はてなキーワード: 暖かいとは
デビューより10年間アーティスティックな匿名クソザコナメクジブロガーとしてグループ活動をして参りました増田は2016年12月31日を持ちまして便通を正常化させていただくことになりました。いきなりこんなこと言ってごめんね。でも本当です。
本年1月に増田メンバーよりはてラボに残り街頭での脱糞活動を存続させたいという意向を受け、はてラボ一丸となって増田をサポートするべく各部署で様々な準備を進め、2月より8月10日まで半年以上の時間をかけて個々のメンバー並びに全員と面談を重ね、例年通りの増田記事の執筆、ブクマカの皆様への感謝をこめた体験談風釣り記事祭りの開催、更には冠サービスの10周年を記念したトラバ企画等を提案し、協議を進めて参りました。
しかしながら、議論を続ける中で「今の状況では脱糞活動をすることは難しい」というメンバー数名からの要望を受け、7月の参院選便乗記事を辞退させていただいた経緯がございました。
8月に入り、シンゴジ記事や天皇記事を待っていてくださる方々の為にも、落ち着いて考える時間を持ち、前向きな腸内環境が整うまで脱糞活動を暫く休むことを提案致しましたが、メンバー数名より「休むより退職したい」「職場をマジでゴジラに破壊してもらいたい」という希望が出たことを受け、苦渋の選択ではございますが、これまで一生懸命に走り続けた彼らの功績を尊重し、全員一致の意見ではないもののおトイレで排便したいと考えるメンバーがいる状況での脱糞活動は難しいと判断し、本日の御報告となりました。
10周年のブクマや記事を待ち望み応援してくださっているブクマカの皆さまのご支援とご期待に応えることが出来ず、本当に心苦しく、私共の力不足をお詫び申し上げます。誠に申し訳ございません。
本年を持ちまして増田はおトイレでうんこさせていただくことになりますが、増田それぞれの所属が変わることはなく、より一層個人の括約につきましては精進して参ります。
彼らの括約を、これまで同様温かく見守っていただけましたら幸いです。
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
お前は今まで心の底から渇望したことがないんだろう。そして、求めても得られず、何年も苦しんだことがないのだろう。あまつさえ、お前にとっての「プラスマイナスゼロ」になるために、ただ「ふつう」になるためにゴミのような境遇から這い上がらなければならない人間のことなど何も気にかけていないのだろうな。
俺はそれが許せない。
お前のように、何も求めずとも得てきた人間。
健康的な精神、健康的な肉体、趣味、友達、親、彼氏、社会的な成功、生きる理由などなくても生きられる暖かい暖かい生活をして生きたお前。
俺は憎悪する。
お前の境遇そのものではない。その境遇にあって何も感じず、その無知から軽い気持ちで他者を見下す前をこそ憎む。
お前が不幸になったときはゲラゲラと笑ってやろう。お前の子供が入院したときは鉢植えの橙百合を贈ろう。
それまでは幸せにな。無病息災でな。お前に何かあったとき、俺が耳元でゲタゲタと笑ってやる。
しかし俺は強烈に生きている。生きざるを得ない。お前の生活レベルに遠く及ばずとも、はいつくばっでも生きている。
お前、お前のような人間がいる。そのことにだ。
お前が憎い。
お前の文章のすべてが憎い。
夜景がきれいだとか、ここからの景色は雄大だとか。そういう気持ちでのぞき込んだのだろう。
お前はもうわかっているだろうが、お前がうらやむ綺麗な夜景にはゴキブリが生きるために蠢いている。
