はてなキーワード: パネルとは
ざっと見た中では毎日の記事(WTO敗訴 安全性を立証しようとの日本政府の狙い裏目に)が比較するとましだった。NHKはひどかったな。
https://www.wto.org/english/tratop_e/dispu_e/495abr_e.pdf
争点は8つほどあげられているが、主な点は以下のようにまとめられる。
1.韓国のとっている輸入禁止措置がSPS協定(SPS Agreement)に認められる範囲(妥当な水準の規制=ALOP)を超えているか否か
2.日本が提出している科学的証拠はSPS協定の例外措置をクリアするほどに頑健か否か
ここで重要な条文はSPS協定の2.3、3.3及び5.7である。
要約して書くと
2.3
加盟国は検疫措置により、恣意的・不当に同一または同様の条件の元での加盟国間の取引を差別し、擬似的な制限として利用してはならない。
3.3
加盟国は、科学的に正当な理由に基づいている場合には、自国の保護水準を、国際的な基準、指針、勧告に基づく水準よりも厳しいものに設定しても良い。ただしこの条文によりもたらされる水準はSPS協定の他の条文規定に違反することは許されない。
5.7
加盟国は、科学的証拠が不十分な場合には、他の関連国際基準や、他国の措置などの情報に基づいて、暫定的な検疫措置を設定することができる。その際もリスク評価のために必要な追加情報を得るように努め、妥当な期間内に検疫措置について見直しを行うべきである。
と言う部分。
さらに前提知識として、日本も韓国も食品による被爆線量としてCODEXを採用しており、これは国際規格なのでSPS協定の認める関連国際基準に即しているものということができる。CODEXでの食品由来被爆線量の基準値は1mSv/Yr。従来の規制値としては日本も韓国もセシウムのみを基準としていた。2013年に韓国はさらにストロンチウムなどの別の放射性物質の検査も要求し、基準値以下の放射性物質が検出された際にはさらに追加の検査をするように要求しており、日本はこの要求基準に基づいた輸入禁止措置は恣意的・不当な差別に当たるとして解除を求めている。日本はセシウムのみの検査であっても、他の放射性物質由来の被爆線量への寄与度が低いことを考慮すると、十分であるはずだと主張しており、最初のパネルではこの主張が認められていたところである。
ALARA=As low as reasonably achievable
つまり合理的に達成可能な限り、放射性物質の摂取は低い方がいいと言う原則。
韓国側は満たされるべき科学的根拠は基本的には以下の3つの要素によってもたらされると主張した。
(2)被爆量はALARA、
これに対し、日本側は(3)にフォーカスし、日本が現在行っているセシウムのみに基づく検査で3はクリアできる、と主張していた。この主張は下級審では認められていたわけではあるが、韓国側は、セシウムのみの検査では、上述のSPSAの5.7に定義された、科学的な根拠が不十分である検査とした。ストロンチウム等の実効線量がセシウムとは異なることを指しているものと思われる。セシウムが100Bq/Kgである他国の食品と、福島原発事故後の日本におけるセシウム100Bq/Kg基準が基準線量1mSv/Yrに与える影響は同一視できないという主張である。
これに対しWTOはどのように判断したかというと、ALARA原則を考慮すれば、福島原発事故ののちにおいての日本は他の地域に置ける基準線量に与える影響を考える上で、2.3に規定される「同一または同等」の条件を満たしているとは言えないとして韓国側の主張を採用し、輸入禁止措置がSPSA2.3に違反しているという下級審での結論を棄却したわけだ。その理由の一つとして5.7の科学的根拠が不十分であるとの韓国の主張に、日本側は反論しなかったというものをあげている。日本側としてはCODEXに準拠しているのであるから、(3)を満たすことによって(1)、(2)は必然的にクリアできるであろうとの読みがあったのではないかと思われるが、結論から言ってしまえば甘かったということになるのだろう。感覚的にはストロンチウム等の検査要求されている放射性物質による被爆線量が、日本とその他の地域と同等であることをなんらかの形であれ主張することができれば下級審の判定は維持されたのではないかというような気がしないでもない。
