はてなキーワード: ポジティブ教とは
「人を呪わば穴二つ」
そんなマジックワードに踊らされて、自分の内面に原因があると思い込まされて
生きる気力を奪われて自殺する善良な人々多いよね
生きる気力を奪われたらその意識をコントロールできている以上は人を憎んでも呪っても構わないと思う
嫌なことをされて魂の尊厳を奪われその回復の見込みが立たない時は、相手を自分と同じ位置かそれ以下まで引き下げないと
癒されないこともある
傷つけられ、傷つけ、傷つけられ返されることが分かっていながら憎むことでしか前に進むことができなくなった人達もいる
尊厳を奪われたまま泣き寝入りして生きるというのははたからみて「負け犬乙」としかいいようがない状況を見るたびに
強がって平気なふりをする人たちに
「お前の中では魂は傷ついてないつもりかもしれないけど、いい人ぶって我慢しつづけて人格はボロボロにされて後一押し誰かが押せば
魂が歪んで元に戻らなくなってしまいそうじゃないかい?」「あなたを不幸にしたことであの人たちは楽しそうな顔をして
あなたがつぶれるか消えれば忘れ去るかまた次の嫌がらせする対象を探し出すんだ」
とつぶやきたくなる
やりきれない気持ちをどうやってやり過ごすのか、それは同じ事をすること
特定の誰かに向ける言葉でなく、憎しみを薄めてジワジワと流して後は忘れること
大きな枠にはめて「レッテル」を貼って見下したり、「ほのめかしメソッド」使ったり
ネット以外の世間一般で認められてる範囲なら他人を憎んでも構わないのですよ?
他人からちょっと嫌なことをされたら、誰かにちょっとだけ甘えて嫌なことをする
愚痴でもいいし嫌味でもいい お互い様だ それでやっと相手からされた嫌なことも
自分がした嫌なことも受け止められるようになってくる
何でも自分1人の内面で嫌なこと受け止めようとして外に出さないといつかその魂壊れて
修繕できなくなる恐れがありますよ?
いつも集団で毎日嫌なことを言われている人達に、人を憎むな呪うななんて言葉は
「呪い」に人生振り回されずに「呪いたい」という感情と付き合うというには
Twitterで個人特定されない程度にぼかして毒舌のつぶやき吐くのもいいんじゃないでしょうか
「ポジティブ教」の信者から見れば、ネットに「呪い」の言葉があふれているのは気に入らない
みたいだけど、人生良いことばかりが常に続くわけでもないしね
「探検ドリランドしながらロングブレスダイエット」の続き。
課金なしの場合、「完全に一本道」&「たたかう」しかコマンドがないドラクエという印象。
持ってるカードがすべてで戦略とか全くないから一人で黙々とプレイしているとすぐに詰まる。なにより全く面白くない。
改めて思うけれど、ドラゴンクエスト1ってのは、一人旅であそこまで盛り上がるゲームを作れたという意味で神だと思う。
とにかく、一人プレイというのは、かなり知恵を使わないとすぐに行き詰まりになる。これがポイント。
仲間が増えると一人プレイでは考えられなかったくらいに可能性が広がる。
仲間がいれば強いボスでも何とか倒せる。
みんなで壁を乗り越えるという体験は相当気持ち良いものだろう。
一人プレイの侘しさはプレイヤーがすぐ実感することになるし、後述するが仲間になるデメリットも無いので申請しやすい。
非コミュ(死語)の方でも機械的に仲間を増やすことが可能だ。(この部分がドリランドが一番人気である理由だろう)
ちなみにネトゲだと仲間に手を貸すのは面倒だが、ソーシャルゲームの場合、仲間登録さえしていれば勝手に協力する。
協力しあうメリットだけがあって、協力するための手間を削っているため、まずます協力し合うことが魅力的に見える。
さらに、リアルやネトゲーと違ってみんなで分けると経験値が下がったりとか、一人あたりの取り分が減ったりということもない。
一人だと1000万円の会社しか作れないが、みんなで出資したら1億円の会社が作れて、しかもみんなが1億円分の持分があるみたいな不思議な光景。
他人の存在は純粋にプラスという、今時ポジティブ教でもここまで性善説に満ちた世界はイメージできないよ、というくらいの仲間至上主義。
いやー仲間って本当にすばらしいもんですね。
・人が人を脅かしたりものを奪ったりは原理的に不可能。PKとかなにそれおいしいの?他人とは仲間として協力し合う以外の関わりを持たないよ。
・世界のリソースは無限にある。協力しあって一人では倒せないボスを倒せればいくらでも手に入る。
自己啓発のセミナーで5時間くらいかけて語る「理想の世界」がこの世界では当たり前のように実現している。
何者にも脅かされない。ただ、勤労(目の前のボタンをクリック)しているだけで友だちが増えて、みんなに認められて、世界が成長していく。
