はてなキーワード: 反差別とは
今の世界の流れを見ると、罪もないロシア人ひとりひとりがつらい目に合うことで、そこで生じたヘイトが現ロシア政権に向かう、みたいな空気がある
高度に平和ボケした日本で、理想郷の平等社会を信じて価値観をアップデートしきっちゃった我々日本人として、なんだかそれはとても前時代的な行為のようで、価値観が揺らぐような焦燥を覚える
かつて我々の心にも存在した”差別”が再び勢力を取り戻している様子に、魔王の復活を目の当たりにしてるような気持ちになる
でも、なんだか忘れていたのだけどれど、そういえばこれが戦争だったな、という記憶もあった
戦争は駄目なこと、罪のない人々が傷つくから駄目なこと、我々はずっとそう習ってきたし、それを信じてきた
しかしそれは裏を返せば、「戦争になれば必ず誰か罪のない人は傷つくし、命のやり取りをするというのは当然そういうこと」という意味でもあったのだ、と気付く
ロシアの暴挙を許せば、必ず今後の世界でもウクライナの無辜の民が今経験しているようなことが起こり続ける
であれば、そのつらい目に合う人々をロシア人に転換することで、今後の世界を守ろうとするのもひとつの考えだろう
事態が変われば即座に命のやり取りに頭を切り替えられるヨーロッパ人はまさしくいくさ人で、平和ボケしてない民族はこうも即座に反差別の価値観を捨ててロシア人排斥に動けるのか、と、今目の当たりにしていて衝撃を受けている
増田自身は、純粋に差別はいけないこと、今後の世界は差別を捨てるほうに、マイノリティに負担を強いらないほうへ進んでいくんだと無邪気に信じていた
しかしそれは、当然今まで指摘する人もいたわけなのだが、世界が平和だから、マイノリティ許容できる体力があるからこその余裕であり、余裕がなくなれば自分たちの目の届く自分たちの仲間を守るために、その範囲外の人々にどこまでも厳しく当たれるのが、ヤハウェの民だった
田舎者の日本人は、よそ者は村八分で陰湿にいじめるメンタリティしか持ち合わせていなかったが、彼らは即座に命のやり取りに切り替えられるメンタリティだった
増田は心底恐ろしく感じているよ
反差別や融和、マイノリティなんて夢物語だったのか、と今はどこか懐かしさすら覚える
おそらく日本が攻められるようなことがあれば、一切の抵抗なんかできないだろうな、というのは今回痛感した
もうね、メンタリティが違い過ぎる
ロシア人排斥なんか、するのが正義だと言われたって、どうしてもできないよ
当の無辜のロシア人がその流れを許容すらしているのに、日本人がそれについていけないのは滑稽すぎるし、本当に駄目過ぎて愛おし過ぎて、間違いなく今後滅びゆく民なんだな、と感じた
俺としては
「反ツイフェミ」で(男女平等にはなってほしいがツイフェミは罰を与える欲が強すぎる)
「出生肯定主義」で(生物としての本能は軽んじるべきではない)
「SDGs肯定」で(自分の遺伝子を残すのが本能なんだから目的に向かって尽力すべき)
「資本主義には中立」で(碌でもないが民主主義と同じく他に有効な手段がないからしかたなく採用してる)
「反家父長制」で(妻問婚みたいなのでも人間は繁殖できるんだからそれでいいじゃん)
「婚姻制度には中立」で(残したい人は残してそこから自由になりたい人は自由になって選択できればいいじゃん)
「天皇制には中立」(君主制の国家なんて世界に大量にあるしそいつらが軒並滅んでから選択しても遅くない)
だな
一人親について、申し訳ないけど子供が大きくなって一人で入れるようになるまで温泉や銭湯の類は利用しないか、知り合いと一緒に行くしかないんじゃないのかな
★44
一人親や介助を必要とする障害児は、優先的に社会が守っていかなきゃならん対象だろ。
そういう「人権」に比べて「見られるのが嫌という成人のお気持ち」が優先されるべき理由ってなんだよ?
