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「死んだら無になる」って誰が言いだしたんだろう、と思い調べ始めたが……思ったよりも大変だなこれ
『近代日本人の死生観』という論文……国士舘大学の講演会資料?……に以下のような記述がある
一九〇一年、死を宣告された政治思想家の中江兆民は、間近に迫った自己の死を強く意識しながら、『一年有半』、『続一年有半』を著しました。そこでは身体(駆殻)こそがすべてで、精神などというものの実在を想定する必要はない、死とともに個人の存在は終わるのだというさっぱりとした考えがけれんみなく提示されています。
へぇ~、明治のころにはもう最近の日本人がしばしば言いがちな「死んだら無になる」って考えを持った人がいたんだなあ
じゃあこの「死んだら無になる」って考えはどの時代までさかのぼることが出来るんだ?
「神」の存在は否定しても「霊魂」の存在は否定しない考え方もあるようなのだ
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。
まさしく「死んだら無」の考え方
しかし、この仏教の断見という考え方が現在日本の「死んだら無」という考え方に直接つながっているわけではおそらくないだろう
こうした考え方が広がっていく背景には、近代科学が前提とする唯物論的な世界観の影響があるのは確かです。しかしまた、現世を尊ぶ儒教や神道、また霊魂の実在ということを否定する仏教の伝統が影響を及ぼしていると見ることもできます。
じゃあ唯物論について調べるか……と思ったがここで調査打ち切り
なんか唯物論の西欧での歴史をざっくり眺めてると、神の存在は否定していないように見えるんだよな……ここらへんキリスト教の知見が足りないのかもしれない
そしてなぜか途中から共産主義の話になる、わけわからんくなってしまった
キリスト教の歴史について書かれた初学者向けの本を先に読むべきかもしれない
もともと私は幕末~明治の日本人の宗教観を調べていたのだが、面白そうなテーマがあってつい脱線してしまった
2002年刊行の『死と唯物論』という本が面白そうなのだがすぐには入手できなさそうだ
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Wikipediaの「無神論の歴史」のページの記述で関係ありそうなところをピックアップしておくか
「チャールヴァーカ」の項
パーリ経典によれば、紀元前6世紀のアジタ・ケーサカンバリンが仏教徒と議論をして「身体が滅びるとともに、賢者も愚者も等しく滅する。彼らが死後も存在するということはない」といったことを既に説いている[3]。
江戸時代の日本の「浮き世」の考え方(=現世利益)ととても相性がいい
「死んだら無」とはすなわち祖先もまた無になったということになるので受け入れ難いか?
これも「死んだら無」の論理だったが先祖を敬うことは推奨する思想になっていたのが上手いところ
流行りはしなかったようだが
エピクロスは「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」という語録も残しているようだ。原子論的(唯物論的だ)な考えから導き出された思想か
西洋の啓蒙時代まではキリスト教の影響が大きすぎて無神論の考え方は全然育たなかったみたいだ
ざっと見た感じ現世利益と唯物論の合わせ技で生まれる発想みたいね
誰が言い出したんだという話からはズレるが、現代日本で「死んだら無」って言ってる人は漫画の影響とかありそうな気もする、知らんけど
【切り抜き】神漫画家たちが語る「週刊連載は人間のやる仕事ではない」森川ジョージ/桂正和/赤坂アカ/つくしあきひと/アジチカ/西義之/黒瀬浩介/佐倉おりこ【因幡はねる / ななしいんく】
https://www.youtube.com/watch?v=oQzgqSYu9L8&pp=ygUd5Zug5bmh44Gv44Gt44KLIOWIh-OCiuaKnOOBjSA%3D
