はてなキーワード: 苦肉の策とは
https://anond.hatelabo.jp/20240507125309
はい。
ではなく、SQLは処理じゃなく、定義であることを理解するのが大切。
何の定義かと言えば、リレーショナルデータモデルへの演算定義なんだよ。この演算には、関係代数という演算を使う。
なぜ定義だと認識する必要があるかという、Selectは出力でも何でもなく、射影という演算の一部なんだよ。
"+3" とかと一緒
で、関係代数演算は順位にもちろん意味がある。最初に"射影"して"選択"かけたら全く別になる。
SQLは、この演算順位を、SelectやWhereの中で状況によって意味が変わる。という出鱈目なカバーで逃げた。Order byで悩んだろ。
さらに言えば、苦肉の策でWhereのパチモンはどうしても2回必要でHavingを作ったのよ
本来で言えば、この演算は、選択-結合-射影-結合といくらでも出来る。
「足し算は頭に一回書いてください。複数使う時はかっこつけて下さい。ちなみに、掛算を一緒に使うと足し算の意味が変わり場合によってはエラーです」みたいな安直な構造定義しちゃってるの。
リレーショナルモデルへの演算としてだダサダサで、リレーショナルモデルの演算の複雑さではなくSQLという表現の都合で人類の頭に負荷かけ続けてる。
出力が頭にあるのは便利(間違い)。英語だから(間違い)。って言われると何言ってるんだーって、ちょい昔のまともなデータベースエンジニアなら普通にキレてた案件
IH一口クソ狭シンクだと加熱作業は並行してできない。洗い物もすぐ水がビャーってなってイラつくし、必然ワンプレートで済む料理が増える。おれは品数少ない方が好きだからそれは苦じゃないけど。
切ってさえしまえばあとは炒めて煮込むだけなんだけど、冷蔵庫や洗濯機の上にまで作業エリアを拡張して具材並べて準備をするのが余りにも面倒臭い。
マジで終わってる時はたまに素カレーを食べる。水張ったボウルにルーを雑に砕いて投入してレンジ。トロミがつかなくてシャバいしから米を混ぜてごまかす。ちょっとルーの塊が残ってたりもする。
気力があればルーを刻んだ方が良いけど、気力がある時に食べるものではないと思う。
ツナ缶はいつまでも保つから別に放置してもいい。たまにコショウとマヨネーズかけてつまみたくなる事もある。
生モノはそうもいかなくて困る。ミニトマトをつまみたくなる気分というのはおれにはまるで訪れなくて、しょっちゅうシナシナになるまで放置する。
捨てるのも何なので、減るより早く増えるツナ缶もろとも処理しようと思った。
ツナとトマト……カレーだな!と思った。そんなメニューを食べた事はなかったけれど、直感で。
ツナとトマトを炒めて、水足してルー投入。予想通りというか、トマトの酸味と甘さが気になった。
これを消すのにソースを入れてみたりめんつゆ足してみたりしてみたけど、中々上手くまとまらない。
これはもう強烈な何かで上書きするしかないと思って、鷹の爪とニンニクチップを大量に入れてみた。
これがなかなか良かった。カレーとニンニクのスパイシーさと鷹の爪の刺激の挟み打ちでご飯が進む。黒コショウを振ると尚良し。
味をごまかす苦肉の策で生まれたけど、変な調味料抜きでもう一度作ってみたら、やっぱり美味しかった。ミニトマトとツナ缶は定期的に発生するので、定番のメニューと化した。鷹の爪は辛さを許容できる限界まで、ニンニクは入れれば入れるほど美味しい。トマトとツナの風味、食感もマッチしてると思う。
ウチにある調味料の中ではニンニクと鷹の爪とコショウが一番出番も消費量も多い。あらゆるものをペペロンチーノ風味にして食ってる。ペペロンチーノの決め手は味の素だったけど。
同じ保育園に通えど子どもの間の格差は凄まじいものがあり、上はパワーカップルキラキラ保護者から、生活保護や精神疾患、要保護家庭、介護で潰れかけている保護者まで、公立校以上に激しい家庭環境の違いが存在することを頭に入れて欲しい。
