はてなキーワード: 駅構内とは
同感。
ただね、駅構内の広告は、それなりの代理店が広告基準作っているからぶっちゃけどうでもいい。
この件になるとどこからともなくananの広告大好きな人が出てくるけど、あんな風に構内の柱全面を半裸の男性が占拠したポスターとかanan抜きにしても無いと思うし、あったら批判受けるんじゃないかなー。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/hollyhockpetal/status/1596721031607353345
「構内の柱全面」どころか駅構内の壁全面を、「半裸」どころか海パンと前を大きく開いたジャージでほぼ上半身裸のイケメン男子高校生達が占拠したFree!の巨大ポスターを知らんのか・・・知らなかったんだろうな。
https://www.gorogorolife.com/posts/animation/free/free2specialposter20140630/
なのでそのままお返ししますね。
「こんな風に構内の壁全面を上半身裸の女子高生達が占拠したポスターとか無いと思うし、あったらフェミニストから猛烈に批判受けるんじゃないかなー。それにそんなポスターの前で大勢の男性ファンがくいついて凝視したり写真撮ったりて事もないんじゃないかなー。」
そして今回かみついてるフェミさんたちはこのFree!男子高校生上半身裸巨大ポスター駅構内掲示(もろ「公共の場」ですよね)には口をつぐんでダンマリ、影でニヤニヤブヒブヒと性的消費(※注 今回の絵を批判してるフェミさんたちのオタク蔑視表現に合わせた表現です)してたのも知らんのだろうな。
吊り下げ広告とかもっとダイレクトに下品な週刊誌とかあるだろ?
そもそも商業の広告なんて刺さる人にだけ刺さればよく、全員に良い目で見られようとする必要はない。
自分向けじゃないと思った広告をまじまじ見る人なんておらず、スルーすればいいだけだし。
街にはキレイなものから汚いものまで幅広くあふれているからこそ、人は社会というものを学習していけるわけ。
街にあふれる表現物がすべて共産党の審査済みマークみたいなものが必要だとしたら、それはディストピアばりの管理社会だろう。
そこには耐性がなく守ってもらわないと自分の頭で判断することのできない家畜みたいな人間しかいなくなる。
だからより直接的な被害者が存在する風俗産業の広告だって広告費さえ払ってれば存在していいと思うし
広告されてるからといって社会から認められてるとは限らないという認識が持てることは、今の世の中を鑑みて、より重要な資質だと思うんだよ。
昔から創価とか胡散臭い団体だってテレビCM流してるし、CMで皆が知ってる所だからといって内部ドロドロじゃなく不祥事と無縁とは限らない。そうやってみんな学習してきただろ。
GoogleやAmazonの検索結果で上に出てくるからといって良いものとは限らない。
そういう認識は、場が汚されてきたことを認識できたからこそ得られた賜物なんだよ。そうやって人は賢くなっていくわけ。
短期的・直情的な視野ですぐ不快を遠ざけることそれ自体が、より大きなレベルで耐え難い社会を引き寄せてしまう。そのことについて想像力を働かせてほしいね。
「公的空間だから性的な広告ダメ!」とか、「公的機関の広告だからダメ!」とかは、確かに雑すぎると思うんだよね。
論点は、
・その広告自体と媒体と公開される空間との関係で作られるメッセージが、
「不快なものを公共空間から排除しろ」が公共性をめぐる議論として不適切であることは言うまでもないし、そもそもいくら駅構内における広告といってもほとんどの駅利用者は一瞥するかしないかして通り過ぎてしまうものだろう。
それでも、社会がいわゆる「公共性」の高い場所や媒体における広告について配慮すべきは一点、「未成年を性的に扱うことに対してどのようなメッセージを発しているか」だけだと思う。
園城寺怜にしても宇崎花にしても問題が全くないと言い切る度胸はないんだけど、彼女らが未成年である/成年であるという設定は広告を見るほとんどの人は共有していない情報であるし、そもそも体型や顔立ちによる幼い/成熟した印象は実際の年齢と一致しない。
そうすると、あからさまに中高生の記号をもったキャラをして「どうぞ性的に扱って下さい」というメッセージを明示した(例えば制服を着て性的に誘惑しているなどの)広告って、決して多くないと思うんですよね。
その意味で、個人的には月曜のたわわはその記号と表題の文言からしてかなりグレーゾーンではあったけど、それでもせいぜいはグレーですよね、という印象だった。
↑の増田。
追記↓
文章中で結構疑問文あるけど、それらはお互い面倒くさいだろうから全く答える必要なし。なんなら返信自体くれなくていい。それよりゆっくり考えて。善人を騙るのであれば全部読んで端的に反論して俺を納得させろ。
個人的に、善人って名乗る奴は荒らしとか誹謗中傷する奴より苛つくんで、つい噛みついた。悪かった。
俺以外の誰かが漫画とかで正義感養うこと自体は否定しない。ただ「完全に理解した」で思考停止するのはバカのやることなんで、気をつけて。
追記↑
ちゃんと律儀に返すのは誰にでもできることじゃない。
さんざん小馬鹿にしてくる俺のことを本心でどう思ってるかはともかく、そこは元増田の美徳だと思うわ。
あえて断言するけど、元増田は善人ではない。
これから結構キツいこと言うけど、善人でありたいと願うなら、俺がこれから偉そうに言うことを肝に銘じとけ。
ちなみにかなり長いから、あんま傷つきたくないなら最後のまとめだけ読んで。
1つ目に関してはまあ善行でいい。
3つ目は正直、俺からすると「いただきます」「ごちそうさま」並に当たり前で日常の行為だ。自ら善行と宣言するにはいちいち覚えてられないほど小さい。
追記↓
感謝って何か分かるか?
