったりする。でもすっとそれを止めて景色を見たりする。いつからこんなにあきらめよくなったっけ。
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少年時代、というよりアカチャンマークツーくらいの時代、小学一年生上がりたての時に、道徳だか国語だかで冊子をもらった。教科書でもなくプリントでもなくワザワザ冊子なので夏休みの宿題だったのかも。家で読んでひっそり大泣きした記憶がある。
たくさんの動物に囲まれた白人のガキが表紙にあしらわれたクソ冊子。読んでいくと相棒の犬と仲良くなっていく様子、今生の別れ、葛藤、他のペットを飼えるようになって優勝みたいな流れだった。
ガキからするとそんな本邦における精神の発達過程のネタバレとかどうでもよくて、なぜゴールデンレトリーバーは死ななくてはならないのか、根本的に死んでしまった問題は解決されていないのでは、と飲み込めず泣き出し、親にまで提訴した。冊子を読んだ日は当時飼い始めたゴールデンレトリバーを抱きしめて寝た。
で、「諦め」っていうのが抵抗できない大いなる力、自然だの物理だのへの唯一の対策だと覚えたんだ。俺の犬は奇しくも高校の夏休み前最後の登校日に死んで、一日泣いて、諦めた。ここ進研ゼミでやったやつだと思ったけどそれからペットは飼わなかったし、黄色人種なので冊子の表紙みたいにはならなかった。
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だから自分の環境がこうだったらなーみたいなどうしようもない憧れは小学生の体感する夏休みより早く終わる。
[1]自閉症傾向が強かったり、発達がユニークだったりすると共通語のTVや共通語文書から言葉を学ぶので方言は身に付きにくいらしい