はてなキーワード: 衆愚政治とは
でも、そんな安倍政権が3年間、自民党が戦後ずっと、政権の座に居続けたのは、ほかならぬ国民が票を入れたからだ。
別に安倍ちゃんが拳銃を突きつけたわけではない。各々が自らの自由な意思にしたがって、一人一票で(重みに差はあれども)、秘密を守られるなかで自民党に投票したからこそ、こんな日本になっている。
自民党がどんな政治をやってきたのかはもう十分知っているはず。これから先どんなことをやるかもわかるはず。たった3年半しか与党でいられなかったわけじゃない。「公約違反は大したことじゃない。」そんな政党だ。
それでも自民党に票を入れる日本国民がいる。そもそも選挙に行かない日本国民もいる。
ほんとうの意味で「民主主義を蔑ろに」してきたのは、政治に関心をもってこなかった日本国民だ。責任は自分たちにある。
今のはてなで伸びるのって「皆でそれを否定するような案件」と「皆でそれをべた褒めするような案件」のどっちかなんだよ。
ここ最近のはてなは『賛否両論』が明らかに欠如してるんだよね。
皆が白と言ってるから白と言いましょうねーはーいでブコメしてそんでその中で一番過激な白を語れた奴に星が集まる。
まさに衆愚政治だよ。
大抵は数の暴力によって妙なレッテル貼られてるけどそれでも負けずに跳ね返そうとしてる。
でも今のはてなってそういう自浄作用がもう無くなりかけてるんだよね。
俺や数人がそういう気持ちで行動しても完全に皆流されっぱなしじゃどうしようもないよ。
所沢市で、2月、エアコンを学校に設置すべきかを問う住民投票が行われて話題になった。しかし、「住民投票」を行ったこと自体がアホではないかと思った。なぜ、住民投票が必要なのだ?日本は議会制民主主義の国なのだよ。
ギリシア時代の昔から、人類は、直接民主制を何度も試みてきた。しかし、その結果は無残だった。直接民主制は必ず「衆愚政治」をもたらすのだ。「住民投票」などどいう直接民主制の極みを行ってもろくな結果がもたらされないというのは歴史が示している。
たとえば、戦後の日本で、住民投票が何か社会の利益になったことありますか?ないでしょう?
市議会議員も市長も、あなたがた「市民」と違って政治のプロなのです。市の財政状況に精通し、様々な要因を慎重に分析して政治を行っているのです。我々が政治を任せるべきは、世間の雰囲気に流されやすい市民の意見ではなく、政治のプロであるべき。これが議会制民主主義の根幹である。議員や市長のやることが気に入らなければ選挙で落選させれば良い。
つくば市議会議員 五頭やすまさ氏のブログに鋭い指摘がある http://gotouyasumasa.webibaraki.net/?p=1912
例えば所沢市と同じような「エアコン設置の賛否」をつくば市でやったとしたら、どうなるか??私の予想では、たぶん、「設置賛成」が勝利すると思う。しかし、だからといって、現実的に、全部エアコンを設置することに、予算配分をおいてしまったら、つくば市の財政バランスの均衡は崩れてしまう。・・・住民投票は、一時の特化した懸案事項を決するもので、極めて大衆世論を扇動する。それを表現したからといって、冷静な判断が結果としてでるものではない。
・・・間接的な民主主義。そう、選挙で選ばれた議員が、議会という場で議論を戦わせることによって、しっかりとしたその問題が磨かれて収斂されて、結果として、公共の利益が生み出されることになるわけだ。この辺を間違えてはならないと思う。
天ぷら屋「津田殿、この度のご活躍まことに有り難く候。こちらは心ばかりの“菓子折り”で御座いまする」
時は如月、赤坂の老舗高級天ぷら屋「楽亭」には客が引きも切らない。
首相が雪害に際し、ここで天ぷらを食す前では考えられないことだ。
バブル崩壊後、交際費の減少に伴い、老舗料理店は次々と暖簾を下ろした。
営業が続く店も、格安ランチで庶民層を呼びこむなど生き残りに必死である。
そんな中、「楽亭」だけは頑なに価格と敷居の高さを維持し続けた。
しかし往年の輝きは既になく、閑古鳥が鳴くこともしばしばであった。
アベノミクスによる好景気でも、企業の経費は抑制傾向にあり、三本の矢が「楽亭」に資するところは薄弱であった。
自分で選べば不満がなくなるというが、実際には常に正しい投票をする人と、常に間違った投票をする人に別れるのだから、
自分達の正しい選択が愚民に握りつぶされることに気づいたエリート層が日本を捨てて究極の衆愚政治が完成し、日本は滅ぶ。
もちろん自分達で選んだ道なのだから不満はないはずなのだが、愚民は
「なんでエリートが俺達を導いてくれないんだ!こんな未来望んてなかった!」
とか言い出すから結局今より不満だかけになる。
例えるなら学生時代に親に勉強しろと説教されまくったのに、ぜんぜん言うこときかないで遊んで、
就職してワープワになってから、親にもっと強く説教してくれればよかったのに!と文句を言う感じかな。
リアルだろ?