感謝ってのは、相手が先に何かしてくれた結果、それを得難いものだと思ったから出てくる気持ちなんだよ。
つまり、「相手が先に何かしてくれた」の時点で相手にとってはマイナスで、感謝の言葉を伝えたところでマイナスが精々プラマイゼロにはなっても、善行と呼べるほどプラスになることはない。
この場合善行と呼べるのは元増田の行為じゃない。先に施してくれた相手の行為だ。
そこに気づいてない時点で考えが浅い。
追記↑
重要な情報が2つ抜けてる。「誰に譲ったか」と「席を譲るまで元増田がどのように席を確保していたか」だ。
情報を補足して、たとえば「電車で席に座っていた元増田は、目の前にいた高齢者を見て席を譲った」だとする。
このような場合だと、やっぱり自ら善行と宣言するには弱過ぎる。
別に高齢者じゃなくて妊婦でも子連れでも障がいのある人でもそうだけど、大抵の人は一、二回遠慮するもんだ。そういうやり取りによるストレスが、座れたことによる安心感を上回る場合もある。
さらに、目の前に席を譲る対象がいなかった場合、元増田は「誰に席を譲ろうか」と考えて車内を見回すだろう。その選択はどのようにしている?自分の中で優先順位があるんじゃねえの?見た目じゃ分からない辛さを抱えてる人だっているだろう。ホントにそれは善行なのか?
俺からしたら、席を譲るというのは独善的な行為だ。譲らないよりはよっぽどマシだけど、「不良が子猫を拾う」みたいなもんで自ら宣言するほどのものじゃない。
それに比べたら、「電車ん中?譲ったりすんの面倒だからずっと立ってる」って奴の方がよっぽどまともだ。
元増田自身が普段は座ってないと辛いタイプの人間だったらすまんけど。
てか、それくらいのことしか挙げられないの?本当に小さすぎる。それくらいならいくらなんでも俺だってするぞ。
駅構内で明らかに困ってる男性外国人に声かけて乗るべき電車教えたらめっちゃ感謝されて無理矢理駅構内の回らない寿司奢られたとか普通にある。いやこれは俺的にすげえ対価貰ってるし、善行じゃねえけど。
追記↓
ちなみに上記以外にも道案内したことが何度かあるけど、俺は八方美人しがちで「人助けしてる俺カコイイ」って欲がある。だから俺の道案内は善意じゃないし善行でもない。自慰行為にたまたま近くにいた他人を巻き込んだだけ。
追記↑
「良い結果」ってのはその他人にとっての良い結果なの?それとも元増田にとっての良い結果なの?
元増田の善意による「良い結果」が人を殺したら、元増田は事後的にその善意についてどう考えるの?反省するの、しないの?
「良い結果」と、「良い結果が人を殺した」って事実とをどう(追記:「どう」っていうのは、「人を殺したり、他人に迷惑をかけた」以外にもどこかに影響が出てる可能性があるだろ、その影響範囲の内外を線引きする覚悟は出来てんの?みたいな意味)天秤にかけて、誰が(追記:どちらがより悪いかを)判断するの?
考えが浅すぎる。善人を名乗る決意が安っぽすぎる。むしろ一周回って悪人に見える。鱗滝左近次だって色々言ってるだろうが。漫画からなんも学んでないじゃん。鬼滅読んでないなら知らんけど。
学の無さや配慮の無さ、怠惰性がたたって良い結果にならない事があるのは自分でも認めるところですが、基本的に他人には善意を持って接したいと思っていますし、自分に関わった人間には良い気持ちでいてほしいと心から思っています。
と言ったな。
これを俺は、元増田が「俺は基本的に善人である」と個人的に思っているのだなと捉えていた。
で、俺の質問「元増田の思う『善人』の定義は?」に対する回答はこうだ。
上記のような想い(善意)を持っている人間は「善人」かなと思います。
おいおい。
それ最初(追記:元記事の時点)に言わないといけないやつだろ。
元増田は以下のどっちなんだよ。
どちらにしろそれ以外にしろ、善人でありたいなら「善人」って言葉に対するそのクソ甘い認識は改めろ。
「自分は善人である」、そう思うのは自由だ。自己暗示かもしれないし。
だけどそれを人前で言った瞬間に、その言葉は元増田自身の定義「二分されるものでなくその時の状態を表す」をもって矛盾か、嘘か、傲慢になる。
その矛盾や嘘や傲慢は、自覚のありなしに関わらず、少なくとも俺にとっては悪意以外の何物でもない。
かろうじて元増田にとって悪意ではなくても、その矛盾や嘘や傲慢は、善人であろうとすればするだけ元増田自身を苦しめるだろうが。
その定義に沿うなら、せめて「俺は常日頃からできるだけ善人の状態を維持したいと思ってます」と言え。
明文化するのは難しいですが「社会で生きていく中で他人とのトラブルを避けることができるような考え方、マインドセット」という感じですね。
でもそれ(追記:元増田の定義)、元記事の「善意を良しとする考え方(正しい正義感)」と何か関係あるんか?