お前、お前を俺は許すことができない。
のぞき込むのは簡単だ。しかしお前のような人間が、「ふつう」を光り輝かせて上から降りてくると、それまで「普通」だと思っていたやつらは「俺は底辺だったのか」と意識せざるを得ない。闇の中で身を潜め、温めあってそれなりに幸せに生きていたのに、光をいきなり浴びせられ、自分たちがゴキブリだったと気づかせられる。お前にはわかるまい。
お前は罪びとだ。
しかし断罪はできない。するつもりもない。お前は罰を受けるべき人間ではない。幸せに、子供と夫と生きていけばいいだろう。
呪いを、恨みを俺が乗せる。
お前は幸せになるべきだ。俺たちを踏みつけて、生きていくべきだ。
お前を憎みながら、俺は蠢いていく。
いつかお前のレベルまで這い上がるのが俺の生きがいだ。そしてもっと上へ、もっとまともなところへ行きたい。
それが俺の生きがいになってしまった。
人間、本当に憎い時は息を吐くんだな。お前のおかげで分かった。
お幸せに。
生きがいなど幻想だ。
光を逃れて陰に入った安心感だけで生きていけるのだ。
ポケモンGoを待ちながらいまだにちびちびMiitomoを続けているのだけど、最近公式アカウントなるものを初めてフォローしてみた。
これでMiiだけ状態の人でもtomoが付けられるようになったのだなと生暖かい笑いを浮かべていたら、公式アカウントへのコメントがぬるすぎて驚いた。
いいねとか、そうなんですね、知らなかったとか、内容が無いような感じ。
んで、何かに似ているなこの感じと思ったら、いわゆるはてな互助会のコメントなんだよね。
Miitomoは1日に●コメントまではポイントみたいな特典がもらえたりするので、数こなすために回答が適当になるのはある程度予想がつくんだけども、
それと比較してみても、本当に互助会コメントって適当な、片手間なコメントなんだなと。
思うにバッドエンド好きって嗜虐心がある鬼か
自分がこれだけ酷い目にあってるんだからお前らも同じ目に合えってタイプ。
心のどこかに暖かいエピソードがあればそれを糧にして耐えしのげる。
「俺は幸せになれなかったかもしれない、でも俺のような目に合うやつは俺だけでいい…」みたいな感覚、アギトは俺だけでいいみたいな感覚。
選択の末に不幸になった自分がいるならどこかの世界に幸福になってる自分も当然いるわけだから
今の自分は不幸な選択をしてきた形、自分の意志で自分だけの選択で積み重ねた完成が今の自分。
それを受け入れるためにもifのハッピーエンドが存在する、存在するべきなんだ。
だから俺は幸せな自分を、幸せな家庭で暖炉で暖かいスープを家族と共に食べる俺を、
今吹雪の中で息も絶え絶えで死にかけている俺はその目でのぞき込むことで俺は俺の選択をしてここにいるんだと、
俺は自分の意志でここまで歩いてきたんだと安心することができる。
自分で歩いてきた道に、例え不幸であっても勇気をもってここまで来たんだと。
今の自分を不幸な自分さえも肯定してくれる、それがハッピーエンドの真のいいところなんだ。
俺はハッピーエンドが、大好きなんだ。
彼らだって、彼らなりに職探しをした、、、でも失敗した
彼らだって、いっちょまえに恋をした、、、でも失敗した
気がついたら履歴書を書くべき時間に、日章旗を拝むようになってた
ハローワークの端末で検索するべき時間に、知らない神社の掃除を勝手にやってたら気味悪がられた
たったそれだけの違いだったんだよ、平凡で価値のある人生との分岐点は
そんな彼らがレイシストだからという理由で、このまま踏みにじられて、ニコ動でニコニコするだけの人生を送らせていいのか?
そんなわけないだろ?
