はてなキーワード: 既製品とは
ゴールデンウィークで実家に帰ると、誰からもらったか知らないが、12ヶ月分のカレンダーが文字として編まれた布地が居間に掛かっていた。
しかし、カレンダーが編まれた布地なんて最大で一年しか使えないんだから、もったいない労力のかけ方じゃねえのかと思ったりする。
掛け軸しかり、もっと長年大事にされるものにこそ、布を編むなり書を書くなりの労力をかければいいのにと思ったのだ。
おそらく既製品であり、手編みでは無いんだろうが、カレンダーなんて紙でよく、毎月ペリペリとはがせばいいだろうと思ったのだ。
それでもだ。未来にはどうなるのだろう。
書籍だけでなく、あらゆる紙製品がそうなっていく。何ならホログラムになったりもするだろう。
そして、それはカレンダーにおいてもそうだろう。
そうなったとき、紙のカレンダーは、私が居間で感じたあの感覚を以て捉えられるのかもしれない。
そう考えると、布地のカレンダーも紙のカレンダーも、未来人にはまさに五十歩百歩なんだろう。
だから、私の、紙と布のその区別こそ、思考する労力をかけるような永続性を持たない。
それなら、私たちは紙のカレンダーも、布地のカレンダーのようにその労力を尊び、大事にしてもいいんだろう。
ましてや、布地のカレンダー。その丁寧な目の運び。細やかな仕事の出来。機械折りとしても、しっかりとした作り。
そういう目で見ていると、愛おしさが生まれてくる。
お祭りの最後に燃やされるのを知ってなお一生懸命、色紙やクーピーで色付けたのだった。
そんな懐かしいことまで思い出せたのだった。すぐ失われるとしても費やしたあの労力は、本当に美しいものだった。
そう考えると、目の前にある布地にも慈しみが生まれ、引きちぎるように引き寄せてはゴミ袋に詰め、その役割を強制終了させる。
また、どこのご家庭にもある紙のカレンダーは、実家にも当然あった。
5月を示すそれらのカレンダーは目につく限り全てはがし、ビリビリに破ってからゴミ袋に詰める。
ゴミ袋でも、カレンダーとカレンダーの夢の共演が繰り広げられている。
しかし、そんなのに浸っていてはいけない。こんな破滅的な感情は正しくない。
なぜなら、ホログラムは滅びることはない。
永遠に生き続けるのだから、文章を編み小説を書くような労力をかける意味がある。
と思って目を開けると、カレンダーは元の位置にあり、龍は斜め上を見上げていた。
その先には、ソースのようなしみが何個か付着していた。
現代アートでは「苦労して本人が描いているか」は評価に影響しない。有名アーティストは自分のスタジオを設立し、スタジオのメンバーが手を動かして作品を作っているケースが多い。アーティスト本人はアイデアを考え、作品コンセプトを練り、発表の場を作っていく。
そして「作品の物体を作っているのか」も関係がない。有名なマルセル・デュシャンのトイレ作品「泉」以降、すべての作品はレディ・メイド(既製品)であり、アーティストが行うのは制作ではなく「選択」であると考えられている。
油絵を描くにしても、アーティストは絵の具やキャンバスなどの既製品を購入(選択)し、どの色を使うかを選び、どこにどのように配置するかを選んでいる。既製品の使い方を選択し続けている。
何か新しいもの、存在していなかった物体を作り出しているわけではなく、既製品の選択の組み合わせが新しいアイデアを生み出しているかが大事ということだ。
AIツールの種類を、ツールのバージョンを、プロンプトを選択する。出力した画像の組み合わせ方を、画像の使い方を、画像の説明付けを選択する。ツールによって作り出すもので、何を成し遂げたいのかを常に選択する。
知らんけど。
現代アートでは「苦労して本人が描いているか」は評価に影響しない。有名アーティストは自分のスタジオを設立し、スタジオのメンバーが手を動かして作品を作っているケースが多い。アーティスト本人はアイデアを考え、作品コンセプトを練り、発表の場を作っていく。
そして「作品の物体を作っているのか」も関係がない。有名なマルセル・デュシャンのトイレ作品「泉」以降、すべての作品はレディ・メイド(既製品)であり、アーティストが行うのは制作ではなく「選択」であると考えられている。
油絵を描くにしても、アーティストは絵の具やキャンバスなどの既製品を購入(選択)し、どの色を使うかを選び、どこにどのように配置するかを選んでいる。既製品の使い方を選択し続けている。
何か新しいもの、存在していなかった物体を作り出しているわけではなく、既製品の選択の組み合わせが新しいアイデアを生み出しているかが大事ということだ。
