はてなキーワード: 最大公約数的なとは
客は弁当単品では買わず、小さめの商品を組み合わせて買うようになってる。
だからパスタやサラダ、スープとかのサイドメニューにめちゃくちゃ力が入ってるんだよな。
一方でスーパーでは、特に麺類やサラダ、デザートについては、他社の既製品を仕入れるしかないので、
最大公約数的な「定番メニュー」しか並ばないし、なかなか新メニューが出てこない。
弁当にしても店内調理しやすいように「大盛りごはんと肉系のおかず」スタイルになりがち。
まあ大学生ならそれでもいいんだけどな。
うちの近所のサミットだと、ごはんものはいろいろ頑張っていると思うが、惣菜・揚げ物・サラダに芸がない。
実際問題女性の割合が多かったり、女性が中心になる会議って長い
「これなら8割の人を幸福にできるようになるな」
って案がでたとき
「それじゃ2割の人がカワイソウじゃないですか!!」
みたいなこと言い出すんだよね
ひどい場合は
「その案じゃAさんが救われないじゃないですか!(なおAさん以外の全員は救われる)」
みたいなこと言い出す
具合の悪いことに他の女性たちもそれに同調しだすもんだから会議が一向に終わらない
それが現実的に無理だから幸せになる人の割合を少しでも増やそうって会議してるんだよね。無理なこと叶えようとしたら一生会議終わらないよね
ってなっちゃうわけ
一言で言えば「学級会」っぽくなりがちなんだよ
もちろん上記のようなことを言って会議を長引かせる男性もいるし、いい感じで妥協点を提案してくる女性もたくさんいる
ただ、全国転勤でいろんな支店に行ったけど、こういう言動で会議が長引くのは圧倒的に女性が多い会議だ
他にもいわゆる「職場いじめ」が発生するのは圧倒的に女性比率の高い職場(職種)だ
これに対して公の場で「女が集まるといじめがおきる」と言うのは明らかに問題だけど
女性が多く集まる職場ではいじめが起きやすいという現実をなかったことにするのは間違ってる
男女逆にして言えば
公の場で「男は暴力的だ」と言えばその発言自体は非難されて然るべきだけど
男性が女性と比べて暴力的な性質を持っているということ自体を無視しちゃいけないよね
「女性によくある傾向」や「特定の個人が女性に抱くイメージ」を「すべての女性がそうだと公の場で発言すること」を非難することとはもちろん間違っちゃいないんだけど
女性ならではの悪いところをなかったことにしたり「男でも同じ問題は発生するだろ」とか話そらすのはより分断を招くだけだし、永久に男女平等に到達できない思うんだよな
長い年月をかけて最大公約数的な、誰が食っても美味いと納得のいく基本的なものなわけ。
なんでその枠からはみ出そうとするゴミクズがいんの?なんで一般的じゃないことすんの?
