はてなキーワード: マイノリティとは
表現の自由戦士はすぐにとらわれの聴衆裁判を持ち出しますが、法律や裁判の話はしていません。
「法律では禁止できないから」とマイノリティ相手に広告の内容を配慮しない社会より、広告の内容がマイノリティのために配慮される社会の方がベターだよねという話をしています
この時期になると駅には「初詣は〇〇へ」という広告が貼り出される。以前はそれを当然だと思ってきたが、冷静に考えればあのような広告は多様性に真っ向から反している、公共の場所に相応しくない広告である。
というのは、『多様性のある社会』が受け入れるべき人々の中には、
「偶像崇拝は間違っている」
「神社を見ると、『日帝による占領時代に神社参拝を強制されて辛かった』という話を祖母から何度も聞いたことを思い出す」
といった人々もいるためだ。
たとえそのような信念や信仰の持ち主であっても、信者を洗脳して高額な寄付をさせていたり、子どもに信仰を押し付け信仰の外との関わりを絶たせるようなことをしていなければ、当然に内心の自由・信教の自由が適用される。
それなのに駅のような不特定多数の人が利用する場に広告があるということは、「我々日本の宗教界や鉄道事業者は、そのような信念・信仰の持ち主には一切配慮しません」と宣言しているのと同じことだ。それは間違っている。多様性が求められる社会であるからこそ、公共の場所での表現はありとあらゆる属性の人が拒絶しない表現しか置くべきではない。
何も「初詣を禁止せよ」「神道や仏教を信仰するな」と言っているのではない。単に、「初詣の広告は公共の場所に相応しくない。ゾーニングした上で行うべき」と言っているだけだ。神社新報や月刊住職に広告を出す分には問題ではない。だから信教の自由を侵害するつもりはない。
心理学実験によれば、マイノリティの意見が集団の意思決定に反映されるためには、半数では足りない。マイノリティ派がその集団の8割を占めないと、かつてのマジョリティの意思決定を覆すことはできないそうだ。
役員が女性ばかりであっても社長が女性ばかりでも当たり前の感覚になってからが、女性蔑視的な過去の価値観の解体のスタートになる。
●大筋では同意できる(「規範」「規範的主張」の理解についてはちょっと違うような気がするけれど)。
●ただ、「前提」として提示されている知識を知らなくても理解できると思う(というか、知っているとかえって混乱しそうな点もある・後述)。「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味が分からなくても、児童虐待がその例であることが読みとれればよいはず(ここがポイントだろう)。すなわち、「児童虐待に反対する人は、全ての人が児童を虐待することに反対するに決まっている」ということは、おそらくほとんどの人が理解できるだろう。そして、それと同じことを(倫理的)ヴィーガンもやっているのだという趣旨が理解できれば、そこで両者に共通する要素が「正義の原理に基づいた規範的主張」だとわかる(ひいては、「正義の原理」の意味もなんとなく推測できるだろう)。これだけで、元ツイート「その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。」への回答としては十分であろう。
●(倫理的)ヴィーガンの主張は功利主義によって正当化されることが多いという知識を考慮し始めると、「正義の原理」という文言にはかえって混乱しそう。というのも、一般的に「正義の原理」と聞けばロールズの正義論を思い浮かべるだろうが、ロールズの正義論は功利主義を批判しているからだ。それに、ロールズのやり方で(倫理的)ヴィーガンの主張が正当化できるのかもちょっとよく分からない。谷口さんが、(おそらく)素人相手にそんなに難しいことを言っているとは考えにくい(もしかしたら本当に難しいことを言っているのかもしれないが)。したがって、この場合の「正義の原理」を「その人の倫理的立場の基礎をなす(一般的な)規範的主張」というぐらいの意味(だと思う)」としているのには(とりあえず)同意できる。
●それと、「書いてあることをその通りに読めばいい」と言っているが、「演繹」という言葉はツイートには出てこないし、「正義の原理」について倫理学の知識がある視点に立ってしまってはいないか。上に書いたように、別に「演繹」という言葉を知らなくても(また、「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味を知らなくても)ツイートの趣旨は十分(推測によって)理解できると思われる。
このまとめ記事(「ヴィーガンは個人の趣味の話などではなく、正義の原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前」 https://togetter.com/li/2013016 )のブコメを見てびっくりしたんだけど、このまとめの中心となっているTarouphoさんのツイートの意味が取れてない人が多過ぎる(いつものことだがね)。
例えば、
TANI_Röhei@赭埴庵 🏴 @Taroupho 何を勘違いしているのか知らんが、ヴィーガンは(少なくともその一部の派閥は)個人の趣味の話などではなく、正義の原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前でしかないのだが。児童虐待に反対する人は、全ての人が児童を虐待することに反対するに決まっている twitter.com/otapediatricia… 2022-12-16 15:26:57
と言うツイート( https://twitter.com/Taroupho/status/1603637788272111616 )があるけど、このツイートが言っているのは(書いてあることをその通りに読めばいいのだが)、
「少なくとも一部のヴィーガンは、彼らが正当だと受け入れている規範的主張から演繹される結論として肉食を否定しているのであって、それを他人に対しても受け入れるよう迫るのは当然である」
ということ(多分)。ここで前提として以下を確認しておく。
以上の点を踏まえれば、先のツイートの内容は大体理解できるだろう。
オタ小児科医 @otapediatrician
その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。 twitter.com/kohakunodarlin…
2022-12-16 05:19:03
要するに、「ヴィーガンが『他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき』と主張しているのがおかしい」という主張に対し、「規範的主張とはそういうものだ」と言っているのであって、今回のまとめのトップにある田村淳のツイートへの直接の言及ではない。そもそも「一部の過激なヴィーガン」の話をしていないということ。
マイノリティのお気持ちはマジョリティにはわからないのだから、とにかくひたすら配慮すべし
今更自分に都合が悪くなったからって配慮を止められるわけがない
当たり前の話なのに
「一般人が」「エンターテイメント的に」「政治的・行政的な問題を追及できる」社会って怖くないですか?
