はてなキーワード: ファイトクラブとは
ガンダムのジオン軍とかスターウォーズの帝国軍みたいな組織でもいいかも知れん
あるいは『ランボー』『ダーティハリー』とか「あれは悪役じゃない」けどまあ暴力を使うキャラとかも含まれるかも知れん
こういう「悪」を指して「映画(創作物)の悪役から影響を受けるのは間違ってる!その創作物自体が悪を否定している!」みたいに先回りして批判する道徳家みたいな人を最近よく見かける
でも俺は何が具体的に悪いのかよく分からないんだよな
まあそれぞれの映画のテーマも違うし、またこういう映画の中で行われる行為やフィクションの規模が途方もないのでそもそも具体的に真似できんやろとか「それを言っちゃあおしめえよ」というのは省くんだけど
たとえば「ジョーカーに共感するな!」といっても、そもそもあれは現実に「ジョーカー的な人々」が先にいることが前提になってるんだよな
そんでもって別に映画館から現実に戻った今も別にテロとか企ててないけど
『アルジェの戦い』『戒厳令』みたいな映画を見て影響を受けて左翼になる奴もいていいだろうし
三島由紀夫や福田恒存の小説読んで右翼になる奴もいていいと思ってるよ
そんで「じゃあAVやポルノ映画見てレイプ起こす奴いてもいいのか!」って言うやつもいるんだろうけど、社会問題に対する反応と全然別じゃんというのは置いといて、まあいいんじゃないのそれは
前述の「影響を受けるな」論の根源って、まとめてしまうと、「何かある派閥が映画・創作物によって盛り上がって、自分の生活を破壊しに来る」という想像から発せられてると思うんだけど
そんなん映画が無くても破壊されるんだし、そもそも社会問題を加速させたり放置させたり対処してなかったりするのは現実の(ジョーカーを批判する)「お前」な訳なんだし
それと最近オタク側が「創作影響論」を頑なに避けてるのは良くないと思う
「それで何が悪い?」といえない現状のオタクの世界観の狭さが良くない、早く「何が悪い」といえる世界観を作れ、まだ間に合うから
単純な話、この世の富は有限であり、奪い合いこそが人類の基本姿勢だ。
その為、『必死に奪おうとする弱者』が、いちばん哀れで穢らわしいゴミ――いちばん性格が悪い存在に思われるのは必然である。
たとえば格闘技一つとっても、拳のサラブレッドとして、優秀な両親によるサポート――食事管理、幼少期からジムに所属させ、愛を与えて自信を付与させる……など、与えに与えられた裕福なガキほど、よく仕上がった大人になり、さらなる賞賛を得やすい。
対称的に、ブレイキングダウンに参加するような荒くれ者は、貧乏で団地育ちで、まともな教育も受けられず、治安が乱れた街には悪が渦巻いていて、いつだって心は混沌としているからこそ、「俺は今ココに生きているぞ!」とアウトサイドな生き方の中で、危なっかしく命を燃やしている。
でもって、そんな歪みきった世界にも関わらず、那須川天心や、武井壮のようなエリートが、下の下の下の世界にも出しゃばってきて、とことん雑に悪を見下してゆく。
持つ者はいいよな~?
それっぽい言葉と、神が与えた才能と、お手軽な優しさをぶちまけりゃ、なんぼでも光り輝ける人生なんだから。
畢竟、くそ喰らえな構造の中で、ガンガンと綺麗事が響き渡るとき、虚しさが悪へと切り替わってゆく。
金も地位も名声も、愛と平和も、優しさも善行も、その他ありとあらゆる可能性を、強者が根こそぎ奪ってしまうからな。
じゃあどうする?