高度経済成長期の日本ってこのくらい幸せな世界観を持ってたのかもしれないなー、とか思ったり。
弱いやつからすれば、強い奴の仲間になってオコボレを頂きたい。
そいつらが育ってくれて将来的に貢献してくれるなら、十分に元は取れる。幸い育てるのに大して手間はいらない。
かくして下っ端の間はみんなが自分を助けてくれる。引っ張り上げてくれる。
上の立場になっても成長していってる間はみんな自分を尊敬してくれる。
勝利し続けている間はみんなが自分を慕ってくれて、自分のためにいろんな貢献をしてくれる。
このあたりはすごく楽しいと思う。
順調に成長している間は、チームとか組織って多分すごくキレイなんだと思う。(まぁ成長の段階で既に争いのタネがいっぱい出てくるわけだが)
まぁ実際はそれほど甘くはないですが。
「ルーキーズ」がどんだけ仲間至上主義でも野球は9人しかスタメンになれないのと同じ。
このゲームも一番美味しいところにありつける(同時に最前線で戦う)スタメンは10人まで。
スタメン枠はできるだけ強いやつで固めたい。オコボレだけ欲しがってるような奴はいらない。
この世界には人間同士に「敵・味方」はいないけれど、「上・下」は厳然として存在する。
上のものは上のもので、同レベルの仲間や下のものに十分な褒美をやらなければ見捨てられてしまう。
このゲームはとにかくカードしかないからその報奨を用意しなければいけない。
※このあたりから「共和制ローマ」がいかにして出来上がったか、みたいな話をしようと思ったがさすがに説明が面倒なので省略
しかし、上になればなるほど常に戦に勝って何かを獲得し、供給し続けなければいけない。常に成長し続けなければいけない。
ところが、十分成長した後は、課金なしだと敵だけどんどん強くなって、こちらのレベルも戦力もなかなか伸びなくなる。
・・・このあたりから多分なにか狂い始めるんだろうと思う。まだそこまでいってないからわからんけど。
こういうゲームにおけるレアカードはあくまで「借金」であって、依存すると危険な感じがする。
一度借金に頼り始めると、あとは地獄まで一直線みたいなやばげな匂いがプンプンするぜー。
ソーシャルゲームは1アイデアで極めてシンプル。しかも組織の人員の上限が決まっている。
しかもそのポテンシャル上限はあっという間に到達するし、最初から目に見えています。
そのあとは組織の衰退と、組織内での生き残りを欠けた内ゲバが待っている。
関連企業や下請けからプラスの要素だけ吸い上げてマイナスは押し付けるという
延命を図るための腐りきった仕組みも可能であるけれども、ゲームではそういうPKよりもえぐい行為は禁じられている。
故に、どこかで見切りをつけて次の舟に移る必要がある。
もっとも、ソーシャルゲームの場合、GREE社長自らが言ったように他の船はどれもコピペみたいな内容で
どこに移ってもそう代わりはないので、一斉に反映して一斉に沈没すると思われる。
あの発言って生態系とか無視して自然破壊をする悪徳社長の発言だと思うんだけれどうわなにをすr
起業家とか、ネトゲのギルマスとかの楽しさを苦しさを象徴的に理解するには良いゲームなんじゃないかと。
リアルの痛さもないし、あくまで象徴的な意味しか分からないけれど、
ゲームだけに、人情とか付き合いといったごまかし一切抜きでみんなデジタルに行動するので
むしろ百戦錬磨の実際の経営者とかがプレイした方がズシッと来るかもしれない。「リアルより難しい」とか唸ってしまいそう。
最終的には狭い選択肢と厳しい条件ではにっちもさっちもイカなくなることを学ぶゲームなのかもしれない。
あるいは「胴元」がいるゲームは絶対にプレイしてはいけない、ということを学べるかもしれない。
つまり「このゲームを始めた時点で負けが確定していた」ということを痛感することになるだろう。
そして、いかにこういう「負け戦」に巻き込まれないように知恵を使うかとか、
打てる手の幅を広く確保することがいかに重要か、とかも考えるようになるかもしれない。
他にも、複數のソーシャルゲームを回しているなら、「EXIT」をどこに設定するか、といった知恵も身につくかもしれない。
ソーシャルゲームから学ぶことなど何もない、という大人の声もあるが、
部活でリーダーシップ発揮したり、バイトを経験したことがない息子に社会を学ばせたりするならアリじゃないかと。
もっとも、リアルで組織運営とかリーダーシップを行なっている人には全く不要であることは間違いない。
タイトル修正しました。最初は「バッドエンドしか見えないゲーム」というタイトルでした。
