はてなキーワード: 市民とは
planというイラストレーター(?)が「要介護Tシャツ」というのを売り出しています。
https://twitter.com/plan039/status/1467026607395475456
自分は要介護状態と判定されています。それが自分が障害認定されるほどの出来損ないだからです。はっきり言って自分は植松聖に五体投地しながら滅されならないと思っています。
もちろん障害者は殺されるべきだとは思いませんし、生まれ持った属性により基本的人権をはく奪・蹂躙するのは絶対悪です。
ただ、自分の場合障害者判定されるほどの出来損ないでありながら、他者の権利や信条に無頓着で、自分の快感情のためだけに他者に塗炭の苦しみを与えたという点において絶対悪です。
今からその実例を見せます。身の程をわきまえないことは百も承知で言いますが、「要介護」状態がTシャツなどでネタ消費されるのはあんまり気分がよくないです。
他人より著しく劣っていることを日々痛感しながら生きていますが、一方普通の人がそういう劣った状態の人をネタにしてキャッキャされると「自分のような存在は生きているだけで指弾されるんだ」と思ってしまいます。
こうやって他人のおしゃれに「その服は不快だ」と思うのは、自分が権利意識が肥大化して他者のことを考えられない卑劣漢だからですよ。だから要介護Tシャツ売ったり着ることを批判はしませんししてもいけません。
ついでに自分は暑かろうが苦しかろうが白無地の長袖ワイシャツにネクタイをきちんと締めています。その状態で寝ることすらも結構あります。
それはいつどこでも正しい服装をすることは市民の義務だと考えているからです。ただ、そのような恰好をしても不快に思う人がいるので服というのは難しいです。
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増田さん、こんにちは。Change.org Japan カントリー・ディレクターのxxxxです。
Change.org日本語版のユーザー約300万人のうち、増田さんをはじめ、今日このメールを受け取っているのはそのうちの12 %の人たちです。
これを日本の人口で見てみると、約347人にひとり、つまり日本の0.3%の人だけに、このメールが届いている計算になります。今日は、そのうちのひとりである増田さんに伝えたいメッセージがあります。
私がChange.org日本語版のスタッフとして働きはじめた2013年頃は、日本でオンライン署名の存在を知っている人はほとんどいませんでした。
私たちスタッフのもとにも「日本ではうまくいかない」「オンラインで集まった声の一体何を信用しろというのか」といった懐疑的な声は、今よりもはるかに多く届いていました。
今日「0.3%のうちの一人」だと言われた増田さんにとって、もしかすると、その数字はとても小さいものに聞こえるかもしれません。
しかし、私はそう思いません。
なぜならあの時も今も、市民の力で社会が変わる可能性を諦めず、Change.orgでオンライン署名に賛同し、私たちの力を信じてくれたのは、いつもその「わずか0.数 %の人たち」だったからです。
そして、今こうして増田さんにメッセージを送れているのも、ほんの0.数%の人たちが、「きっと社会はよくなる」と信じ、今日までアクションを起こし続けた結果なのです。
(以下寄付のお願い)
「南京事件」発言の教師を擁護した女性、精神病院へ送られる。本人はSOSを求めていたとの情報も 中国
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_61c51592e4b061afe39cd2bc
そらまともな国なら当然こーなる。
sadamasato 30万人説は埋葬記録等を調べて出てきた数字なんで、根拠はあるよ(それに対する反論もあるけど)。30万人は根拠がないという、歴史修正主義プロパガンダを信じ込む人がたくさんいるのが残念。
まさにさださんの言う通りで、先進国と呼ばれる国でこんなに歴史修正主義に甘いのは日本ぐらいだからね。
ただ、そんな日本でもまともな本屋さんもいるのを知ってちょっとだけ希望が見えた。
百田尚樹著『日本国紀』に「歴史改ざんファンタジー」のPOPを掲げた大阪の書店 店長が語る「『批評』の意味で掲示しました」(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/12d058929eafea959ee6d72621ed089a34e12d20
国家が人権を制限するのは必要最低限に留めないといけない、というのが基本的な思想としてある。
まずここで相容れないなら話をするだけ無駄。
とりあえず、社会全体の秩序のために秩序を乱した者の人権をいくらか制限する合意が取れたとして。
秩序を乱した度合いに応じて、一定の期間身柄を拘束し、社会復帰のための教育や作業に従事させることにする。
これが懲役。
じゃあ、どうしようもないくらい秩序を乱して、更生もほとんど望めない場合は?
