はてなキーワード: お客様は神様ですとは
日本の「お客様は神様です」という風潮と、「誰かが何とかしてくれる」という風潮が嫌い。
ニーズに応えたくても、こちらはそのような能力も知識もありません、と言いたい例が多すぎる。例えば、特別支援学級に行かせたくないから家庭教師、特別支援学級に行っていても勉強に遅れを取らせたくないと言っているおうちがあったりするんだけど、こっちは生徒の特質を完璧に見抜けるわけでもなく、詳しく訊くことも出来ない。
そもそも説明に行っている人間が、学習障害の知識もない、と言うレベル。私自身も最近勉強するようになったくらいだ。
これから夏休みをきっかけに、家庭教師を頼む人は増えると思うけど、良い会社、良い家庭教師ばかりじゃないから気をつけてください、と言うしかない。また、子供の勉強嫌いや、興味のなさは、親が思っているより遥かに深刻で、どうにもならないことだと思ったほうがいい。努力はダサい、めんどくさい、ラクしたい、もっと楽しいことがある、子供はそう言うから。それに、高校行って、偏差値が高い大学に行けば将来安泰、というレールはとっくの昔に崩壊してますしね。
優等生が肯定される時代は、もう終わったのかもしれない。SNSに加工した写真を載せれば、簡単にいいねがもらえるのだから。リアルでコツコツ勉強するより、ネットに逃げて、賞賛されるほうが楽しいと思うんですよ。
ネットに逃げないコツは、ちゃんと子供と向き合うこと、子供のいる環境を理解すること、そこまですれば、彼らに必要な勉強方法もなんとなくわかる気がするのですが、気のせいでしょうか。
ちなみにスマホ1台あれば、YouTubeの勉強を教える動画も見られますし、色んな学習アプリが使えます。それもわかっていてほしいですね。
社会に出ると自己中心的で、公平や公正なんてものに興味がなく、人から搾取することを悪と考えない、考えようとしない人で溢れている。
彼らが正常として扱われ、全体の改善を提言するとめんどくさい人間として扱われる。
「真面目すぎる」という言葉は、「お客様は神様です」や「万引き」と同じくらい社会に害を与えた言葉だろう。
丸く収まっているからいいじゃんって考えが強く、その尻拭いをさせられている人の立場を考えるように言っても聞く耳を持たない。
いい人は都合のいい人っていう表現はその通りで、自分のメリットデメリットでしか物事を見ようとしない。
そんな社会の中で、事大主義的な振る舞いをして同調し、誰かにめんどうを押し付ければ割といい待遇で生きていけるのはわかっている。
ガキの頃はそういう側面があったけど気づいていなかったからできていたし、今でも物理的にはやろうと思えばやれる。
でも、そんな理不尽を解消しないやり方って虚しくないのだろうか。
誰かに迷惑をかけてしまうくらいなら、引きこもって現実逃避をしたくなる。
安楽死でもなんでもしてさっさとこの醜い世界から抜けたいと思う。
なぜ誰も解決しようとしないのか、なぜ学ぼうとしないのか、なぜ寄り添い考えようとしないのか。
おそらく現代は、高度に進んだ未来の人間から見れば狂ってて頭の悪い人間が跋扈している野蛮な時代に思われているだろう。
力を持った人たちが場当たりな快楽を追求するのではなく、余裕があるからこその行動を見せて欲しいし、自分もそうなりたかった。
そうなれなかった自分が悔しくて仕方がない。
誰もがしってる世界的な企業と仕事してるんだが、相手がなかなか要求仕様をだしてこない。
納期から逆算して「ここまでに要求仕様を固めて欲しいし、それ以降になると責任持てない」という話をしてるのに結構な頻度でそこより遅れてくる。
お金の面でも損するから、ここまでに要求仕様出してこなかったら契約条件見直しするとかできないのかと上司と話してるんだけど、
日本(というか今の職場)では契約に基づいてドライに対応するより、契約外の阿吽の呼吸でお客様は神様です的な対応して
次の受注につなげることを求められているのかもしれない。
私からみればPJが納期間際にドタバタするのって、どう考えても上流でおかしなことになってるからだと思うんだけど、
上司はその辺にはメス入れずに下流工程に問題があるような言い方する。それって、どうなってるんだろうな?