これはやってて「Hunter×Hunter」というよりは「狂死郎2030」あたりと同じディストピア臭を感じたから。
洗脳された下層市民が嬉々として国家を崇め奉り、喜んで勤労奉仕に励み、
上級市民が下層市民の尻を叩いて積極的に上層部の搾取を助長し、下層民から搾取して国家を動かす上層部の人間は権力争いで汲々としている。
「狂死郎2030」の世界では、結局レジスタンスやらなんやらで国を変えていこうという試みはすべて失敗して、主人公とヒロインが逃げ出すのが精一杯だった。
自浄作用も機能しない、自壊していくのを先延ばしにしてるだけのどうしようもない世界。
誰も幸せそうでないあの世界。ある意味下層民がもっとも幸せで、頑張って成長するとどうしようもなく行き詰った世界の現実に気づくという構造。
ここまで書くと言いすぎだと思ったから辞めたわけだけれど、まぁ蛇足だからいいよね。
参考リンク
http://anond.hatelabo.jp/20110813021554
ネガティブ発言よりポジティブ発言のほうが幸せになれます。少なくともその場は。そしてポジティブ発言をする人は幸せになりやすい。これも真実。ポジティブな人は幸せになれる。彼らは幸せを発見するのがうまく、現状を見捨てて良さそうな世界に乗り移るのがうまい。幸せになれない人たちは見捨てて幸せになろう。
人間には二種類いる。真実に重きを置く人と、あるべき未来に重きを置く人。いや、両方があるべき未来を思っているのだが、そのやり方が違うと言うべきか。
ネガティブなことは往々にして真実である。それを改善することにより、よりよい未来へたどり着ける。ポジティブ教の人たちはそれを否定する。ネガティブな真実に目をつむり反省しない。「改善点がわかる建設的な状態」になるまで発言しない。改善点が無い場合はどうするか?それを見ないふりをする。その圧力が「ネガティブなことを言ってはいけない」運動である。
ポジティブ教の人たちもネガティブな真実に気づいてはいる。気づいていて、言いたい。気づいているが言えない。言いたいが言えない。なぜならそれはポジティブではないから。ネガティブな発言をしてしまうと身がケガレてしまうから。
だからその抑圧がネガティブ発言をしている人たちを封殺する。気づいているんだけど言わないだけなんだよどうしようもないだろそんな不都合な真実には目をつぶれよ圧力である。
ネガティブ野郎はそのことに気づいている。自分もポジティブな発言ばかりしていたいのに、でもこの要素が改善されなければ正しい未来にたどり着けないだろう?そういう願いを込めてネガティブな発言をする。真実から目をそらすな。現実から目をそらすな。かわいそうな人たちを見捨てるな。
見捨てて乗り移った方が幸せになれることに、ネガティブ野郎も気づいている。気づいているが見捨てられない。それは現状に依存する諸々を幸せにしたいからであり、乗り移る勇気がないからでもある。
だからその抑圧がポジティブ発言にいらだちを覚える。おまえらはどうして真実を見ないのか。
これが争いの原因だと思います。
「世界の素晴らしさをふれ回る」をされたところで「はいはいいつもの不都合な真実から目をそらす活動ですね釣られません」になるだけなので全然効果ないと思います。両方疲れるだけ。「世界の素晴らしさを体験させてあげる」レベルの力のいれ具合じゃないと変わりません。
すべての人の遺伝子は完全に同一であり
売り言葉に買い言葉で悪いが、もしすべての人のすべての遺伝子が完全に同一ならば、
すべての人が同じ顔・同じ背格好・同じ指紋じゃなきゃおかしいでしょ。
それに、
偶発的な遺伝子の変化を否定すれば、なぜ生き物が雌雄の交尾を元に遺伝子を変化→進化させて
きたのかということさえも否定してしまっている。
本筋の能力と努力と遺伝子の関係に立ち返れば、程度の大小こそあれ、「先天性○○」という
症状は存在する。通常認知されているのは、病気としての(ネガティブな意味での)「先天性○○」が
多いが、しかし実際には特に注目されなくとも、有利な意味での「先天性○○」も存在すると私は思う。
だから私は、ポジティブ教の「努力すれば、みんな、なんでもできる。できないやつは、努力が足りない。」という意見には、否定的だ。
>相手側が「相手を気遣う」つもりがまったくない場合には増田の方法論は通用しない。
全くその通りだと思います。
これって「余談5」で書いている「好意ポイントが溜まらない人」ですね。
そういった方とはなるべく縁を切るのが良いと思います。
私が言いたかったのは、その「相手を気遣う」つもりが全く無い人の原因が、実は自分にあるのかもしれないという考えも持ってほしいという事です。
