はてなキーワード: ロバート・デ・ニーロとは
70代だとアーノルド・シュワルツェネッガー(75)、シルヴェスター・スタローン(76)、ロバート・デ・ニーロ(79)
80代だとハリソン・フォード(80)、アル・パチーノ(83)、モーガン・フリーマン(86)あたりか
90代で代表を選ぶなら誰だ??
今日のニュースによるとロバート・デ・ニーロは79歳にして7人目の子供を作ったそうで、劣化した弾でも数打ちゃ当たる確率の問題なんだなあと遠い空を見上げたのだった
きっかけはエロサイトで見つけた女優。最初のインタビューで「人妻です。亭主とはもう単なる家族で、セックスは燃えない」といった話をするのだが、本当にそういう立場の人が本心で語っているように見える。ところが、これは嘘。「AV女優のみなさんに聞く」といった内容のネット番組に同じ人が違う名前で出演し、まったく違うことを話していた。そのときはバラエティなので、AV女優の道に進んだ経緯などを本心から話していた。
私には「人妻です」と語るこの女が、内心をさらけ出しているように見えた。バラエティ番組でも同じことを感じた。2つの番組で言っている内容が異なるということは、どちらかで嘘をついたことになるが、私にはどちらが嘘なのか見分けがつかない(両方嘘の可能性もある)。こういう人こそ演技が本当にうまい人なのではないか。ロバート・デ・ニーロや笠智衆が「人妻です。亭主とはもう…」というセリフでここまで自然な演技ができるだろうか。
もうひとつ、ネット配信で見た少女麻雀映画。誰も出演者の演技力など気にしないような作品だが、その中に、登場人物のクラスメートとして、本物の女子高生らしき人物が2人登場する。他の人物が演劇学校で教えるような発声でしっかりした演技をしているのに対して、2人は普通の発声で演技をしていた。たどたどしく見えるが、これは本物の教室で交わしているような会話が、演技メソッドから外れているだけなのだ。同じ作品に、大会会場のさえない警備員のおっさんがほんの一瞬映るのだが、これもロケ会場の警備に駆り出された本物の警備員のおっさんを映したのであろう。ある意味肉体労働なので時給は悪くないが、土砂を運ぶ力はなく、建設機械を使う資格もないという理由で警備のバイトに応募する人がよくいる。まさにそういうおっさんなので、リアルであることこの上ないのだが、映画の文法に照らしてみれば不自然な存在だ。
ビートたけしが言っていた。「よくリアルな喧嘩のシーンが良かったなどと言われるけど、リアルな喧嘩は一発殴って終わり、殴った方も指の骨が折れる」。つまり私達がリアルと思うものはスクリーンの中のリアルであり、現実社会のリアルとは別のところにある。
AV女優の演技力を数値化するなら、さまざまな出自の女性の役で作品を撮影し、どの作品の中で語っていることが本当なのかを100人に予想させれば、正解率が目安になるのではないだろうか。
久しぶりにヒートを観てて、ふと思ったんだけど、ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノとダスティン・ホフマンあたりって、役柄のオファーめちゃくちゃ被ってそうだよね。
それぞれが入れ替わってたら、また映画の印象も変わってたんだろうな。
フランケンハイマー監督の映画『RONIN』は、ソ連崩壊の余波が残る90年代の作品である。ソ連が崩壊した頃は、生活に困ったソ連の元・軍関係者が兵器を第三世界やテロリストに密売する可能性や、ソ連という敵を失ったことで欧米諜報機関の人間がリストラされる可能性が取り沙汰されていて、そのような世相が同作品には反映されている。
ロバート・デ・ニーロ(主人公)、ジャン・レノらが演じる「ソ連の崩壊に伴って仕事を失った東西諸国の諜報機関の元・工作員たち」が、アイルランド人らしき女性からリクルートされて、フランスのニースに滞在中の元・ソ連軍関係者と思しき男たちの持ち歩いている「怪しいジュラルミンケース」を強奪する非合法ビジネスに挑む…という話である。