そして保育園は福祉施設であり、家庭環境が厳しい子どもを救うことが元々の存在意義。
それでは、保育園の仕事がどのように増えていったか大まかに見ていこう。
大体30年ほど
・保育は大雑把にいうと、預かっていれば良いというもの。
・この頃は主に、シンママや教員看護師の共働きが多くクレームもほぼない。
・大体17.18時にほとんどの子供が帰るが、一部の厳しい家庭のことを考え延長保育がスタート。
延長保育は18時から19時までだが、1人2人しか利用者がいない。
20年前
・乳幼児突然死症候群への対応として、乳児のお昼寝中は呼吸を確認すること(五分おき)
・小一ギャップ解消の為に大量の書類仕事の追加。小学校との接続連携が求められる。
・このころはまだ保護者保育園みんなで子どもを育てようという空気がある。
・どこぞの郵政解散総理が株式会社の保育園をありに規制緩和したせいで、主に保育士の給料が配当に使われ出す。
・待機児童問題が顕在化し、保育園を沢山作るために運営費の弾力化が行われて、保育士の給料を削って新しい保育園の開園費用に回すようになる。
・保育園事業費の弾圧化が可能になり、保育士の給料を他の事業に回すことができるようになる。
・監査を受けると補助金がアップするため監査のための書類が増加。
・保育園への入園希望者が増えたため説明会、問い合わせ、園見学の仕事が増える。
数年前から
・保育園は地域の子育て拠点になりなさいとのお達し。保育園に通っていない地域の子どもの支援をする仕事がほぼ義務化。園庭開放や地域の子の誕生日会、子育て相談をやるハメになる。ただし予算も人も増えない。
・幼児期の終わりまでに育っていて欲しい10の姿という子どもの能力についてのノルマが増える。
簡単に言うと、好奇心を持ち自主性に溢れお友達と協力し思いやりに溢れ言葉でのやり取りを楽しみ健康で積極的に体を動かし数字や文字に興味を持って地域や日本に関心を持ち生命を尊重できる子ども。そんな子は少数派だっつーの
・少子化に焦った国から、子どもが優秀に育つように様々な体験活動をしろとのお達しが増える。しかし予算もひとも増えない。
・保育園は老人ホームとか地域社会にも貢献しろとお達しが来る。
・保育士不足と人件費削減のため、正社員の保育士は各クラスに1人になり、クラスの書類や行事の準備、日々の保育の準備が正社員1人にのしかかるようになる。
・保護者から、幼稚園みたいに体操英語などの習い事をして欲しいという要望が増え、子どもの教材費を削り講師を呼ぶようになると時間通りに子どもを動かさなければいけないことが増える。
・教材費が少なくなり新しい玩具を買えなくなる。子どもは楽しいことを見つけるためにイタズラ増加、トラブルが増える。
・延長保育の希望者が増え18時以降に全園児の40%がまだ帰らない
・延長保育の申請が直前だったり連絡なしが増えて、補食の数を調節する仕事が増える。
・一部の保護者が自分の子どもだけの快適さと幸せを求めるようになり、保育士が振り回される。
・保護者が保育料を払っているんだからと、子育てを丸投げしてくることが多くなる。家庭との連携はなかなか絶望的で保育園だけで子どもの成長発達を促していかなければならなくなる。
・3歳以上の子どもはお昼寝をさせないで個別対応をして欲しいという要望があり、上記の大量の書類仕事がサービス残業に変換。
・猛暑の影響で、外遊びも水遊びもできない日が増える。ひたすら室内遊びで煮詰まる。
・土曜保育希望者の増加でシフトが回らなくなり、苦肉の策のシフト変更で13時間連続勤務とかになる。もちろん休憩時間はない。
・閉園時間ギリギリのお迎えが増えたため、勤務時間内にその日の仕事が終わらなくなる。なんなら閉園時間にお迎えに来ない。
・他国に類を見ない長時間保育のため、子どもが保育園で落ち着いて過ごせない。怪我の増加、喧嘩の増加。一歳児に13時間保育は無理だって…
・家庭によって子どもの発達の格差が広がる。発達障害に似た行動の増加。
