はてなキーワード: 阿呆とは
普通に生きている場合「人を殺してしまう可能性」は限りなく低いが
しかし自分の様に「大人の殆どが免許と車を持ち運転している」田舎住みなのに運転していないと大変不便な上に奇異な目で見られる
(そんなわけあるか。お前らド阿呆に出来ることが出来ないわけねーだろ。つーか、お前こそ運転すんなよな。危ねえ
ほんと増田の言う通り「よく平気で運転してんな。どういう神経してんだ。この下手くそが。歩行者用の信号が青に変わってるのに交差点に突っ込んで来るんじゃあねえよ。この人殺しが」と思う)
東京の様に「免許保有率50%」なんてところに住んでるなら別に運転する必要無い。身分証だってマイナンバーカードで事足りるから免許も要らない
でもほんと、自分は人殺しになる危険性を無視してでも免許取って運転するかな…と思い始めている(冬場はタクシー使ってたけど、やっぱり高いしな。夏場のケッタ移動は日焼けと疲労が辛いし。電アシでも辛い)
総ての車が自動運転になったら自分も車乗るんだけどなあ(自分の運転技術とかの問題じゃなくて、他の奴等の無法な運転が自動運転によって制御される世界であることが肝要)
我々は感想文を書くとき、小学校低学年では「~だと思った」で終わる文章しか書けなかったのに、徐々に「~だと考えさせられた」「~と感じた」など、それっぽい言葉で文章を締める手法を獲得してきた。
この手法はたとえ感性が1ミリも変わっていなくても、表現する言葉を駆使すると文章が格段に『良く』なり『説得力』が増すことを(そして文字数を稼げる上に、教師の受けが良いことを)、学校教育を通じて身につけてきた。
そして今、良き書き手が自分の言いたいことをすべて表現してくれたのだと褒め称え、自分の感想すら放棄する「言語化してくれてありがとう」を獲得したことは、上記の事柄と一直線上にある出来事だと私は思う。
なぜなら、文章をとにかく『良く』して『説得力』を持たせることを重視してきた者たちにとって、学校の感想文や小論文ほど文字数を稼ぐ必要のないSNSのポストで自分の感想を長々と言語化することはあまり意味がなくタイパが悪く、とはいえ「ヤバイ」「すごい」と書くだけではただの阿呆だと思われるので、ここはひとつ「言語化してくれてありがとう」と表明して、「実は自分は常々このように思っていたのだ」という顔をしてみせ、実際にどのような理解をしたのか、どのような心の動きがあったのかは秘匿するどころか、これを読んだあなたに委譲することにしよう――というのがかなり効率的に自分を良く見せられる方法だからである。
そしてこの『効率的に自分を良く見せられる』というのがまさに、それっぽい言葉が良い点数を稼げることに繋がることを教えてくれた学校教育の賜物であるのだ。