実際自分もその点で苦労していて「自分も悪いところがある」というのを知っていて覆い隠している自分に気が付いたときは愕然としました。
でも今では「その事に気が付いて良かった」と思っています。
「自分なんてどうせ大事にされない…」「なんで自分ばっかり…」ではスタートを切れません。
「自分はこうして欲しいから相手にそうしてあげる」「こんな事も確率的にはあるさ、自分ばかりじゃないぜ」と思ってまずはスタート切らないと。
…ってこういう事書くと「ポジティブ教」だって言われちゃうんですよね(汗)
そういう事言う人には「解決策の案(ポジティブ)をいくら出しても、拒絶する事しか考えない(ネガティブ)のは良い事なの?」ってブーメランしてあげます。
どうしたらいいかは「空気を読むという事」の本文にヒントが書いてありますよ。
●余談1
どうか拒絶しないで下さい…「私も同じ目にあった一人」です。
●余談2
いじめにあってない人でも、実は必ず「イジメ以外のひどい目」にあっていたりします。
つまり、悪い事が起こるのは自分ばっかりじゃないんですよ。
関係を壊したくない。というのも十分わかった上で言いたい。告白してみてください。
怖いし、無理だろうし、恥ずかしいし、嫌だと思う。無責任なこと言うなよクズって言われると思う。失敗して、その人と貴方の関係をその後取り持ってあげることが出来ないネットの亡霊にすぎない俺がこんなこと言うのは、うん、無責任。
でも、告白してほしい。俺はポジティブ教になれなかったので、俺が同じ状況なら絶対逃げる。でもしてほしい。
時間はまだあるしーって思って欲しくない。時間ないよ。本当に。俺もさ、時間あると思ってたんだよね。ないわ。時間。
好きな子いたんだよね。学校卒業まで時間あると思ったんだよね。いつか告白できる予定だったんだよね。できないわ。もう無理だわ。
入院して、優しい先生が、俺に笑わなくなった。俺の顔見る度にさ、苦痛の表情するんだ。ごめん、って謝るんだわ。先生のせいで俺が病気になったんじゃないのにね。
あ、でももう退院したよ。結局原因不明。原因と思わしきものはあっても、合併症っていうの?あれのおかげで、何が何やら、どこを治すべきかわかんないんだって。だから、時間ないわ。
別に余命半年とかそんなこと言われてない。寿命なんてわかんない。病気あったって、寿命わからない以上、貴方と残り時間は同じはず。でも、俺は時間ないわ。貴方ほど自分の寿命に自信がないんだ。そして、貴方の寿命に、俺は自信がない。
皆いつ死ぬかわかんないって考えてないけど、でもそれはマジだ。あと二年の予定が、あと3時間になる瞬間ってあるんだ。俺怖いよ。
だから、バレンタインにかこつけたっていい、酒のせいにしても、その場の流れでも、どんな言い訳用意してもいい。あとで恥ずかしくて「無かったことにしてください」でもいい。告白だけでも、それが無理なら、自分の気持ちを伝えるだけでもしておいてほしい。
いつか後悔したくなる日が来る、と思うから。俺が今、後悔してるから。男女性の違いはあっても、気持ちを伝えられなかった後悔を感じるのは、同じだと思うから。
同じような状態の人が居たら、その人も頑張ってください。男も女も子供も老人も、誰かを好きだって気持ちは同じだと思うから。
頑張ってください。俺は応援してる。俺も頑張ってみる。
LV低いのに、レールにのってLv高い土地(年齢?)に来たらどのモンスターも倒せず、どこにもいけなくなったのかw
元増田も言ってるけど、
別に非コミュは非コミュで他人との付き合いに時間奪われないという利点があるからいいんじゃないかな?
Lvを1から上げていくだけならそこらへんのHowto本でも充分役に立つわけで
、、それも元増田が言ってるな、、、
んじゃ、こういう増田や、ネトゲとかは初期のLv上げになるんじゃないかな?
そういうところで大人な立ち回りができて、少しでも人気が取れるようになったらリアルも似たようなもんだよ。
あとは自分にできないことだけをひたすら1日中考えるんじゃなくて、
自分にできることだけに集中して1日中過ごしてると全然違ってくるよ。
他にもちょっと考え方を変えるだけで、
追記:
他のコメントみたらこういったポジティブ教がだめなんだっていってたw
自分で教えてくれっていって、
教えることそのものがそっちが下になってプライドが傷つくんだとかどんだけめんどくさいんだよw
なにこれ?
共感して
「そうだね〓、資本主義の中ではかならず犠牲にならなければならない層が出てくるんだよ。あなたが悪い訳じゃない。働き蟻の法則で人間も同じように別れるの。時代に大きな変化があればそれが崩れることもあるし、あまり気を落とさないで」
、、とでも言った方がいいのかな?