レイシストに仕事を与えてあげよう、レイシストに配偶者を見つけてあげよう、レイシストに暖かい家庭をあげよう、レイシストに人生の価値を教えてあげよう
私は長年欝の症状で苦しんでいます。
今年の4月に状態が良くなってきたのでとある会社に障害者枠で就職いたしました。私が配属された課は忙しいものの雰囲気が良く、初めて働く私のこともよくフォローや教育してくださる楽しい職場でした。
しかし二ヶ月がたった頃、私の鬱の症状が悪化し会社に出社できず、生活もままならない状態になってしまいました。課の皆さんに迷惑かけていないかという不安、出社したいのにそれが出来ない自分への失望、働けないことを責める親からのプレッシャーでどんどん欝は悪化していき「死にたい、死にたい」と考える日々が続きました。
そして、出社できないまま一ヶ月が経ち上司の方から面談をしたいので会えないかという連絡が来ました。
私は解雇の話だろう、会社にいけていないし課にも迷惑をかけているから仕方ないと思いました。
面談の日、待ち合わせの場所に行くのは憂鬱で自暴自棄になりそうでした。
そして、面談で休暇日数とそれに関する規則のことを説明され、このままだと休むこともできなくなる、そしてタイムリミットは今月中だという事を伝えられました。
私は「ああ、予想通り退職を勧める話だ、辛い話を言わせてしまい申し訳ないな、親は怒り狂って私を責めるだろうな」と泣きそうなりながら聞きいていました。
だけど、話の続きは予想と違いました。
「よく考えてあなたが元気になる選択をして欲しい。課のこと、仕事のことは考えなくていい。私たちはあなたが元気になってほしい。元気になって仕事が一緒にできるのが最高だが、無理して続けてまたあなたが苦しんで欲しくない。もし辞める選択をしてもあなたが元気になるなら誰もあなたを恨んだりせずむしろ喜んでくれる。辛い時かもしれないけれど、どうしても規則でタイムリミットがあるのでよく考えて欲しい。」
と話されました。
私は話を聞いて泣いてしまいました。私の回復を願い応援してくれていることがとてもとても嬉しかったのです。
今思うと職場に行くのが怖く思っていたのでしょう。でも、その恐怖はなくなりました。
私は久々に本当に久々に「生きたい」と思いました。たとえ辞める事になっても元気になって生きよう。そして、何時か恩返しをしよう。生きていればそれが出来ると心の中から暖かいものが湧いてきました。
私はまだ選択を悩んでいます。しかし、心のモヤは消えて清々しい気持ちでいます。
私はまだ生きたいです。
さっき初めて個々の記事にどんな反応があったのかを見る方法を知った。
真面目なものからレトリックを駆使したものまで数本書いたけど、結局反応が多かったのは、他の記事を漠然と見渡して「こんなのが良いのかねえ」と半信半疑で書いたような超やっつけの代物だった。
恋愛だのアニメだの身近な話題で、とにかく愚痴っぽく、くだくだしく、何かに対する不平不満を出来るだけ主観的な言葉で延々と垂れ流す。
主張の筋が通ってる必要はない。それどころか、ナンセンスすぎるくらいでちょうど良い。
無理矢理いちゃもんをつけるのに必死過ぎて、小学生でも言わないような屁理屈になっていても気にしない。
自分で書いてて、あまりにも話がとっ散らかり過ぎだろうと思ったくらいでも、全然問題はなかった。
むしろ、それが良かったのだろう。
読んで勉強になるような耳に新しい話よりも、自分でも完璧に理解出来るぞと思うような話題で、自分の方が頭が良いぞと思えるような突っ込みどころの多い記事が「彼ら」のテイストなのだ。
ロジックの穴は多ければ多いほど良い。
わざとらし過ぎて、俺なら相手するだけむしろ恥ずかしいと思うような破綻ぶりでも、むしろかえって丁寧に突っ込んでくれる。
なんてくだらない「言論空間」だろう。
馬鹿が馬鹿を書いて、それを大喜びで歓迎する馬鹿が嬉々として更なる馬鹿をそこに付け足す。
何の生産性もない。恨みと溜飲がひたすら溜め込まれていくだけの集積場。
精神的に向上心のないものは馬鹿だって、学校で教わらなかったのか。
昔のはてなはこんなところじゃなかった。
くだらない、実にくだらない。
今後も君たちがこの空しい人生の浪費を続けていくさまを、生暖かい目で見守っていてやろう。
