はてなキーワード: お笑い芸人とは
夫が私にしてくる話が、ま〜〜あつまらない。
起承転結や爆笑オチをつけられるような話術がある方じゃないけれど、
夫の話は、夫が面白いと思ったものをとりあえず私に共有するだけ
(どこが面白い、自分はこう思ったという説明はない)だから、本当につまらない。
参考程度に夫が私にしてくる話題一覧
…以上!
書き出してみて少なすぎてびっくりした。
以前はもう少し、話にバリエーションがあった。
原因は今の仕事が忙しい&テレワークで、毎日家で過ごす時間があまりに多いことだと思う。
オススメ合いとかしたい。
でも夫も疲れてるから、無理に一緒に楽しんでとは言えない。
娘の彼氏が芸人なのは知っていたが、先日とうとう結婚相手として紹介された。きっつい。将来有望な若手とかならともかく、それなりの芸歴で売れていない。
俺と妻はお笑いが共通の趣味で付き合って結婚した。今でも一緒にライブや賞レースの予選を観に行くくらいには夫婦揃ってお笑いが好きだ。だからか娘は「お母さんもお父さんも応援してくれる」と信じてやまない。
錦鯉がM-1優勝なんてするから、フジテレビがTHE SECONDなんて始めるから、才能の片鱗すらない人間たちが努力を先延ばしにして一生夢を追い続けてしまう。
俺は娘の彼氏だと知るよりも前から彼が出演しているライブを何度か観たことがあるが、若手の頃から今まで、変わり映えしないネタをずっとやっている。あれじゃ一生売れない。
「今は賞レースに本気で取り組みたいと思っていて、今はバイトとか減らして、恥ずかしいんですが娘さんのお世話になってます」なんて言っていた。よく娘の親の前でそんなことが言えるな。ネタ合わせもせずパチスロ行ってるの知ってるぞ。お前のTwitter見てるぞ。
娘は彼を本気で養う気もなさそうだ。「いざとなったらお父さんに頼ろう」きっとそう考えている。昔からそういう子だった。
二人で協力して幸せになってほしいと伝えた。同時に、どんなことがあっても一銭の援助もすることはできないとも伝えた。実感なさげに頷く娘の隣で「どうしてもの時はお願いしまっす」と苦笑いする男の姿は頼りないの一言でしか表現できない。
彼の実家が貧乏だということは知っている。万が一にも食いっぱぐれた娘を養うならともかく、娘の夫を養う気はさらさらない。
だが俺に娘の結婚を反対する権利はない。婚姻は、両性の合意のみに基いて成立するからだ。俺がどれだけ「認めない」と言ったとしても、婚姻届さえ出せば二人は夫婦になれる。
そもそも娘がお笑い芸人と付き合ったのは、俺と妻の影響が大きいのだろう。今更考えてももうどうしようもないが、もし過去に戻れるなら、初めて家族三人で吉本新喜劇を観に行ってしまった日を選ぶだろう。
アホの娘がアホの男に引っかかり、アホな考えのまま結婚する。
そしてもちろん、それに苛つきこんなところに吐き出す俺もアホだ。
情けない限り。いい歳して、涙が出る。
・猫とおっさんがシンクロすることで徐々におっさんが可愛く見えてくる
・逆に猫がおっさんに見えてくる
→ねこおじの存在と、社長の存在だけでユーモアが足りるので強い
・恋愛要素なし、ホモ要素なし、なんなら愛情要素もありそうですれ違ってるところが良い
・いけおじ
・ちょうどいい
なんというか
アイディア一発だと思いきや
非常に安定して繊細なことやってると思う
「かわいい猫とキモいおっさん」という構図だから、おっさんはキモくなきゃいけないわけなんだけど