そうやって我々は、敵意を育て、破滅主義になり、世界を憎むようになる――
とても悲しい事だが、持たざる者が努力をすると、自律神経が乱れ、情緒が不安定になり、ノルアドレナリン(闘争か逃走のホルモン)が分泌し、すごくリスキーな毎日に突入しやすい。
怒り、焦り、悲しみが噴き上がり、「何もかもが悲劇だ!」「誰も彼もが敵だ!」などと、心が荒ぶりやすくなってしまう。
そらそうで、発達障害/双極性障害/社会不安障害/不眠症/過眠症/低収入/孤独など、弱者属性を持っている人々は、社会的に弱い立場であり、そうした現状を客観視し過ぎると、惨めな気持ちにもなるってモンだ。
しかしながら、試行錯誤――破壊と再生を繰り返して、1%のチャンスでも掴み取る為には、心の痛みと戦いながら、冷たい現実を直視し、真の自分に辿り着き、最適解を模索するしかない。
そして、「変わりたい」「強くなりたい」という願望は、『今この瞬間を否定する』思考でもある為、似たような弱者たちの反感を買いやすく、ちょっとした揉め事に繋がりやすい。
一例を出すと、弱者界隈の者たちに言わせれば、『自己責任論』『努力論』は、耳にするのもおぞましいツートップのワードだろう。
ただし、歯を食いしばって勝負に打って出なければ、一生変われない……可能性の芽を摘んでしまいかねない……ってのもまた確かな話であり、『他者への配慮』『過度な優しさ』ばかりまき散らしていると、人生がでろでろに腐ってゆく。
だからこそ、ファイトクラブの名言――【ワークアウトは自慰行為だ。男なら自己破壊を】よろしく、フルスイングで開き直って、「人生は自己責任だ!」「負け犬のままで終わりたくない!」と力強く叫び、ハイリスクな一歩を踏み出すしかない。
というのも、代表的な弱者属性――鬱で貧乏などに苛まれると、余裕がなくて選択肢を増やせない中で、鬱々しさと甘えが混ぜこぜになり、ちょっとやそっとでは抜け出せない、転落の日々に陥りがちだ。
そんな絶望の境遇から、むりやり這い出る為には、「こんなところで終わらねぇからよ!」「これは俺様の復讐戦だ!」などと、躁的な攻撃性のエネルギーが必要になってくる。
寺山修司も『書を捨てよ、町へ出よう』の中で、【勝負の世界で、何よりも大きな武器は「不幸」ということである。これは「何が何でも勝たねばならぬ」というエネルギーを生み出す力になる】と書いているように、どん底の寒さを思い知ったうえで、這い上がる熱量を高める事が、下の下の下の住人には求められる。
そもそも論、ただでさえ深刻な格差社会――ガチモンの弱者のみならず、中流層以上の人々にしても、「途中で足を止めたら終わる……」という、止まらない不安に追われ、みんなぎりぎりで生きている。
であるから、ハンディキャップだらけの弱者が、「もっと稼ぎたい」だとか、「もっと可愛い子を獲得したい」だとか、そういった夢を叶える為には、それなりの自己犠牲が必要になる。
いつまでも、おんおんと泣きじゃくって、お金や愛を得られるのは、それなりの性的魅力を持った女子だけだろう。
その他の者たち――大多数の男や、ノンセクシーな女は、あくまでも自分の力でもって、人生を切り開いてゆく他ない。
その過程で、脳内分泌物のバランスが崩れ、とんでもない気分屋になり、周囲に当たり散らしてしまったり……、かと思いきや、頭を抱えて自虐し始めたりと、ぐっちゃぐちゃな時間もやって来るだろう。
そして、精神的コストを使い果たして、脳も心もすっかすかになって、飢えた獣のようにピリピリとしてしまい、「なんだこの性根が腐った野郎は?」などと、周囲に呆れられ、見捨てられ、嫌われキャラになってしまったりする。
やはり、世界中のみんなが、要領が良くて、人に愛されやすくて、スムーズに人生を渡り歩ける訳じゃない。
人類社会に立ち向かって、一所懸命に努力した結果……、ひたすら空回りしてしまって、全てを失うなんて実例も、この世の中には腐るほどに存在する。
とくにこの日本社会は、ひとたび転落して、ブランクが空いてしまえば、誰でも入社可能で民度の低い、精神的に疲れる企業ばかりで、働く羽目になりがちだ。
すると、文化レベルの低い同僚に、悪口や陰口を付き合わされたり、ある日、盗難被害が発生したり、急に大量離職が起きたりと、安心とは程遠い……劣悪な環境で生きる事になる。
そんなときには大抵、ムカツキのオーラを解き放ちつつ、下剋上精神が強化されて、「こんな腐った場所から抜け出してぇ!」と、浮き足立ってしまい、半ばパニック状態である。
BTTFって誰でも知ってる名作として真っ先に挙げられがちっぽいけど、おれはちょっと違和感を覚える。
もちろん超有名作品だし面白いんだけど、真っ先に挙がるベタなチョイスか?って言われたらスターウォーズとかインディジョーンズとかが真っ先に来ない?って思う。それかバットマンとかスパイダーマン辺りか。キャラもアイコニックだし。BTTFもデロリアンとか十分アイコニックではあるけど。