上の上は何考えてるんだろう。
良くある話っちゃよくある話かもしれん。
父親が育児に参加できなくてATMマシーンと化すしかない日本の社会は本当にクソだなと自分も思う。
そして追い詰められる母親とセットだったりしてな。
小さい子どもを抱え家にこもりきりになる専業主婦でも、保育園に預けて働きながらでも、どちらにしても子どもが乳幼児期の時期に育児をゆっくり楽しむどころではないのが一般的な気がする。個人的には子どもが小さい頃ってかけがえのない家族の1ページだと思うんだけどな。日々成長していく子どもを両親がしっかりと見守れないなんて、何か間違っている。
どうしてそういう社会なのか少し考えてみよう。
幸福度が高い国のいくつかに行ったことがある人ならすぐに感じることかもしれないけれど、そういう国は休日にはあらゆる店がきっちり閉まってることが多い。
だから少しその国で過ごすと、休日の前にはこちらもあらかじめやるべきことを済ませておくようになる。
また夜も早くに閉まる。サービスは24時間体制ではなく、限られた時間のみで提供している社会がそこにはある。
何かトラブルがあってクレームを入れても迅速には対応されないし、注文したものはすぐには届かない。それは不便かもしれない。
でもヒューマンリソースは限られたものであると国民みんなが知っている。且つ個人の生活は守られるもの、歯車の一つとしてすり減らされるべきではないものともみんなが認識している。
個々人は家庭での時間を大事にするし、社会もそれを前提に成り立っていて、結果として国の幸福度が高くなる。
対して日本はどうか?それは皆がよく知っているところであろう。
思うに日本は過剰なサービスを安価で提供しすぎなのだと思う。いずれの会社のサービスにも、それを提供する個人に完璧を求めすぎなのだ。対して賃金はその労働力に見合った適正な価格には反映されない。結果、個人は磨り減るし、今の日本ができあがっているというわけなのだろう。
休日にはしっかり休む社会、夜は家で過ごせるように労働時間が配分されている社会、その実現ができない限り、現状は変わらないのだろう。
しかし便利さに慣れすぎた日本人に不便さを選択することはできるのだろうか?お客様は神様ですとか言ってた日本人への巨大ブーメランなんだろうといつも感じている。
毎日歩いている道路の横に、某ファーストフード店がある。某MS店。
某M店は地域から撤退、ハンバーガーを扱うファーストフードとしては周辺ではこの店のみ。
私が知っている限りMS店では、店舗入口に看板を設置していて、店員が書いたと思われる皆様へのメッセージ――あるいは物事への感想――が書かれている。
ある店舗では「映画を見に行く」と伝えていたり、ネット上ではテレビ番組の感想を絵付きで紹介している看板を画像付きで紹介していたり、
ハンバーガーとは一切関係無い、どこに需要があるのかは分からないがなぜか読んでしまう文章が日々どの店舗でも更新されている様だ。
しかし、この地域の店舗ではいつも体調の変化しか心配していない。(毎日見ている訳でも無い気がしてきたがまぁいい)
ある暑い夏の日、「今日は温度が高くなる様です、熱中症に気をつけてください。(以下店舗の宣伝だったような気がする)」。
またある寒くなってきた秋のある日、「今日からだんだんと寒くなってくるみたいです。急激な温度変化もあるかもしれないので体調管理の徹底を!!」。
そして冬のある日「いよいよ冬って感じですね(中略)体調を整えて3連休を楽しみましょう!!」。
なぜ、体調ばかり心配しているのか。MS店の健康志向な商品のせいなのか、それとも「お客様は神様です」――クレーマーが発生する前に対応する――という精神が働いているからか。
日本人という生きもの(今日の主語)は神の愛を知らないものですから、基本的に愛だの幸せだの権利だのセックスだのはすべて金で買えると考えています。
というか、金でもって費やした額でしか、ある対象についての愛情を定量的に推し量るすべはないわけです。ないと考えられているわけです。
それはまあ、しょうがないです。
問題は、日本人という生きもの(以下、私たち)が暴力を行使する権利までも手放したコインの重量で決定されると思い込んでいることで、この手の信仰は倫理的にただしくないよと活字上では言えたとしても、現実生活で意識するのはなかなかにむずかしい。
たとえばファミレスのバイト店員のサービスが悪い。マックの店員の笑顔に嘲りが含まれている。デパ地下で購入したおかきにひびが入っていた。
これらはすべて担当者をゲザらせるに足る理由となりえるように私たちには思えます。むしろ、膝をついて頭に床につけて誠心誠意詫びを尽くし、その上でこちらの懐に「どうかこれでお納めを……」と年間無料パス的なサムシングを忍ばせる以外にどんな解決法がありうるというのか。私たちにはそうした謝罪を受ける権利があるのではないか。だって金を払ったんだから。
そうですね、その主張はただしい。
圧倒的に正しい。
「お客様は神様です」という慣用句を三波春夫が本来どんな意味や文脈で用いたとしても、RTで大炎上時代を生きる我々の目には「お客様=GOD」という極めて自明で論理的な構文にしか映りません。
それでいいんです。
販売者に手落ちがあったら徹底的に責めればよろしい。土下座でも営業停止でもなんでものませればいい。
で、本題に戻ります。
では、同じコンテンツを嗜んでいる他のユーザーまで殴っていいのか?