・家庭と保育園が生活の大部分になり、人関わりのスキルの低下。喧嘩が増加し、怪我も増える。怪我をした時の書類も新設される。
・少子化を見据え園児確保のため、保護者サービスを増やす。保育園で汚れた子どもの洋服やエプロンを洗濯するようになる。
・普段の保育の様子を見たいから写真販売してくれとの要望が出る。ただでさえ少ない人手が写真撮影に手を取られるようになる。怪我を止められない確率が上がり、写真整理の時間が大量に取られる。
コロナの頃
・お察し
なぜ保育士が一秒でも早くお迎えに来て欲しいか、少しだけでも気持ちがおわかりいただけたでしょうか。
国も保護者も、自分たちの金と時間を費やさずにいい子に賢く育って欲しいと思っているのに誰も得をしない現状。
間違いなく最も皺寄せがいってるのは、発達の遅い子ども。
内容は異世界のガラスすら高級品なくらい低レベルな生活をしている原住民に、現代の料理を食わせてSUGEEEEと言わせるだけの作品だ
異世界食堂はまだ辛うじて食堂というだけあってそこそこ質の高い料理を出したり、異世界の人々との関わり合いによってSUGEEEEのテンプレから少しでも変化を付けようとしていた痕跡があった
だがこの異世界居酒屋とか言うクソアニメは、まさに日本の居酒屋らしくちゃっちぃ料理とちゃっちぃ演出で非常に気持ち悪い内容に仕上がってて逆に笑えるから見ろ
現在Youtubeのバンダイチャンネル公式で1話と2話の視聴が可能だ
https://www.youtube.com/watch?v=-LamSoBDZls
因みにどういうわけかこのアニメは内容だけではなく尺もちゃっちぃ為、1話毎のアニメパートは10分程度で終わる
アニメパート後の残りの時間は「のぶ+」なる謎の実写パートになっている
このアニメは脚本や絵コンテ作りの段階で何もかもが終わってるのが垣間見える
夕日を背景にしてキャラが歩いてると思ったら、次の瞬間には何の脈絡もなくいきなり夜になってたり
兵士が仕事が終わったのにクソ重いであろう鎧を来たまま外を出歩いて店に入ってきたりする(尚武器は持ってない)
そして極め付きはテロップの多さ
もう底辺Youtuberでもやらないぐらいしつこくテロップを使ってくる
例えるならゴールデンタイムで芸能人が出る様な普通の番組でコナンやらスラムダンクやらのアニメの名シーンを紹介する際に、キャラのセリフがテロップで強調される事があるが、あれをずっとやってる感じ
このテロップ演出には相当自信があるのか、キャラがテロップのセリフを言った後に数秒ほど無音の謎の間を使って更に強調してくるくらいだ、馬鹿だ
セリフだけじゃなく擬音にまでテロップをつける徹底ぶりは病的と言って良い
また何故か知らんが画面の左上には作品のタイトルロゴ、右上には話数とタイトルが常に表示されている、意味が分からん
これが納期に追われての苦肉の策なら分かるが、一番余力があるであろう1話目からこの調子なのだからもう取り返しがつかない
またビール(エール)を頼む際に、異世界の住民は日本語が読めないという設定からかビールの事を「トリアエズナマ」などと言って注文するのだが
日本語が読めなくてもエールの事なら分かる筈だし、そもそもセリフとしておかしいだろとかいちいち思っていたら、このクソアニメを最後まで見る事は出来ないだろう
居酒屋を題材にしているからという訳ではなかろうが、結果的に演出だけでなくキャラの意味不明な感想と思考回路も相まって、とても素面で作ったとは思えないのがこの「異世界居酒屋のぶ」だ
そしてこの作品には奇妙な点もある
Youtubeでは動画内で視聴者が最も多くシーク再生した箇所を「リプレイ回数が最も多い部分」として表示してくれる機能があり
通常のアニメであればその箇所はオープニング終わりの1分30秒~2分辺りになっているのが一般的なのだが
この異世界居酒屋の場合は何故かエンディングが終了した辺りが「リプレイ回数が最も多い部分」になっている
これは1話だけではなく2話でも同様だ