それにしてみろ、「減税しまーす!福祉を充実させまーす!みんなにお金を配っちゃいまーす!」って耳障りのいいことだけ言うやつが通るだろ。
でもそれ実行できないんだよ。そのときどうするの?
言ってた政策やるためなら、何でもアリ、ならとんでもないことになるぞ。
例えば「減税しまーす!福祉を充実させまーす!みんなにお金を配っちゃいまーす!足りないお金は、国民全員に籤を引いてもらって、当たった人の財産を全部没収して野垂れ死んでもらいます!」
タイトルだけだと語弊がありそうだけど、
ツイッターで「デモはデモクラシーのデモであり、それを抑えつけることはデモクラシーの危機だ」
みたいな文章があった。(その人への特定攻撃がこわいので文は若干改変)
そもそも「デモ行進」「デモ活動」みたいな言葉の「デモ」って「デモンストレーション(示す、証明する)」だよね?「デモクラシー(民主制)」ではないよね。雰囲気で類推解釈して叫んでる人が疑問。
たしかに、デモクラシーは国民の声によって政治を機能させる制度だし、「デモ活動」は政府の方針に反対する人の「民意」なわけだけども、、「間接民主制」じゃん。
選挙によって(「民意」によって)選んだ政党、議員がその方針を示してるわけだから、過剰なデモを抑圧する分にはいいんじゃないカナ。
だって、今回の法案反対デモに参加してる人って選挙の時に自民を選択した人もきっと大勢いるんでしょう?なのにあんなにムキになっちゃって変じゃない?
プラカードの中にはものすごくエゴイスティックな言葉が書かれてたりするし、そういう人ってまず法案に目を通したのだろうか。選挙のときマニフェストをしっかり確認して投票したのだろうか。
メディアを作っているのは人だし、その個人には思想があるわけで偏向報道するのはもはや前提条件だと思うけど、あきらかにそれに流されて自分自身の意見を持たずにメディアから受けた言葉を「民意」だと思い込んでる人が多い気がする。
法案にしっかり目を通す、わからない文言があったら辞書を引く、それでもわからなかったら賛成派、反対派の意見(感情的な論調のものを除いて)両方に目を通して自分なりのロジックを組み立てる。そうやってはじめてデモクラシーが達成されるんじゃないのかな。
「民意」が届かない!最低だ!って叫んでる人はさ、民意が直接届いた1933年のドイツを振り返ってみてよ。ツイッターでも感情的に賛否の議論をして白熱してるのをよく見かけるけど、そういう意見の多数者によって物事がどんどん決まっていったらそれこそ衆愚政治になってしまう。
選挙によってフィルターを通し、与党野党がさらにそこで議論を行って慎重に決めている現在の日本(確実にそうかと言われると疑問だけど)は、直接「民意」が届かないからそれなりの生活ができてるんじゃないかな。
民主制なんて国のリーダーが全部きめるわけじゃないんだから、確実なベストはありえないし国民が冷静に落ち着いて議論しつづければ「そこそこイケてる」国でありつづけると思う。条件反射的に「それはだめだ!あぶない!死ぬ!」とかやめようよ。
