はてなキーワード: 禁酒法とは
医師『アルコール依存症を診察すると10人中11人はストロングゼロを飲んでいるってくらいに、みんな飲んでる』
https://togetter.com/li/1451723
医者「ストロングゼロの健康被害がちょっとシャレにならなくなってきた」
https://togetter.com/li/1450377
18世紀イギリスのジンと21世紀日本のストロングゼロの共通点→狂気のジン時代の話や今後の流れの予想など
https://togetter.com/li/1452197
薬物をやって服役してた人に「出所後一番楽しかったことは?」と聞いたら「ストロングゼロだな!あれほぼシャブだな!」と返ってきた
https://togetter.com/li/1451530
一人多いと言う突っ込みで草。
個人的にはこの手の安易に結論を導き出して、短絡的に規制を訴える様な話は信用しないようにしている。
そもそもアル中がどうこう言っているけど、値段が安い酒であるコレが悪目立ちしているのも普通にあるでしょ。
酒税の関係や不景気も不景気で経済も底に穴が空いた状態だから、他の酒に手が出しにくくなる現状は実際にあるだろうよ。
何か村正が呪われた刀であると言うのと同じ論法を用いている気がするなぁ。
これで値段が安いから酒税やらを上げろと言う動きをすれば、それこそ発泡酒と同じで酒造メーカーやユーザーに普通に喧嘩を売る事になる訳だけどね。
それとエタノールは有害だから安易に規制と言う結論を導き出している連中の方がどうかしていると思う。
そもそも350ml×3=1050mlだし、500ml×3=1500mlなのだから、酔う人は普通に酔うでしょ。
チューハイと言えども9%あるのだし、3%と言う弱い度数でも量を飲めば普通に酔うのは当たり前。
体質的に弱くて、酔う人ならば1本飲まなくても普通に度数の弱いどんなお酒でも酔うでしょうに。
しかしこれ普通にキリスト系やその周辺のカルトの匂いがするのは気のせいかね?
何せ少し前にも児童ポルノ関係の話題でも全く関係ない漫画等の創作物を児童ポルノ扱いをして、規制規制と喚き散らしていた事実があるしな。
ネトウヨが勘違いしないように言っておくと、これ褒めてないからね
それどころか少量の酒は健康にいいとか酒は百薬の長とかエビデンスないデマを流してまで酒を肯定してる
酒がまったく規制されてないどころかYouTubeでもTVCMでもバンバン酒のCMが流れてるのって異常じゃない?
コンビニエロ本や宇崎ちゃんポスターよりも酒の広告が女子供の目につくところにあるのが問題だと思う
酒は完全に規制すべき
こう主張するとアメリカの禁酒法を例にあげて否定してくる奴がいるけど、アメリカは規制が中途半端だから失敗したんだよ
私は酒を飲まないから酒に溺れる人間には同情しないが、それとて禁酒法時代のアメリカや、スターリン時代のロシアの様な警察国家になって欲しいとは微塵も思わない。
うっわ……ほんとにこういうこと書く頭の悪い人いるんだ。ネット世論工作員……
まじで頭大丈夫? もしかして普段からしょっちゅうそんなこと考えて生きているの?