要は事なかれ主義ってことだろ?そうとしか読めねえよ。(追記:元増田の言う)善意だとか正義感とかと全く関係ない。
長い追記↓
いやも〜、この言葉がまじで意味分かんなすぎて、俺、あんま考えずに強い言葉で断じちゃったよ。
お互いの認識に齟齬があるかもしれないから、修正するために補足する。修正できるか分からんけど。ややこしいし。
まず、「善意はその主観的な〜」の「その」ってのがどれを指してるのかすっげえ分かりにくい。
指示語(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/指示語)の多用は読者に要らぬ誤解を招きやすいから気をつけた方がいいよ。俺も気をつけるわ。
で、今んなってよ〜く読むと、なんとな〜く「その」は「誰か」のことで、「その主観的なハッピーエンド」は「誰かの視点で納得のいく、モヤモヤとしたものが残らない結末」のことなんかな〜ということがかろうじて分かる。
すなわち「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」を読み替えると、「善意とは、『対象自身が納得でき、かつモヤモヤとしたものが残らない結末』を、同対象に対して押し付けることである」ってことになる。
いやいやいや、分かりづれえって。
俺はさあ、この記事を書いた当時、「え、意味分かんね」ってなった後ちょっと考えて、「その」は直前の「善意」のことなんかなと思ったんだよ。
そうすると、「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」って言葉は、「善意とは『元増田が主観的に考えたハッピーエンド』を『誰か』に対して押し付けることである」って読める。
違うんだな。やっと分かった。あ〜疲れた。
以上の追記と、元増田が思うハッピーエンドの定義を総合し読み直して、ついでにちょっと言葉遣いもアップデートして俺の主張をあらためると、以下のようになる。
ハッピーエンドを押し付けるとき、対象が善人の状態か悪人の状態かは気にしねえの?「善人悪人は二分されるものでなくその時の状態」なんだろ?
押し付けるときに善人か悪人かで結末が違ってくるかもしれないし、同じ結末でも善人か悪人かで納得したりしなかったりするんじゃねえの?
元増田は対象に、ハッピーエンドを押し付けることの合意を事前に取るの?取らないの?
合意を取るのであれば、ハッピーエンドを押し付けるのは元増田であるって情報は対象に知らせるの?知られないようにするの?
合意を取らないのであれば、どうやって対象が求めるハッピーエンドを導き出すの?
ていうかそもそも「結末」ってなに?どの時期・どの場所・どの目標にゴールポストを置くの?置くところは誰がどういう基準で決めるの?
たとえば、一旦元増田の善意でなんらかの形で結末の位置が決まってハッピーエンドを迎えた善人が、後の人生でバッドエンドを迎えたらどうすんの?心を痛めるの?反省するの?あるいはバッドエンドを迎えないようにその善人の一生をずっと見守るの?それともハッピーエンドの後については関知しないの?
もうね、いくらでも出てくる。正直ツッコミどころが多すぎてキリがない。
「あっ、元増田はハッピーエンドが好きなんだね〜良かったね〜」ってことしか分からない。
なんで俺がわざわざネチネチこんなにツッコんでるか。
ツッコミの回答がどうあれ、元増田の善人を標榜した上での態度は無責任なんだよ。
対象が考えるハッピーエンドが「人類滅亡」とか「不老不死」とか「異世界転生」とか「世界平和」とかだったらどうすんの?
一応元の主張も残しておく。
追記↑
誰かって誰?特定の第三者?ランダムに選んだ第三者?元増田?その人自身?それとも不特定多数の人?