これとかどうだ
#神漫画家だらけ のお絵かき伝言ゲーム!森川ジョージ/桂正和/赤坂アカ/つくしあきひと/アジチカ/西義之/黒瀬浩介/佐倉おりこ /GarticPhone【因幡はねる / ななしいんく】
https://www.youtube.com/watch?v=D_pn6YkgEUY
GarticPhoneのアルバムだけでも見るといい
南キャン山ちゃんの「女性に求める料理能力が冷蔵庫の残り物でレバニラ炒めやキノコの味噌汁を作れる」という釣り餌に今更ながら食いついてみる。別に女に求めなくていいけどレベル3くらいが妥当なところじゃないかしらん。レベル4あればすごい感じ。
イエス(Jesus)が死に至る瞬間に彼の魂からオーブ(Orb)が現れて世界を覆う光の源となった。ヤハウェのダーク・アジャー(Dark Assure)が世界を覆っていた時のことであるからその衝撃はある意味で凄まじいものとなる。神の子が屠られるという理不尽な仕打ちを受け入れたためにそれは仕事として存在し、唯一の永遠の命を可能にする所業としての価値を持っていた。
クロス・オーブ・アドベント(cross orb advent)の時にはオーブとアジャーの組み合わせによってスキーム(scheme)が生じて、それがキリスト教として世界を渡るようになった。すなわち復活を待たずして復活というのは避けられない真実としてその時を待っていた。キリスト教はイエスの十字架の上の業がクロス・オーブ・アドベントとして結実した時に成立したと言っても過言ではない。
元々の考え方では復活を告げる天使とそれを聞いたマリア達の福音によって成り立っているとも言えるのであるが、復活は確固たる事実として預言されていた。そのために彼らは事実確認をするという意味で必要であったが彼らの存在がなければ復活は証言し得ないわけではないのである。そもそもオーブとは仕事ごとに与えられる珠玉のようなものを象徴していて、あらゆるスキームに働きがける力を持っている。
イエスのオーブは唯一の永遠の命を与えるオーブであって、彼の左手の上に乗っているイメージである。これはキリスト教というスキームにおいてオーブに似たオーボイドを発生させうる。というのも彼の追従者はイエスに倣うことによって永遠の命に到達する。その時の状況は最も厳しい時においてはダーク・アジャーに似ているであろう。ダーク・アジャーは理不尽な場面における神意の漂いのようなもので永遠の命の出現を待ち受けているようである。殉教という瞬間にこそイエスへの真の追従が実現するのであって、その時にはクロス・オーブ・アドベントの時のように永遠の命が下される。
オーブとアジャーの組み合わせは実に重要であって、この世にあって仕事というのは同じ働きがけであっても場面ごとに意味を変えるのであるからオーブの現れとその時のアジャーの漂いはそれぞれが異なるスキームを生じさせる。ここにいうスキームとはそれこそ「キリスト教」などのように人間の集まりを含む時空のような意味合いを持っている。むしろキリスト教をスキームと呼ぶことによってスキームを理解してほしい。
例えば刀鍛冶のオーブとは刀を作り出すことであり、その際に漂っているアジャーとはその完成を待つ人々を含んだ雰囲気のようなものであり、オーブとアジャーの組み合わせによって生じるスキームというのはその刀を用いる人々を含んだ時空を表現している。すなわち刀鍛冶のオーブが出現した瞬間にそれを求める人々のアジャーにオーブの光が行き渡りスキームとして使用者の小宇宙が広がるのである。
クロス・オーブ・アドベントに関連する半ば英語の歌がここにあって、それはOrb Word God, God Get Odd, Old Knew Own, All Aim Awe, And Hold Gold, Ghost Wrest Heaven, Heard Cherub Laughというものである。その直接の意味はとりあえず置いたとしてクロス・オーブとは神を語る主体であり、 神を奇妙に変質させるようなものであるが古い存在は自分のものを知っていて、全ての目的は人々の畏怖と彼らが黄金を有することであり、霊は天国を勝ち取りケルブが笑うのを聞くというようなものである。この歌の啓示があったのが2022年の7月から8月にかけてであった。