って思ってこの人のブックマークページ見に行ったら安心と安全の「tomozoさんのブックマーク」がついてて安心した。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/magnitude99/
はてなの人なら全員ご存じだろうけど、はてなブックマークには狂った人がたくさんいて、
そういう人に対してtomozoさんという人が「こいつキチガイだから相手にするな」とマークを付けてくださってるんだよね。
日本よ、いい加減オリンピックまでに「ロリコン・ショタコン」をやめないとこの国は全世界から「病的決定」になる。小児性愛はジョークではない、軽いものでもない。「私ショタコンだから」「俺ロリコンだから」と笑顔で言われても「こいつ、今小児性愛を公言したね」となる。海外で言ったら逮捕だよ?— レイチェル・ソーン (@rachel_thorn_jp) 2019年12月16日
何を言っているんだこいつは…。
これで済む話なのにな。
またデータとか出ているなと思ったら、出羽守が現れたからなんだな。
言っちゃ悪いけど、その創作物規制を押し進め、漫画等も児童ポルノに含まれるイギリスではBBCにフィリピンが児童買春に行く程度には実在児童に対する被害が行われているわけだし、アメリカでは創作物規制により、違憲裁判が行われ、ネットでは逆に実在児童被害が増えたせいで、捜査が手に負えなくなって事実上破綻した状態であると言うニュース記事が出ている事から見ても創作物規制が以下に効果がない、またはより犯罪を悪化させただけと言う事を証明したに過ぎないのにな。
またスウェーデンも漫画等の創作物まで含めた事は逆に実在児童保護の手を割く事になると当時の漫画裁判の時に警察が非難していたし、昨今ではカナダの児童保護団体運営しているインターネットホットラインセンターが漫画や絵まで児童ポルノ扱いし、通報したせいで逆に17歳のコスタリカ人の少女が逮捕される事態すら招いている事はProstasiaやうぐいすリボン等も指摘している事なんだけどな。
こいつらフェミ思想の人間が気に入らない点は子供の権利と言うじゃ記者の権利を悪用すれば、世間も反論しにくいから、何でも自分のお気持ちが通ると安易に短絡的に思って、利用している事が態度で判るから本当に腹が立つんだよ。
何せ創作物規制の為なら、平気で児童保護を蔑ろにするのは当時の児童ポルノ禁止法の時に反対派が児童保護団体に予算をつけるべきと指摘したにも関わらず、それを無視して、規制の強化ばかり推し進めた事でも判ったし、国連に関してはブキッキオ氏の件で平気で虚偽のデータを元に日本に圧力をかけてきたり、挙句の果てには国家の許可なしに子供の権利委員会が内々のみで勝手にガイドライン変更の話を押し進め、パブコメにてアメリカや日本、バチカンから条約違反である事を指摘されておきながら、ガイドライン変更を強行した件とか見ても明らかだからな。
更に言えば、その予算がつけなかったせいで、現在山田太郎議員が子供庁の作成に奔走する羽目になっているし、国連の一件ではソウルの会議でProstasiaが国連の人間から創作物は児童ポルノではないと言う言動を引き出した事からもこの一件が奴等の暴走である事が明らかになった事もあるからな。
ラディフェミ団体や宗教系団体に関して言えば、後々の結果からして、実在児童保護に関しては立ち遅らせて、リソースが限られているにも関わらず、それをわざわざ自分達のお気持ちで規制の方に割り、更には児童保護の概念自体歪曲させて、世界中の類似法を歪ませた戦犯も戦犯だから、こいつらフェミこそがいい加減叩かれるべきであり、責任を取らせるべきだと思うよ。
色んな意味で禁酒法を彷彿させて、本気で気分が悪くさせられるよ。
アレもそう言えばキリスト発だったな。
しかし岩渕氏と言い、昨今の美術系の大学教授ってこの手の人間しかいなくなったのか?
