はてなキーワード: ゼッケンとは
男も女も、あまりにも歳をとることにネガティブなイメージを持ちすぎている気がする。私もそうだ。
原因はなんだろうと考えたけど、いまいちしっくりくるものが出ない。
自分たちもいずれ向かう現実なのに、外見的にも内面的にも、自分はああはならないと確信している印象すら受ける。
外見的なことを言えば、別に太ってもいいじゃないかと私は思う。
シワが増えても、髪が減っても、背が縮んでも、体力が落ちても。
歳を重ねるっていうのは、それだけ長く頑張って生き延びてきたということなのだから、その過程で避けられない老朽化には自信を持って生きていきたいと思う。
しかしそれと同時に、内面的には、ああはなりたくないと憎しみにすら近い感情を抱くのだ。
若者はこれからの社会を支える重要な存在だ。狭い部屋に住んで、安い飯を食べて、たくさん働いて、税金を納める。それが私たち若者。
しかし街中に出れば至る所で年上を敬えと強要される場面に出くわす。
私だって蔑ろにしたくてしているわけじゃない、尊敬に値しない年上が多すぎるのだ。
高校の頃、部活で疲れて電車の普通席に座って寝ていたことがある。
膝の上にはスクールバッグと部活用のエナメルバッグ、足の間には当番制で洗濯しているゼッケン袋があった。ヘトヘトになってうたた寝していた私を、誰かが突然叩き起こした。
朦朧としながら顔を上げると、目の前には手ぶらで佇む60代くらいのおばさんがいた。
おばさんは目を釣り上げながら私に「退いてくれないかしら、あなたが一番若いし。」と言うと、私を立ち上がらせた。
周りを見渡してもみんな見て見ぬフリだった。確かに、私はその車両では一番若かった。
結局私は彼女が電車を降りるまで、立ったまま体の前にバッグを積み重ねてつり革につかまりながら寝続けた。
誰しもにある経験だと思う。
私たちはこれを、この先ずっと繰り返していくことになる。しかも優先するべき老人の数はどんどん増える。若者がこの椅子取りゲームに勝つ術はない。
この出来事だけでなく、言うことを聞かない年上の部下、根拠もなく私が若いというだけで提案を無視する上司、投票所に並ぶ私を見えてないかのように割り込みするおじさん。尊敬できない年上に蔑ろにされた経験は数え切れないほど存在する。
些細なことだけど、それがいくつも積み重なれば憎しみにも似た感情が生まれても仕方ないと思う。
私は彼らのようにはなりたくない。
自分の指標となるような、尊敬できる大人を見つける必要がある。
若い私たちを疎ましく思わずに、導いてくれる人を。諭してくれる人を。
歳をとることへの恐怖に打ち勝つ一番の近道はそれじゃないだろうか。
まず今回F1運営が廃止すると言ったのは「グリッドガール」であって「レースクイーン(英語だとPromotional Girl)」ではない。
ここは押さえて頂きたい。従ってF1全体から女性が消えるわけではなく、チーム、スポンサーに属する女性プロモーション要員は継続して残る。これ前提。
グリッドガールっていうのはF1のスタート前にゼッケンボードを掲げて車の横にいる係。各国のASN(日本で言うJAF)の仕切りで雇われたり配置されたりする。
これはある時期に死亡事故が多発して、せめて最後は美女の顔が見たいというドライバーの要望(?)によって配置されるようになったと言われている。
恐らく運営側が「時代に合わない」というのはまずは死亡事故が激減(無くなったわけではない)し、そのようなニーズがまず無くなったというのと、
実は昨今F1運営にも大きな人事異動があって「あの人と違うことがやりたい」という意識も作用しているものと思われる。
また、その変わりようも英国人OUT米国人INなので、自由に開かれたF1!みたいな事をシンボリックにやろうとしているように思える。
なんかアメリカ人の考えそうなことでしょ?