今日嫁が作った餃子に「大豆」が入ってて、まじで美味くなかったのよ。
まずいわけじゃないんだけど確実に美味くないし餃子の皮とひき肉をマジで無駄にしてるわけ。
全員死ねよ、クソみたいな料理を吹き込んでじゃねえよ、美味くねえからそれ、大豆なんか普通に煮た方がうめえから死ね。
どうせ家庭料理は余り物の処分が面倒だから〜とか言うんだろ?言い訳すんなカス、じゃあ普通にそのまま食うわ。
お前がさも新しい料理として世に紹介してんのは誰も思いつかなかったものじゃなくて邪道だから誰もやらなかったことなんだよボケ。
頼むから世間一般に誰が見ても普通だと思うような一般的なレシピから逸脱した料理を作るな、そして邪道のレシピをメディアは流行らそうとするな。
全員皆殺しにしたいほどムカつく。
全部個人の妄想だとしてもそのキャラの背景をなぞったら絶対に出てこない言動、というものはやはり絶対にあるので……。
ただ、二次創作は個人的には願いの文化だと思っていて、こうであってほしいという気持ちはどうしても乗っかっちゃうと思うんだよね。
そしてその『こうであってほしい』の最大公約数的な解がナヨナヨメス受けと性欲に頭支配された攻めの惚れた腫れたなのかもしれない。
(思うに、年齢層若めの作品とそうじゃない作品ではたぶん二次創作の空気感も違うので、それも影響していそうな気がする)
人間という生き物はヒジョーにいろんな面を持った存在なので、どこを切り取って誇張するかでキャラ感が180度異なるということはママある。
正しい解釈だけでは描けないこともあって、解釈と書きたいことと、需要の間にはそれぞれ断絶があるんだよなぁ。
自分もこのキャラは絶対に泣かないだろうと思ってたけど、物語の緩急とウケ狙いで涙するシーン挟んだこととか、ドスケベが見たくてオスキャラのメス堕ちエロとかこさえた事があるので、あんまりどうこう言える側ではないかなと自戒したりした。
米津さん、インタビューとか昔のブログだとか読んでても、奇をてらってやろうとか自分の内相世界を克明に描ききりたいみたいなアーティスティックなエゴあんまり感じないんだよね。
曲聴いてても社会にちょっと意見してやりたいみたいな態度に出てくることもない。
影響受けたものとかはまっているものとかその時々流行っているものを素直に受け入れている印象。
なんかそこら辺が藤原基央や野田洋次郎のような先駆者や、常田大希、山口一郎あたりとは違うところだよなと思う。
ハチ時代からマスの中で自分の作ったものが共有され楽しまれることを第一に掲げてるように僕には見えた。
曲の中に広がる世界にしても「面白い話を思いついたんだ」と友だちに話すことの延長線上にある気がして、米津さんがやることや言うことを聴衆が「面白い」とか「カッコいい」っていってその気持ちを共有していることが軸になってるんじゃないのかな。
じゃないとあの時代のニコ動のボカロ文化にのめり込まなかっただろうし、メジャーデビュー時からのタイアップソング量産体制に舵を切らなかっただろうと思う。
米津さんがすごいのは独特な感性を持っているのに大衆性を全く取りこぼしてないところで、逆に言えば大衆的なアプローチを意識してもどこかしら独特な風合いを帯びてしまうことだと思う。
そしてどんなアプローチでも米津玄師らしいマインドというものが奥の方でブレなく残っているように僕には聴こえる。
また、おそらく本人は自分が素敵だと思ったものを無邪気に曲に盛りこんでいるだけだったり、みんなが楽しめるポップソングを真摯に作り上げたいと思っているだけで、最初から独自の米津ワールドを展開したいとは考えていない気がする。
結果的にそうなってしまうんだろうし、それでいて気負わずに聴けるポップソングとして未だに破綻していないから米津玄師は支持されるのだと思う。
僕は昔から宇多田ヒカルが好きなのだけれど、宇多田ヒカルと米津玄師はどこか近しいものを感じる。
宇多田ヒカルが今さらFirst LoveやDistanceの頃のテンションで曲を作ることはありえないし、それに反してFirst loveのような曲を求める人がいることも理解できる。
マスメディアの中に鎮座しながらも、最大公約数的な共感の世界に生きていない。作者の個人的な感情や自分だけが持つ脳内のイメージを、聴き手の心情に照らし合わせフィットしていくようなドアtoドアの世界。
総務が扱っている伝票類を帳票作成システムを利用してすべてペーパーレス化するというプロジェクトに途中からアサインされた。
プロジェクトが発足してから半年、成果が見えずに上の連中がブチ切れているらしい。
入ってみると既に3つの伝票がペーパーレス化されており、「成果がない」という状況でもない。
課長(自称PM)に「進捗度ってどんなもんですか?」と確認したところ「30種類の伝票のうち3種類が終わったから10パーセント」という回答が返ってきた。要件定義や基本設計の部分は除いた進捗かなと思い確認すると「半年かけて3種類の伝票をペーパーレス化した。具体的には2か月で1種類の伝票をペーパーレス化した」という意味らしい。
いや、そうはならんやろ。俺も具体的にはわからんけど、伝票なんか細かい箇所は違ってもある程度のパターンが決まってるはずだから、最初に最大公約数的なひな形を作ってそれを元にレイアウトとかを変更して量産していくもんじゃないんか?