再生数稼ぎか?広告料稼ぎか?それともつまらなくて最後まで飛ばした視聴者が大量に居た証拠か?兎に角闇の深さを感じる
そんなわけでGoogleで「異世界居酒屋のぶ」と検索すると上から4番目ぐらいのサジェストに「アニメ ひどい」と出てくるこのやばい作品
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
地元のバイパスに、立派な花壇がある。これは、建設当時立派な街路樹が作られたんだが、時は過ぎて街路樹は大きくなりすぎ、また洞(うろ)なども発生して危険だからと全伐採された跡である。
結構な広い花壇である。車道が自転車専用レーン、歩行者レーンとその間を別ける様に設置されている。
道路に面するお店や自治会、グループなどに管理を任せて、思い思いの整備が行われている。
で、そこにあるのは、間になか卯を挟んで立地する2つの自動車屋。片方はスバル、片方は日産である。そして、ここでは、自動車販売代理店どうしの、代理戦争が繰り広げられているのである。
それそれぞれの花壇には季節の花が咲き誇る。ち今の季節では、スバル側は朝顔を中心に育てているようである。スバルブルー……ではなくて紫だが。
一方で、日産側はひまわりを咲かせている。それもでっかい大輪とスプレー咲きタイプを組み合わせている。
これは恒例になっており、どちらも季節が終わると種がとられ、翌年の初夏に苗が無料配付されるという。
さらに、空いている所には思い思いの花が植えられており、美しさを競っている。そう、これは単なる花壇の維持活動ではない。もちろん冬になればイルミネーションが点るし、何もない季節にもなんらか行き来する人を楽しませる仕掛を用意してくれている。
最初は国の予算の範囲から外れてしまって困った市がひねり出した苦肉の策だったかもしれない。しかし、もはやこれは、日産とスバルの代理戦争と言っても過言ではないのである。
なお、花壇ではなくて自社の店舗の所には、スバルはプランター入りのひまわり、日産もプランターから日よけにするように朝顔が植えられており、恐らく苗を交換しているのであろう。仲良く喧嘩している感じである。
インターネットで見かける意見を眺めていると賛否が非常に多いが、それもなんとなく分かる気がする。
FF16はゲームでありながらゲーム性という部分を大量に捨て去ってストーリーとCGを魅せることに全力を注いでいると言ってもいい。
ゲームを求めて購入した人は失望するしストーリーが好みに合わない人にとっては何も面白くもない、それでもこれを面白いと評価する人が一定数いることにゲームの価値を見出すことが出来るだろう。
序盤〜中盤は良かった、各国の政治が渦巻く中で理想のためにテロ行為をしていくのが主人公の立ち位置だったがこれを上手く表現出来ていたと思う。
終盤、ファンタジーという名を冠する都合なのかテロリストとしての意味が曖昧になってファンタジー色が濃くなっていくところにギャップを感じてしまい、これまで没入させてきたシナリオは何だったのか?と若干しらけてしまった。
まぁ、これは多くのRPGでも似たようなことがあるのだがFF16はストーリーに重点を置いているであろうために、このギャップが非常に強く感じられたのだろう。
ストーリーを重視するというのは難しいのだなとも思った。
とはいえ、総合点で考えれば100点中80点は取れるストーリーだと感じたし、FF16の方向性で新作が出るならば期待出来るだろうとも思えた。
主人公のクライヴが最高によい、下手に主張するようなキャラではなく感情の起伏も怒っているかそれ以外かぐらいなので尺に触ることなくストーリーに入ることが出来る。
個人的な意見としては戦闘中に「爆ぜろ」というセリフを言うことがあるがいい大人なんだからそんな中二病なセリフは言わないで欲しかった…
ヒロインのジルも最高によい、アニメ声が苦手な自分にとっては少し歳がいっている感じの落ち着いた声色はストーリーに没入するには丁度よい声だ。