ガチ零細で働いている。誰がどう見ても零細企業だ。社屋が物理的につぶれかけている。社長は老害。実質社員は俺一人。しかし中身はなかなかに健全だ。仕事やってれば細かいこと言われないし、給料もそこそこ。次期社長を操って社会保険も完備させた。定期的に短い出張があるのでリフレッシュも出来る。残業なし。これがでかい。社長はガチ老害だが、老害すぎて客も社長を避けるレベルに到達したので基本的に平和だ。老害トークが始まったら外に出れば良いからな。事務員さんも平気で外に出る。
入社以来、ひたすらにストレス要因をつぶしてきたが、最後のストレス源が残っている。それは客だ。
客の品質がとにかく悪い。
何とか客も厳選して来たんだが、やはりどうにもならないところはある。
これは中小零細大企業問わずだが、とにかく50代以降のオッサンどもは挨拶が出来ねぇ。
横柄な奴、ニヤけた奴、不機嫌な奴、やたら忙しいフリをしてる奴、高級スーツに着られている奴、美人秘書を連れてくる時代錯誤な奴、日本語が出来ない奴、ヤンキー上がり丸出しな奴、いろんなオッサンどもが来るが、どいつもこいつも挨拶をしねぇ。挨拶をしたとしても、名乗らねぇ。
どいつもこいつも、「自分のことは知っていて当然」な面をしていやがる。そんなのどうでも良いから名乗れよ。とにかく名乗れ。名前をいえ。所属と目的を言え。おまえらは親に「ごあいさつは?」って言われないと挨拶出来ないのかよ。
まぁ大企業のお偉方が俺らのようなガチ零細に礼儀を尽くさないのは仕方ないかもしれんがな。でも名乗れよ。首が短いのに高級スーツ着てるなよ。せせこましいオヤジだなおい。ダセぇよ。っていうか名乗れよ。名乗れば来客ノートか名刺の裏に「ブランドスーツに着られている猪首オヤジ」と書いておけるからな。名乗らねぇとそれも書けないだろ。いや、ちゃんと名前は訊くけどな。尋ねるよ。「お名前はなんとおっしゃいますか?」って。でも訊かせるなよ。名乗れよ。名前を。お前の名前を。
とにかくオッサン連中にストレスを感じる毎日だが、事はオッサンに限らない。
思うに、会社規模を横軸に、名乗り具合を縦軸にグラフを書くと正規分布になるんじゃないか。
中小企業が一番名乗る。中小企業は「自分の会社が知られているかどうかわからない微妙なライン」だから、ちゃんと名乗る人が多いな。大企業は礼儀正しく名乗る人と名乗らない奴で二極化される。零細企業はまず名乗らんな。っていうか、零細の中には、生まれてから一度も自己紹介したこと無いようなのがけっこういる。生まれてからずっと狭い世界で生きていたので、自分の知らない人と話す機会が無いんだろう。老害社長の知り合いはこの手の輩が多いな。汚らしい格好でふらっとやってきて「○○ちゃん(老害社長の幼名)いないの?」とか事務員さんに絡み始める。うるせぇ。仕事の邪魔をするな。暗に茶を要求してるんじゃねえよ。こっちが仕事してると「忙しそうだぇ~」とか言い出す。黙れよ。お前は誰なんだよ。俺はお前には絶対に名前は訊かねぇからな。出がらしの茶をすすって帰りやがれ。
つーかもう、マジで名乗ることを法制化してくれ。名乗らなかった奴は厳罰で良いだろ。「本当の名を知られると呪術をかけられる」みたいな時代じゃねえんだぞ。陰陽師かよ。名乗れない奴は名札つけろ。いや、ゼッケンつけろ。名乗れ。名乗ってくれ。頼む。頼まれなくても名乗ってくれ。
いかな新人さんであろうとも、名乗ってくれるだけで信頼度は格段に上がる。新入社員の人はちゃんと名乗ってくれるからいい。数年するt名乗らなくなる奴もでてくるがな。そういう奴には仕事は回さねぇ。
名乗ったり自己紹介したりが苦手な人は居るだろう。その気持ちはわかる。しかし、名乗りと自己紹介だけは人間の基本スキルとして押さえておいてほしい。人間として。そうでなければあの汚らしいオッサンどもと同類になるぞ。
自己紹介のコツはたった一つだ。
まず名乗る「~~の○○です」。次に、ここにいる理由を言う「○○さんの紹介で、こちらでは○○を取り扱っていると伺ったので参りました。お忙しいところありがとう御座います」。これでもう非の打ち所のない自己紹介だ。あとは自分は普段何をしているのかとか適当に付け足していけば良い。
