はてなキーワード: ユダヤとは
ユダヤは大量殺戮実行してるしヒンズーはカースト制で差別を続けてる。
変質してはいるね。
でも変質して元の宗教の貢献しなかったらダメ、って話だったら、キリスト教もイスラム教もユダヤのフリーライダーになっちゃうぜ。
だからそういうことは言わないのだ。
箴言は古代の「知恵文学」の一例であり、人間の行動に関する観察と実際的または徳の高い生活のためのアドバイスが含まれている。
ユダヤの伝統によれば、聖書のこの書は、知恵で知られる聖書の人物、ソロモン王によって書かれたとされている(列王記上 5:9-14)。
箴言は古代の知恵の書とされるが、現代の技術的に進歩した社会にとって役に立つ内容も含んでいる。
例として、SNSアカウントを持つ人にとって役に立つ引用を箴言から8つ紹介する。
ソーシャル メディアは、怒っている人々を引き付けることがある。中には、蜂の巣を蹴飛ばしてでも甘い「いいね」やリツイートを獲得したいという目的しかない人もいる。
箴言6:12-15 | 彼は、口汚い口調で歩き回り、悪意に満ちた目でウィンクし、足で合図し、指で身振りをし、心の中では欺瞞をもって悪事を企てる、問題を起こす悪人であり、常に争いを起こす者である。そのため、一瞬にして災難が彼を襲い、救いようもなく突然滅ぼされる。 | אָדָם בְּלִיַּעַל אִישׁ אָוֶן הוֹלֵךְ עִקְּשׁוּת פֶּה: קֹרֵץ בְּעֵינָו מֹלֵל בְּרַגְלָו מֹרֶה בְּאֶצְבְּעֹתָיו: תַּהְפֻּכוֹת בְּלִבּוֹ חֹרֵשׁ רָע בְּכָל עֵת מִדְיָנִים יְשַׁלֵּחַ: עַל כֵּן פִּתְאֹם יָבוֹא אֵידוֹ פֶּתַע יִשָּׁבֵר וְאֵין מַרְפֵּא: |
正義の怒りから共有されたセンセーショナルなストーリーが、基本的な事実確認の誤りだと暴かれることを考えてみたほうが良い。
箴言6:16, 19 | 主が憎むものが六つあり、主にとって忌み嫌われるものが七つある。... 偽りを吐き出す偽証人と、社会に争いを起こす人である。 | שֶׁשׁ הֵנָּה שָׂנֵא יְקֹוָק וְשֶׁבַע תועבות תּוֹעֲבַת נַפְשׁוֹ:…יָפִיחַ כְּזָבִים עֵד שָׁקֶר וּמְשַׁלֵּחַ מְדָנִים בֵּין אַחִים |
すべての問題に意見が必要なわけではなく、すべての発言に返答が必要なわけでもない。
箴言 26:17 | 野良犬の耳をつかむような人は、自分と関係のない争いに突入する人である。 | מַחֲזִיק בְּאָזְנֵי כָלֶב עֹבֵר מִתְעַבֵּר עַל רִיב לֹּא לוֹ: |
ラビの教えには、話すことに報酬があるように、沈黙にも報酬があるという教えがある ( Zevahim 115b )。いつそれをすべきかを知ることは、難しいことであり、また重要である。
箴言 10:19 | 罪は言葉を増やすことによって終わるものではないが、賢明な人は口を閉ざす。 | בְּרֹב דְּבָרִים לֹא יֶחְדַּל פָּשַׁע וְחֹשֵׂךְ שְׂפָתָיו מַשְׂכִּיל: |
ソーシャル メディアは、知的で生産的な会話をするのに必ずしも最適な場所ではない。
会話を公開から非公開にすると、理解が深まることがよくあることが分かる。
しかし、建設的な意見の相違どころか、思慮深い会話さえできない人もいる。
箴言 18:2 | 愚か者は理解することに喜びを感じず、自分の意見を表明することに喜びを感じる。 | לֹא יַחְפֹּץ כְּסִיל בִּתְבוּנָה כִּי אִם בְּהִתְגַּלּוֹת לִבּוֹ: |
箴言 9:7-9 | あざける者を戒める者は侮辱を招き、悪者を叱責する者はののしりを受ける。あざける者を叱責してはならない。さもないと彼らはあなたを憎むようになる。賢い者を叱責しなさい。そうすれば彼らはあなたを愛するようになる。賢い者を指導しなさい。そうすれば彼らはさらに賢くなる。正しい者を教えなさい。そうすれば彼らは知識を増す。 | יֹסֵר לֵץ לֹקֵחַ לוֹ קָלוֹן וּמוֹכִיחַ לְרָשָׁע מוּמוֹ: אַל תּוֹכַח לֵץ פֶּן יִשְׂנָאֶךָּ הוֹכַח לְחָכָם וְיֶאֱהָבֶךָּ: תֵּן לְחָכָם וְיֶחְכַּם עוֹד הוֹדַע לְצַדִּיק וְיוֹסֶף לֶקַח |
箴言 29:9 | 賢い人が愚かな人と法廷に行くと、愚かな人は激怒し、嘲笑し、平和は訪れない。 | אִישׁ חָכָם נִשְׁפָּט אֶת אִישׁ אֱוִיל וְרָגַז וְשָׂחַק וְאֵין נָחַת: |