モヤモヤとしたものが残らなければ良いんだったら、バッドエンドだってそうなり得るだろうが。その「誰か」が具体的に誰を指すかは知らんけど、いずれにせよ元増田の定義により、「善人の状態」とは限らないんだから。
主観的なハッピーエンドの押し付けは、それはもう全くもって善意じゃねえ。
全体的に考えが浅い。徹頭徹尾、自己中心的で曖昧模糊で矛盾が多すぎる。
ただただ黙々と善人で「あろうとして」、何かに尽くした元増田の言動を、元増田の意志とは関係なしに「たまたま」見た「誰か」が判断するんだよ。
だから「誰かにとっての善人が、他の誰かにとっての悪人」ってことが起こる。
善人ってのは、自分で名乗るもんじゃねえんだよ。んなもん、言った瞬間に、元増田の想定しない「誰か」にとっての嘘になる。想定してる「誰か」だって幻滅するかもしれない。「森羅万象にとっての善人」なんてあり得ねえんだから。どっかにいるんなら具体例を挙げてみろ。
誰かにとって嘘と判断されることを受容できてなお善人を自ら名乗るってんなら、元増田はもはや善人じゃない。いつでもどこにでもいくらでもゴキブリみてえに湧いてきやがる、クソったれな偽善者だ。
んでもって善意とは何かと考え続けろ。
これは漫画百万冊読んだくらいじゃ到底解決できない。ひたすら長くて、複雑で困難で苦しくて、だけど唯一真っ当で、一生つきまとう課題だ。
と思って調べたから見れ↓
https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/higai/koramu2/koramu8.html
2021年で都内の電車ん中での痴漢(迷惑防止条例違反)発生率は21.9%だってよ
https://www.alsok.co.jp/person/recommend/1080/
そりゃ一定の自衛手段は持ってないよりも持っといた方が良いに決まってるよ
↑のリンクにあるような、大人でも防犯ブザーを首からぶら下げておくってのは俺にはなかった発想だし
けどさ、肌露出してなくても襲う奴は襲うし、催涙スプレーとかスタンガンとか持ってたって、大声出そうって思ってたって防犯ブザーぶら下げてたって、ながらスマホしてなくたって、死角から不意に触られた時点で(たとえその後痴漢を上手く撃退したり捕まえたりできたとしても)被害発生・トラウマもんじゃんか
痴漢に遭うのは女性に限らないと思うからこういう書き方になるけど、他者から見て性的に魅力的というだけで被害者になる確率が高まって行動が制限されるってのは当事者にとっちゃ到底納得いかねえだろ
どうあがいたって悪いのは加害者なんだよ
その言葉がレッテルではなく、一種の趣味として世間から受け入れられるものだったからだろう。乗り鉄、撮り鉄、音鉄。バラエティで特集が組まれる程度の健全さがあった。変わってしまったとの言葉よりは、世間からの風向きが悪くなったが正しい。一部の良識のない人間によって、界隈のイメージ自体が下がっている。いくら良識のない人間を村八分にしたくても、村の人間は集まって住んでいるわけではないので、できるはずもない。
だからこそ
ブコメを見るたびに、撮り鉄は障害者,撮り鉄は犯罪者とコメントをつける人間がいるが、大半の人間は良識のある一般人だ。
はてぶの人間も良識ある人間が多いと信じているから、批判の矛先は個人レベルに向けて欲しい。
大半は趣味レベルの常識人だから、鉄道写真が好きですとか言った人間に軽蔑の視線は間違っても向けるなよ?
隠しに隠して、今ではただの旅好きだよ。
まぁTwitterという道具は良くも悪くも、良識のない撮り鉄を浮き彫りにしてしまったし、個人を晒しあげる行為はできないために今も批判の矛先は「撮り鉄」の概念自体に向けられていると思う。
昔から何かあった際の車両撮影が無法地帯だったのは大きい。でも、駅構内に三脚を持ってくる人間がまともな神経をしているはずのは自明の理。やばい人間に囲まれるのをわかっていて、それでも行く人間の大半は常識人ではない。つまり常識人の大半はそこにやってこない。事前に粛々と写真なりの記録を収めにくる。つまり撮り鉄が三脚なりの道具を持って群れをなしている時は、撮り鉄のヤバい上澄みを目にしていると思ってもらいたい。車両引退や運行開始や撮り鉄の不祥事があった際に、社会の目にはヤバい上澄みが映ってしまう。こんなんみたら、こいつらヤベーと私も思う。
一方で音鉄をみてほしい。彼らは駅に案内放送を録音しにくる。カメラを持った人間よりよっぽどレアなんだが、スライムと一緒に出てくるメタルスライム程度にはいる。3m程度のテレビ撮影用かと思えるくらい大きなスピーカーで録音しにきて、人が多い時間帯に録音する行為が迷惑であることを弁えている。だからこそ存在も見えづらいし、社会存在の批判には晒されづらい。もちろん駅ホームが満員でそのような行為に及べば、どうなるかは目に見えている。Twitterに晒され、撮り鉄と同じレッテルに成り下がるのだろう。
撮り鉄は悪だ。
撮り鉄はアホだ。
魔女狩りのように、世間は批判にひたすら賛同するから、もうそこ善悪なんてものはない。
非常識な撮り鉄を呼称する単語がないから「撮り鉄気持ち悪い」と、呪文を唱えられてイメージダウンにつながる。
ヤバい撮り鉄が群れをなした時のゴブリン具合が半端じゃないのは周知の事実なんだけども、誰かニフラムで浄化してくれるような救世主が現れてくれないかなー。健全な、誇れる趣味にいつか帰ってきて欲しい。