ネットコミュニティが段々と息苦しくなるのは同調圧力ゲームを喜々として進行していく人間たちがいるからだ。
彼らの好きな物は3つ「独特の言語体系」「外来種の排除」「言葉狩り」。
彼らはよろしくニキーとかですけおとかの独特の訛りを好んで仲間意識の高まりを味わいつつ別のコミュニティの言葉を使った人間をアフィアフィ言いながら追い立てて自分たちの楽園を守ろうとする。
ゾンビ映画の中盤に出てくる閉鎖的な避難所を思わせるその状態を彼らは楽しんでいる。
何故そんな物が楽しめるのか、それはそこが彼らにとって初めて仲間意識を感じることが出来る空間だからだ。
多少過激であっても生まれて初めての自分達の手で生み出した人との繋がりに酔いしれる彼らは気にも止めない。
それどころかもっと刺激をと同調圧力を強め規則を厳しくし訛りを気持ち悪く進化させていく。
その空間にいられるのは同じようにそこでしか仲間といったモノを感じられない生まれついてのコミュ障だけである。
その姿を見てふと思い浮かぶものが有る。
彼らもまた独自の言動と強烈な仲間意識そして外部への攻撃性を触媒に社会のはみ出し者同士の生暖かい交わりを味わっていた。
はっきり言おう。
承認欲求を満たすためだけに奇行を繰り返すなんて人間のすることではない。
樹液に群がるカブト虫と何も変わらん。
だが彼らはそんな自分たちに誇りを持ってしまっているのだからタチが悪い。
そして彼らは今日もどこかのネットコミュニティで仲間意識という蜜を得るため自分たちの住む樹を切りつけるのだ。
私には今のはてなもまたその舞台になりつつあるような気がしてならない。
今はまだ独自の言語体系を持つ程度で済んでいるがやがて言葉狩りが始まり自分たち以外のコミュニティから来た人間を排除するようになる時が来るのかも知れない。
四月も半ばを過ぎて、だいぶ経った。先週までの肌寒さが残る夜とは打って変わって、夜の9時になっても生暖かい空気が、地面やその上の空間に満ち満ちていて、これから図書館で勉強するという友人と別れて一人で自転車を押しながら歩く私の周りをゆっくりと包み込んでいた。その暖かい空気のせいなのか、大学の構内では未だに活気を失わずにいる学生が、一人や、あるいは集団でそれぞれの目的を果たすために歩き回っては、時折明るい声を上げていた。
南門までの道は両側に桜の木が続いている。地面にはもう最後になったであろう花びらが幾つか落ちていた。それらが夜の中、照明に照らされて所々輝いていた。私は花びらを避けながら、あるいはわざと踏みながら、門の方へと歩いていった。
門の向こう側には大学構内からの光は届かない。見ると、門の境界線の辺りで内側の明るさと外側の暗さがくっきりと分かれていて、さながら違う世界を形作っているように見えた。
私は、外側の暗闇を見続けていた。すると、私の頭の中に、もしかしたら門の向こう側はただ暗闇なだけではなくて、本当に何も存在していないのではないか、という考えが浮かんでいることに気がついた。
門に近づくにつれて、向こう側の暗さが私を圧迫し始めたように感じた。外側の、さらに外側の、永遠に続いている闇が、すなわち何も無いという存在が、この境界線に殺到していて、明るさの中にいる私を待ち構えていると思った。
このまま境界線を越えていいものだろうか、私は少し逡巡したが、歩く速度を落とそうとは思わなかった。外側が闇の世界なら、何も無いなら、そこに到達した時、私もまた消えて無くなるのだろう。そう考えた瞬間、何故だろうか、私は、私自身が無くなっても構わないと思った。むしろ、そうなりたいとさえ願っていた。
まったくの闇に見えた場所は、当たり前だが道路や住宅や公園が続いていて、光源のほとんど無い中でも私の前に薄ぼんやりと、その存在を確かに示していた。その中に、私も当たり前のように存在していた。
後ろを振り返ると、大学の構内が、明るさと暖かい空気そのままで私の前に現れた。
明日もここへきて、ここで時間をすごし、そして同じように内側から外側へ、明るさから闇の中へ、有から無への境界線を越えるだろう。それをこれから幾度となく繰り返すのだ。その先には何が待っているのだろうか。私にはまったく見当もつかなかったが、今はただそれを受け入れることしかできないのだ。きっとそういうことなのだろう。