気持ち的にはそこから半歩後ろくらいのダイハードなりランボーなりマトリックスなりの有名作と並ぶくらいの感じな気がする。それかショーシャンクとかシャイニングとかファイトクラブとか、映画好き1年生っぽいラインとの狭間くらいか。
最近どっかでMCUのスパイダーマンがデススター作ってたのは老人向けの好感度稼ぎじゃね、みたいな事書いてあってウソやんって思った。その辺はおれがガキの頃DVDで何遍も観まくってたという個人的な環境の問題なのかもしれない。まあそれ言ったら全部個人の感覚なんだけど。
小学生の頃によく母と一緒にGEO行って映画借りてたけど、クレしんで見たタイトル以外にどれがメジャーどころの映画なんて分からんから親のチョイスをアテにしてたかもしれない。最新の話題作はテレビとかでなんとなく分かるけど、新作高いからあんまり借りさせてもらえんかったし。
そういう親世代の好みの影響を強く受けてんのかもしれないし、おれはちょっとズレているのかもしれない。いやでもBTTFも親世代だろうけど割と後手に回ってた気がする。単に親の好みだったんだろうか。金ローでも観た記憶はない。
親の影響を離れてネットの受け売りを語るようになってからも、自我を持ち始めて自分の好みで漁るようになり始めてからもこの感覚はあんまり変わらない。
人には言えないことは誰しも抱えてるだろう。
自分もその一人だ。
実は覚せい剤を吸ってるとか、実は鼻くそを壁に塗り付ける趣味があるとか、正直やめた方がいいこっそりやってる事は存在する。
しかし、人には言えないけどやることで自分に多大なメリットをもたらす、言えないだけで自分にメリットしかないものも存在する。
1つ目は、汚れたり臭くならない限り、風呂に入らない、顔を洗わないというものだ。
30代になり皮脂が出にくくなった結果、風呂や洗顔によって顔が荒れることが多くなった。
当然匂うので、人に会う時は腋や耳元などは洗うが最小限だ。
メイクをした日、人と会う前日に洗うようにしていれば、ほぼ週4~5体を洗わざるを得なくなる。これでも多い方。
洗った時は化粧水と保湿剤を使いまくる。これでなんで肌きれいなの?と言われるようになった。
もう一つは、髪の毛に顔の脂や頭皮の皮脂を塗り込むことだ。
正直今も抵抗があるけれど、椿油とかホホバとかオリーブオイルをやるより格段に良い。肌も頭皮も荒れない。
風呂に入らないと頭皮がギトギトになるが、それを髪の毛に塗り込む。
人と会う前日に石鹸シャンプーをすると、丁度いい艶になる。
なんでそんな髪サラサラできれいなの?とよく聞かれるが、「風呂入らなかった分の頭皮塗り込んでます」なんて言えない。
時折頭皮が痒くなったり、ニキビができる兆候ができるので、その時はしっかり皮脂をオフする。その際髪の毛は少し脂が残る程度しか洗わない。
自然派とかでも何でもなく、これが一番コスパが良くて自分に合ってる。
無性にファイト・クラブを観たくなった。やっぱり面白かった。プライムでもサブリミナルチンポは無修正だった。
エクソシストもそうだけど、あれってサブリミナルというにはハッキリ写しすぎじゃねって思う。ちょっと再生ボタン連打すれば捕まえられるし。なんか写りこんだ?というのも認識出来ないレベルで挟み込んで無意識に刷り込むみたいな話じゃなかったっけ。ファイトクラブの方はまあ作中でも言及されてるし、演出に気付いてもらわないと困るのかもしれんけど。
電話がタイラー・ダーデンと繋がるツールになってたり、廃屋のキッチンで二人が同じ画面に収まらないシーン(タイラーが部屋から出た瞬間にエドワード・ノートンが入ってるとこ。逆かも)を見て、ジョジョのドッピオを鮮烈に思い出した。元ネタはこれなのかもしれないなって思った。メメントとかもまんま取り入れてたし。
前観た時は深く考えず、単にストレス由来かなんかの二重人格なんだなあくらいに思ってた。今回はドッピオとディアボロの関係を踏まえると非常に腹落ちした。エドワード・ノートンのこうありたい自分という願望がもう一人の人格として形を持ったんだなって。
気弱な優男風のエドワード・ノートンに対して、同じ身体を持つはずのブラッド・ピットが容姿といいファッションといい真逆なマチスモを体現してるのも腑に落ちる。ドッピオも体型が本当に変わってたし。
ブランド品での気晴らしに埋没する妥協と、夢をごまかす学生に銃を突きつけて本気で取り組めと脅すような破壊願望。理想的な自己実現(?)や欲求への誠実さと、社会性(敢えて良心とは言いたくない)の二項対立。「愛」は前者のようでも後者のようでもある。
前もネットの受け売りの視点で消費社会がよォ……みたいな見方はしていたけど、もっと肌感覚レベルで一人の人間の葛藤の物語なんだなって思えた。結局爆破はするけど……