AIツールの種類を、ツールのバージョンを、プロンプトを選択する。出力した画像の組み合わせ方を、画像の使い方を、画像の説明付けを選択する。ツールによって作り出すもので、何を成し遂げたいのかを常に選択する。
知らんけど。
ハッピーバレンタイン!!男性増田のみんなはチョコレートをもらえたかな????🍫
当方、JTCに勤める若手女性社員(20代前半、独身彼氏なし)である。
入社して以降、バレンタインデーには仲のいい同期や先輩・後輩たちと合同で課内の男性陣に義理チョコをバラまいている。みんなで渡せばお返しに差をつけられることも(あまり)ないからな。
年によって適当な安い既製品のお菓子を詰め合わせにすることもあれば、お菓子作りが好きな子に頼んで作ってもらうこともあるが、男性1人当たりの予算はおおむね100〜150円程度だ。
人によってはこちらの原価と手間をある程度見抜いて「ちょっと色をつけた」程度のお返しをセレクトしてくる奴もいるが、見栄を張ってか明らかに奮発しすぎているだろうというお返しをしてくる人もいる。
「ホワイトデーのお返しは3倍返し」という謎の相場感があるが、トータルでならすとたしかにおおよそ投資額の3〜5倍くらいに収斂している感触がある(まあそもそもの投資額がそう大きくはないのだが)。
1カ月で+200〜400%!!米株のここ30年くらいのリターンが平均利回りが10%くらいらしいので圧倒的な投資成績だ。しかも「お返しセンスの品評会」というおまけまでついている。お返しが高いか安いかもまあ見るが、「何を選んだか」ももちろん見られているぞ。
高くてもみんな知ってるようなブランドのものだと「無難に置きにきたな」と思うし、そんなに高くなくても店舗数が少なくてオンラインショップもないような人気店のものだと「頑張って選んで買ってきてくれたんだな」と思う。そんな感じのない年配の上司がめちゃいいセンスのお返しだと、「奥さんや娘さんのアドバイスかな」と無駄に深読みしまったりもする。
まあ何が言いたいかというと、お返しの値段やセンスでけっこう天秤にかけられてるので、世の(チョコをもらった)男性陣はあと1カ月、うんうん考えてお返ししてください。
30歳素材メーカー開発職
2050年カーボンニュートラル達成を政府が提言している。それを実現できる技術を支えているのだ
でもこういうサステナブルな需要ってすごく胡散臭くて好きじゃない。
好きなものを好きと、美味しいものを美味しいと、初めて見た技術に感動を、そうやって僕らは仕事から心を動かされてきた。サステナブルは何か違う。みんな心の底から危機感も尊敬の念も全くなく、オーガニックババアや進次郎みたいなステークホルダーに怯えてなんとなく取り組む企業しかいない。
ぶっちゃけ20年後、50年後、100年後に地球がどうなっているかなんてみんな真剣に考えていない。だから要求もあやふやだし、草を使えば、木をつかえば、ゴミを使えば…なんとなくで決める。
なーにがアップサイクルじゃ。化学は魔法じゃない。ゴミをプラスチックにするためには化石を燃やして莫大なエネルギーつかって、既製品より使い勝手が悪いもの作ってもつまらないんだよ!!
Dは魚きのこ卵くらいからしか摂れんから意識しないと不足しがちだ! サプリでもいいがな!
ここはアガりつつDを摂れるアンチョビとキノコのピザを作っていこう!
他の具はトマトソース、モッツァレラ、オリーブ、粉チーズ、オレガノ、スライスにんにく、回し掛けオリーブオイルくらいだな!
トマトソース(トマト缶を崩したものでOK)とモッツァ(シュレッドチーズで代用してもOK)は必須としてあとは好みだ!
フライパンで蓋して強火2分焼いて底を固めたあと、魚焼きグリルの網に直のせして強火2分(フライパン焼き中に予熱しとく)、これでOK!
魚焼きグリルがない場合は……かわりにバーナーで上から炙ればOK! その方がムラができず良いくらいだ!
グリルを主軸にするならグリルピザプレートってのを使えばグリルで一貫して作れるな!
生地は自分で粉からこねてもいいが、元気がなければ既製品のピザクラストみたいなやつでも良い!
本当に力尽きてるときはトースターで焼くだけのチルドピザや宅配ピザでも勿論いい! チーズにも微量ながらDはあるしトリプトファンも摂れる!
ほかだと、主に魚からのD摂取で、サバやサケやマグロといった脂の多い魚が良い!
マグロの中で特に優れたビンチョウはツナ缶にもなってるので、ツナをピザトーストに乗せるなんてのも習慣的にDを補給できる手軽な方法だ!