社長と猫(おじさんとおじさん)同士が見つめ合うとか、ともすれば気味が悪くなるようなシーンでも、目線をはずすなど工夫して「なんかギリ食べれる」みたいな感じになってる
これを読んで思い出した。
山内さんが自宅マンションの1階でエレベーターを待っていたときのこと。先に待っていた女性がいたが、「なんでか分からない...警戒されたんでしょうけど。なんか『どうぞ』って言って俺乗せて、その人乗ってこなかったんです」。
濱家さんは「夜、2人なのが怖かったとか?」と推測。山内さんは、
「俺のこと疑ってるやんけ!と思って。1回、自分の部屋の5階まで行ったんですけど、もう1回降りてったろと」
と、その後の行動を伝える。出演女性らから悲鳴や「怖い」などの声があがり、出演したお笑い芸人の劇団ひとりさんも「なんでそんなことすんだよ!」と驚きを示す。
山内さんは動機を「(ドアが)開いた時に向こうどんな顔するのかなと思って」とする。結局、女性はいなかったという。心霊体験だったのかと怯える姿で笑いを誘った。
エレベーター待ちの女性にまさかの行動 かまいたち山内のイタズラに「一線超えた」「笑えない」: J-CAST ニュース【全文表示】
これに対し山内さんのとった行動は女性への加害的だと非難が巻き起こった。
でもさ、これ何よりもまず山内さんは傷ついたんだと思うんだよね。
本人は決してそう言わないだろうけど。
何もしてないのに疑われた、警戒されたと感じて、傷ついた。
人生でなにか疑いの目を向けられた経験があれば思い出してほしい。
あの嫌な感覚、不快感、恐怖、理不尽への怒り、泣きたくなるような悲しさ。
ささやかなことで、相手に悪気がないとわかっていても消えない心のわだかまり。
そういうものを彼は感じたんじゃないだろうか。
「はてな村」と揶揄されるくらい閉鎖的なサービスだが、それにしてもこれだけ外で話題にされないというのはちょっと異常だと思う。
インターネットに触れる人はどんどん増えているのに、はてブユーザーはずっと一定の人だけ居続けている。
2005年開設でネットサービスでは古参の域に入り、ニュース・読み物系のサイトのシェアボタン欄では、XやFacebookの隣にしれっと居続けている。
でもテレビ・雑誌で「今はてなで話題!」「これはてブで知ったんですけど…」という文言はまず聞かない。
自分はお笑いが好きなのでよくYouTubeでお笑い芸人のチャンネルを見るが、「この悪口、誰の5chスレッドでしょう」「ひどいヤフコメを見てみよう」というアンチコメントを逆手に取った企画がたまにある。
なのに「クイズ!誰のニュースのブコメ?」なんて企画は見たことない。
ブクマカは「バラエティ番組はバカの見るもの」「芸能界は腐ってる」という意見を持つ人がゴロゴロいる(個人的な偏見)のでネタには困らないはずなのに。
下手すると知名度もない。
街の人に「はてなブックマークって知ってますか?」と聞いても「『B!』って書いてあるボタンのやつ」「『保育園落ちた』のところ」ぐらいが関の山だろう。
「ブコメよく書いてます!」「ホッテントリ毎日チェックしてます!」なんて人はたぶん1万人は聞かないと見つからない。
2018年にはユーザー間のいざこざで殺人事件まで起きたのに、「やばいサイト」という印象すら持たれてない。
それでも、偏見と先鋭化した政治的見解としょうもないダジャレとまともな意見(少数)が毎日毎日投稿され続けている。
俺ら、見られてないのに何をずっとやってるんだ?