私個人としてはCODEX準拠であればその他諸々の行動による浮動的なリスクを超える範囲で、言い換えれば検知可能な範囲でのリスクの増大を招くとは思っていない。しかしながら、ストロンチウム等の食品摂取によって、実効線量がどのように変動するかについて、科学的知識が十分だとは言えないだろうと言われれば、「それはお説の通りと思います」と言うしかない。福島原発事故以前であればともかく、現実にあの事故を目の当たりにした上において、放射性物質に対して、必要以上の嫌悪感ないし、忌避感を持ったとして、さらに言えば、それを喧伝したとして、それは非難されるものでもないであろうと思っている。食というの非常にプライベートなものであり、こだわりは内面的なものでもある。
WTOの裁定は端的に言ってしまえば、1mSv/Yrが達成される蓋然性は高いとWTOも認めてはいるが、ALARA原則に基づけば科学的に安全であることを認めたわけではない(不明瞭であるとした。危険とももちろん言っていない。)日本側として、「科学的に安全との事実認定は維持」を言いたい気持ちはわからないでもないが、こういった場面でそういったことを言ってしまうところにディスコミュニケーションの原因があるような気がしないでもない。
一人でぶらっと旅行や出張で地方の生活都市に行くことが多かった一年なんだけど、時に、そういう地域の駅舎ってびっくりするほど安っぽかったりするよね。別段それは老朽化とかそういう話ではなく、また、駅前に人気がない過疎地域とかそういう話でもなく、ホームが4つとかあって駅ビルがある駅舎なのに、その駅ビルがめちゃくちゃ安っぽいみたいな話。
白いパネルで作られた、印象レベルで言うとプレハブの巨大版みたいな駅ビルになってる。中には飲食店や食料品店を含むテナントがちゃんと入ってるような駅ビルなのに、豆腐みたいな方形でプレハブ風。しかも二階建てとか三階建とか、周辺よりも低め。あれ、なんなんだろう?
そういう駅の駅前がガラガラって話でもなくて、でかいバスロータリーの周辺にはそこそこの商業ビルや雑居ビルや飲食店複合ビルが立ってて、そっちは普通のちゃんとした作りで、ヘタをすると都心部よりものっそりした柱も太いコンクリがっしりみたいな作りだったりする。
駅前のそういう雑居ビルよりも、駅ビルそのもののほうがテナントから見た価値は高いのだろうから、駅ビルに投資してテナント代で回収したほうが経済合理性があるのでは? 周辺を見る限り需要もあるようだし。
なんで駅舎だけ、あんな仮置きみたいな変な作りなんだろう。調べてみたら別に仮置きでもなんでもなく十年くらい前に新築でそれだったりするんだけど。
そんな懸念してるの君だけでは?
おっちゃん増田からみても、あの胸だけ立体パネルは無いなーと思ったわw
ただ、男性には おっぱい星人を自称してはばからない、おっぱい好きがかなりの頻度で居るのは間違いないので、
そいう男性にとって、おっぱいはフェロモンのような働きをするんでしょう。
女性だって乳がんでおっぱい除去すると、必要以上に悲しむ人達がいるので、おっぱい好きな女性もわりかし居るのではとも思ってる。
けれども、受けている絵を観察すると、胸に目が行くように描かれていることが多い。
これは別にその通りだろ。今更感がある。全員ではないにしろ、多くの男性がそうなんじゃない?と女の目線でも思うし、それはまぁ自由ではない?
で、増田が
なんでこんなことを突然書いたのかと言うと女性の胸元だけ立体的になったアニメの等身大パネルを見かけたからなんだけど。
アレはないなー、と個人的には思う。
当方、マンガ絵を描く女性だけど野郎を描くより女の子を描く方が断然好きな人間。
原作がある2次絵を描くときは、原作をできる限り尊重する。例えば、FGOのパッションリップ並みの巨乳を通り越した奇乳でもその通りに描く。
けれども、1次創作の時はだいたい悩む。あんまり設定を詰め込んで描かないタイプなので、余計に悩む。
悩んだ結果、だいたい現実と同じ感じの描写に落ち着く。例えば、ブレザーを着ている女の子だったら胸が目立たないように描くし、薄着だったらバストサイズが分かる感じに描くけど細めの子だったらCくらいよりも大きく描くことは滅多にない。
と言うより、バストサイズを気にすること自体が嫌だ。だから、最近ツイッターで流行ってる絵描きさんが自分をJK化して描く企画もバストサイズの指定があるので参加したくない。
私が考える女の子の可愛さにはバストサイズは関係ない。表情だったり、仕草だったり、そういうところの可愛さを表現したい。
けれども、受けている絵を観察すると、胸に目が行くように描かれていることが多い。
なんつーか、男の人(主語大)って分かりやすく性欲を煽られる絵が好きなんですかね?