いやもう、プライドを傷つけるとか上から目線とかはしないほうがいいらしいから、
アドバイスじゃないけどね。
素直に学んでやり直す気持ちがあればそれもいいし、
そうやってわがままゆう元気があれば何にも問題ないか。
コメントする必要がなかったってことかもなー。
Attribute=51についての覚書 - モジモジ君の日記。みたいな。
「自己責任論へと引っ張っていく」ような傾向性を持っている、ということです。そういうところを注意したら、少なくともそういうところに反応しているネガティブ・コメントは減るんじゃないかなっ!と思います。
減りません。グリに向けられている敵意は、まさに純粋なる悪意と呼ぶべきもの。『要は勇気が自己責任』がゴリ押しだと叩かれているのはそこが一番やわい下腹部だからにすぎない。仮に彼が自分の強引さを認めて、態度を改めたとしても、アンチどもは矛先を別のパーツに変えるだけ。アンチのグリに対する憎悪は、もはや彼本人の人格そのものに向けられている。そうして幸か不幸か、グリはそのことを薄々理解しているフシがある。だから絶対的に両者は相容れない。一センチも歩み寄れない。理性や論理の誤謬がなんやかんや、というステージではない。
ではアンチはグリをなぜ絶対に認められないのか。簡単だ。グリという存在と彼に付随する論理を受け入れいたら、アンチ自身が消滅してしまうからだ。ここらへんの問題は結構根深いものがある。何度も言われてることだし、アンチですら度々認めることではあるけれども、グリの持論の根幹部分は常識的に極めて「真っ当な意見」、つまり正論だ。しかし、ぁゃιぃやあめぞう、そして2ch等の匿名掲示板が日本のネット社会に撒き散らし、はてなにも深く根を張っている偽悪精神とも呼ぶべきその風潮は、本来はリアル社会のつまはじきものである弱者のための武装手段だ。要するに、オタクで、運動音痴で、あたまでっかちネガティブ思考の童貞のために醸成された空気。脆弱なアウトローである自らを「努力しなくて、矯正しなくていいんだよ」と肯定し、世間や常識の方を否定する防御装置。それが現在のネットで主流派面して居座ってる匿名文化、あるいはイナゴ文化サマだ。そういう意識が、アンチグリストたちの根底にはある。
もちろん、ケツに.jpの国別ドメインがついたあまねく仮想スペースがヒネクレタ雰囲気に包まれているわけじゃない。実社会の礼儀や論理がそのまま適用される場所も多い。彼らはあくまで自分たちの縄張りで主流派面してるだけだから。ところがはてなは、そういった連中が本当に多数を占めてる場所だった。ダイヤが石ころ扱いされ、石ころがダイヤとして珍重されるような価値観逆転惑星はてな。そんな星に「キレイゴト」や「一般論」という錦の御旗を掲げて侵入してきたのがグリに代表されるポジティブ教徒たちだったわけだ。彼らは何を血迷ったか可哀想な負け(狂)犬ども再教育し、救済してあげようと考えた。
だが、もとよりヒネクレたちは自分たちがダメ人間であることを理解していた。その上で、そのダメダメさ肯定してくれる居心地の良いネット空間にしがみつきたがった。救済など、欲してはいなかった。理解はすれども了解はせず。それがグリ一派にはわからない。ネットも所詮リアルの延長線上であると考え、リアルでの幸せなくしてネットでの幸せもありえないと信じて疑わない。何度も開催されるOFF会は、その信念の現れだ。
これはもう、ほとんど宗教と宗教のぶつかりあいなんだろうね。両者の辞書に「相互理解」の四文字は載っていない。当然だ。元々のスタート地点からして、全く別のところにいた人間たちなのだから。
かれこれ5年以上、恋人同士といえるような付き合いをしていない。
といっても、非モテではない(と、自分では思っている)。
別に女の子にコンプレックスがあるわけでもないし、容姿も特に問題があるわけでもないし。
あと、同性愛者というわけでもない。
時には女の子の愛情が欲しくなるときもあるし、ムラムラしてくればセックスしたいこともある。
でもね、面倒くさいのよ。
付き合いだすと、ほとんどの女の子は「恋人らしい振る舞い」を要求してくる。
一緒に歩くときに手を繋ぐとか、休みの日は人ごみにデートしにいくとか。
あと毎日電話したいって子もいたな。
でも実際のところ、毎日電話してきても、そんな刺激的な日常でも送ってない限り、話す内容なんてすぐ無くなるよなあ。
その子は「声が聞ければそれでいい」って言ってたけど。
こういう子たちはあれだ。手を繋ぐ、デートするって行為を通じて
「私はこの人と付き合ってる」って確認したいんだろうな。
相手の温もりが欲しいのも、もちろんあるんだろうけど、それ以上に「恋人同士は手を繋ぐもの」という認識が先に立つというか。
別に手を繋がない、ベタベタしないカップルがいたっていいじゃんか、と思うんだがなあ。
休日は家でゴロゴロして、ニコ動見たりして充実している人がいても、決して「リア充」って呼ばないよな。
リア充っていうのはつまり「『リアルで充実してる人がしそうなこと』をする人」のことであって。
本質的にはトートロジーに近いものがあるのだが。
ちょっと古い話だが、はてな界隈で「要は、勇気がないんでしょ?」でエントリが流行ったとき
エントリ主のことを「ポジティブ教信者」とする向きが多勢だったことを思い出す。
でもそれって、ちょっとニュアンスが違うんじゃないかと。
男はよく「出会いがないから」「忙しいから」って言い方をするけど、多くの場合、それはブラフなのですよ。
本人が自覚しているかいないかの違いはあれど、根底ではおおよそ「付き合うなんて面倒くさい」と思っているはず。
面倒くさいけど、それを口に出すのは憚れるから、言い訳を探すわけであって。
そうなると「とにかく一歩踏み出してやってみよう」というポジティブシンキングも、つまりは自分のケツを蹴り上げる方便になる。
本当のところ「勇気がないから」では決してない。
つまり、だ。
相手のことを純粋に好きという意欲よりも、その関係を維持する手間的コストの方が高いので
付き合うという行為を「面倒くさい」と感じてしまうのだろう。
もっとゆるやかに付き合えるような相手が見つかれば、少しは考え方も変わるかもしれない。
こう考えているのって、決して俺だけじゃないはず・・・だよな?
http://anond.hatelabo.jp/20080317180413
ある事象に対し情報を集め、総合的に判断してこの手段方法で臨むべきだ、というエントリーはほとんど「ポジティブ教」的になるんじゃない?