ところで「一人親の子供は温泉に来るな」が社会的に正しい主張なら
「ベビーカーを満員電車に乗せるな」も当然社会的に正しい主張だよね?
むしろも子供の安全を心配している分だけベビーカー排除の方がまだ良識あるかもしれない。
「差別しないなんて人間には無理」と思っているような俺でさえこの程度のことはパッと思いつく。
日ごろから反差別に高い関心を持ち、志の高いコメントを残している、はてなブックマーカー諸氏においては
亀だけどそれはわかる、(フェミニストに限らないけど)フェミニストは一人一派ってのも見た事があるし
フェミニスト兼オタクに対する違和感ってのは、たとえるならトランスジェンダー差別に反対してるフェミニストがTERフェミニストと相互だったり仲良くつるんでるみたいな事をしてるから
萌え豚の癖にマジで萌え規制考えてるタイプをフォローしてんのは、よく反差別が口にする「肉屋を支持する豚」でしかない
だから「自分の頭で考えてんのかな」と思ってる。もちろんフェミニスト兼オタクである事自体は悪いとは思わんけどさぁ……
フェミニストだからって相手を見ずに安易に繋がると、トランスジェンダーに対する態度で割れた時に圧倒的な数と暴言でTERFにボコボコにされた反TERFみたいになるぞ
同い年の従弟(学年は同じだが誕生日は向こうが遅い)は、子どもの頃すげーーいじめっ子の乱暴者だった。
俺も何度か腕脱臼させられたり、額から血ダラダラ出るような怪我させられた。
しかし従弟は中学になってすぐ身長が伸び止まってただのデブになり、腕力<<学力の世界になっていったら見事に逆転し、いじめられっ子になった。
高校は名前さえ書ければ入れる底辺校に進んだがそこはヤンキーの巣窟だったので、むちゃくちゃにいじめられ、中退して以後、引きこもりになった。
それから十数年。
俺は中2の時に従弟の身長を追い越し、それ以来殴られておらず、今はむしろ避けられてる。
……のはずだったが先日、実家にいたら従弟がやって来た。
「署名してくれ」
と言って。
と思って恐々見たら、
『反差別がどうの~』
という宇宙語が書いてあった。
従弟いわく
「俺は女子生徒に差別されたせいで高校を中退させられ人生を破壊されたので女性による男性差別をこの世から撤廃すべく法律を変えたい。
そのための署名活動」
だそうだった。
だが待ってほしい。
従弟を殴ったり蹴ったりパシリにしたのは100%男だった。
中学は俺も同中だったから知ってるが、その時も従弟をいじめたのは男で、
それを指摘したが従弟は聞く耳持たず、俺が署名しないとわかるとわざとカップを倒してドスドス足音たてて帰っていった。
その後、帰宅した妹によると、従弟はまったく同じ主張をSNSでもやっていてしかもかなりの数のフォロワーがいるらしい。
「saebou さん個人宛に攻撃が多発するのは間違ってると思います」と私見を述べたうえで
・自業自得
・SNSを休んだ方が良い
みたいなノリなんだ
SNSの場が双方向性のものであることを理解してて、対外的に攻撃的・批判的であれば、相応の反応があるよねという感じ
的な
・卑劣だ
・攻撃されれば誰でもこうなる
・追い込まれれば心を壊す
みたいな感じで嗤えるんだ
その正義を実現するためなら相手が壊れようが廃業しようが自分たちは被害者
だがネトウヨが行うコメントスクラムや抗議凸は「暴力」で許されず
自分たちの権利が僅かでも侵害されれば中世ジャップランドだと大騒ぎだが
ネトウヨやキモオタが憲法で保障された権利や自由を主張することは失笑ものだと「左派人権弁護士が」主張する
こういうのが行きつく先がウイグルで行われてるような「民族浄化」だよな
アイヌや黒人、ウイグル族を相手にすれば「なんと酷いことだ」という感じになるようなことが、ネトウヨやキモオタ相手なら許されると思ってるからな、あいつら