テーマソングトレーラーの中で「その穢た血の前に膝を折るがいい!」というシーンがあるのだがこれが最高に格好いい、このシーンだけで好きになってしまったキャラでもある。
他にも色々キャラが出てくるのだが印象は薄い、これはキャラが強い主張をすることでシナリオ全体に波が立つことを控えるようにしているからなのだろうか?とも思った。
体験版をプレイしたときにオート操作のアクセサリを付けたまま遊んだのだが、これが付いていると最高につまらなくなると思った。
本当にシナリオにしか興味がないなら戦わなくてもいい戦闘を全部ムービーにしたほうが良かっただろう(そんな開発コストはかけられないから苦肉の策だったのかもしれないが)。
ボタンを押すだけでいいならわざわざPS5でゲームなどせずスマホでゲームをするのであのアクセサリの存在は害悪でしかなかったと思う。
オートアクセサリを外したところから戦闘の面白さが発揮される。
基本的な戦闘パターンは、敵の攻撃を回避して反撃、Willゲージを削ってダウンを奪い大技を叩き込むというのが流れだ。
序盤は回避技が乏しく、相手の攻撃を回避するのが人間の感覚からするとちょっとズレたタイミングで回避する必要がありストレスが貯まる。
アビリティが増えてきて回避やガードするアビリティが増えてくると戦闘アクションも楽しめるようになってくる、敵の攻撃をいい感じにいなしてカウンター技を叩き込んでいくのは爽快そのものだ。
FFシリーズとして残念に思ったことは、属性による有利/不利や状態以上などを駆使して強敵を倒すような戦闘での工夫が無くなっていたことだ。
装備もレベルも低い状態で強敵を倒すには回避技を駆使するしかなく、その他の工夫が必要無いというのは面白みに欠けている。
迫力はあったが面白いかと言われるとそうでもない、やらないと先に進めないからやっているだけという感じ。
通常の戦闘アクションより動きがもっさりしているので操作することに対する快感というのも感じられず、空を飛び出したころには何がなんだか分からんという感じになり、あぁ迫力あるなぁ〜という諦めの感情で遊んでいた。
難易度は適当にやってもクリア出来る程度だったので(バハムート以外)それだけは救いだった。
シナリオ補完の意味合いが強いものがほとんどで、やらなくてもいいものが幾つもあったように思う。
とはいえ、シナリオを楽しむために重要なものもあるので後で遊ぼうと思っている人は取捨選択するための情報が世に出回ってから遊んだほうがいいのかもしれない。
(エンディングの内容を考察する上でも重要な話が幾つかあるので、最低でもそこだけは抑えたほうがいい)
アクション要素を楽しむために配置された敵で、これは良かったと思う。
勝利した報酬として強い装備が作れる素材を得られることもあるので戦うモチベーションにもなる。
Sランクのドラゴンは割りと早い段階から戦えてそれでいて非常に強いのでクリア前からある程度難易度の高いアクションを楽しみたい人には良い配置だったと思う。
無いと思っていい、一応サブクエストを進めたりリスキーモブを倒したりすると強力な装備を作ることが出来るが必須レベルの強さではない。
ほかに、「だいじなもの」というのを集める楽しみもあるがこれはほぼサブクエスト絡みだし、集めたところでこれといったメリットが無いのでトロフィー集めが好きとかでなければやらなくてもいい要素。
このあたりのゲーム性はほぼ捨て去っているのがFF16の特徴といえば特徴か。
なんだかんだケチはつけたもののクリアするまで毎日プレイするのが楽しみだったし良作だとは思う。
人は選ぶのでPS5買ってまでおすすめだよと言えるかというと…という感じである。
コンセプトとしてストーリーとCGで魅せるというのは十分にアリだし今後もこの方向性でより洗練された作品が出ることを期待したい。
モンスターはまんまD&D(移植時にビホルダーだけ差し替えられた)。
シナリオはウルティマ1の丸パクリ(宇宙に行って過去に行く)。
ちなみにドラクエ2はウルティマ2を盛大にパクっている(旅の扉ネットワークはタイムゲートまんま)。