それに、文章上の修辞技法としても、とりあえず一度試してみたら、がんばってみたら、というのは不可なの?
俺は原則「勉強しろ、働け、文句言うな。人生なんかデフォルトで面白おかしいもんじゃない。」って立場だが、増田から見るとポジティブ教なのか?
俺は最近ネットで「社会が悪いって言ってよ。僕が悪いんじゃないって言ってよ。言ってくれない君は敵だよ」って奴が集まって「お前らはわかっていない」という連中が、群れを成して絶叫しているのを見かけるのだが、彼等は俺を叩いているのか?。
http://anond.hatelabo.jp/20080317180413
追記しとく。この件に限らないのだが、反対意見を言うときに、「それは自分に都合が悪いから」反対している奴等がいる。きちんと「俺には都合が悪い」と言っている奴はいいのだが、それは伏せたままさも正論のように言う連中がいる。
で、どっちよ。
いや、しかし、彼らは「敢えて」目を逸らしているのであって(少なくともそういう系のエントリを書いた側の人間は。それに踊らされている方はどうだかしらないが)、いわば「現実から目を逸らすテクニック」を駆使して前へ進もうとしている訳で、別にそれが悪いわけではない。
人間とは基本的に弱いものだ。
現実を常に見据えながら前に進む、というのはなかなかできるものではない。
だから人間は前に進もうとする時、意図的に「現実から目を逸らす」のである。
「やればできる!」「あきらめなければ夢はかなう」などなどの呪文を唱え、前へ進もうとする。
あるいはそれらは少し呪文としては古臭く、いまはどちらかというと「現実も見た上でなんだよ」という感じをアピールした
「確かに努力したからって報われるわけじゃない。でも、成功した人は皆努力していたんだ」とか
「確かにやったからって絶対成功するわけじゃない、けど、やるしかないんだ!」とか
いうのが近頃の流行だ。しかしこんな中学生のような「現実もちゃんと見た上でだから」ポーズなんぞ「現実見てないわけじゃないんだからねっ!」という免罪符以上の意味はない。基本的には「やればできる」と同じ、「やるしかないんだ」と敢えて現実に蓋をして進もうってことなのだ。
現実に蓋をしまくって、見ないようにして、ひたすら目の前の希望や可能性の存在をあると信じて突き進む。それがポジティブ教のメインの行動である。そしてそれは彼らにとって絶対的に「真」である。「正しいこと」である。これらを認めない人たちは「おかしい」のである。弱者であり、逃避者であり、許しがたい存在なのである。だから彼らはそんな「非・ポジティブ教」の人たちを見ると、物凄い勢いで彼らを捉え、次々に強引な手口で勧誘する。「逃げてるだけでしょ?」「そうやって愚痴ってるあなたって何の意味があるの?」等の、「相手を否定させ弱らせたのち引きずりこむ」などの相当あくどいやり方を平気で使い、「ほら!あなたの人生、ポジティブ教にはいらないとどん底だよ!いいことないぜ!それでいいの?え?それでいいの?あとはつまらないこといって死ぬしかないんだよ。ほら。ほら。ほら」と脅しをかけ、相手になんとかして認めさせようとする。時にガツンとした反論を食らうと物凄い勢いで感情的に食らいつく。「そうやっていつまでも負けたままでいれば?」「ていうかそういう人の存在が迷惑なんだけど。愚痴ってこないでよ迷惑だから(<問題をごっちゃにしている)」「とかなんとかいって逃げてるだけでしょ(<とにかくこれを言えば勝ちだとばかりに呟き続ける。論理的反論にもなにもなっていない)」これは、自分たちの「神」の存在が揺らがされるのが怖いからこんなに過剰になるのであるが。
あのね。君達がポジティブ教信者なのは構わない。一向に構わない。確かにそれにも一片の真実はあるだろう。
しかしだね、その君達の過剰な勧誘、他の宗教は認めないという強硬ぶり、それをなんとかしていただきたい。
逆に言うとそうやって皆をポジティブ教に誘わなければ、君達は不安なのかい?「逃げてるだけだ!!」って仮にそうだとしても君達にはなんの関係もないことだしそれこそ君達の宗教を借りて言うならば、「その時間を使って自分を磨いたほうがいい(これもよくポジティブ教が反論されたときに使う決まり文句である)」のではないか?わざわざ他宗教の人に構っている場合なのかい?