これから会社で働き始める人とか、新人を教育する人とか、とにかく、「名乗って、自己紹介する」事に注意してくれよな。
海外でも仕事するけど、海外でさえ名乗らない日本人多いんだよ。
「人に名前を尋ねるなら、先に名乗れ」みたいなカッコイイ台詞あるけどさ。そんな事言ってる間に名乗れ。その発音の労力を名乗ることに注力してくれと思うんだよね。この台詞は「必殺技名を叫ぶ」みたいなもんでさ。リアルじゃないんだよ。リアルと創作の区別はつけようぜ。
名乗れ。
腕を下げるとめちゃくちゃ血管浮き出るくらい皮膚が薄い?血管が太い?のに、
手首で脈拍はかるのはどうしてもできなかった
チーッスみたいな手で手首にぴしゃっと指を当てて静かに脈拍をはかってる人がうらやましかった
学校、とくに小学校のときはみんなと同じであることをものすごく気にするんだよね
まあうんこ行くっていう生理的なイレギュラーですらハブの対象になるくらいだし
あと覚えてるのは体操服に縫い付けるゼッケンと裁縫道具セットだな
ゼッケンはクラスと名前が書いてある20cm四方程度の布を体操服の上着の前後に縫い付けることになってて、
学校で注文するかおうちで用意できる人はそれでいいって話だった
うちはそれくらいなら家でやるって感じでマジックで書いた貧相な見た目のゼッケンで、
学校で団体注文したカッコいい極太ゴシック体のゼッケンにすごく劣等感というか、恥ずかしい思いをした
裁縫道具セットも学校で注文するか家からもってくかってので、家からもっていかされて買ってもらえなかった
親目線だとそれは正しいんだけど、子ども心にはすごく不満を持ってた
イイコチャンだったから言えなかっただけだけど
文章は下手だけど精一杯書いてみます。そんなことをしてしまうくらいには苛立ったということで、その理由と詳細。
読みにくい文で長々と個人的な感想を述べますし、「スポーツとか知らんけどイケメンが出るから見てる」みたいな人は不快になること請け合いなのでホント読まないでください。ちなみに全部「フィクションだから」で片付けられます。理由の間は平常語。
理由①:一日全力でレースしたくらいでへばってしまう田所さんの打たれ弱さ
書いておいてなんだけどこれはまぁいい。俺は未経験者だから実際のロードレースのことなんて知らんし、心肺に負担がかかって力が出せなくなることもあるだろう。俺も一応ボートっていうレース競技をしていたから分からんでもない。
でもそれにしても回復が遅すぎる気はするし、鳴子がピンピンしてるところからも田所さんのトレーニング不足、もしくは体作りのミス(短距離特化すぎる)を感じる。自転車レースという長距離競技をする上でどうかと思う。
理由②:一日目の中間とったくらいで「俺の仕事は終わった」とか抜かす田所さんの驕り
作中で散々明言されているが、自転車レースはチーム競技だ。っていうか自転車レースはよく知らんのだけど、あんだけ言われてる以上少なくとも弱虫ペダルという作品の世界ではそうなんだろう。
そんな中で、3日通して行われるレースの、たった1日の、それも中間ポイントで一番になったくらいで仕事をした気になるというのはどうなのか。中間ポイントに大きな価値があるにせよ、このセリフはその後2日ともそこそこのスピードで走りきれた(少なくともチームに付いていくくらいはできた)奴の言うセリフだと思う。
一日目がどれだけ早くてもその後がボロボロでは他のチームにプレッシャーはかけられないだろう。グリーンゼッケンが泣くぞ。
どうでもいいけど2日目の田所さんには「過去に偉大な成績を残し一時は注目を浴びるが、その後全く奮わず周りから置いていかれる」ということで日ハムの某選手と通じるものがあるように感じる。合掌。
理由③:こんなポンコツ状態の田所を待ち、さらに彼を連れて大集団を抜き先頭に合流できるとほざく主人公・小野田坂道の驕り
これが一番の理由。小野田くん、君は何様だ?