クロス・オーブの重要な点はキリスト教においてイエスの死の理由を贖いのためというものからひたすら栄光のために変えるのである。イエスが屠られたために引き換えに我々は生きるというのでは論理が飛躍しているが、クロス・オーブ・アドベントによって光が生じ永遠かつ無限の命の価値のある神の霊が降ったことによって、それを継承し支配するイエスが決定したものに神の霊が分配されるといえば筋が通っているように思える。またクロス・オーブ・アドベントの時にクリスチャニティ・スキームの生成があってキリスト教の創始者を完全にイエスによるとの主張が成り立つ。
福音とはある意味でクロス・オーブの出現の音でありそれを直接耳にしたものはなかった。クロス・オーブのオーボイドとは福音のようなものであって、福音を聞いた人々の状況に相当している。それはある種二種類の炎であってイエスに纏わる灯火かあるいは地獄の炎であり、どちらも神への捧げ物としての価値を有している。
大柄なお兄さんが普通に納得いくくらい野菜炒め食えるくらいの量だ
量あたりの値段はほとんど差はなくて、東京で200円くらい、地方でも300円くらいだ
それでもどちらも普通に丸ままのキャベツとか玉ねぎ買い集めるより割高な値段設定であることに変わりない
しかし、単身者が張り切ってキェベツひと玉かっても食い切れずに飽きて腐らすので、結局小袋を買ったほうがいい
そうなると、地方も都会もそんなに変わらんな、となる
もちろんほとんど変わらないものも多いけど、産直のコーナーで激安のものが入っていたり、季節のものがとびきり安くなったりする
そういうものを選んで買えばずっと安い
つまり、そういう地方の季節特有の安さにありつけるのは、毎日たくさんの食材を消費する、家族だけって気はしている
今日は茄子3本入りが100円、ピーマン8個入りが100円、ってなっててもおそらく都会から地方にやってきた単身者の目には入らない
コンビニ弁当が最近みるみる値上がりして500円で買えるものがなくなって今は600円前後が普通になっているけど、東京のスーパーもひょっとしてそうなのではと推察している
スーパーのお惣菜の餃子6個入みたいなの東京じゃいくら?地方は300円くらいだよ
これは地方が安いんじゃないかなって思っているけど、どうなんだろう?
あと魚
東京のスーパーってアジとイワシとシシャモと、冷凍のマグロくらいしかない
地方は色々入る
ノドグロやカレイ、キンメ、サワラ、カサゴあたりは毎日並んでいたりするのが地方だ
普通に魚を食べてきた地方民が東京のスーパーに行って驚くのはまずこれだよなあ
えっ、魚ない?ってなる
これはもう高いとか安いとか言う領域じゃない
これもファミリー向けで、魚を使っていかないと献立が回らない家だけ関係する話
肉に関しては、ほとんど値の差はない
でも東京は豚が好き、関西は牛が好き、九州は鶏が好き、みたいな文化の差は感じる
その差の分、少し安いかも?
総合すると、単身者は地方でも都会でも、ほとんど値の差を感じることはないだろうと思う
昔学校向けのPC導入支援してた時、某国産PCメーカーの文教タブレットが低スペなのにクソ高いとはてブや棘でクッソ叩かれてた。
気持ちはわかるけど、文教向けで据え置きじゃないPCって相当な強度と交換見据えた価格設定が必要なんですよね。
小学生すぐ壊すんよ。タブレットを。精密機器をおもちゃだと思ってる節があるので。
自分が見ただけでも
・タブレットで他のガキを叩く
・アジの開きならぬPCの開きかってくらい開く(クレイドル部分なので安め)
・細かい隙間に砂を詰める
普通の落とす踏む濡らすとかは想定してて頑丈にしてるし、課外学習程度では砂入らないような防塵仕様や端子キャップはあるけど、元気いっぱいのクソガキどもにとってはそれすら乗り越えてめいいっぱ壊しやがる。
いわんや中華タブなんぞですわよ。