的なことを聞くと「伝票が30種類あるのは聞いたけど具体的な実物は見てない。今は成果を出すのが大事だから一個一個の伝票に集中している」という回答。しかもシステムは見積もりで一番安い(おそらく課長のコネの会社)やつを採用しており、うちの会社で扱っている伝票の形式に沿っていない部分が多々あり、その部分を無理やり仲介するプログラムを組んだりしているらしい。それも伝票毎に。
プロジェクトとしては今の1枚2か月のペースをマンパワーで解決しようという意図での俺のアサインのようだが、俺としては一度白紙に戻して定義設計からやり直したほうが結果的に早く終わるんじゃないかと感じている。そもそも俺にだって
責任部署の部長にそう提案したが「半年もかけてしまっているから今更そんなことは言えない」と返ってきた。まさかコンコルド効果とかいう使ってみたいけど案外使わなそうな日本語とこんな身近で出会ってしまうとは。
一応、郷に入っては郷に従えの精神でポチポチプログラミングしているがあまりに非効率でばかばかしいし、会社に貢献できているという実感が全く湧かない。つらたん。
急に蒸し暑くなってきて、
まったく暑さと言うより、
風が温いわよ。
歩いても汗ばんじゃうし、
夜もさ部屋は煮えてるし、
前に言ったかも知れないけど、
そう言うタイマーを作って考える人ってライフスタイルによって16時間後まであって設定できた方がいいんじゃないの?って
いつも大抵はそう言うものって
最小公倍数的な考えであることは間違いないし、
エアコンつかない!って思ったら
もう全部の家電がスマートにネットにデフォで繋がれば良いのよ!
でもそんなことより、
分単位でこの時間にとどきますよ!って言ってくれておきながら、
また到着してないもどかしさに、
いい加減私が買いに行った方が早いんじゃないかしら?ってそわそわしているんだけど、
とめても無駄よ!
それはただ片桐さんの真似して言いたかっただけなんだかんね!って
しびれを切らした火蓋がまた切って落とされるわ!
うふふ。
あれこれ目移りして目にとまったのはやっぱりこれね!
追加でまた作らなくちゃと
なんだか今日は忙しいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://bookmark.hatenastaff.com/entry/2020/03/31/180820
上記記事で言うところの、「より豊かで多様な価値観が集ま」りにくいのは、1ユーザーが複数のコメントにスターをつけた場合も、1ユーザーが1つのコメントにスターをつけた場合も、等しく「1スター」と数えられてしまうことに原因があると思う。
それって、投票行為で言うならば、人によって投票用紙の枚数が違うようなものであり、例えば、特定の価値観を持つ人間が、同じ意見のコメント全部にスターをつけた場合、まるでその意見が多数派であるかのような状態が生じうる。
また、差し障りの無いどうでもいいコメントがトップになってしまうことがあるのも、自分が本当に推したいコメントのついでに、最大公約数的なコメントにスターを付けてしまうので、それが多数派になることが理由であろう。
でも、これらの問題の解決法は簡単で、複数のコメントにスターをつけたユーザーのポイントを下げればいいだけの話である。
それには例えば、1ユーザーのスターを、1記事あたりトータルで「1スター」に設定するという方法があるだろう。
つまり、あるユーザーが2個のコメントにスターをつけたらそれぞれのコメントに「1/2スター」を付与、3個のコメントにスターをつけたらそれぞれのコメントに「1/3スター」を付与…とすればいい。
そうすると、先程の「特定の価値観を持つ人間」の例では、多数のコメントにスターをつける行為は、単に「1スター」を薄く広める意味しか持たず、数値としてはコミットして来なくなる。
また、「どうでもいいコメント」の例も、ユーザーがそのルール付けを知れば、本当に推したいコメントにだけスターをつけるようになり、最大公約数的なコメントはスルーされるようになる。
