この言葉には、とても色々な理由があるのだと思う。
ひとつは、呼びかける側の利益が存在しているからだ。解りやすい。
候補者が清き一票を求めるのは、候補者が当選したいからである。
応援演説があるのは、党や派閥の声を基盤を大きくしたいからである。
音沙汰のない友人から選挙シーズンになると突然電話がかかってくるのは…省略。
これはとても理解をしやすい動機だと思う。
しかしながら、「選挙では投票をしましょう」には、別の意味もまたあるのだと考える。
なぜなら、投票には「勝たせたいから投票する」だけでなく、「勝たせなくないから投票する」という性質があるからだ。
そして「勝たせたくないから投票する」のは意外と大事なことである。
例をひとつあげる。
この時の投票率はとても高くて、実のところ自民党がぼろ負けをしている裏側で、こっそりと公明党も惨敗していた。
公明党が惨敗した理由は簡単だ。
別段、信…いや、公明党支持者が激減したわけではなく、簡単に言えば投票率が高いから彼らの票の威力が減ってしまったのである。
公明党は普段、100票を掴んでいる。そして通常の選挙の時は、1000票のうち400票程度しか投票されないとしよう。
結果、公明党は1/4、25%の票を握ることになるわけだ。
しかし、もし民主党大勝の時のように投票率が高まって、結果800票の投票があれば、1/8つまり12.5%程度の票になってしまうのである。結果、いつもの議席が確保できない結果になる。
つまり(公明党に限らず)特別な票田は、投票率が低ければ低い程大きな声が出せるようになるわけだ。
そして「多数派でもないのに一部の結束の固い連中」をのさばらせないために、つまり「勝たせないように」するために選挙で投票するのは割と大切なのである。無派閥であればあるほど、とりあえず「気に入らない連中に好き勝手されないように」投票に行くことは意味があるのである。
「ちゃんと候補者を理解してないのに投票に行くのは衆愚。今回の選挙は、現代の日本は衆愚政治の極みだ!」
この言葉は「選挙に行きましょう」よりもはるかに危ない言葉である。だいたいにおいて、衆愚政治だなんて言う人は負けた側の人だ。利益の出てない側だ。損の側の人だ。ぶっちゃけ負け犬の遠吠えであり、そもそも今の日本は固定層が少なめなだけで「衆愚政治の状態」からは程遠い。候補者の名前など知らなくてもいい。そう、可能であればメジャーな政党・会派くらいは知っておくと少し(投票する際に)肩身も狭くはないし、決まりの悪さはとても軽減されるだろう。わたしの・あなたの無知蒙昧な気分次第で投じる一票は、明日の独裁組織を防ぐ礎になり、「ドラえもん」に投じた一票は無効票として「政治への無関心」を表明する手段にもなるのだ。
勝った側も、「しめしめ、あいつらアホだわウッシッシ」とか内心思っているかもしれないが、 それはそれでまた別の話か
低能は公明党の得票数は投票率に左右されないと思っているのかい ふーん
あの選挙では公明党だけじゃなく共産党も大負けしたよね?