店長が「うちら」の世界について記事を書いて大ヒット、あちこちのblogで議論の対象となっている。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
しかし多くの場所で議論になってるような「バカな一部がバカをやってしまう行動を理解」という文脈よりも、この記事には注目すべき点があると思うので、それをメモする意図で記事を書く。
それは記事中の
彼らの感覚としては「所与の権利」の範囲が非常に広い。権利が広いため、たいていのことをしても許される「ことになっている」。(中略)所与の権利の幅が大きいということは、逆になにやっても自分たちには危害は及ばないということでもある。つまり危機意識の低さだ。
この部分。
この部分に注目した場合「うちら」は多い。たぶん、日本人全部がそう。
上記の指摘は、たとえば「学生ローンを借りたんだがこれは借金じゃないか!若者の未来を潰すつもりか!」とか「大学院を出たのに就職できないなんて信じられないクソ社会だ!」に通じる。
大学に行くのも就職するのも「所与の権利」ではない。「所与の権利」だと思って安心しきっていた(=危機意識がない)からそれが無くなると「奪われた!」と騒ぎ出す。
この話をすると、国は国民に一定の生活を提供する義務がーとか吼える人がでてくるのだがそう言う話ではなく、そもそも「国がある」というのは人類に与えられた所与ではない。作ったからあるのだし、維持してるから現存している。運用しているからサービスが降りてきている。それだけだ。
当然その維持運用コストは参加者全員で支払わなければならない。資本主義の現在のこの社会において、その代表例はお金(=税金)である。
しかしそのさらに下のレイヤとして、本当の最低限、参加しているんだから全員支払えよというコスト、もはや参加資格といってもよいコストが存在する。それは「所与に対する盲信の否定」を含む「システムに対する理解」だ。
この社会は、社会構成員が望む「所与の権利」を望むままにえられるコストをちゃんと支払っているのか? と問われれば、疑問符がつく。
個人的な感覚の話になるんだが、日本人は、これ以上コストを払う能力がないように思う。もちろん、税金は払える(所得が上がれば)。そうではなく、前述の認識や道徳的な「理解というコスト」を支払う能力、店長の言葉を借りれば「社会に対する想像力」がもう頭打ちなのじゃないかと感じている。もちろんその想像力が高い人も低い人もいる。でもその格差ってのは現実にあるし、それを教育で是正しようぜというのは正論なんだけど、じゃあ大学教育がここまで一般化した現在、知識は増えたのかもしれないけれどバカは減ってるのかと言えば、ヤンキーやDQNでも大卒になれる社会になっただけのように見える。たぶん衆愚政治っていう言葉の意味は「「理解というコストを支払う能力の限界」を指しているんじゃなかろうか。
じゃあどうすべきかというと、日本はもうこれ以上「所与の権利」を増やせない、増やすべきではないと思うわけだ。というか、現在のレベルすら維持できない。もっと「所与の権利が低い」国になっていくのが現実なのじゃ無かろうか?