そのため、コメント環境は多様性の観点でだいぶ改善するものと思って、自分の案を増田に書いてみたのだが、ちょっとした難点もある。
まず、「スター」のカウントが面倒になるという点である。具体的には、「スター」カウントを表示する際に、分数が出てくるというのは直感的にわかりにくい。
まあ、それだけなら、表示時は端数切り捨てにすればいいだけなのだが、もう1つ問題がある。
それは、1ユーザーあたり「1スター」とすることで、スターの全体数が目減りしてしまう点であり、これはコメントを書く側のモチベーションを下げてしまうかもしれない。その点は多様性確保の観点からは由々しい。
だから、一記事あたりのスター数は「1スター」でなく、「nスター」に設定するのが良いと思う。ここで、nは約数の多い整数である。
例えば、n=12なら、1個のコメントだけにスターをつけたら「12スター」、2個のコメントにスターをつけたら「6スター」、3個のコメントにスターをつけたら「4スター」…などと、スター数が整数になるパターンが増える。
また、従来の「1スター」が「12スター」になるかもしれないわけで、コメントを書く側は一発逆転を狙ってくるだろうから、コメントにも多様性が生まれてくるだろう。
(追記)
ブコメでは「人気のコメント」を廃止するって意見があるけど、個人的には嫌だなあ。ずらずら新着順で並んだ中から「玉」なコメントを探すのは一苦労な気がする。
少なくとも個人的には、そうなったら他人のコメントを見る習慣はなくなると思う。まあ、「人気のコメント」をファーストビューにしないってのは、多様性にも配慮できるって観点で賛成だけど。
(追記2)
コメントのスター偏り自体が問題じゃないことに気づいたので、タイトルを変更しました。
(旧タイトル:はてブのスターが特定コメントに偏る問題の解決法)
(追記3)
1つのコメントに1ユーザーが沢山のスターをつけても人気順は変わらないことを指摘するブコメやトラバがあるけど、そのことは一応知ってたつもり。
これは書き方が悪くて本当にごめんやけど、言いたいのは、1ユーザーが複数のコメントに1つずつスターを付与する場合に、沢山のコメントにスターを付与したユーザーほど有利になる現象があるかもって話でした。
(追記4)
これまで、文頭を「運営側が対策しなくてはいけないほど、好ましくない特定コメントにスターが偏るのは、」と書いており、これはこないだの「世の中」カテゴリのスターが非表示になったことを差しているつもりでしたが、上記リンク先の記事には、"「より豊かで多様な価値観が集まるプラットフォーム」を目指す一環として、今回はスターの表示方法を見直しました"とあり、それは私の認識違いであり誤解を与える表現でしたので、修正しました。
(追記5)
ブコメを見ると、自分にとって気に食わない特定の「思想性」を排斥する話だと勘違いされているみたいなので、「思想性」という用語は消しました。
代わりに、上記の「多様な価値観」について述べたくなったので、そのあたりを追加して再改題しました。すると、カラースターの下り(カラースターは今まで通りの扱いにする旨の内容)は要らないと思えてきたので、消しました。
あと、「多様な価値観」を確保するんなら、スターの数値をいじるんじゃなくて、「人気のコメント」のアルゴリズムを変更するだけで十分なような気がしてきました。分数カウントはやっぱりわかりづらいかもしれません。
チビガリで顔は良く言って微妙22まで彼女いたことなし童貞だったそんな俺が週8デートして童貞を捨てた方法を書いてみる
女と連絡先を交換出来ると知ればどんなところにも行ったし、手段を選ばなかった
合コンやオフ会と聞けばどこでも行ったTwitterやスカイプちゃんねる、チャットアプリとかも使った
だいたいデートしてくれないし変なやつだと思われたりドン引きされたりする
それも全て経験、会話を重ねることによって最大公約数的な戦略が見えてきた
女性にとって地雷な言動とかは会話が止まったり相手からの連絡が無くなるのでそういった状況などから少しずつ学習していった