そのウルティマ2もテリーギリアム監督のバンディットという映画のパクリだが……。
ゲストキャラだけご都合主義的に死んでいくのは苦笑を禁じ得ない。
話自体はどうということもないがBGM(特に悠久の風)のおかげで壮大感が上乗せされている。
続く5、6含めて三作も似たり寄ったりのシナリオが続く。
FFに存在意義があったとしたら、それは5を生み出したことだろう。
この一作でJRPGはすべての可能性を使い果たしてしまったのかもしれない。
もう遊べないだろうけど。
キャラが多い割には全員に一応の見せ場があるのは、後のことを考えるとちょっとした奇跡。
サイバーパンク化したことに批判も多いが、今思えば苦肉の策だったのだろう。
何せ三作も続けて似たり寄ったりのシナリオを作ってしまったのだから。
強引にでも味を変える必要があったのだ。
惜しむらくはここでセフィロス病にかかってしまったことだ(以降毎度のようにホモストーカーに粘着される)。
主人公をディリータにしておけばすべてうまく収まっただろうに。
貴族社会への復讐という目的があるからモチベーションを保てるし、政治もルカヴィ関連も無理なく消化できたはずだ。
なぜかラムザとかいう乳母日傘ぬくぬく上から目線説教お坊ちゃまを主人公にしてしまったせいで、すべてが破綻した。
ラムザの説教にしても悲惨な過去のあるディリータに言わせていれば多少は説得力が生まれていただろうに。
丁寧に焼き上げられたが、なぜか皿ではなくおまるに盛られたローストチキン。
フロムゲー並みに思わせぶりなことしか言わない(そのためにフロム脳的な妄想が蔓延した)。
それにしても8こそ真の原点回帰ではなかったのだろうか?
FF1をなぞるように、宇宙に行ってタイムスリップする(しかもループオチまで被ってる)。
なーにがよみがえるクリスタル伝説だよ。最後にちょっと出てきただけじゃねーか。
それにしても永遠の闇は哀れだな。
クジャに一言「永遠の闇を呼び出してやる!」とかガーランド辺りに「永遠の闇が出てきてしまうぞ!」とでも言わせておけば空気扱いは免れただろうに。
永遠の闇の最大の問題点はぽっと出なのではなく、メインの悪役たちと何の関係もないことだ。
このシナリオの破綻はFFTのような主人公の選定ミスではなく、もっと根深いものだと思う。
一時期目立った上で空気化したバッシュはもはや奇跡的ですらある。双子の宿敵がいるという美味しい設定までもらっているのに。
これだけ長くて台詞もたくさんあるのに全キャラ立たせない方が逆に難しいのでは?
ゲームとしてはZA版でようやく完成した。
アクションアドベンチャーにでもしておけば、まだ遊べる物になっていただろう。
一本道もそれなら正当化できるし。
逃走劇というRPGと極めて相性の悪いシナリオを書いてしまったことが失敗の一因か。
「俺たちは差別されている!」と日々主張している割にはマイノリティになって迫害されるという想像を一切しない保守的(オブラードに包んだ言い方)な日本のオタクにとても嫌われる内容だったのも不幸だった。ネガキャンに関してオタクの右に出るものはいない。
(steamでも日本語対応すると総合評価が下がるほど。そもそも日本人自体、他人の足を引っ張るのが大好きな民族なのだ。その上オタクとなれば……)
そびえたつ糞の塊。
いちいち過去作を愚弄するのも腹立たしい。
(過去作同名キャラを俺tueeeオナニーキャラに殺させたり、過去作同名キャラを豚呼ばわりしたり)
ネタにするなら最低限の敬意をもて。
やってないけど「やっぱつれぇわ」と「激しい戦いだったからな」だけ知ってる。
スクエニを本格的に見限らせたのは、FFシリーズよりむしろこれかもしれない。
ガワだけFF5やロマサガなどの過去の名作に似せているが、それらの面白さをまったく再現できていない。
コピーもできないって何ならできるんだよおまえは。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。