新大阪駅でたこ焼きをよく食べるんだが、まじでうますぎる。ふわふわの生地をかじると中からだしの優しい味と一緒に半熟とろとろの生地が出てくる。猫舌だから舌がじんじんするけどこの熱さと一緒に広がる幸福感に抗えない。タコはこりこりとぶにぶにの間くらいの食感で、噛むとジューシーな感触がある。もう少し大きいほうが嬉しいもしれないけど、もうこの時すでにとろとろの生地で口の中は幸せいっぱいなので瑣末な問題だ。ビールも一緒に頼んだらもっと幸せになるかもしれない、と注文時に迷うのだけど、口の中のたこ焼きとろとろスペースをビールにあけ渡すのさえちょっとためらうほどの幸福感を思い返していまだにビールを頼んだことはない。
少し前から大阪案件に参加するようになってよく新大阪駅を経由する。やっぱ大阪といえばたこ焼きでしょ。ほんとは道頓堀とか行ってみたいけど、行く余裕ないし駅構内でいいか。ってちょっと斜に構えながら食べたらおいしすぎてハフハフしながら12個を一気に食べてしまった。おいしすぎる。
食べきっておなかいっぱいになったらさすがに満足して、「次回はお好み焼きかな〜」とか考えるんだけど、出張のたびに結局たこ焼き屋に立ち寄って12個入りを注文してしまう。そして口いっぱいにとろとろをほおばって幸せになる。
自分は説教と思わなかった文章を説教だと受け取った人を見かけて、なぜ違いが生まれるのかに興味がわいた
説教の辞書的な意味は「上の立場の人が目下の人向けに教え導くこと」
その一方で説教臭いの辞書的意味は……Web辞書に説教臭いの見出し語がなかったので正確なところがわからないが
接尾語で「くさい」がつくと「いかにもそのように感じられる」くらいの意味が付与されるので
これって「受け手が説教と感じる」ことを「説教臭い」と呼んでいることが分かっただけだ、なぜそう感じるかこそに興味があるのに
説教の辞書的意味を換言すると「上から目線で教えを示す」くらいの意味になるはずで、この上から目線が鍵か
つまり何かの文章を説教と解釈する人は「上から目線」「偉そう」などのニュアンスを他の人より敏感に感じ取っているという仮説を思いついた
ただこの仮説は少し的を外している感もあるか
説教臭さを感じない人も「良い啓蒙じゃないか、"えらい"なあ」と偉さを感じているケースもあるだろう
このケースで説教臭さを感じる人は「説教臭いなあ、"えらそう"に」と思うだろうな
このえらいとえらそうの差は着目すべき点か?わからない、今はいったん保留しよう
説教臭いという場合にはそう感じた人は不快感を感じているはずで、その何故不快に思ったかというアプローチの方が筋がよいか?
そう考えるのであれば「えらい」なら不愉快ではなく、「えらそう」なら不愉快か?
これもピントがずれている感が少しあるな……
一旦とりとめのない思考メモを書くのは中断してまた後で考えるか
続き
とりとめのない考えをするときは考えが発散しないように注意しなければいけないと自戒
と最初に書いているが、きっかけとなったその文章はこの思考メモ中には引用していないわけで
その文章を明示しないままにその文章固有の特徴をイメージしながら書いてしまうと的が外れるのも当然だ
全文引用失礼(増田は一定期間で投稿を消してしまう人がいるので後から自分が見返せるように)
上から目線を不快に感じるということは自分が下に見られるのが不快ということで
自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快なんじゃないだろうか
なるほど、納得感がある
的をかなり中心で射ているように見える
例外ケースが何点かある予感がある、それのフォローが出来ればよいが
考えてみるか
例えば駅構内の「痴漢は犯罪です」に説教臭さを感じる人を見たことがある
この場合どの相手を嫌いなのか、誰から見下されているのかというのがはっきりしていないかもしれない
他のケースでは小説で作中人物が政治思想を語りだしているのを見て説教臭さを感じるケースはどうか?
あえて言うなら作者に対する嫌悪感、「作者よお前は何様なんだ?」という感情か
なんでもかんでも説教に見えてしまう人はなんでもかんでも嫌いに感じているということになってしまう
見下されていると感じたから嫌いなのか
どちらが卵でどちらが鶏かはわからないし、おそらくどちらの場合もありそうな気もするが
レッテル貼りになりかねない、わかりやすい理解に流されてはいけない
もう少し考え続けよう
続きを考える時用のとっかかりメモ
・説教臭さの不快感の根源は「うっせえわ!」という感覚かもしれない
何故私は「うっせえわ!」と思わず別の人は「うっせえわ!」と思うケースがあるのか、それを考える
・また、「自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快」なので「つまり相手が嫌い」は論理の飛躍があるか?
大筋では近い位置に着地しそうではあるがそうでないケースもありそう、そこを考える
「同じ船に乗っている人のアドバイスは有用だが、違う船に乗った人の無責任なアドバイスは害悪」という思想に構造の類似性を感じる
・キーワード「唐突感」「他人からの行動の強制」「押しつけがましさ」「うんざり」
・以下4パターンについて考える
・説教臭いすなわち不快に感じると書いたが、これは自明ではないのでは?そのため上記4パターンがさらに分岐する
・不特定多数に発信されたものと名指しで発信されたものに違いはあるか?
・説教臭さを感じる条件に帰属意識は関係するか(アドバイス罪の「同じ船」に通じるものがあるか)
・一人の人間がある属性の不特定多数の人間に説教と解釈されうるものを発信したとき、そのある属性に属する私がその説教に同調し「そうだそうだ、もっと言ってやれ」と共感するケースがあるのではないか?