箴言 26:4-5 | 愚か者にその愚かさにしたがって答えるな。そうしないと、あなた自身も彼と同じになってしまう。愚か者にその愚かさにしたがって答えよ。そうすれば、彼は自分の目に賢い者と思わなくなる。 | אַל תַּעַן כְּסִיל כְּאִוַּלְתּוֹ פֶּן תִּשְׁוֶה לּוֹ גַם אָתָּה: עֲנֵה כְסִיל כְּאִוַּלְתּוֹ פֶּן יִהְיֶה חָכָם בְּעֵינָיו: |
「援用されるなら」が純然たる絵空事なんで寝言以下だな。ユダヤと日本じゃ権力構造への食い込み方が比較にもならない
興味深く読みました。ありがとう。
ただ、アメリカの右翼は反ユダヤだと思う。少なくとも極右はユダヤ陰謀論を拗らせているかんじ
今話題のラーム・エマニュエル氏も民主党でオバマ氏とバイデン氏に指名された人だし、米リベラル=親ユダヤ/米保守=反ユダヤ
今回の件、アメリカ人の反応を見ていると尖閣諸島事件を思い出すよ
あのとき少なくないリベラルがバグった反応をしていた。中国を叩いてネトウヨさんと一緒にされたくないと思ったのか無理筋な擁護をしていたように見える
アメリカのユダヤ陰謀論って日本における韓国陰謀論みたいなかんじなんだよね
「アメリカはユダヤに支配されている! ビルゲイツはユダヤ人! スティーブ・ジョブズはユダヤ人!」 みたいなかんじ
有名人の名前をググると「ユダヤ人?」と補完される。彼らは金持ちにユダヤ人のレッテルを貼るのに忙しい
ユダヤ陰謀論者と見られたくないからイスラエル批判をしづらい様子にみえる
それからあちらにもクソ・リベラルムーブを取る人がいて、都合の悪い意見に「お前は反ユダヤだ」とレッテル貼りがなされるせいで議論が進まない
ただ個人的な意見を言わせてもらうと 本来は「ユダヤ人=イスラエル」ではないはずなんだよね
在日韓国人/中国人叩きを批判しつつ、中国/韓国政府を批判することはできるはずなのにその辺りがごっちゃになっちゃってる。イスラエル批判も同じ。
アンチ・ネトウヨのリベラルがイスラエルの虐殺容認になっちゃうの、日本で言うとアンチ・ネトウヨのリベラルが中国政府の民族浄化容認になっちゃう感じかな
色々切り分けて議論したいですね
追記: 反ネトウヨ、反リベラル、反反ネトウヨ・・・と元の思想がなくなり先鋭化していく現象に名前が欲しいな
https://anond.hatelabo.jp/20240811085018
ユダヤ教とキリスト教は歴史的には仲が悪いのです。そもそもイエス・キリストを殺したのはユダヤ人だし
(とはいえ、イエス自身の自認はユダヤ人だったりするんだけど)
ユダヤ人的にはイエスは預言者を騙る偽物なわけです(ここで言う預言者は「神の言葉を預かり伝えるもの」の意味ね。予言じゃなくて預言)
ひとくちに右翼といっても旧来のゴリゴリの教条的なやつから最近の参政党や日本保守党ファンみたいなフワフワした空気で動く情緒的保守層までいるわけだ。
「旧来のゴリゴリの」が親イスラエルというか、はっきりと反パレスチナなのは不思議という方が不思議ではないだろうか? 重信房子とかテルアビブ空港乱射事件の歴史的インパクトに照らせば。
一方の「最近の情緒的保守層」は妙にトランプを慕っている。アメリカの宗教保守にもどちらかといえばシンパシーを持っているだろう。シオニストも友達の友達の友達というわけだ。そこにはやや飛躍があるが、それは本邦ネトウヨの発想が飛躍してると言うより、アメリカ国内でのキリスト教右派とシオニズムの結びつきにそもそもギャップを無理やり繋ぐ飛躍があるというべきだろう。
しかし彼ら情緒的保守層が何を支持するかの選択を誘導してるのは「〇〇が好きだから応援したい!」というプラスのインセンティブより強く「✕✕なんかとつるんでるやつはどうせろくでもない」といった負の感情だろう。
そこでは「バカな右翼の考えることはわけがわかりませんなぁ〜」という蔑視の目が重要な役割を果たしている。
百田とかがテキトーに示した道筋の沿道両脇を和式リベラルが固めてコースを逸れないようにがっちり協力しているのだ。
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福音派とシオニズムの結びつきのシリアスさについての理解も肌感覚も当方持ち合わせない。それは日本人がキビヤックの作法に通じないくらい本来アタリメエのことだが、「なんで欧米がああまでユダヤーイスラエルにキンタマ握られてるのか」不思議に思うならそこは調べないといけないだろうな。とはいえ表面的な記述をなぞっても意味なさげ
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吐き出し。
コロナ時期から、真実はこれだ系のYouTubeにはまったらしく、トランプを支持したりマスクやワクチンは意味がないなどと言い出したりして苦々しく思っていたが、ネット上でも似た事例を見つけて、ただ悲しいなと思っていた。