なんでこんなことを突然書いたのかと言うと女性の胸元だけ立体的になったアニメの等身大パネルを見かけたからなんだけど。
アレはないなー、と個人的には思う。
男性がかなり女性の胸に執着してて胸の大きさを女性のキャラ付けに使っている男性向けコンテンツの現実は知ってるけど、例えば主人公格の男性が短小なのをコンプレックスに感じているとかプロフィールに書かれたらだいぶ異様なのに、ヒロイン格の女の子が胸が小さいのをコンプレックスに感じているとかプロフィールに書かれるのは許容される世界はやっぱり変だなー、と思う。
【追記】
あのパネルは多分バイトがイキってバカやってるのと同根なんだろうなと思う。
可愛いと思うかどうか、と、不自然に思うかどうか、は別の話なんじゃないかな?
人間の体って横から見たとき、パネルのように全身平たいわけではないよね
だから今回のパネルは実物の人間を再現するかのように様々な部位がでっぱってたら自然だと思う。
なんか炎上してるので、ちょっと調べてみた。自分の結論を先に書くと、
公式ツイッターが無警戒に『お触り、自由』と書いたことが良くなかった。
おそらく、展示自体に『触ることを推奨』はされてない。(禁止もされてはなさそうだが)
だと思う。
おはようございます。アニメジャパン2日目。本日も東5ホールJ23アスミック・ブースにてなんここ特製クリアファイルお配りしています。お越しになる方よろしくお願い致します! #なんここ pic.twitter.com/wg5ka2ifaL— TVアニメ『なんでここに先生が!?』公式@4月7日放送開始! (@nankoko_anime) 2019年3月24日
もし、これが展示で『触ることを推奨』してたなら、ブクマやtogetterでの『ポルノグッズ』などの、展示に対する強い非難がされるのは分かる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
ただ、そうではないのなら胸を立体化したパネルの展示というだけになるので、展示に対しては、ここまでの炎上や避難されるほどではないような気がする。
「こういうパネルがあったらどうすんの?」って言われても、そんなに作りたければ作れば以上のことは言えないな……
https://togetter.com/li/1331836
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
そもそも昨年の『AnimeJapan 2018』にはBLグッズが出展されていて中には際どいポーズのもあったりするわけだけど、これを置いて良くておっぱい展示がダメな理由がさっぱりわからんのだが……
https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1518143270
https://www.animatetimes.com/news/img.php?id=1518143270&p=1&n=9
パンツ半脱ぎの男のイラストは良くて着衣キャラのパネルの胸を揉むのがダメって本気で意味わからない。
それとも、パネルを叩いてる皆さんは去年このBLグッズに激怒されていたのだろうか。そうだったらごめんね。
(念のために言っておくと、BLの露出を批判する意図はないからね。俺男だけどフィクションの男が剥かれていても特に問題だとは思わないし。架空キャラの性的消費はどんどんやればいい)
そもそも『AnimeJapan 2019』にわざわざ来てお色気エッチ系漫画のブースに来てる人たちを相手にするわけで、公共の場でゾーニングもなしに! とか意味不明すぎる。されてるやん、ゾーニング。
基本的に私企業が展示場に集まってわいわいやってるイベントでしょ。そりゃ確かに誰でも入れるけど、街中の看板やポスターと違って流石にそういうのを許容できる人が主に見ることを想定してもいいでしょ。
お役所が後援してるからダメとかいう主張もあったけどそれ「是枝監督は国のカネで反日映画作ってる」っていういちゃもんとどう違うんですかね。
ていうか皆さんちゃんと作品のPV見てる? どう見てもお色気で釣ってる作品でしょ。プリキュアのエロ抱き枕とかなら批判する理屈もわかるけど、お色気作品として作られたものに色気で釣るなとか言われても意味不明すぎるんだが……
二次元と三次元の区別? これは性犯罪を肯定するようなものとか言ってる方が二次元と三次元を混同しすぎじゃないですかね。あれを擁護している人のなかで、現実の性犯罪を擁護してる人なんてほぼいないでしょ(往々にして世の中には信じられない馬鹿が存在しているものなので「まったく」とは言わないが)。
男の玉を蹴るパネルがあっても許すのかというブコメもあるけど、わざわざパネル設置するほどイケメンキャラの玉を蹴りたい需要があるならやれば? としか。架空キャラの金玉を蹴ることで欲望が満たされるならいくらでも蹴ればいいと思うよ。性癖の形は人それぞれだからね。