それと同時に合コンなどの場でダントツでモテる人がいたらその人の横に陣取って立ち振舞を逐一見ていた
余裕があってモテる男は男とも飲みに行ってくれるから話を聞いてもらったりコツを聞いたりもしたし、一緒に合コンとか街コンに行ってもらってダメ出しをしてもらったりもした
そういうなかで出来たナンパ仲間といろんな合コンやら相席屋やらオフ会やらもいった
全てはトライアンドエラー
最初の一球から最高の球を投げれる人なんていないのと一緒、文章やノウハウをどれだけ見たって練習なしでいい球は投げれない。
頭でっかちの俺は知性を重視しすぎて経験や失敗を軽視しすぎていた
とにかくトライアンドエラーを繰り返し最大公約数の振る舞いと地雷を踏まない立ち回りを手に入れた結果女性からの信頼を得て調子に乗った結果週8デートにこぎつけることに成功した、最初に出会い系やらを初めてから2年位経ってからの話
週8回デートすると途中で心臓が痛くなる(睡眠不足等による体の不調)
合計すると数千回女の子に声をかけてるし、デートした子の友達が振られた子だったり同じ子に2回声をかけてたりいろいろあったし紆余曲折の後、来年には結婚する。
数千回声かけたりいろんな失敗をした気づきはあるが、一人一人弱点や強みが違うから一人一人がトライアンドエラーで成功する方法を導き出すべきだと思う。
デートを断られたりするの最初はとんでもなくしんどいけど、だんだん慣れてくる、しんどいけど
最初しんどいのは何でも一緒、目的のためにしんどさを乗り越えなきゃいけない、それが出来ないならその程度の欲求ってことだと思うから上手く付き合う方法を考えたほうがいい。
俺はモテないのに性欲強いし、肌のふれあいが好きだから何でも出来た、やるかやらないか、やる価値があるかどうかは一人一人の状況次第だと思う。
フェミニストは大義名分を建前に自分たちの利益を無尽蔵に欲しがってる、みたいな言われ方をたまにしてるじゃん。あれはまあいい過ぎなんだけど。
でも潔癖で容赦ない感じになってんのって、フェミニストないし女性の利益の多くが、社会的正義と重なってるからだと思うんだよね。
適当だけど、六割か七割くらい?
現代社会って、協調性や社会性や穏健さや平和や安全や肉体的弱者救済が、良いものとされてるわけじゃん。
そんで、あえて雑な言い方するけど、最大公約数的な「女性的特徴」と「男性的特徴」を比べれば、女性的特徴の方が現代社会の求めるものと合致してる。
男性的特徴……テストステロンで加速される特徴は現代社会の正義とはやや噛み合わせが悪い。
だから女性にとって、社会的に正しいことが行われるよう主張すれば、自然と自分の利益拡大に繋がる事が多い。
逆に自分の利益や快楽のために活動してても、勝手に社会正義のお墨付きがもらえたりもする。
そうするともう、主張に歯止めがなくなるんだよね。
良いことだって、あんまり徹底したり急速に推し進めたら弊害が大きいんだけど、世の中の徹底的で潔癖なまでにやりたくなる。
それに、自分の生きやすさが社会正義と重なる事に慣れきって、そこの合致を疑わなくなる。
さっき女性の利益と社会的正義は六割か七割重なるっていったけど、当然重ならない部分もあるわけよ。
なのに、女性の利益……というか「たまたま女性である私個人や周囲の同調者」の心地よさに繋がるってだけのことが、即ち社会的に正しいはずだと勘違いしやすい。
この記事はフェミニストに批判的だから女性読者はむっとしてるかもしんないけど、でもちょっと思い出してほしい、女性だけのコミュニティでも、自分の得になるってだけなのに世の中や集団のために正しいという皮を被り(しかも本人は正義だと思い込んで)啓蒙してくる人目につきませんでしたか。
これは当然フェミに限らないんだよな。
普段、真っ当なことや良いことをガンガン進めてる人が、たまにめっちゃ個人的主張を、正しいことを主張するのと同じ勢いの強さで言い張る、みたいなのがWebでは沢山見られるようになった。
まぁ、だからって良いことをするのはやめろってのもおかしいけど。