もういい加減、ポジティブ教の「自分達こそが絶対的に正しく真である。お前らも俺たちと同じ考えに染まって、その行動を見直すべきである」という攻撃が鬱陶しくてたまらんのですよ。ポジティブ教信者はその傲慢さをもっと自覚せい。
続き。
まず、この関係をどのように考えるべきか。社会的地位が低いから低セロトニンになるのか、低セロトニンだから社会的地位が低くなるのか。
ただ、うつ病(だけじゃなく精神的活動全般)に関しては「鶏と卵」のような働きが沢山あるので、因果関係を明らかにすることは特に重要じゃないのかも。たとえば、「うつ病になると食欲不振になり、栄養不足からますますセロトニンが不足する」とか「ストレスを感じると過去の嫌な思い出が甦り、それがますますストレスを感じさせる」とかいったことだ。
ワーキングプアな人が割高なジャンクフードを食べてることがあり、「無駄使い」だと非難されることもあるが、これも「抑うつ状態だから食事に気が回らない→ジャンクフード→栄養不足→ますます抑うつに」という悪循環のパターンがあるのかもしれない。
それから、小飼弾さんが「幸せだから笑っているのではなく、笑っているから幸せなのだ」と赤木智弘さんを諭したことや、少し前に話題になったポジティブ教についても考えさせられた。
ポジティブな人はポジティブでいる限り積極的に行動し、成功すればさらに自信を得てますますポジティブになる(失敗してもしばらくのうちは「逆境をバネに」できるだろう)が、抑うつ状態の人は現在の状況から脱出することができず、負けないうちから「負けた教信者」となってますます抑うつになる。ポジティブな人は抑うつの人に「もっとポジティブにならなきゃ!」なんてアドバイスもすることもあるが、両者の間には共通言語がないかのように話が通じない。ポジティブな人には抑うつの人の気持ち――文字通りの意味で「気持ち」の問題だ――が理解できないのだ。逆もまた然りで、抑うつの人はポジティブな人のアドバイスは最初から耳に入ってない。
「希望格差社会」という話もあったが、「勝ち組」と「負け組」の格差が開き出すと、それをきっかけに両者が「ポジティブ教信者」と「負けた教信者」に分化し、ますます格差が拡大し、固定化していく構造が社会や経済の分野だけでなく、我々の脳内にもあるのかもしれない。
それがいつの間にやら、「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
これは同意。自己改革セミナーに踊らされたやつって、ポジティブというキーワードに酔って何も考えていなかったんだろ。
だけど俺としては最近はポジティブシンキングですら叩く病的なやつらの方が目について仕方ない。「頑張れば良くなる」という記事にやたら噛みつくが、実際には「頑張らないと決して良くならない」という現実から目を背けたいだけじゃないかと。汗を流す事を嫌って何かにしがみつく点で自己改革セミナーに踊らされたやつと変わらない。
何か悲痛に見えるんだよな。
いみじくも赤の女王が言ったように今の日本は「その場に止まりつづけたいなら全力で走るしかない」のさ。一生競争にさらされるし、一生努力と勉強が必要だぜ。早く受け入れろよ。
>「また失敗したらどうしよう」、「みんなの足を引っ張るくらいなら何もやらないほうがいい」、「自分は何もできない、生きてる価値がない」
まさにデプレッションの典型w まんまだなあ。
>「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
これ、確かオノヨーコが言ってた。「あなたにはできないことは何もないのよ」とショーンを育てたらしい。限界のない子に育ってほしかったからって。アメリカの、あの世代の特徴なのかもしれない。だけど
「でもママ、どんなに頑張ってもパパを生き返らせることはできなかったじゃないか」
といわれたときは、ほんとに辛かった、と言ってた。
>「自分が変われば、世界観が変わる」
というよりは、自分が自分であることを確信するということじゃないかな。
欠点は誰にでもあるし、どうしても直してもらいたい、という人もいる。傷つける人もいる。償いはする。努力もする。でもどうしてもできない、納得できない、あるいは短期間にできないのであれば、それを受け入れるしかない。とても、悲しいのだけど。
>「自分を大切にできる」感情
ちょいずれるが、ポジティブ教を批判しているid:y_arimやid:hokusyuがネガティブ・シンキングというわけではないんだよな。
あの人たちはあの人たちで、自分の意見に自信を持っている。
ポジティブ・シンキングって、本来「また失敗したらどうしよう」、「みんなの足を引っ張るくらいなら何もやらないほうがいい」、「自分は何もできない、生きてる価値がない」なんて思い込みやすいネガティブ・シンキングに対して、「自分を大切にできる」感情を作り上げていく方法だと思うんだよね。
それがいつの間にやら、「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51
「ちょっと」を毎日。
- 現状を変える一発逆転があると思うかもしれないけど、どうやら近道はないみたいです。
- 毎日少しずつ、少しずつ努力を積み重ねるしかない。まったく人生ってやつは。まったく。
- 毎日努力している人にはどんな天才も絶対に及ばない。断言していいです。
- 大事なのは毎日(毎日じゃなくてもいいんだけど、常日頃)続けること。
- とにかく結果を焦らない。落ち着けって。
- 今日の努力が実を結ぶのは、だいたい1年後。のんびり行くしかないですよ。
- ちょっとだけやる。「ちょっと」が超大事。
- ダイエットしようと思って、いきなり5キロ走るから辛くなる。初日は着替えて玄関出るところで終了。
- だけど、やろうと思ったらその日のうちにやる。絶対やる。1歩踏み出すだけでいい。
- 今日行動を起こさないと、ゴールにつくのが1日遅れるよ。
- あんまり遅れると、そのうち門が閉まるよ。
バイオリズムに逆らわない。
最初にここまで読んだとき、よくあるポジティブ・シンキングのメソッドの一つだと思った。それで長すぎるので読むのやめたのが、何時の間にやら4桁に達するブクマがつくお化けエントリになっていたのであった。
実録・自己責任教の信者たち - HINAGIKU 『らめぇ』は元エントリも、それに異を唱えるd:id:fromdusktildawnもひとしく自己責任教であることには違いがないと喝破している。
なるほど、どちらも「成功するためには何をすればいいか」ということを問題としている。そして、guri_2の「地道な努力」とfromdusktildawnの「効率的な、正しい努力」のどちらが正しいのかはかなり哲学的な問題であって、一意の答えがありそうではない(というか、fromdusktildawnの言う努力も本人が考える以上に地道なものである。「最小の努力」などと言っておきながら、「意識を研ぎ澄まして」、「目を皿にして」チャンスを捕らえろ、などという。結局たゆまず努力するしかないのだ)。
さて、guri_2のエントリに戻って、先の引用の部分以降を読んでいくと、いきなり
気持ちよく過ごせないのは周りじゃなくて自分が原因です。
とあって、驚く。「イメージと現実をごっちゃにしない」はずではなかったのか。日照りが続くのは自分たちが神様に生贄を捧げていないことが原因、って原始人かよ!