メリットもあるだろうけど、個人的にはエンターテイメント的にやってるところが一番怖い
なんというか暇空氏のツイッター見てると狂気(イタさ?)を感じるんですよね、彼の囲いの熱気と勢いだけで突き進んでるように感じました
いくらcolaboに非があると思っている人間でもあの一連のツイートを共感性羞恥を感じずに見れるのかな?と
これがキッカケとなって今後色々な(嫌いな)マイノリティに見世物的なノリでのアラ探しが始まるんじゃないかと危惧しています
もちろん、今回のcolaboのことは会計監査院やらの判断に委ねますし、暇空氏の主張が正しいということは十分あり得ると思います(個人的にはcolaboにはあまり良い印象は持ちませんし)
ただ、今回はたまたま温泉むすめ批判でカチンときた暇空氏がcolaboを探ったら良い感じの綻びがあったからうまく行っているわけで、他で同じようにいくとは限らないんじゃないでしょうか?
もしかしたら今後、何か批判したい団体・個人をなんの根拠もなく(もしくは、大して騒ぐほどでもない事実をもとに)、見世物としてリンチするようなことが起きるんじゃないか、と思いました。
運動の系譜という意味では、4トロは太田竜が指導的立場だったというのが重要な点なんだよね。
太田は、東アジア反日武装戦線(1974年に三菱重工爆破事件を起こす)の理論的支柱であり、要するに、「一般市民は差別に関しているので敵、それと戦ってる俺たちはマイノリティ側で正義」って思想が根底に流れている。
4トロ含めて新左翼は1970年に華僑青年闘争委員会から「お前らマイノリティをいい様に使ってる差別者だ」って糾弾されたこと(華青闘告発)を受けて、マイノリティ側に立つことで、一般の労働者側に立つ既成左翼(日本共産党)と一線を画す「血債主義」に走ったんだけど、太田竜は特にその中でも極まってる感じのアレ。
そんな4トロが、ABCD問題という内部でのレイプ事件を起こして自己批判することになり、この「血債主義」が猛烈にドライブする形でAPP研が生まれて、キモオタと20年来敵対することになったという歴史があるんだよね。
さらに、1991年のソ連崩壊からグローバル化が進んだ結果、先進国の労働者階級が没落して労働組合も弱まった結果、「一般の労働者側に立つ既成左翼」というのが維持できなくなってきて、日共なんかはそれまで適当にあしらってきた外国人問題や女性問題にグッと肩入れするようになった。
さらに女性問題は、反ポルノという意味で(宗教)保守派も相乗りするという部分があって、これが問題をさらにややこしくしている感じ。
フェミニズムには女子教育の遅れを補うエンパワ方便として怒りや感情論を「男のする理論」と並ぶ対極に置く発想が根っこにあるんだけど、それが現代の性中立的社会では悪意としか捉えられない側面が出てる気がする
大学生女子を捕まえて論者として立てると、学歴とか議論の訓練不足が出て「やっぱり女はバカ」とか「現実にバカだから無理じゃん」って話になっちゃうんで、それを回避するために「女のカンは男社会の論理では捉えきれないパワーがある」みたいなことを言って刷り込んで活動家に仕立て、「多少甘くても認めてやらないと女性の地位向上が進まない」って言い訳するんだよね。ところが時代が下ってまともに教育を受けてスキルを上げた「 人 」が当たり前に増えてくるとこの方便がイマイチ通じなくなって、現代では「スーツを着たシス女性ジェンダーだと何の特権があるって????」って最早困惑しかないっていうかさ
大元の増田はまだこの方便寄りなんだけど、結局はこのお気持ち優先理論って女性の(注: マイノリティや障害者などは含まない。アッパーミドル以上で自分の選んだジェンダーにアイデンティティを持っているアルファ「女性」に限る)の地位向上の役には立ったということにしても、現在進行形の社会問題には…