多分小野田くんの言い分としては、田所さんの前を走ってペースを作り、かつ空気抵抗をなくしてやればスピードが上がり追い付くことができるというものなんだろうが、フラッフラでまともに走ることすらままならない人の空気抵抗がなくなったところで何がどう変わるというのか。小野田くんもまとめてペースダウンして、貴重な戦力を失うのが関の山だ。現実では。
あと田所さんはスプリンターだから登り(現在のステージ)じゃ本来の力が発揮されないそうで、泣きっ面に蜂。巻島さん十分夢見がちやがな。
それにこれはインターハイを本気で戦っている他のチームを侮る、馬鹿にするということでもある。
他のチームも皆インターハイに向けて総北に負けない過酷な練習を乗り越えてきたんだろうし、みんなそれぞれに優勝を目指して頑張っているわけだ。君の行為は彼らのプライドを踏みにじることだと理解しているか小野田くん?
そもそも君は数ヶ月前まで自転車によく乗ってるだけのオタクだったはずだ。そんなドシロウト状態から一朝一夕で力をつけた君が、インハイクラスの猛者たちを病人引っ連れてゴボウ抜きできるはずがあるか。もっと謙虚になれメガネ。一日目の百人抜きは目を瞑ったがもう我慢ならんぞ。
スポーツ漫画である以上しょうがない部分もあるのかもしれないが、この作品は根本的にそういう「主人公無双」で「モブチームを軽視する」傾向が顕著であるように感じていて、そこが非常に気に食わない。
理由④:そんな状況なのに小野田くん待つ。追い付くと言う。挙句、歌う。
これは…まぁいいや。うん。こいつらレース中めっちゃ喋るし。ストイックにレースする頭文字D的な魅せ方もあったとは思うんですけど。
奈良県民は怒っていいと思う。
③はほぼただの愚痴になっちゃいましたが、まぁこんな理由で弱虫ペダル33話は見ていてかなり胃がムカムカする思いをしました。
前述のように一応自分もレース競技に携わっていた身なので、こういう作品にはいろいろと思うところはあります。モブもモブなりにそれぞれ思いを持ってインターハイに参加している、インターハイとはその思いがぶつかる場所であるということをもう少し汲んでほしいですね。
まぁ立ち止まった小野田くんを抜かしたモブは馬鹿にしやがってと憤るよりは普通に喜んでましたけどね。自転車乗りのプライドとは一体。
末筆になりますが、自分は弱虫ペダルという作品がとても好きであること(登場人物に魅力があるし、主要キャラの思いは有り余る程伝わってくるし、鳥海浩輔)、自転車レース未経験者なので何かと的外れなことを言っている可能性は十分あること、上記のようなポイントは確かに嫌だけどそれでも見ちゃうような魅力的なアニメであることの三点は明記しておきます。以上。
http://point.recruit.co.jp/doc/campaign/cm/20140206/
このCMをソチ五輪にぶつけるリクルートさんの感覚に違和感を感じてしまいました。
ぱっと見、既成概念にとらわれない自由な生き方をすすめる感動的な内容に思えるCMです。
このCMが流れるまで、私は、スノーボード・ハーフパイプ競技のNo.1になることを夢見て、努力し続けて国の代表として五輪に出ているアスリートたちの活躍を見ていました。
華やかなステージに立つ一流選手と今の自分をぼんやり比べつつ、自分より何十歳も若い選手を尊敬のまなざしで見ていたのです。
そこへもってきて「だれかと比べなくていいんですよ、あなたの人生もすばらしいんですよ」と優しい目線を装いつつ上から語ってくるこの長尺CM(2分)が放送されたのです。
人それぞれ多様な価値観があり、その人に見合ったゴールがあるべきだという理想はわかります。
ですが、誰かに決められたゴールに向かって通しナンバーのゼッケンつけてルールに縛られて競い合うなんて古い、もっと自由であるべき!ゴールは人の数だけある!どこを走ったっていい、自分だけの道がある!などというメッセージを流して、最後には「リクルートポイント、はじまる。」「まだ、ここにない、出会い。リクルート」ですよ…。
クォリティの高い撮影や池松壮亮氏の見事な演技、ナレーションにもかかわらず、私には素晴らしいはずの「ぼくらの人生」がとてつもなく安く扱われているように感じてしまいました。
マラソンという競技に人生をかけ取り組んでいる選手たちは、このCMを見てどう思うのでしょうか?