不快感という感情が湧きあがることで初めてこれは説教臭いと気付きやすくなる可能性は無いか?
・例えば日本人という属性に対して「日本人は〇〇したほうがよい」と言ったとき、既に〇〇している日本人がどう考えるかどうか
「良いこと言ってるね」と思った人はそもそも説教されているとは感じない、むしろ説教する側に自分を置いている可能性があるか?
「私は既に〇〇しているのにうるさいやつだな」と思った人は説教される側に自分を置いている可能性があるか?
仮説:
・その特定の属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合、不快感を感じない(パターン1)
・その特定の属性に属した人がAを実施していなかった場合、「うるさい」に類する不快感を感じる(パターン2)
・パターン1の場合、不快感を感じていないので説教臭いという感想が出てこない→説教だと思わない
・パターン2の場合、押しつけがましさを感じ説教臭いという感想が出てくる→説教だと思う
パターン1の反証、つまり「その特定の属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合に不快感を感じる」がありえるかどうか
特定の属性に属していない人でも押しつけがましさを感じることができるのでは?
「イタリア人はもっと紅茶を飲んだ方がいい」という文章は日本人の私が見ても押しつけがましく見える
この文章を押しつけがましく思わない人がいるとすれば「既に紅茶をたくさん飲む習慣があり意見に同調しているイタリア人」なのでは?
好ましく思っている人が言った啓蒙は不快感を覚えないので説教という単語が連想されない可能性
長くなりすぎた
一度別で整理してまとめよう
みんなブコメもトラバも熱くなってる人が多すぎてこわい。書いてないことを勝手に妄想で補完しすぎ。冷静にこの非常停止ボタンの曖昧さの違和感に共感してくれてる人もたくさん居て安心していますが。
誰もあの山手線止めた男を擁護してないし彼の「非常停止ボタンを押す」以外の態度や振る舞いには何も言及してないからまずそのあたりのコメントは見当違いなものとしてスルーします。彼の態度について議論したいなら他所でやってください。
俺は純粋に「彼が非常停止ボタンを押した行為が何のルールに違反してたのか」を明らかにしたい。そこに疑問を持たず、自分たちで発明した独自の非常停止ボタンのルールに疑問を持たず正義を訴えてる人が多いのが不思議。
AEDでもさんざん「どういう状況ならやっていいか、ダメか」でネットでも議論になってるのに非常停止ボタンについては自己流ルールで満足してこうやって疑問を呈する声を小馬鹿にする奴らが多いのはなぜなんだろう。とりあえずそういうブコメもスルーします。
1. 駅員に知らせたあとに鳴らすのは『駅員に危険を知らせる』というルールに違反している
これは同意です。細かいことを言うと「駅員にシカトされたり、シカトと同じぐらいまともに相手にされなかった場合は駅員がちゃんと危険を知ってくれなかった」というケースはありえる。今回の事件でも駅員と客にどういう内容の会話があったかは誰も正式な情報を知らない。だが駅員の証言からは何かしらの対応をしていたようなので、今回の件はこの理屈が一番の正当性を持っていそうだ。この点を指摘してくれたみなさん、ありがとうございます。
2. 荷物の大きさによって危険は違うはず。大きなカバンならいいが財布はダメ
これは完全に思いつきのルールなので妥当ではないです。置き石で脱線もあるから「財布なら絶対に危険じゃない」とは誰も言えない。財布を落としたけど今回の件を思い出して非常停止ボタンを押さず、当たりどころが悪くて脱線してたくさんの人が死ぬリスクを負えますか?(繰り返すけど今回の事件の男の態度の話はしていない)
電車の強さなんて鉄道マニアでもない限りわからないから「大きなカバンが落ちた場合は危険」とも言えない。ブコメでは「傘とか」って書いてあるけど俺の主観では傘なんかで電車に危険は及ばないんじゃないかと思ってしまう。もし傘が落ちて非常停止ボタン押したとして、ネット上で「傘なんかを理由に非常停止ボタンを押すな、賠償金払え!」と炎上しない確信が持てますか?
これも意味がわからないです。無人でもない限り電車には乗客が乗ってて、脱線したら人が死ぬ危険があります。元の文章にも書いてますが、その先の交通量やインフラ影響度を即時判断できるとおもいますか?