子どもが大学に行けないのはあたり前。家計が苦しいのはあたり前。学校のレベルが低いのはあたり前。旅行に行けないのもあたり前。中古車はあたり前。スマホ持ってないのはあたり前。お店で店員に怒鳴られるのはあたり前。公共サービスの質が悪いのはあたり前。郵便が届かないのはあたり前。夜の街を女性がひとりで歩けないのはあたり前。水道の水が飲めないのはあたり前。
もちろんそれはとてもいやなことではあるけれど、コストを負担せず権利だけわめくよりはまっとうな結末に思える。
この言葉には、とても色々な理由があるのだと思う。
ひとつは、呼びかける側の利益が存在しているからだ。解りやすい。
候補者が清き一票を求めるのは、候補者が当選したいからである。
応援演説があるのは、党や派閥の声を基盤を大きくしたいからである。
音沙汰のない友人から選挙シーズンになると突然電話がかかってくるのは…省略。
これはとても理解をしやすい動機だと思う。
しかしながら、「選挙では投票をしましょう」には、別の意味もまたあるのだと考える。
なぜなら、投票には「勝たせたいから投票する」だけでなく、「勝たせなくないから投票する」という性質があるからだ。
そして「勝たせたくないから投票する」のは意外と大事なことである。
例をひとつあげる。
この時の投票率はとても高くて、実のところ自民党がぼろ負けをしている裏側で、こっそりと公明党も惨敗していた。
公明党が惨敗した理由は簡単だ。
別段、信…いや、公明党支持者が激減したわけではなく、簡単に言えば投票率が高いから彼らの票の威力が減ってしまったのである。
公明党は普段、100票を掴んでいる。そして通常の選挙の時は、1000票のうち400票程度しか投票されないとしよう。
結果、公明党は1/4、25%の票を握ることになるわけだ。
しかし、もし民主党大勝の時のように投票率が高まって、結果800票の投票があれば、1/8つまり12.5%程度の票になってしまうのである。結果、いつもの議席が確保できない結果になる。
つまり(公明党に限らず)特別な票田は、投票率が低ければ低い程大きな声が出せるようになるわけだ。
そして「多数派でもないのに一部の結束の固い連中」をのさばらせないために、つまり「勝たせないように」するために選挙で投票するのは割と大切なのである。無派閥であればあるほど、とりあえず「気に入らない連中に好き勝手されないように」投票に行くことは意味があるのである。
「ちゃんと候補者を理解してないのに投票に行くのは衆愚。今回の選挙は、現代の日本は衆愚政治の極みだ!」
この言葉は「選挙に行きましょう」よりもはるかに危ない言葉である。だいたいにおいて、衆愚政治だなんて言う人は負けた側の人だ。利益の出てない側だ。損の側の人だ。ぶっちゃけ負け犬の遠吠えであり、そもそも今の日本は固定層が少なめなだけで「衆愚政治の状態」からは程遠い。候補者の名前など知らなくてもいい。そう、可能であればメジャーな政党・会派くらいは知っておくと少し(投票する際に)肩身も狭くはないし、決まりの悪さはとても軽減されるだろう。わたしの・あなたの無知蒙昧な気分次第で投じる一票は、明日の独裁組織を防ぐ礎になり、「ドラえもん」に投じた一票は無効票として「政治への無関心」を表明する手段にもなるのだ。
衆愚政治、衆愚選挙とはよく言われることだが、自分が選挙に行くたびにその言葉は事実であると実感させられる。
昨日、選挙に行った。周りや世間が行け行け、と騒ぐから、行った。
しかし私は、自分の選挙区で誰が立候補しているかも知らなかった。投票所に行って紙に書いてあるのは、はじめて見る名前ばかりだった。誰が誰だかわからない。当然各立候補者の主張や主義を知るわけもない。わかるのはせいぜい政党名くらい。せっかく選挙に来たのだから誰かの名前を書かなければ。しかしどの政党もいまいち不安だ。なので、全然知らない人だけど「無所属」に一票入れた。
比例代表に至ってはもっと酷い。名前は聞いたことあっても、各党の公約やら主義やらはぼんやりとしかわからない。選べない。入れたいところはない。むしろどこにも入れたくない。なのでこちらは白紙投票した。
こんな自分に選挙権があってよいのか、と思う。まさに衆愚の極みである。選挙に行くだけマシ? 投票率が高い方がいい? そんなの嘘だ。単に衆愚の票が増えるだけだ。ろくでもない奴、目立つ奴、話題になってる奴、タレント議員みたいな名前だけ売れてて身のない奴が当選してしまう可能性を上げてしまうだけだ。投票に行く=政治に関心がある、というわけではない。
それを民主党が言ってもいいのか?というのは別途議論が必要だし
そもそも、マニフェストって何、間接民主制ってなに? というのは考えられてしかるべきで
じゃぁ、直接民主制がいいのか?ミクロな投票制度がいいのか?衆愚政治ではないのか?など考えることはいっぱいあると思う。
だけどなんだろう。とりあえず。この年の瀬に説明されても困る。
もうクリスマスも過ぎた。
可及的に年を越せない奴がいる。凍死する奴がいるとかは、それこそ別途なんとかその地域でしてくれ。募金がいるなら、どっかの団体に千円ぐらいならする。
とりあえず、ほんとうに、とりあえず。日本中1億何千人で年を越そう。