冬季オリンピックにマラソンはありませんし、人生をマラソンに例えることが多いからマラソンを使ったのでしょうが、どうにもうなってしまいます。
リクルートさんが高い制作費と出稿料をかけて「競争ばかりの狭い世界から飛び出して、人生楽しみましょう」という広告をうつのは、リクナビ進学や受験サプリで良い学校に入って、TOWN WORKでバイトを探して、リクナビで就職して、とらばーゆして、ケイコとマナブで自分磨きして、SUUMOで住むところを決めて、ゼクシィで結婚式場を決めて、赤すぐでマタニティ用品を買って、じゃらんで旅行先の宿を決めて、じゃらんゴルフでゴルフ場予約して、HOT PEPPERグルメで居酒屋予約して、ポンパレでお得にお買い物しましょう(ほかにもいっぱいありますが)と伝えたいからです。
それを言いたいがために、決められたゴールに向かって愚直に努力するという価値観を否定するのはいかがなものでしょうか。
人生がマラソンに例えられることが多いのは、厳しいルールがあることや優勝者や完走者が偉いという価値観があるからではないでしょう。スタート時点でははるか遠く、目には見えないゴールを目指し、自分の力を信じて、レース全体のペース配分を考えつつも自分なりのペースで最後まで走り続けることが、長い人生を全うすることに似ているからだと思います。
家事代行、ペットの散歩代行という職業が有る様に『デモ代行業』という職業を作ればいいんじゃないか。
デモをしたいという思想は有るが、距離的時間的に都合がつかない、体が弱いか不自由かで無理が出来ない、どうしても顔を知られたくない等々の理由から参加出来ない人はデモ代行業者にお金を払う。
業者は指定された通りの時間・場所に指定された人数を集め指定されたゼッケンや幟を用意して指定されたセリフを唱えさせる。時給1500円位で雨天・深夜料金は割り増し。
追加要素として、年齢・性別の指定料は500円、動画撮影や生配信は1時間1000円、泣きながらの絶叫等激しい演技は1500円、警察へのデモの届け出代行は3000円。
我ながら名案だ、と思ったけどグーグルで"デモ代行"を検索すると52件引っかかった。みんな考える事は同じか。
この人が、「かまってちゃん」とか言われたりはてブで「薄馬鹿」とゼッケンをはって過ごせ、などといわゆる「普通の人」に罵倒されてしまう理由。
それは、もともと「普通の人」も、好きで空気を読んでいるわけではないからです。
何故読んでいるか。というより、何故読まざるを得なくなるか。といえば、それは「社会生活を成り立たせるため」なのです。
別に、面白くて空気を読んでるわけではないのです。「そうしないと成り立たない」から読んでいるのです。それを子供のときから続けた結果、嫌悪感も感じず自然に染み付くようになっているだけです。
それが前提としてあります。なので、「俺はこういう障害があるから、空気なんて読めません。だから、読みません。悪い?」と開き直ってる人を見ると、「ズルい」と感じるのです。「俺達だって別に読みたくて読んでるわけじゃないのに、社会生活を成り立たせるためにしかたなくちょっとずつ我慢してるのに、障害があるからって何でお前だけそれが免除されちゃうの?障害者だからって読まなくてもいいの?で、その分俺たちがまたフォローするんでしょ?空気読めない発言しても、それを注意したら差別になっちゃうんでしょ?できない人に「おい、それするなよ」なんて言っちゃいけないんだから。で、俺達はそういう人の発言を注意することもできずただ黙って我慢しろってことでしょ?一方発達障害の人は「障害があるからしかたないじゃん」ってことで何を言っても許されるんでしょ?……なんだよそれ、やってらんねえよ、あーあ、発達障害とやらがある人はいいですねぇ、読まなくても「障害があるからしかたないだろ」で済むんだから。だったら俺だって発達障害になりてーわw俺、名乗ってもいい?w」となるのです。
今もって「迎合してヘラヘラ笑っていたり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けていると、心臓が止まりそうなほどの不整脈が出る」のだから、「道理は道理、正論は正論」というスタンスしか摂りようがない。