このジュラルミンケースを巡る争奪線として物語は進行するが、その中身が何なのかは最後まで明かされない。ただ「非合法な真似をしてまで欲しがる人間たちが存在するような『物騒な何か』なのであろう」とだけ、観客には理解される。しかし、そのような理解で物語の進行には十分なのである。この映画におけるジュラルミンケースのような、物語進行上の小道具をマクガフィンと言う。
マクガフィンがマクガフィンとして機能しうるのは、物語の語り手と観客が「世界観」や「状況認識」や「常識」を共有しているからである。新聞やニュースを通じて、冷戦下における東西諜報機関の暗闘や、北アイルランド返還を要求してテロ活動をしていたIRAの存在、ソ連崩壊に伴う兵器拡散の危機などについて既に了解しているからこそ、たとえジュラルミンケースの中身が判明しなくても、観客は物語を読み解くのに支障が無いのである。ちなみに、主人公たちをリクルートするアイルランド人らしき女性が、物語の冒頭で主人公たちに対して「私はディアドラ」と名乗る。これは、日本人に擬えると「私は花子」と言うぐらい「平凡な名前すぎて逆に偽名クサイ」という描写とのことである。「アイルランド人」らしき人間が「偽名」で接触して「非合法ビジネス」を依頼してくる。となれば、90年代のフィクションにおいては「IRAか?」と推測するのは観客にとって極めて自然な成り行きであった。このような社会的な知識や認識を持たない人間が『RONIN』を観ると「何だかよく分からない話だった」となるかもしれない。
さて、海賊王漫画について言及したところ「『海賊王』の定義がハッキリしなくても、マクガフィンなのだから問題は無い」との意見が見られた。しかし、端的に言えば『海賊王』はマクガフィンとして機能していない。何故ならば、物語の世界の法則や状況に関する「確固たる土台情報」が与えられておらず、ジャンプ読者は共通認識を持っていないからである。
海賊王漫画は、政治・経済・軍事・警察・法律の社会体制、キャラの強さの根拠や尺度、海賊稼業が成り立つ社会の仕組みなど、全てにおいてアヤフヤである。
海賊王漫画に比べると、まだ『パイレーツ・オブ・カリビアン』の方が、海賊冒険物語としてはマシな方である。それが成立するのは何故かと言えば、以下のような「世界認識」が朧げながら観客に共有されているからである。
我々の世界での海賊の歴史は、ヨーロッパのような国々があり、中南米・アフリカ・アジアのように植民地とされた地域があった。海賊たちは、国家の軍や警察の力が及びにくい地域で略奪・誘拐などを行い、時には国家から許可を受けた「下請け業務」として海賊業務を行っていた(このような海賊船は、所謂piratesではなく「私掠船privateer」と呼ばれて区別される)。
国家の下請け業者としての海賊が成り立っていたのは、ヨーロッパの国々が互いに覇権争いをしていたからである。競争相手国の船が、私掠船にとって獲物であった。
覇権争いをしてまでも植民地にした地域には、金銀や宝石の鉱山が有ったり、香辛料や農産物の産地であったり、サトウキビやコーヒーなどのプランテーション農園を作って労働力に使う現地住民がいたり、宗主国がそこに侵出する様々な経済的な動機があった。
植民地域と本国との間で行われる貿易の関税を逃れて密輸するのも、海賊の仕事の一つであった。
海賊が略奪した貴金属貨幣や物品、誘拐した人間を欲しがる人間が、宗主国や植民地域に「顧客」として存在し、また略奪や誘拐ビジネスで富を手に入れた海賊が消費活動を行なって、植民地域の経済圏に金を落としたからこそ、海賊稼業も成立していた。
このような大まかな共通認識が観客にあるからこそ映画『パイレーツ〜』も成立するのである。これに比べたら、如何に海賊王漫画がアヤフヤなまま連載を続けて、本来は連載初期に描いておくべきであった、読者が物語を読むための足掛かりにするべきことを何も描いてこなかったのが一目瞭然である。
「パンピレホニョンに俺はなる!」と言うだけではマクガフィンにはならない。
【2021/05/06誤字を指摘して下さった方、ありがとうございます。】
https://theeigadiary.hatenablog.com/entry/2020/02/04/110637 『パラサイト 半地下の家族』:「格差社会」を描くことには失敗していないか?