試食コーナーに提供されたおかきをポリポリ食って訳知り顔で「やっぱ関西人はおかきの作り方を知らんわ。赤坂柿山の爪の垢を煎じて飲めよ」とコメントしたおばあちゃんにカチンときたからといって、ひざげりを食らわす権利は私たちにあるのか?
あまつさえ、そのばばあがくるりとこちらをむいて、「あんたみたいな嫁き遅れにおかきの味がわかるんかい?」とからまれ、その時に、相手のしわくちゃ面が先日見合いしたアンパンマンみたいな顔をした地方公務員の母親に酷似しているのに気づいて大変に不愉快な思いをしたとしても、手をあげてはいけないのか?
汝が隣人を愛せよ。
「オタ仲間同士は性別やこじらせ具合を越えて仲良くせよ」というゴッドの教えです。
神の教えです。
神がいないので倫理がありません。
だから殴ってもいいんです。本当のところ、私たちの暴力に理由なんていらないのです。
理由なんてものは二千字のレポートを要求された大学生にとっての最後の二百字にすぎません。
埋草なのです。冗言なのです。意味なんてないんです。
「私はコンテンツに対して人一倍金を払っているので、忠誠心に劣る他のユーザーを殴る権利がある」?
「私はコンテンツに対して人一番時間を費やしているので、理解に劣る他のユーザーを貶す権利がある」?
単なる文字列です。
なぜ私たちが他人を殴れるかといったら、殴っているから、殴ったから、殴るであろうから、それだけでしかないんです。
オタクの世界はすべてアクションで構成されています。言葉はなんの力もありません。言葉はなにも生み出しません。
ここはすでにファイトクラブです。人は人にすぎず、出来事は出来事にすぎない。インターネット以前から、twitter以前から。
私事ですが、最近サブ垢を、twitterのサブ垢を消しました。
Facebookアカウントなんて最初から持っていません。LINEもやってません、といいたいところですが、極めて遺憾なことに現代社会の必須ツールです。
私たちは夜毎夜ごとにあなたたちのブックマーク一覧を巡回する死せるオフィーリアです。
永遠の命が欲しいならまず死ぬことです。おまえはタイラー・ダーデンと知り合いか、ちかごろ私たちはよくそう聞かれます。
喜びは本編BD一巻分の値段です。
蔑みは作っている本人たちすらももうなんのためにどういう理由があって作ろうとしたのかわからないサブキャラのネタフィギュアの値段です。
いつものように難癖をつけて泣き土下座させているガストのバイトこそ、輝ける運命の人なのだといつか突然気づきます。
その人は、ひとしきり泣いたあと、はれぼったいまぶたをごしごしとこすりながらきっとこう言います。
「理解して」
「逃れられる」
「墜落を回避できる」
「そのために、話して」
このへんかな?
http://togetter.com/li/375242 -- 「お客様は神様です」 ←これは店が使う言葉。客が使ってはいけない-togetter
対応ねぇ。もしかして、「お客様は神様です」という例のアレを本気で信じ込んでいるのかな?(ちなみにアレは間違いなんだけどね。言い出した本人自らが否定しているのは有名な話)
まーた過大解釈か。いっつも極論に走って否定するよな。
乙武のツイートを見ている限りには、ぞんざいに扱われたことに腹がたったんだろ。普通に「人手が足りなくてサポート出来ません。すみません」といえば済む話だったろ。乙武も無理やり、お店の人に手を貸してもらい、2階まで誘導し、店のスペースを開けてくれなんて思ってないだろ。
たった、一言。態度で不備を詫びればよかった話だ。こんなもん店側の負担でも何でもない。客商売してたら常識だろ。お前みたいに極端に考える奴がいるから「お客様は神様です」思考が抜けねーんだよ