その後の「何かのせいにしない」も、全ては自分のせい=自己責任ということになるだろう。
それにしても「とりあえず100万円は貯めておく。余裕が出る」と言っておきながら、y_arimのコメントに応答して、
ただ、月並みですが電気ガス水道をたびたび止められ、狭い部屋で共同生活しながらも夢を追いかけている友人を見ていると、デッドラインはいくらもで下げられるのでは、と思ったりします。
というのは何なのか(実は見当がついているのであるが、ここでは言わない)。そのほか、アドヴァイス間の矛盾が多々ある。
さて、それでもコメント欄やブクマには「勇気がでました」という反応が見られる。それ自体は良いことである。こうした自己責任教がどうして人をポジティブな気持ちにさせるのか。
アル・ゴアの『不都合な真実』を見た人は「不都合な真実」を見せ付けられたにも関わらず、絶望は感じなかったのではないか。それはゴアのエンカレッジメントの上手さがある。深刻な環境破壊の現実にも関わらず、ゴアはフランス人権宣言、リンカーンの奴隷解放、ロシアの農奴解放、ガンジーの非暴力主義による植民地解放運動などを引き合いに出し、「人間はこれまで不可能と思われてきたこともやってきたじゃないか」という。こうした楽観主義が観客を勇気付けるのだ。つまり、人間には環境問題に取り組む「責任」もあるが問題を克服する「能力」もちゃんと備わっている、「能力」があるからこそ、それに応じた「責任」を負うのだ、ということを指摘する。
同じような現象がguri_2のエントリにも見られる。つまり、エントリに勇気付けられた人は(エントリを見るまでは勇気がなかった人であり)、そこに自分の底力、潜在能力があることを発見したのである。「自分はまだまだ頑張れる」のだと。自分に自分の人生をコントロールする能力あるからこそ「人のせい」にはしないのだ。
逆に考えてみよう。自分のおかれている立場が自分以外の「何かのせい」だとすると、それをコントロールする能力はないし、そのことに本人が責任を負う必要は無い。誘拐犯に拉致され監禁された人間が、脱出できない自分が悪い、とか「もっと注意して歩いていれば」などと考える必要がないのと同じことである。
ところが、最近では(イラク邦人拉致事件で明らかになったように)上記のようなケースにすら、自己責任を適用しようとするのである(性犯罪被害者への「夜道を歩いていたのが悪い」というような、セカンドレイプはそのはるか以前からあったが)。
ここにguri_2の問題点がある。「何かのせいにしない」、「自分が原因です」は無前提に使用できる言葉ではないのだ。
何か重大な不幸がその人を襲ったとき、「自分が原因だ」、「自分が悪い」と考えること、それは普通ネガティブ・シンキングというのではないか。「自分の家族が不幸せなのは自分が原因だ」、「自分のチームが成果を出せないのは自分が足を引っ張っているから」、「子供が難病にかかったのは自分が墓参りを怠ったから」……。こういった思考法が容易にうつ病や自傷行為・自殺、カルト宗教への入信といったさらなる不幸をもたらすことは想像に難くない。もっとも、guri_2は「そんなときもあるさ」(これは明らかに失敗を何か運やツキのようなもののせいにしているのだが)とか「できないことが多くてもくじけない。続けていれば必ずできるようになる」、「だってオレも↑これの9割方できてないもん」という安全弁を用意してはいる。
しかし、無制限な自己責任論が過剰に自己処罰的な傾向を生み出すということにはもう少し敏感であるべきではなかったか。テレビドキュメンタリーに登場する若年ホームレスやネットカフェ難民が一様に抑うつ状態にあって「自分が悪かったからこうなった」と発言するのをguri_2はどう見ているのだろうか?