"この作品がハリウッド映画を差し置いてアカデミー作品賞を獲得することは勘弁してほしい。"
https://theeigadiary.hatenablog.com/
”スコセッシが監督してロバート・デ・ニーロが主演した作品がいまさらアカデミー賞を取ったところでテンションの上がる人間がいるだろうか?”
こういうの
話題の映画「ジョーカー」を観た。3日間もの間、印象的なシーンが鮮明に再生され、日常生活を送りながらも映画の中の世界が頭から離れなかった。観賞中は息が詰まるような緊張感が続き、ショッキングな描写に気持ちは激しく動揺した。
これは一体どういう映画なのだろう。なぜこんなにも強く私の脳内を占拠したのだろう。これは議論を呼ぶ名作なのか、はたまたただのトラウマ体験なのか。作品に散りばめられたエッセンスから頭をよぎった監督たちの紹介とともに答えを探っていきたい。
まず系譜としてはマーティン・スコセッシなしには語れない。スコセッシは言うなれば妄執の父である。社会が見せる夢に取りつかれた青年が現実と妄想の間でもがく、という題材をひとつのテーマとしている監督だ。アメリカンドリームを皮肉たっぷりに描き、鬱屈した現実とポップな理想を同居させ、若者が狂信的な思いを貫くことで結果的に社会がカウンターパンチを食らう、という内容に特徴がある。主人公にはしばしば常識や倫理観が欠如しており、それが社会との隔絶や陰惨な事件を起こす引き金となる。「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」でうだつの上がらない妄想癖の男を演じたロバート・デ・ニーロが「ジョーカー」で今度は人気番組の司会者を演じているのも意図的な皮肉だろう。社会の片隅で生きる男が自意識を肥大させて全能感を獲得するという構図は明らかにスコセッシに倣ったものだ。
だが、スコセッシ作品と比べると「ジョーカー」の方が観ていて受けるショックは大きい。はじめから狂気じみたスコセッシの描写する青年と違い、「ジョーカー」の主人公アーサーは特殊な障害こそあるものの、それなりの分別を持って慎ましい生活を送る恵まれない男なのだ。尊大さよりも不遇を強く感じさせる分、彼が段々と堕ちていくのを見るのはつらい。
似たような余韻を残す作家で連想するのはダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキーは絶望の職人である。こちらも現実と妄想の対比によって物語が進行するが、えげつないほどの乖離や物理的に後戻りのできない状況を生み出すことによって観客もろとも登場人物を絶望へと叩き落とす。往々にして個人における心理状態の変化に焦点が当てられ、描写に肉体の変容を伴うのが特徴だ。職人と称したのは、映像や音楽を神経質なまでに駆使して恐怖や落胆、憧れといった感情を煽っていく技巧派スタイルからだ。その画面は暗く、重く、そして美しい。「ジョーカー」を観て「レクイエムフォードリーム」や「ブラックスワン」を想起した人も多いだろう。アロノフスキー作品同様、「ジョーカー」には喪失そのものを賛美する鎮魂歌のような要素がかなりある。観客に登場人物と同じ夢を見させた上で、それが緊張とともに深い闇に飲まれていく過程をただただ美しく映し出すのだ。
では、「ジョーカー」の監督であるトッド・フィリップスの独自性はどこにあるのか。それは、社会的にインパクトのある題材を濫用し刺激的すぎるほどリアルな描写にこだわっているにも関わらず、全体として悲壮感を打ち消しにかかっているところにあるように思う。まさにジョーカー的とも言える、悲劇か喜劇かは主観次第、というのを地で行くような趣きがある。スコセッシが愛に飢え、アロノフスキーが闇を愛でる一方で、フィリップス節はなんとなくはじめから終わりまで人々の孤独が平行線のまま、深刻なのにどこか表面的で、楽観していて投げやりなのだ。