と言っていますが、重要なのはですね、別に「普通の人」でも、「迎合してヘラヘラ笑ったり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けて」いるのは、ものすごく嫌なのだということです。でもそうしないと生きていけなかったりするので仕方なくしているのです。そこで「そうしたら不整脈になるんだからしかたないだろ」と開き直るとどうなるか。「普通の人」たちはこう思います。「じゃあ何か。俺達は、なまじ「嫌だけど、我慢できてしまう」から、ダメなのか?不整脈の一つでもでりゃ、俺達も我慢しなくていいのか?」と。「なまじ我慢できてしまうが故に、そこにつけいられ我慢を強いられているのか」と感じるわけです。嫌なことを我慢した上、しかもその「我慢ができるゆえにさらに我慢をしなければならない」という理不尽さに、そして「不整脈が出るから」ということでその我慢から逃げおおせている事に怒りを感じるのです。
「発達障害の人は生まれつき、迎合してヘラヘラ笑ったり、理不尽な目にあったりすると死んじゃいそうになるから、そういうことができないんですよ。しかたないのですよ。だから分かってあげましょうね」
なんて、だから、「普通の人」には絶対に届きません。
「え?そんなの俺だってやだよ?なんで、そいつだけ、「いやだ!」っていうことが許されるの?なんで、そいつだけ、そんな我侭が許されるの?俺だってやだよ?じゃあ、俺も嫌だから、皆、そういう風に気を使ってよ!ダメ?なんで?障害者じゃないから??なんだそれ、ズルいよ」
と感じるからです。そしてそれは無理のないことだと思います。発達障害の人からみれば、あまりに「普通の人」が普通に空気を読んでいるので、「好きでやってるのか」「楽勝なんだ」とか思ったりするかもしれませんがそういうわけじゃないのです。「普通の人」だって別に完璧に空気なんか読めません。だからこそ人と人のトラブルはいつだって発生するし、「普通の人」だって人間関係で悩んでいる人はたくさんいます。
別に発達障害の人じゃなくても、人間、『自分の思ったことをそのまま言う、迎合しない、納得のいかないことには納得いきませんという』……それが一番に決まっているのです。でもそんなことは通常幼児期しか許されない。そんな事を互いにしていたら、社会が成り立たないからです。ドラゴン桜に(マンガですみませんが)「本音で語り合える学校がどうのこうの」という話題になった際、「本音ってそんなにいいか?」「本音ばかりは必ずしもいいことじゃない」と主人公が言い放ったシーンがありましたが、まさにそういうことなのだと思います。
「普通の人」も最初は自分の思った事をズバッと言ってしまったり空気を読まなかったりしています。が、成長するにつれ、「どうも、おかあさんがムスっとした顔をしているときに、おもちゃを買ってというと、怒られるようだ…」→「そういうときは言わないでおこう」と学んでいく。「どうも、髪型に拘っているクラスメイトに、その髪型変だよといったらクラスメイトは悲しんだり怒ったりするようだ…」→「そういうときは言わないでおこう」と学んでいく。
それだけの話です。だからそもそも許されるならば、気をつかわなくていいのならば、いくらでも好き放題「その髪お前変じゃね」「おもちゃかってよーー!!!」と言いたいのです。ただそれを自分で律しているだけです。ときに自分のため、ときに他者のため、ときに社会のために。
だから、「普通の人」からそういう発達障害者の主張を聞くと、「なにそれ、わがままだ」「ズルい」と感じるのです。「できないからってしなくていいなんて。だったら自分もしたくない」「それじゃ幼児じゃん。大人になっても幼児のままで過ごしておいて認めろっていわれても」と。
しかし発達障害者からすると、そもそも上記のような「自然に学んでいく」が全くできないので、皆がただ単に何かよくわからないものを押し付けてくる、としか感じられない。過程が、分からないんですね。「別にすきじゃないけど必要だから皆がちょっとずつしかたなく身に付けてきた」という背景が。あるいは言葉では知っていても実感として知らないわけです。だから、「理不尽だ」と感じて怒りを抱いたり、「なぜ?なぜ??わからない」と苦しんだりするわけです。
普通の人と発達障害者の「ズレ」は、そこにあるのだと思います。発達障害者の人たちは「そんな空気読むとかそういうことを押し付けてくるな!そっちでやってろ」と思いますが、別に、普通の人も好きでやっているのではないのです。そこがズレだと思います。仕方なくやっているのです。押し付けるのはなぜかといえば、「みんながちょっとずつ我慢して、社会を穏便にするように努力してるんだから、お前もやれよ」という感覚によるものです。だから、そこから逃げようとすると、怒るのです。まるでそこからは、「税金は払わないけど、皆から集めた税金の恩恵は受ける」ような感じ、フリーライダーのような感じを受けるのです。