非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。
東大のガラス器具作る方が退職されたってやつ、そんなに問題なのかなって思ってる
既製品じゃない実験用ガラス器具が日本から消滅するわけじゃないし、業者に金出せば作ってくれるわけだから
20年前に有機合成系で修士まで取ったけど(もちろん東大じゃない)、その頃も既製品にはないガラス器具を作ることはあったけど、自分が3年いた研究室で作ったのはたぶん1度だけ
加圧できるガラス器具は既製品もあるけど既製品だと小さいし、ステンレス製だと具合が悪いのか、わざわざガラス製で特注した
ステンレス製で具合が悪いというのは、例えば金属を侵す水素を使う場合がある
お値段はたぶん50万円~100万円くらいだと思う
自分がやっていた合成は少し特殊なジャンルで、似たジャンルの論文を見ていると特注して作ったであろうガラス器具を使った論文がたまにあったのだけど、100報に1報くらいって感じだと思う
というわけで、学内でガラス器具を作ってもらえなくても大した問題じゃないだろうと考えている
何度も器具を作り直すようなパワープレーには向かないから、小回りは効かなくなるけど
要するに、ガラス器具を作ってもらったことのない人の与太話はどうでもいいけど、ガラス器具を作ってもらった思い出話には興味がある
先日の毒マフィン食中毒騒動で思い出したから愚痴るけど数年前に兄がバレンタインに手作りのお菓子をもらい、俺が彼女にもらったバレンタインチョコは既製品だった事についてお前の彼女より自分の彼女の方が上だというニュアンスのマウント取ってきたことがあった。
その時兄が貰ってたのがマフィンだったので当時調べたんだが、マフィンの作り方って材料をかき混ぜて型に流して焼くだけの事で何もすごい事はなく、材料費も大まかに計算してから兄が貰った個数分を割り出すと彼女が俺のために選んでくれたブランドのチョコレートよりもずっと安上がりで笑ってしまった。お前の彼女なんも偉くねえじゃん、ただ手抜きでケチってるだけじゃん、と。
何時間も色々な店を見て俺のために時間をかけて選んでくれた彼女の方が遥かに気持ちがこもっているし、それに比べて、たかが短時間で安く量産できる素人の手作り()焼き菓子の何をありがたがってドヤ顔でマウントしようと思ったのかと考えると失笑ものだったな。
それを思い返すと今回のマフィン騒動も、プロでもないくせに手作り菓子をやたら価値のあるものと思い込んでるアホにろくな奴いないことが裏付けられる事件だわ。
バンダイはもうプラモデルを切りたがってるのか知らんけど完成品の方が完成度が高くてプラモデル派としてはめちゃくちゃ羨ましい
プラモデルの利点は好きに改造して自分だけの一品を作れることだけど、わかっちゃいるけど完成品のスタイルでプラモデルで欲しい!ってのが本音だ
例えばバイファムはこの前新規金型で発売してくれたのは嬉しいけど細身の現代的なプロポーションに成り果てて発売された
しかしロボット魂でのバイファムは設定画のイメージをベースにアニメの活躍イメージを想像させる見事なプロポーションに加え可動についても非常に高度に再現している
例えばダンバインは2度もリメイクしてるのに1度目はオーラファンタズムにやや足をかけたどっちつかずのアレンジ、直近の2度目は設定画に近づけたのはいいけどこちらも細マッチョのいつものバンダイプラモデルなアレンジでこれじゃねえんだよというフォルム
こちらもロボット魂でのシリーズ展開はアニメ設定画を強くイメージさせるプロポーションで劇中の活躍を再現できる程度のアレンジしかなくずっと見てられる、うっとりするできばえだ
このあたりの結果の違いが本当に残念でしょうがない
ただロボット魂などの完成品は既製品ということもあり表面処理やゲート処理なんかがやはりお粗末な状態であり、そういう部分が非常に「なんとかしたい」ところ
都会気分で引っ越すと痛い目にあうよ
家賃安いとこなんか築30〜50年くらいの不便なアパートしかないし
なので不便な場所の安アパートに住めば暮らせるけど、田舎はまじでなんもないよ
「ネットがあれば地方でも」つってるけど映画館も美術館も博物館もないけど耐えられんの?
サブカル系のイベントも店も何もかもないし「サブカルってなに?食べ物?」くらいの人しか田舎にはいません
リアルで語り合える人誰もいません
オフ会だのコミケだの、行くのに10万円〜とかかかりますよ無理でしょ
日本のバンドのライブツアーもせいぜい県庁所在地にしか来ないよ
洋楽やクラシックは諦めましょう、クラシック生演奏なんか田舎民には存在すら知られていません
限界既婚中年女性だからだろうけど、食えりゃいいし、生きてけりゃいいので、
自炊なんて、どれだけ手を抜いてうまいものが食えるか、みたいにしか考えてないんだけど…
今はレトルトや冷凍、インスタントでも十分に健康的でうまいものあるし…(冷凍野菜は高騰しにくいから家計にやさしいし)
夫婦間で他人が作ってくれた料理をこき下ろす、みたいな話とかネットに溢れてるけど、家族ってそういうもんなん?
相当なメシマズじゃなければ、作ってもらってラッキーみたいに思うだけだけど
(まあつくってくれてありがたいのとはべつに麺ゆでた大きい鍋とザルを丸3日放置しがちな家族にはうちでもねちねちいうけど。洗うところまでが料理です)
でも、皿洗いは溜めるほうだな…(食洗器を一日に何回もまわすのガス代もったいないから)
今年の夏はコバエが大量発生して流石にマズイと思ったし…(皿からじゃなくて生ごみ箱だね、雨が続いたりで週一回出しそびれただけでもわくからしょうがない)
だいたい主語かえてもおなじ結論だったけど、果物と根菜だけはどういう既製品でも割高なので自分で買ってきて剥くからそこが主婦感アップのコツかね