「この前吉本新喜劇を見に行ったけど何度も同じことをしていて全く面白さが分からない。なにが面白いのか」という意見をいただいたので、生まれも育ちも大阪の増田から、これに対する回答を書いてみたい。
結論から言うと「吉本新喜劇は面白いか面白くないかを判定しに行く場所ではなく、みんなで同じノリを共有し、楽しむ場所である。吉本新喜劇の価値は、関西圏内に住んでいる人間であれば老若男女誰でもわかるボケとツッコミのセットを発信し続け、それを文化として確立させているところにある。」と増田は考えている。
まず増田は生まれも育ちも大阪であるが、関西の人間が吉本新喜劇を見て笑い転げ、毎週楽しみに見ているかと言えば全くそんなことはない。最後に見たのが何年前か分からないし、なんなら見慣れてオチも全て分かっているのでテレビで一人で見るときなんかは普通に真顔である。
関東の知人が言う「何回も同じことをしていて面白くない」については、たしかに同意できるところはある。
たとえば「邪魔するで〜」「邪魔するなら帰って」「はいよ〜」の流れを知らない関西人はいないのではないだろうか。この流れのセットは増田が物心ついたときから、今現在いい大人になるまで最低でも約20年くらいは吉本新喜劇内で繰り返されている。
この流れを知らない関西人がいないということはつまり、老若男女関西人のほぼ全員が「邪魔するで〜」がボケだとわかり、「邪魔するなら帰って」がそれに対するツッコミ(ボケか?)とわかり、笑いが生まれるということである。
これって結構すごいことではないだろうか?
だれしも生きていれば色んなコミュニティに属し、コミュニティ内での定番のノリなどがあると思うが、コミュニティ内の人間にしか通じなく、例えばコミュニティ外の人が同席していた場合、その人間はポカンとなってしまう。
はたまた、お笑い芸人の定番のツッコミなんかが流行ることもあるが(最近だと千鳥の「シンプルに口がくせぇ」とかだろうか。最近ではないね)、ほぼ一年単位で入れ替わり、かつなかなか老若男女全員か知ってるとは言いづらく、若者間で通用しても中年以降は全く知らないといったことも普通にある。
それに対し、吉本新喜劇内で行われているボケ、ツッコミは、老若男女、知人初対面関係なく通用するノリなのだ。
吉本新喜劇は劇を通し、その定番と言われるボケ、ツッコミの流れを数十年にわたり発信し続け、関西圏内に定着させ、それを文化として確立させている。
ちなみに関西人のノリの良さや、あらゆる場でも笑いを作る貪欲さみたいなのも、この誰しもが共有できる笑いがあることが起因しているのではないかと考えている。
吉本新喜劇はいわゆる漫才のように、新しいネタを期待し、面白いか面白くないかの判断をする場ではなく、老若男女関係なくみんなで同じノリを共有する場。それを文化としてきちんと確立させているところに価値がある。
この投稿を読んで、関西に無縁だった方々にも吉本新喜劇を楽しんでもらえると、さらには関西を好きになってもらえると、増田としてはとても嬉しい。
お茶の間のテレビでは一般的に広まっている美の基準とはかけ離れているような女性のお笑い芸人が出ている。
女性のお笑い芸人はなぜ容姿が美しいといわれる人が少ないのか。
なぜ太っている人が目立つのか。多分、深層心理で見下して笑っている人が多いからだろう。
アイドルでも、その中で所謂ブサイクと言われている人たちは、ネタ枠に入らざるを得なくなるのか
美系をもてはやし、不細工はその引き立て役で
不細工で愛想悪いのは許されない。
全然笑えない。
顔で受け入れられないなら、キャラクターで勝負するという戦略だろうか。
多様性多様性という割に、映画やドラマは美形で同じ役者ばかりだ。同じ音楽ばかりだ。
何様なのだろう。
草彅剛が出演するドラマや映画は、パッとしないような役者陣で周囲が固められる。
顔が派手じゃないからだ。
人は劇中の役割の中に、あてはめられていく。
という、どこかで聞いた事のあるキャッチコピー。
「輝ける、輝いている」それは主観?
自分の立ち位置を正しく認識し、全てを諦めないと、そんな風に思えないだろう。
大人になるということは、色々なことを諦めるということ?
「スポーツ選手になりたい人」が相対的で絶対的な能力を正しく認識することができなくなり
諦めない!とずっとスポーツ一点集中し、身体を壊しても、ずっとずっと走り続けなければならなくなる。