過去作の「ハングオーバー」でもトッド・フィリップスはそんな調子だった。いたずらに過激なモチーフを画面に持ち込み、場当たり的に対処していく。物語は緻密に構成しながらも強いテーマ性は内在させず、作り手としての態度はどこか楽観的だ。調べてみるとドキュメンタリー出身とのことで合点がいった。おそらくは観客を引きつけておく演出は最大限発揮しながら、事象としてはすべてありのままを受け入れる、ということである。男子寮、バチェラーパーティー、そして今回のジョーカー誕生といい、悪ふざけと相性の良いトピックを選んでいるのもきっと彼らしさなのだろう。待てよ、よくよく考えれば彼の切り口は「やりすぎ男子」そのものじゃないか。
だとすると、やはり「ジョーカー」という作品は社会的意義を議論するには不向きな映画だろう。映像表現に長け、社会をありのままに捉え、悪ふざけを好むトッド・フィリップスという監督が、人々にトラウマを植え付けるほどやりすぎてしまった結果できた映画なのではないか。社会問題全部盛り、過激表現マシマシでありながら「そういうこともあるさ」と爽やかに言わんばかりの演出にはそれで説明がつく。それは確かに時代を反映しているかもしれないが、風刺の意図や分かりやすいメッセージはおそらくそこにはない。
新時代のやりすぎブラックジョーク、それが私の「ジョーカー」に対する結論である。
※ 本当はクリストファー・ノーランにも言及したかったが、うまくまとまらなかったのであえて割愛した
ロバート・デ・ニーロとロバートデニ色の違いって何?
ぜんぜんわからない、俺たちは雰囲気で演技を語っている、ってやつだよ。
だからパントマイムみたいに大袈裟な動作や表情で、感情を伝える演技が求められた。
1930年代からトーキー映画が始まって、より自然な演技が求められるようになった。
役柄の生い立ちや深層心理まで想像して「なりきって」いくというもの。
ロバート・デ・ニーロとか有名だよね。
タクシードライバー役をやるために実際にタクシードライバーになったりする。
そうやって役柄との一致率を高めていく。
一時期は、このメソッド演技法が「名優の条件」みたいな扱いだった。
たとえばどんな役も上手く演じる「カメレオン俳優」が評価され、
逆に「何を演じても同じ印象」みたいな俳優を演技力がないとするのは、
共演者と協調しにくいとか、台本の変更に弱いとか、精神的肉体的に負担が大きいとか。
「台本どおりにやれよ」と言ってメソッド演技を嫌う監督も多い。
だからハリウッドの俳優たちも全員がメソッド演技をやってるわけじゃない。
多くの人が演技を評価するとき、何らかの価値観を前提に置いている。
極論、「棒読みが悪い」とされているのは「声に感情を込めるべきだ」という価値観があるからだ。
でもなぜ声に感情を込めるのか?を突き詰めれば「好み」としか言いようがない。
「だって現実には無感情な声を出す人なんていないだろ?」というのも
誰々の演技が上手だ下手だというような記事をいくつか読んでも、
「この人はこういう演技が良いと思っているんだな」ということしかわからない。
映画の題材、割り振られた配役によって、求められる演技も違ってくるだろう。
「俳優の演技が下手」なのではなく「キャスティングが下手」なのかもしれない。
どんな演技だろうと映画がおもしろけりゃいいんだよ!ということかもしれない。
でも自分の嫌いな演技が目につけば映画全体もつまらなく感じるかもしれない。
演技を気にしていない観客のほうが、より多くの映画を楽しめるのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20150609235104
すげーーーーー分かる!!!!
職種を選んでれば、実生活がそれほど大変じゃないのも分かる!!!
理由!!顔が判別つかないので、自然と「背丈」「体格」「癖」「声」「その人によく会う環境・文脈」で判断してて、それで結構判別できるから!!!!
それがない状態だと、上増田と同じように、外では親兄弟も分からん!!!!
2mくらいまで近づいて挨拶されるからめちゃくちゃビビるぞ!!!!
あと、混雑した街で久しぶりに会う人、めちゃ困る!!!!
あっちからあいさつされるまで、「それっぽい人」を何人か見繕い、いつ声かけられてもいいように身構えてるぞ!!!!!!
ましてやロバート・デ・ニーロなんて(大好きなのに!!!)、毎回体型も癖も変えてくるから、完全にお手上げだ!!!!!!!
分かる!!!!
分かるぞ!!!!
イタリア語を話しながら!