もう少し人材を選べよと思う。
性暴力を考える時、米国の禁酒法と同じで、「違法化」したからとも言える。また、規制を強化して性暴力の指定を増やせば、新たな脱法的でより危険な性暴力が流通してしまう。マッチポンプになっているような気がする。
日本の場合、「性暴力を使う人間などいてはならない。いや、あり得ない」ことを前提に、取り締まり強化・規制に重きを置いた対策をとってきたが、問題は一向に解決していない。性暴力違反者の再犯者率が高いのが良い証拠だ。むしろ「いくら取り締まりを強化し、厳罰化しても性暴力をする人間はいる」ことを前提に、需要低減(性暴力の治療・回復支援)の対策を強化する必要がある。
だから性暴力者に罰金をかしたたり刑務所などに閉じ込めたりするのではなく、地域で地元住民の中で回復の姿を見せることが必要だ。だが、特に「性暴力防止教育」は性暴力への恐怖心をあおり、性暴力依存症という障害を抱えた人との社会内共生、包摂的な社会の実現を阻んでいると思う。
ながら運転を考える時、米国の禁酒法と同じで、「違法化」したからとも言える。また、規制を強化して指定ながら運転を増やせば、新たな脱法的でより危険なながら運転が流通してしまう。マッチポンプになっているような気がする。
日本の場合、「ながら運転を使う人間などいてはならない。いや、あり得ない」ことを前提に、取り締まり強化・規制に重きを置いた対策をとってきたが、問題は一向に解決していない。ながら運転違反者の再犯者率が高いのが良い証拠だ。むしろ「いくら取り締まりを強化し、厳罰化してもながら運転をする人間はいる」ことを前提に、需要低減(ながら運転の治療・回復支援)の対策を強化する必要がある。
だからながら運転者に罰金をかしたたり刑務所などに閉じ込めたりするのではなく、地域で地元住民の中で回復の姿を見せることが必要だ。だが、特に「ながら運防止教育」はながら運転への恐怖心をあおり、ながら運転依存症という障害を抱えた人との社会内共生、包摂的な社会の実現を阻んでいると思う。
“スクショ”はOK? 「ダウンロード違法化」で転換…著作権侵害の新たな線引きを文化庁に聞いた
https://www.fnn.jp/posts/00049170HDK/201911272020_FNNjpeditorsroom_HDK
そもそも初めから海賊版がなくならないとか規制ありきでこれからも話を進める様な結論を書いてあるし、読んでいてまんま当時の児童ポルノ禁止法と同じ手法で悪化し続けるから規制の強化をやり続けようと言うような内容で進めようとしているのだなこいつらと言う印象を受けたよ。
そもそもDL規制法自体、音楽界隈や映画界隈の惨状を見ればどうだったか判るのに効果があるとか言える時点でどうかと思う。
まともに対策する気がなくて、規制強化と言う実績が欲しいと言う事が記事からも良く判るよ。
だからこそ裁判に関したプロバイダ責任法改正をすべきと言う声を無視して強行しようとしているんだろうなと読んでいて思った。
厳密にやったら本当にツイッターとかふたばとかネット文化自体壊滅する事になるだろうよ。
そもそも著作権問題も規制ばかり論じられて、フェアユースとか殆ど論じられない構図も当時の児童ポルノ禁止法を彷彿とさせて嫌な気分にさせられる。
見ていて、著作権法と児童ポルノ禁止法はそのうち当時の禁酒法みたいになると思うよ。
読んでいてこいつら文化庁とマスメディアの記者にこそ、このヤマベンの記事を読んでほしいと心の底から思ったよ。
ヤマベンの記事はこれの事ね。
http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2019/10/post-058385.html
本当に笑えない。
ネットに激増している「幼児の性的虐待」の実態 虐待画像や映像の数は過去最高に https://t.co/hweOtVxygg
「捜査は感情的にも心理的にも非常に負担が大きく、やめる人が後を絶たない」。実在児童への性虐待という地獄と向き合うよりは、二次元萌え絵を叩いて回る方が精神的にずっとラクなんだろうな。— ClaraKeene (@clarakeene) 2019年10月23日
こういう悲惨な現実を無視して、二次元規制に血道を上げてるのが国際児童保護団体という連中の実態なんだよ。特にECPATとかがそう。日本でも散々実在児童保護の邪魔したし、国連に創作物規制をさせようとした。https://t.co/PooQxk9tBB— 高村武義 #WalkAway (@tk_takamura) 2019年10月26日
https://toyokeizai.net/articles/-/309872
作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。
コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。
最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。
マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。
禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」
1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。
「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」
1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。
「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」
「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」
「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」
1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。
先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」
1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。
禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。
1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。
ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」
マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。
1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。
「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」
「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」
これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。
1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
────────────
/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
────────────
「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。