「財布を落としたぐらいで非常停止ボタンを押しちゃダメ」「人命の危機の時しか押しちゃダメ」「損害賠償あたりまえ」などの言葉が飛び交ってるので実際に調べてみた。
https://www.westjr.co.jp/fan/blog/article/2019/03/page_13956.html
こちらのページによると、
JR西日本では新幹線の各ホームに「非常停止ボタン」を設置しています。これは、お客さまが線路に転落されたり、お荷物を落とされたりした時にボタンを押していただくと、危険な状態が発生していることをいち早く駅係員や乗務員に知らせることができるものです。
明らかに「荷物を落とされたりした時」と書いてある。例の財布落としたやつ、これを根拠に法廷で争ったらワンチャン勝てるかもしれないぞ。
JR西日本と東日本でポリシーが違うという反論をされるかもしれないけれど。
https://www.jr-odekake.net/railroad/service/aed.html
●ドアに傘等を挟んだまま列車が動き出した時
●車内で犯罪行為を目撃した時
●救急手配が必要な時
●上記の他、異常を乗務員に伝えたい時
つまり人命の危機だけが押す理由ではない。「異常を乗務員に伝えたい時」なんてなんでもあり。財布を落としたというのは異常事態なのでそれを伝えるために非常停止ボタンを押すのもあり。
https://www.jreast.co.jp/saferelief/operationguide/pdf/emergency.pdf
ホーム上には 非常停止ボタンが設置されています。ホーム上から転落しそうなお客さまや列車に接触しそうなお客さまを見かける等、危険と感じた場合はボタンを押して係員に知らせてください。
東日本は人が電車にぶつかりそうな時を筆頭例として挙げてるが、「〜など、危険と感じた場合はボタンを押して〜」と括ってるのに、危険度の定義は人それぞれバラバラになる。人命の危機のみが危険ではない。
「列車に接触しそう」と思っただけでも押して良いことになってるので、駅ホームで黄色い線を超えて歩いてて電車が近くを横切っただけでも「接触しそう」と判断して非常停止ボタンを押してしまって良いことになる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b8240bf5940cfc5d821b2147786a4134104274f2
20日午前8時50分ごろ、習志野市実籾1の京成線実籾駅で、ホーム上の非常停止ボタンが押され駅員が駆けつけると、線路内を野生のカルガモの親子が歩いていた。駅員はカルガモを線路外に誘導し、安全を確保。その間、上下線で運転を停止し、約10分後に運転を再開した。
今年の6月20日にはカルガモ親子を救うため非常停止ボタンが押されたが、これはほっこりニュースとして紹介されてる。もちろん損害賠償責任なし。京成線だから良いのか?ボタンを押す乗客に「この路線の交通量はこれぐらいで社会インフラ影響がこれぐらいで〜」と瞬時に計算しろってことか?
ということで結局のところ「こういう時は非常停止ボタンを押していい、こういう時は押してはいけない」というルールが公式に文書化されているところは存在しない。インターネット上には存在しないし、駅構内にも存在しない。どこかの駅にはあるのかもしれないが、少なくとも都内の山手線主要駅では見たことはない。
日経「たわわ」広告炎上のような騒動見る度に、日本人みんなメガネ型のディスプレイを常に装着していて、ネットのターゲティング広告のように各人の見たい物だけが目の前に表示される(不快な物は見えない)世界になって欲しいと考える。
例えば、同じ日経朝刊の紙面見ても、企業が収集したユーザー情報に基づいて、
「キモオタ」と判定された読者には「たわわ」の全面広告が見えて朝から局部が元気になり、
「ポリコレの民」と判定された読者には「日経のSDGsへの取り組み」という全面広告が見えて道徳心が満たされる、
こういう風に現実が各人の好みに合わせたヴァーチャル・リアリティで覆われてみんなが幸せになれる世界が早く来て欲しい。
この技術で「公共の場にキモオタ向け萌え美少女が掲示されて体の震えと涙が止まらなくなるフェミ」問題も最終解決できる。
キモオタの目には「顔面と胸に白濁液を浴びて頬を赤らめている童顔巨乳JK」に見えて、思わず駅のトイレに駆け込んでシコってしまうほどの強烈な宣伝効果を与え、
ポリコレの民の目には「仏頂面でカルピスを飲むでっぷりと太った黒人トランスジェンダー女性」に見えて、これまた彼女/彼らの多様性への信仰心を満足させて企業と商品への信者に変えてしまう。
これ、VR(仮想現実)じゃなくて、AR(拡張現実)のような気もしてきたけど……
広告のポリコレ騒動の解決だけではなく、街中のホームレスが愛らしいパンダに見えるように市民の視覚を操作して、ホームレスが駅や公園のベンチでゴロ寝してても嫌悪感を抱かれない優しい世界を実現するといったこともできるかも知れない。
前提として100%全員が、というわけではないし、男も周りが見えてないやつはいる。
ちなみにこの”周りが見えていない”というのは、立ち回りや人間関係のことではなく、物理的にだ。
狭い東京、お店の中でも外でも、誰もが横一列になってすれ違えるわけではない。
みんなが周りの様子を見ながら、誰かの邪魔になっていないか察しつつ動きたいものだ。
カップルで買い物していて、「ほら、邪魔になってるよ」とパートナーに言われているのは、ほとんど必ず女性だ。
