はてなキーワード: 一神教とは
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれもアブラハムを共通の祖とする一神教であり、それぞれが独自の歴史的経緯と教義を持っています。
ユダヤ教は紀元前13世紀頃、預言者モーセによって確立されたとされ、旧約聖書に記された神との契約に基づく宗教です。
キリスト教は1世紀にイエス・キリストの教えに基づいて生まれ、新約聖書に記されたイエスの生涯と教えが中心です。
イスラム教は7世紀に預言者ムハンマドによって創始され、コーランに記されたアッラーの啓示が中心となっています。
カトリック教会は、初期キリスト教会から発展し、ローマ帝国の公認宗教となった後、西ヨーロッパで中心的な役割を果たしてきました。
しかし、16世紀になると、教会の腐敗や聖書解釈に対する異議が高まり、マルティン・ルターによって宗教改革が起こされます。
ルターは「信仰のみ」「聖書のみ」「万人の司祭職」という原則を掲げ、これに賛同した人々がプロテスタントと呼ばれるようになりました。
ルターの宗教改革は、カトリック教会からの独立と新しい教義の確立をもたらし、プロテスタントの多くの派が生まれるきっかけとなりました。
プロテスタントの中でも、ジャン・カルヴァンの教えは特に影響力があり、彼の予定説や職業倫理は商工業者に受け入れられ、西ヨーロッパの経済発展にも寄与しました。
その謎を解明するため調査隊はインターネットの奥地へと向かった
その結果、英語圏の歴史解説YouTubeチャンネルを発見した
Why Do We Throw Coins in Fountains?
動画の字幕の書き起こしをChatGPTに翻訳&要約してもらった
毎年、世界中で私たちは噴水から井戸、さらにはテーマパークの乗り物まで、コインであらゆるものを飾ります。私たちは幸運を求めて、願いが叶うことを望んでいます。場合によっては、ローマで誰かと結婚するためにもコインを投げます。この伝統は時代を超えて広まり、その起源は古代ローマにまでさかのぼります。ローマの公務員であるガイウス・カエキリウス(別名:プリニウス・ユニオル)が書いた手紙によれば、人々は清潔な泉に感謝の意を表す形で贈り物を投げ込むようになりました。当時、清潔な水は非常に貴重であり、神々への感謝の印としてコインを投げる習慣が広まりました。この伝統は今でも続いており、ローマのトレヴィ噴水が特に有名です。また、映画「Three Coins in the Fountain」でもこの伝統が取り上げられ、ロマンティックコメディの要素として広まりました。噴水に投げられるコインは、都市や観光地の収益の一部として寄付されることもあります。
要約の結果、元動画が言っている内容とちょっと違う文意になっている箇所があるな……
しかし歴史解説YouTubeチャンネルの内容をを鵜呑みにするのはちょっと気が進まない
調べるとっかかりとしては役に立つんだけどね
あと、この解説はアジア圏のコイン投げについての観点がまるっと抜けている
中国人が願掛けとして飛行機のジェットエンジンに向かってコインを投げ入れようとした、というニュースがあるくらいだ
すなわち、現代の池へのコイン投げの風習は二つの源流があるはずだ
ひとつは西洋起源、小プリニウスが書き記したそれであり、コインを投げ入れて願い事をするヨーロッパの民間伝承「Wishing well(「願いの井戸」と訳すべきか)」を経由してトレヴィの泉に辿り着くルート
もうひとつはアジア圏のいわゆる願掛け目的のいわゆる「賽銭」を辿るルート
二つに分ける意味はあるのか……?
うーん
どうだろう
ないかも
あるということにして調べよう
映画「Three Coins in the Fountain」がもしも存在しなければ、西欧圏でコイン投げの風習は廃れていたかもしれない
しかしその映画があろうとなかろうとアジア圏の人々はコインを投げて願掛けする風習を続けていたであろう……気がする
あとで二つに分けて考える意味は無かった時点で考えを改めればいい、ということにしておこう
RedditやQuoraでも「なんで中国人って池や川にコイン投げるの?」みたいなトピックが立てられいるのを確認した
(そしてそれに対する回答は「コイン投げの風習は世界中にありますよ」というもの、質問者が知りたい内容とはちょっとずれている気もする)
「キリスト教の教会に併設されている池にコインが投げ入れられて困った」みたいなスレもたっていた
というわけでイスラム教とユダヤ教でコイン投げによる願掛けがどう認識されているかもぐぐりましょうね
ユダヤ教はなんか出てきた
ラビに「願いを込めて願いの井戸にコインを投げることは何か悪いことですか?」とユダヤ教の教義に反していないか質問する内容のサイトが引っ掛かった
解釈によってはセーフだけどあんまり推奨しない、みたいな空気感の回答だな
コイン……つまり金属製の硬貨のみが投げ入れられるのか?という疑問もある
貝製の通貨、貝貨を池に投げ入れるみたいな文化がある地域ないかな~
パプアニューギニアは現在も貝貨を使っている人々がいるみたいだが、願掛けとして貝貨を投げるみたいな記述は見つけることが出来なかった
パプアニューギニアのなんかでっかい噴水のストリートビューを探して金属コインの他に貝貨が沈んでないか探してみてもいいかもしれない
まあおそらく無さそう
お葬式で貝貨を精霊に扮した人に向かって投げるみたいなことはやるらしいんだけど……
そもそも何で調べ始めたかって「海外……例えばアメリカでは合格祈願の願掛けとかするのかな?」と思って
ぐぐった結果は「願掛けしない」というもの、まじかー
教会でお祈りとかする人もいるにはいるけど、願掛けするくらいなら勉強しましょうねみたいな考えをするってなんかのブログに書いてあった
例えばかつ丼みたいな勝負飯食べたりお守りを買ったりみたいな風習もないっぽい
いやー……そうはいっても欧米人だって水にコイン投げて願い事するじゃん?池にコイン投げて合格祈願とかしないの?
そこらじゅうに願掛けスポットが大量にある日本が特異、ということだろうか
まあまあ、結論を急ぐことはない
もうちょっと調べましょうね
賽銭とトレヴィの泉を一括りにして包括的に投げ銭文化について論じた論文をまだ見つけることが出来ていない
投げ銭に限らず「迷信」というテーマで調べてもいいかもしれないな
……といった感じで調べた内容を一旦メモ
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太宰府天満宮の菅原道真公のような受験、学問を司る守護聖人にお祈りするみたいな風習があるかどうかを調べること
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非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。