とにかく、個人的に気持ち悪い、なら別にいいんだけど(それこそ「自分の萌えは他人の萎え、他人の萌えは自分の萎え」ってやつだし)、そこから抗議行動につなげる人たちの理屈が本当に理解不能。
まあもちろん自分のお気持ちを表明して他人を叩くのは表現の自由に含まれるので、そんなに批判したいなら好きに批判すりゃいいと思うのだけど、それに納得するかというのはまた別問題なわけでね。
久しぶりにコナンの映画を見てみたら、安室透がスマートフォンのタッチパネルで爆弾の起爆スイッチを押していた。極めて慎重にセッティングされた爆弾を、緊張の面持ちで、つめたいガラスの画面に親指を軽く押しつけていた。
軽くタッチパネルの硝子に触れただけで、その爆弾はスマートフォンから送られた着信を受信し、爆発したのである。
この文章を読んで何がなんだか分からない方は2018年に公開された『ゼロの執行人』をレンタルかBDを購入して観て頂くとして、ともかく、その起爆スイッチを押すシーンというのは、私の中ではこの映画の中では三本指に数えられるほどに印象的なシーンだった。
もちろん、20年も前に始まった漫画のキャラクターがスマートフォンを使っている事に驚いているわけではない。最近原作を一から読んでいるけれど、巻が進むにつれ新しい概念を取り入れている大変面白い作品である。
では何故印象に残っているというか、一種衝撃を受けてしまったのかと言えば、それは起爆スイッチがスマートフォンだったからに外ならない。爆弾の起爆装置を起動させるための中継器が携帯電話なのはよくある話だが、それがスマートフォンになったところでふーんという感じである。携帯界隈の世代交代というほかない。
しかし、しかしだ。爆弾を起爆させるという、そんな重大なスイッチを、誤タッチの危険性があるスマートフォンでいいのだろうか、という心配が過ぎってしまったのである。
そもそも静電式タッチパネルというパネルは、文章を打つという観点からすると非常にいけすかないパネルである。まず文字を打ったという実感がない。決定ボタンを押しても、サイトのボタンがちゃんとタップできているかわからない。リンクが切り替わってやっと「押した」という実感がやってくる。
文章を打っているときはふよふよとしたキーボードというか最早シートのようなアルファベットが、指を当てる度に浮かび上がったり沈んだりというアニメーションを繰り返すけれど、だからといって指にキーボードを打ったときのような打鍵感は伝わらない。平面の板を指でつついているだけである。これでは指の方が変形してしまう。このふわっとした文字うち感覚がどうにも耐えきれず、私はポメラを購入せざるを得なかったし、パソコンを手放せなかったというわけである。
それでもスマートフォンの方が画質は良いし、画面が広いので横書きにしろ縦書きにしろ文章が読みやすいのである。ホームページも見やすい。そう、『観る』というツールとしては大変優秀なのが、画面だけがすべてみたいな、スマートフォンさんという機械なのだ。
それでもやっぱり、スマートフォンで起爆スイッチを押すのはどうなんだ、と思ってしまうのである。
これは安室さんに限ったことでは無く、スマートフォンというかタッチパネルを使ったどんなシステムにも抱く感情なのかもしれない。しかし、頭では確実性はタッチパネルの方が高いと言うことは理解しているのだ。それでも物理ボタンを頼った方が良いのでは無いか、と思ってしまうのは、最早ボタンレスが普通になりつつある現代に対して私が発症した適応障害じみたなにかなのかもしれない。
SFの世界に限ったことでは無く、現在でも様々な入力機械にタッチパネル(静電式)は使われている。
ボタン式の起爆スイッチ(なんかもうこの言葉だけで頭がおかしい気がしてならないのだが)の方が、構造上中継する部品が多い分故障や接続不良の危険性を孕んでいる。それを鑑みれば、やはり起爆スイッチは感度抜群のスマートフォンの画面をタッチする方が理に適っていると言える。間違ってスイッチをタップしてしまい誤爆することはあっても、起爆信号の正確性を考えれば、タッチパネルに何のクッションも挟まず触れてしまう方が、よっぽど確実である。絶対に爆発することができる。
それでも私はボタンの方がいいなと思ってしまうのだ。そんな軽々しい起爆スイッチで大丈夫かと思ってしまうのだ。この感覚が、私がボタンにたいして全幅の信頼を寄せているからなのか、ボタンを押すという実感がなければならないという強迫観念なのか。
あの触感のはかなさに反して、その先に起こる爆発という非常に重たい現象があり、それがコナンたちの命運をかけた一場面だと思うと、宙に浮いたような不安感がただようのだ。
そんなことを深夜に思いつき、こうして書き作っていた。
おわり。