エレベーターを待っているとき、事前に先頭の女性と目でも合わせておかないと、自分が乗る前に閉ボタンを押される。
最近は減ってきたものの、レジでは優雅に硬貨と紙幣を組み合わせて支払い、商品の収納とレシートの収納、釣り銭の整理を丁寧に行なっている。
改札や駅構内で突然立ち止まったり、自動車の信号待ちで青信号になったにも関わらず助手席のカバンを弄ったり。
邪魔だなぁと思って睨んでいて相手がこちらに気づくと、まるで被害者のような顔をする点も興味深い。
にも関わらず、相変わらず女というのは生活動線の障壁として立ち塞がり続けている。
再三申し上げるが、全ての女性が該当するわけではないし、当然邪魔な男も多い。
愛媛に住んでいる彼女に会いに行くとき、いつも福山駅で乗り換える。
新幹線から瀬戸内ライナーみたいな名前のバスへの乗り換えで、だいたい40分〜1時間くらいの猶予がある。
バスは予約不要で、券売機でパッとチケットを買って並ぶだけだからそんなに時間はかからないし、乗り場も駅を出てすぐのところにある。
福山駅にはちょっとしたショッピングモールみたいな施設がくっついていて、そこには飲食店とか土産物屋がひととおり入っている。がっつり飯を食う時間はないから、ウィンドウショッピングみたいな感じにはなるんだけど、なんとなく楽しい。
この前はとんかつさぼてんなる店で、ミルフィーユカツ弁当をテイクアウトした。帰りの新幹線で食おうと思ったけど、コロナ禍の雰囲気のなか車内でメシを食う勇気がなくて、結局家まで持って帰って食べた。うまかった。
福山城なる城があって、けっこう立派だ。
駅から近い。近いどころじゃない。
バス乗り場と反対側の出口から出たら、道路を一本挟んでもう城だ。改札から、走れば1分もかからないくらいの距離感だ。道路を渡り、石段を登ったらもう完全に城の中だ。
全体として立派なんだけど、いまは修理中らしくて、じつはまだ全貌を見たことがない。次に行くときは、ぜひ見たいと思っている。
リトルマーメイドっつうパン屋さんが駅前にある。四国・中国地方で勢力をもってる(と勝手に思ってる)チェーン店で、俺は結構好きだ。
何が好きって、パニーニが好きだ。
ベーコン、トマト、キャベツが挟まった平たいサンドイッチで、べつに何か光り輝くような特徴があるってわけでもないんだけど、食べやすいし、美味しい。
この前はパニーニを2コ買って帰った。ひとつ駅で食って、ひとつ家で食った。
どうやらベトナムバインミーを売ってる店が徒歩圏内にあるらしい。ぜひ行きたいと思ってるんだけど、この前はバスの到着が遅れた関係で行けなかった。
今後はパニーニを食うかバインミーを食うか迷うようになるような、そういう店であってほしい。
福山駅のトイレ、別になんてことない、綺麗めな駅のトイレなんだけど、普段駅に行かない暮らしをしてるから、なんだか妙に印象的だ。
個室の感じが職場のトイレとうっすら似ているようで、最近はトイレに行くたびに福山駅のことを思い出す。仕事辞めてえな
知らなかったんだけど、福山はばらの街らしい。ばらの街であることを知らなかったというより、存在そのものを知らなかったんだけど、なんか普通にメチャクチャデカいんだよな、福山。
駅前も栄えていて、その栄えた駅前に立ったキレイな看板で案内されているばら公園なる場所が結構気になっている。行きたいんだけど、40分で行くには絶妙に遠い。
この増田はフィクションです。実在の稲や菱には関係ありません。
地下鉄やJRのゴミ箱から雑誌を拾い集めてるホームレスっぽい人「拾い屋」を見た事あるだろうか。
昔は結構な数の露店雑誌売り的なのがあり、100円とかで売られていたが、その数は減少。
それなのに「拾い屋」は活動し続けていた。最低区間の定期券を仕事の元締めから渡され、縄張り内を巡って雑誌を集め続けていたのだ。
その集められた雑誌はどう流れていたのか。
雑誌というのは、次の号が出たら前の号はもう売れないので取次に返本することが出来る。
新刊雑誌を販売する店が払うのは、売れた数に応じた金額(仕入れ数-返本数)である。
拾われた雑誌を、書店やコンビニなど、定価販売してる所へ、もとの仕入れ値よりも安く売るのだ。
本来、300円の雑誌なら、取次から小売りへの卸価格は240円位。1冊売って60円の儲けにしかならない。
だが、こうしたのから「返本用の雑誌」をそれ以下の価格(例としては150円程度)で仕入れることで、実際に売れた数を少なく見せ、取次に支払う金額を減らすのだ。
もちろん、本当に売れた総数よりも少ない数しかそう出来ないが、週刊誌だけで数十種類、それが52週間分。年間にするとかなりの額になっていたというのは想像できるだろう。
ゴミ箱から拾われたのではわかるだろう、と思うかもしれないが、立ち読みなどによる汚損が一定数存在するため、疑いがあっても取次側は受け入れざるをえないのだ。
拾い屋、元締め、返本数をごまかす店、どれも1冊当たりの儲けは少ない。しかし、拾い屋に定期券を与えても回るだけの儲けが出ていたのだ。
まあ、雑誌販売が年々減少することで、利益は小さくなって行ってたし、電子書籍なんてものも出てくることで影響を受けていたようではあるが。
さらに、コロナの影響でリモートワークが増えて通勤が減って、雑誌を読んで捨てるってのも減って、となっていた。
その上で今年、東京メトロが駅構内のゴミ箱を撤去したことで、雑誌の仕入れ元が激減してしまったのだ。
信じるかどうかは、あなた次第。