そんな怒りが、「かまってちゃん」と言われたり「薄馬鹿というゼッケンをはってれば?」という反応になって表れるのです。
「脳に、もう、そういう障害があって、そういう能力が無いんだから、どうしようもないんだよ」という切り口で言っておられますが、そういう切り口の攻め方はいささか受け入れられにくいと思います。寧ろ、そういった方向性で攻めますと、おそらくそのうち「それならそんな脳に欠陥のある奴は、普通に社会生活を営めないんだから、外に出てくるなよ。迷惑をかけるな」なんて反応が出てくると思います。
「目が見えない人」「耳が聞こえない人」と同じだ、とおっしゃっていますが、それもなかなか通じないと思います。実際「平均的な人間に比べ、ある能力が著しく低下、あるいは無い」という見方においては、目が見えない人と発達障害の人は同じと言えます。が、「脳とそれ以外の器官」という見方で見ますと、「目が見えない人」と「指がない人」と「耳が聞こえない人」は同じであっても、「発達障害の人」は違う、ということになります。同じか否かというのは、何でもそうですが、見方によるわけです。ある一面では同じでも、ある一面では違う。何でもそうです。
で、「普通の人」は、後者の見方をします。なぜならば(現代の)人間にとって、「脳」という臓器は他の臓器とは一味違った、特殊な部位であるから(と、思っているから)です。現代の人間にとっては、「脳」は、ほぼ、自分です。他の臓器は、いうなれば単なる道具に過ぎない。極端ですが、そういったイメージを持っている方が多数だと思われます。誰しも、自分の盲腸が考え事をしているなどとは思いませんし、自分の太腿にアイデンティティが宿っている、とは思いません。自己はほぼ脳であり、手、足、目、耳、それらの部位は、脳=自己(人格)のための、道具である、と、そういったイメージが漠然と身についているのが現代人だと思います。
ですから、「脳に障害がある」のと「目に障害がある」では、同じようで、全く違うのです。
道具にちょっとくらい欠陥があっても、欠陥というのがアレでしたら、ちょっとくらい違いがあっても、周囲の人は「ああ、道具が壊れてしまったのだな」と手助けをすることが割りと容易ですし、社会生活も、意思疎通の面ではあまり問題はありません。人格には何も問題はないからです。それを伝える、口という道具が若干働かなくても代替のものがある。それを受け取る耳という道具が若干働かなくても別の道具でそれを補える。伝える内容そのもの、交わす内容そのものには問題はないのですから、あとは純粋に道具の問題だと、なるわけです。ですから、まだ受け入れやすいのです(それでもまだまだですけどね)。
しかし脳に障害がある、というのは、ちょっと違います。道具には問題がなくとも、その中心である自己、人格に問題があるのですから。根本的にそこが他と違う、というと、道具でも補いきれません。(そもそも、「補う必要はあるのか。補うという考え方はどうなんだ」という問題もありますが)
いうなれば、「右手がサイボーグの人間」と、「一見普通の人間だが、実は中身は宇宙人」と、どっちとまともにコンタクトを取れる自信があるか、という話です。無論、前者なのです。極端に言えば、脳に問題がある、というのは「普通の人」にとっては後者の如く感じられるのです。
ですから、「脳がそういうふうなので仕方ない!」という切り口で攻めますと、最悪「なら、そんな奴は社会不適合者だから、外に出るな!」的な反応を食らうことになりかねないと思うのです。
実際、鬱病も「甘えだ」なんていわれたりしがちな病気ですが、これも「元気がでないとか、仕事いきたくないとか学校いきたくないとかさぁ……そんなん俺だってそうだよ。いかなくていいならいきたくねーよ!でもそうしなきゃいけないから行ってるんだろ。鬱って診断されたら休んでもOKなわけ?なんだよそれ」という、「ズルい!」という思いから来ているのだと思います。
目や耳の障害や、精神系でない病気についてそういったこと(甘えだ、等)が言われないのは、「ズルい」と思わないからです。
それでも鬱病も最近は「甘えだ」と言う人も減ってきました。それは「鬱状態は辛いのだ」という認識が広まってきたからだと思います。肺炎になって学校を休んでも「ズルい」とは思いません。休みたいは休みたいでも、そんなキツい思いをするのは普通嫌だからです。鬱も、知識が広がるまでは単に「いきたくないといってる人」くらいの感覚で捉えられていたため「そりゃ俺だってそうだ!ズルい!」となっていたのですが、「どうやら相当キツいらしいぞ」と分かってからは「ズルい!」とならなくなってきたのだと思います。
しかし、発達障害の場合はどうか。