この10年くらいずっと感じているのは、反差別と反貧困は非常に相性が悪い、もしくはジレンマの関係にあるということ。自分用にメモ。
差別に憤り、差別解消に強い関心のある人たちは、「男性」「日本人」を「強者」「既得権益者」と位置付ける。そのため必然的に、「男性」「日本人」の中にいる貧困や社会的排除(引きこもりなど)に対する関心や同情心は、相対的に弱くなってしまう。そうした問題は大したことではないと言っているわけではもちろんないが、怒りの熱量は差別問題とは開きがあることは否定できない。そのため、反差別の社会運動が盛り上がり、人々の関心や視線がそちらのほうに向けば向くほど、反貧困は相対的に関心が弱まってしまう。
反差別運動は、差別解消の手段として競争的業績主義には基本的に肯定的である。反差別運動が推進してきたアファーマーティブアクションは、まさに機会平等の保証と競争的業績主義の徹底化を目指すものである。しかし競争的業績主義は、他方では経済格差の正当化や貧困自己責任論などの言説を生み出す源にもなっている。なので反差別運動が盛り上がるほど、業績主義がもたらす格差や貧困への問題意識は弱まってしまうことになる。
『サンデーモーニング』に出演している安田菜津紀というジャーナリストをご存知だろうか。良心的な反差別運動の人で、非常に尊敬できる人だと思っているが、兄を過労で亡くすという不幸を経験しているにも関わらず、最近は反差別への熱量に比べて、労働の問題への言及が非常に少なくなっていることが気になっている。この事実に象徴的されているのは、差別の問題への怒りや関心が強くなるほど、労働や貧困の問題一般への関心が相対的に弱まってしまうという構造があることである。
逆に、反貧困・労働運動の側が差別に対する関心があるのかと言えば、はっきり言って弱いと言わざるを得ない。反貧困・労働運動の最前線にいる人のほとんどが暑苦しいほど「男性日本人」であることにも、それは象徴されている。
正直、身体異性スペースに入りたがるのが、「身体男のトランスジェンダー」ばかり見えて、「男の心を持った身体が女のトランスジェンダー」の人の同様の主張が見られない時点で、「区別」の範囲で扱っていいことだと思うけどね。
反差別は差別あってのカウンターなので、排除の声が大きいトランス女性についての方が抵抗する声も大きくなるのは当たり前。
しかし実際のところ、未オペのトランス男性もトランス女性と同様、パス度に応じて男子トイレを使うこともあるし、むしろトイレでオペを条件にしたら一番困るのはオペしてなくてパス度が高いトランス男性。
そもそも、本当に心は女で身体が男なら、チンコ取る前に女のスペースに入ろうと思わないんじゃないかと思う。本当に心が女なら、「心を許した人以外の男性に身体を見られたくない」とか、そういう気持ちがあるはずじゃん。
まず多くのトランス当事者がトイレと風呂を同列に語らないでくれと言ってることは把握してる? あとトイレにおいては、チンコの有無とシス男性と見分けがつくかどうかは直接は関係ないことは理解してる?
トランス排除のやり方がホモフォビアのよく言う「同性愛者はレイプ魔」的な吹聴と同じだからね
ミサンドリー(男性嫌悪)はミソジニー(女性嫌悪)へのカウンターなのに対し
トランス排除は何のカウンターにもなってないどころか、ホモフォビアと仲良くやってるも同然なんよね
しかしそんなトランス排除派のフェミニストとか自称反差別は、個々の問題で見るならホモフォビアの吹聴は偏見であり差別的であると断言し批判できるし、どっかの馬鹿がよく言う「男は足を広げないと座れない」「男は皆レイプ魔」みたいなファンタジーも否定する