友人なら距離をおくなどを考えるが、親なのでそうもいかず、また自分が大事にされていることは分かっていたので、衝突するであろう話題を避けることで乗り換えてきた。里帰りなどで一緒に過ごすのは年に数回だったので問題なかった。
真実系に染まったと思われるのは父だけで、それを日常的に聞かされる母や弟は本当に大変だな、と離れた視点で思っていた。
自分の中で何かが変わったと思ったのは長崎の平和祈念式典のなりゆきを見てから。
その前触れというか土台は、少し前に里帰りしたときに久々に父と言い合いをしたことにある。たまたま流れたニュースへに対して発したやりとりから始まったが、父がイスラエルを擁護していることがわかった。そのときは、今後は徹底的に話題を避けるしかないな、と思うことで収まった。
だが、長崎の式典への各国の対応を知って、家族や知人には言えないが、こんな世界に子供をもうけておらず本当によかったと思ってしまった。
※個人の過剰な感想なので、気を悪くする人もいると思います。そのときはすみませんが読み飛ばしてください。
実際には口が裂けても言えない。
なぜこんなにショックを受けているのか少し自分でも謎だったが、今日酔っ払いの頭でふと気づいた。
父はこちらに何か不安な事があるたびに「いつでも帰ってこい。お前たちの帰る場所はここにある」と言ってくれていた。私はその言葉にとても励まされていた。
ガザの人たちは、イスラエルの入植により帰る場所を奪われた人たちだ。追いやられた場所で必死に生活をするしかなく、なんとかやっていたのに、追いやられた場所で、今は一方的に虐殺行為を受けている。イスラエルにより。
きっかけがハマスのテロだとして、民間人を虐殺することがなぜ正当化されるのか。なぜ、そんな国とそんな国を擁護する人の言葉しか聞き入れないのか。
父は帰る場所があることの大事さを知っているはずなのに、なぜ帰る場所を奪い狭い場所に閉じ込め虐殺を行うことを肯定できるのか。
今回の長崎の件で、アメリカだけならともかく、そのほかの欧米諸国もアメリカ同様にイスラエル支持の立場であることが明確になり、それに絶望した。安い言葉だが。
父は欧米諸国寄りの思想なので各国情勢でいくと主流派にはなるのかもしれないが、長崎の件でそれがまざまざと見えてしまって、自分はそのことをまだ消化しきれていない、ということなのか。
全然関係ないが、ここまで父に会いたくという思いを持つことで、少しだけ宗教戦争に思いを馳せた。信仰の違いは戦争につながることがありえたんだな、と思う。信じるものが違いすぎると家族でも遠くなる。
これも全然関係ないが、自民党と統一協会の関係は、欧米諸国とユダヤ資本の関係に似ている部分があると思う。
アメリカでも、若者の間ではイスラエルやばいよね、という意見が多いらしいので、そこは希望が持てる。
思うだけで自分は何も行動はしていなかったことを反省し、ガザ人道支援の募金をした。
この行動のきっかけになった点は父に感謝できるのだろうか。それにしても、あーー里帰りしたくない。帰るんだろうけど。
まとまらないことに変わりはないが、理屈はおいといて、罪のない子供たちが殺されるのは許容できないと思うし、子供を大事にしてくれる父にそんなことをしている国を擁護してほしくないのです。
「知足」の考え方が富をもたらす理由をより深く探るためには、物質的豊かさと精神的豊かさの関係性を考察する必要がある。
老荘思想や仏教思想は、物質的な欲望を超えたところに真の幸福があると説いている。
まず、老荘思想における「知足」は、自然と調和し、無為自然の状態を目指すものである。
これは、物質的な豊かさを追求することなく、自然の一部としての自分を受け入れることで、心の平穏を得るという考え方だ。
老子は「足るを知る者は富む」と述べ、自己の限界を知り、現状に感謝することが、真の豊かさであると説いた。
一方、仏教思想では、「知足」は煩悩をそのまま受け入れ、それを転じて幸福を得る手段として捉えられている。
仏教では「煩悩即菩提」という概念があり、煩悩を断ち切ることなく、そのまま幸福に転じることができるとされている。
これは、欲望を完全に消し去るのではなく、それを受け入れた上で、精神的な成長を遂げるという考え方である。
物質的な豊かさを際限なく追求することは、環境や社会に負荷をかけるが、知足はそのような負担を軽減し、持続可能な生活を可能にする。
これは、経済成長が必ずしも人間の幸福につながらないことを示唆している。
ユダヤ思想においても、物質的な豊かさよりも精神的な価値が重視される。
例えば、タルムードには「誰が富者か?自分の分に満足する者である」という教えがある。(参照: https://www.sefaria.org/Pirkei_Avot.4.1?lang=bi )
これは、「知足」の考え方と非常に似ており、物質的な欲望を制限することで、精神的な充足を得ることを促している。