これは多分「ズルい」という感覚はちょっとやそっとじゃ抜けないと思います。なぜならば、発達障害の人が「辛い」のは、あくまで周囲との関わりにおいて、「読めない空気を読めとおしつけられる」等のことから発生するものです。肺炎や鬱などと違い、ただ一人でいても辛いものではありません。(鬱が発生すること自体は、周囲の環境などが関係しますが、発症後は一人でいてもキツい、ということです)
ですから皮肉にも、自分たちが「空気がどうしても読めない」人のことを理解し助ければ助けるほど、彼らの「辛さ」は減る。一方、こちらの辛さやストレスは上がっていきます。空気を読んでくれない相手を「しかたないのだ…」と思いながら、ただでさえ空気を読むという我慢をしているのに、さらに「空気の読めない仕方ない人」に対しても我慢をしなければならない。そしてそうすればそうするだけ、その「空気の読めない仕方ない人」の「辛さ」は減っていくのです。当然、「ズルい。なぜ、こちらだけ我慢をしなければならない」となります。どちらに転んでも、「ズルイ」となる。いやむしろ、こちらが助ければ助けるほど「ズルイ」となる。
結局、「発達障害だろうがなかろうがみんな空気とか読みたくない。自分勝手でいたい。が、それでは成り立たない」中で、「普通の人」は空気を読み、「発達障害者」がそれが著しく困難な事を理解する。また「発達障害者」は「普通の人」も別にしたくないが社会の存続のため仕方なくやっている、ということを理解し、形だけでも出来うる限り合わせるようにする(空気を読むこと自体はできるようにならなくとも、表面上あわせることは訓練次第で可能と聞きました)。という相互からの歩み寄りが大事なのだと。平凡な結論ですが。「発達障害者は、じゃあ、外に出るな」は勿論問題外ですし、といって「発達障害なんだからしかたないだろう」では逆に「普通の人」に全てしわよせが来るだけです。どちらかに押し付けてはいけないのでしょう。
おそらく発端はこれだろうな。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090325k0000m010142000c.html
24日昼過ぎの代議士会で、横光克彦衆院議員は「過ちを改むるにはばかることなかれ。新生・民主党で次の衆院選に向かうことこそ国民のためだ」と小沢氏の自発的辞任を求めた。
それに対する反応と反応に対する評価がこんな感じ。
http://seiji.yahoo.co.jp/giin/rev/index.html?g=2009000705&s=0&p=1
読むと頭がクラクラしてくる。
貴男という人は
貴男は、民主党の国会議員ですか、自民党の人ですか、せっかく主権が国民の手に戻ろうとしているときに自分の党首を攻撃してなんのメリットがあるのですか。
貴男は、国民のために目に見えるような何らかの事を行動をおこしましたか、参議院で第一党になれたのも小沢さんの地道な行動があったからのことではないのですか。
今回の政治資金規正法についても、自民党の、森、二階、尾見等自民党国会議員の資金管理団体に特捜検察のメスが入りましたか、あれほどテレビに出演してコメントを述べていた森元総理大臣はこのごろテレビ画面から目にかからなくなりました。なにかおかしいと感じませんか
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頑張って下さい。
党推薦無し、無所属で思う存分、力を発揮してください。己の無力さを噛締めて下さい。
この評価を支持:46人中45人
雇われたのに「切られ役」
役者として久々にカメラに映りましたね。おめでとうございます。ですが党人政治家としては。党は徹底的に裏切り者を見つけ出し公認見直しをしてください。あなたはゼッケン1番です。九州の恥さらし
この評価を支持:101人中97人
九州男児の恥
自分の軍の大将に向かって、どこの何様のつもりで「辞めろ」やら言えるとや?? 文句があるとやったら、自分が先に党を辞めてからにせんか。九州男児の風上にも置けんクサレ議員やね。あんた次の衆院選では絶対に落とされるばい。覚悟しときやい。
この評価を支持:146人中140人
人材は評価します。しかし・・・
この度の発言は頂けません。
インターネットが若者だけの物でなくなった今、当欄の意見が国民の意見を反映していると云っても過言ではないでしょう。本質を見極める見識をもって民主党の根幹を支える気概を持って欲しいものです。今後に期待します。
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