はてなキーワード: キリスト教徒とは
あ〜そうかそこからか
一神教、特にキリスト教徒の中には1つの価値観を持ってる人が居るんだよ
それが「神が創造した世界の理を知ることで神のお考えをより知ることが出来る」という価値観だ
例えば「バチカンが地動説を認めた」というのもこの考えが元になっていて「神の教えを誤って過去の人が記録したので神のお考えに近づけて修正した」という解釈なんだ
この辺りの価値観で13世紀頃に活躍したロジャー・ベーコンは、幽閉されたりしながらも研究を進めて今では偉人に列せられるほどの神学者だ
13世紀で科学的手法にこだわりながらも聖書を重要視し、更には顕微鏡・望遠鏡・飛行機・蒸気船などの登場を予測してたんだぞ!その二つ名は「驚嘆博士」だ!
ムーア人(英: Moors)は、中世のマグレブ、イベリア半島、シチリア、マルタに住んでいたイスラム教徒のことで、キリスト教徒のヨーロッパ人が最初に使った外来語である。ムーア人は当初、マグレブ地方の先住民であるベルベル人であった。その後、アラブ人やアラブ化したイベリア人にも適用されるようになった。
ムーア人は明確な民族でもなければ、自らを定義する民族でもない。1911年のブリタニカ百科事典は、この言葉は「民族学的な価値はない」と述べている。中世から近世にかけてのヨーロッパでは、アラブ人や北アフリカのベルベル人、イスラム教徒のヨーロッパ人に様々な呼び名が使われた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2%E4%BA%BA
中国人に聞くと「特定の宗教はない、一部の人は仏教をやってる」って答えるよ
無宗教を特定の神様を信じてない信仰心を持ってないって意味で使うやついるけど、頭悪すぎだろ
こんなん酷すぎるし無知も極まってる
これは日本人は無宗教じゃなくて八百万信仰だとかそういう話じゃないぞ
八百万信仰ダロウも仏教、神道、空飛ぶスパゲッティモンスターだろうとどうでもいいんだよ
キリスト教徒、イスラム教徒の前で無宗教だというのは、それは私は無神論者ですって言ってることになる
そして神様を信じる人の前で無神論を宣言するってのは、お前らの信じてる神様なんていないと言ってることになるんだよ
恥ずかしいやつらだな
無宗教を特定の神様を信じてない信仰心を持ってないって意味で使うやついるけど、頭悪すぎだろ
こんなん酷すぎるし無知も極まってる
これは日本人は無宗教じゃなくて八百万信仰だとかそういう話じゃないぞ
八百万信仰ダロウも仏教、神道、空飛ぶスパゲッティモンスターだろうとどうでもいいんだよ
キリスト教徒、イスラム教徒の前で無宗教だというのは、それは私は無神論者ですって言ってることになる
そして神様を信じる人の前で無神論を宣言するってのは、お前らの信じてる神様なんていないと言ってることになるんだよ
恥ずかしいやつらだな
キリスト教徒でなくとも、少なくともキリスト教を誤解すべきではありません
信者は聖職者などの権威によらず、聖書を読んで自分で解釈して行動すべきだ、といってルターが宗教改革を始め、100年戦争を経てプロテスタントが勃興しています
コミュ弱にとって、「彼女のお父さん」というは、想像することすら困難なんだろ。
キリスト教徒でもないのに、「相手が伝説の聖人・バルトロマイと思って振舞え」と言われても、バルトロマイがだれなのかさっぱり分からないみたいな。
めちゃくちゃ当たり前の話として、他人の信念とか信仰を口先で変えるのは不可能。
その上、相手がそもそも間違ったことを言うようなバカなら、学んだり反省したりする機能にも問題があると思われる。
無理だ。
キリスト教徒をイスラム教徒に改修するのが無理なように、反ワクチンをワクチン肯定派に改修させることはできず、嫌韓厨をグローバリストにすることはできない。
何度も言うようだが、これはめちゃくちゃ当たり前のことなのよ。
それが出来ないから絶望しましたとかさ。今までのお前はものごとを軽く考えていたと言わざるを得ない。
だが今やお前は軽く考えてはいない。
それは絶望ではないよ。お前が得たのは学びだよ。
で、その学びをどう活かすかって話になるんだが。
フェイクってのはさ、何が厄介って、奴らがそれをネットで広めることじゃないか。
フェイクと戦うって話の時に、期待されていることは、フェイクの拡散を止めることなわけ。
確かに、バカを改心させるのは無理だよ。バカはお前を罵るだろう。でも、バカがレスで広めてる言説を初めて見た中学生とかが、へぇそうなんたぁ、って思わないようにすることなら、たぶんできるんだよな。中学生にも、すくなくとも反対意見のレスがついていることは読めるんだから。
お前はその反対意見さえつけておけばいいんだ。
いままで多分そうしてきたんだから、お前の活動は恐らく無駄ではなかった。
認識をそういう風に変えたほうがいい。
中学生はお前を褒めたりしないし、相変わらずバカからは罵られるしで、やっぱりメンタルは辛いだろうけども。なんか今回書いてあるような理由で完全に絶望しちゃうの勿体無いわ。
kz78 キリスト教徒が安楽死装置を求めるのはわかるんだが、日本人が安楽死の制度を求めるのは何なんだろね。苦痛の少ない死に方は検索すりゃいくらでも見つかると思うが。
基本見つからんぞ
さがしてもないのに適当いうなよ
カフェイン過剰摂取はめっちゃしんどいし、首吊りも失敗するリスクがある(しぽぱいしなけれbゔぁさいりょうらしいが
数年前希死念慮マシマシのときに必死で探しまくった俺がいうんだから間違いない
唯一みつけたのは、眠るように死ねる点滴セットみたいな掲示板のページ
ダークウェブとかじゃなくこのご時世にこんなのがまだググってひっかかるんだと驚いた
数ヶ月してまたぐぐったらさすがに消されてたけど
ある錠剤と点滴のセットってやつで基本錠剤のむだけで昏睡なるけどならなかったら点滴で確実にしねますよみたいなの
まじで問い合わせしようか迷ったけど掲示板の日付が5年以上まえで、
といあわせてもまずダメだろうなと思って問い合わせなかった
矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日〈天保4年4月24日〉 - 1925年〈大正14年〉6月16日)は、日本の女子教育者、社会事業家。
肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島忠左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児の誕生は歓迎されず、名付け親は10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んでいる。蘇峰は明治、大正、昭和にかけての大論客、蘆花は明治、大正の文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。
かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠の弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである。明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。
妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎発東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験に合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。
このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎や父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬の農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄からの手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本洋学校生徒35名による花岡山キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰、徳冨蘆花も参加している。やがて熊本洋学校は廃校になり、彼らの一部は、新島襄の同志社に入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。
明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国の宣教師で教育者のマリア・ツルー夫人と運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校の教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。
自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年)築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である徳富久子、横井つせ子、竹崎順子も洗礼を受けている。当時17歳のキリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。
明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理に就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。
明治23年(1890年)、櫻井女学校と新栄女学校は合併して女子学院となり、初代院長に推される。
明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。
一方、恵まれなかった結婚生活や小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。
楫子の情熱は日本に止まらず日本国外にも向かい、明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職は大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動、公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年(1925年)6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治、大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。