協調性や社会性や穏健さや平和や安全や肉体的弱者救済を訴えるな、口を塞げ、みたいになったら、やっぱ世の中不穏になる気がするし。
いやはや、困ったもんですね。
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。
ちょい強気でノリがよくて、それゆえ体育会系価値観全開だったり
根性で人に無理をさせるブラック企業価値観だったり男尊女卑でも
結果的にその手のタイプの人間は弱者の味方陣営の思想になりにくい
現在では保守与党もおいそれと否定できない現在の「普通」基準が確立された
18世紀のフランス革命以前を基準に考えれば、世界はずっと「左翼化」し続けている
今や世襲貴族の特権なんかほとんどない、地主が農民を奴隷のように支配もしてない
(それらを実現させたのは、政治的な運動より産業資本主義とテクノロジーという面もある)
今でも、別に小難しい左翼イデオロギーが好きでも何でもない大衆の間でも
「ブラック企業はヤダ」「男尊女卑とか古い」みたいな価値観が蔓延してる
これ、イデオロギー以前の、楽になりたいとか束縛は嫌、みたいな「感情」だろ
マイノリティに対する問題に関しても、在特会みたいに露骨に排外主義という
小難しい主義を唱えるような連中は「なんだかわかんないけど怖い・ダサくて格好悪い」
それでよいのではないか
今までのキャリアで、あらゆる状況に対応すべく、いろいろな知識と経験を積んできたわけだが、
でも、今になってこれしかないんだ!というものが自分の中にない。
逆にいうと、あらゆる可能性が見えてしまい、絞り込めないと言ったほうが正しいのか。
周りでうまくいった人たちはそういう部分だけはしっかりあった気がする。
選択と集中というやつだろう。
無論、道義的、道徳的に正しいとか関係なくて、各々のエゴの元に動いているだけで、客観的に見たら、ウワーってなるものもあったし、
大きな波に一度は乗ったとしても、栄枯盛衰で消えてった人もたくさんいる。
同時に、そういう単細胞な発想で、周りを潰してでも自分のエゴを貫く人に辟易していたくらいだ。
いろいろあって自分が新しいステップを自分自身で切り開いて行かないとならない段になって急に腰が引けてる。
自分で課題を設定し、伸ばしていくということより、誰かのやらかしのフォローや
誰かが勝手に設定したアホみたいなハードルばっかりこなしちゃったことで、自分で課題設定する能力が身につかなかったのかもしれない。
メタルギアソリッドで言えば、スネークを目指していたし、あらゆる場面であらゆるミッションを完遂できる人間になりたかった。
でも、それが目的になってしまって、その先が突然見えなくなった感じだ。
まるで、ランボー1の様だ。しかばねの中を歩き続けたのに報われるものは何もない。そんな中でどうやって生きたらいいのか。
令和の切り替わりのタイミングで、奇しくも、こういう状況におかれ、こんな感じでチラシの裏を書き散らかしている。
ただ、こう書いている中で、やりたいことが全くないわけではなかった。
当然幸せのベクトルはそれぞれ違う。そのなかで、最大公約数的な仕組みを作って小さいながら、関わる人が全て笑って生きていれたらいいと思った。
このルールを破ってまで、収益を追求するような生き方はしたくなかった。
当然稼ぐ楽しみっていうのはあるけれど、拡大する中で必ず歪むしその歪にアサインされる悲しい人が現れる。
そのプロセスでこれ以上辛い思いをする人を増やしたくなかったのかもしれない。
そうならない様みんな頑張った分正しい評価をもらえればいいと思っていた。
これはやっぱり綺麗事なのか。それとも、今の社会ではこういう普通の人なら願いそうな事柄は構造上無理なのだろうか。
いや、自分がこういう課題を設定した以上、弱音を吐かずに今言った様な理想を実現できるものを作るべきなのだろうな。
書き出した時は器用貧乏すぎて自分がよく見えてないという風な話を書きたかったのだが、
よく考えたら抽象的なレイヤーではあるが、基本ポリシーは持っていた。
もう少し、これからのことを考えてみよう。