無期懲役というものがある。無期限に身柄を拘束することで、再び秩序を乱すことを防ぐ
無期でも出てくることがあるじゃないか、という指摘をする人には、現代の無期懲役の運用を調べてもらいたいと思う。
それでも足りないという場合でも、そのことがすなわち死刑の必要を生むわけではない。
(ちなみに私は死刑と同様終身刑にも反対である。たとえ建前上のものであっても、人権の制限は一時的なもので、更生を期待するものであってほしいと思う。)
ここで、釈放される見込みのない無期懲役(あるいは終身刑)と、死刑の違いを考えてみる。
冤罪について言われることも多いが、個人的にはそれは別ベクトルの問題だと思うのでここでは言及しない。
まずひとつはコストの違いだ。刑務所は金がかかる。人ひとりの生活費に加え、土地建物、人件費、とても刑務作業では賄いきれないコストがかかる。
死刑で済ませてしまえばある程度は浮く。とはいえ現段階で死刑囚は112名。
死刑囚なんかに税金を使いやがって、という感情面を抜かせば国家予算からすると微々たるものだと考えられる。
もうひとつは感情の問題だ。死刑になるような犯罪はほぼ間違いなく殺人が絡む。
遺族の気持ちからすればなんでアイツだけ生きているのか、殺してほしい。と考えるのは当然のことだ。この気持ちは十分に尊重されなければいけない。
しかし遺族を盾に無関係の人間が社会正義を振りかざし、エンターテインメント的に悪人を断罪するのは下種の極みだ。
これはハッキリと区別して考えなければいけない。
というわけで、釈放される見込みのない無期懲役を死刑に置き換えることによって得られる社会的なメリットは
ということになる。
私にはこれらのメリットが死刑という人権侵害の権利を国家に与えるに値するものとは到底思えない。
なので私は死刑廃止派です。
自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。
日本における死刑の議論において、当然のように前提となっているのが「司法は復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。
たしかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?
結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1
もう一つは、西洋における死刑の歴史を紐解かなければいけません。
西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。
これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。
なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。
また西洋における近代法や人権の考え方として、国家や権力というものは暴走し、それを個人(市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります。
フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります。
よって、西洋の諸国家には国家があくまで法に則して虐殺・恣意的な死刑を執行した歴史があり、その反省として死刑廃止がトレンドになっているという経緯があります。
日本でもたまに、政府高官が不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力の暴走による死刑です。
「冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれるものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。
ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑だけが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。
刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰で犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。
例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。
・「司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」
・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)
・司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない
⇒知らねーよ輸入したんだから。こちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。
⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑論絶対正しいマン)
日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。
私も親や配偶者や子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います。
光市の母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景をテレビでよく見ていました。
非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情を司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。
そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います。
「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパンな法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います。
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202112/sp/0014918486.shtml
ロリコン、幼児性愛をカミングアウトしてるやつなんかに公務やらせるな気持ち悪い、とか「健全な感覚」を持った左巻きの人がよく言ってるよね。
それはそうだろう。
理念はあくまで錦の御旗であって、それ自体は力をもっているわけじゃない。アメリカだって銃や薬の正当性を突き詰めても結論でないだろう。誰がいえば言うこと聞くのか?時流的にこの流れは強い、といった力関係のすくみを読み取り、うまく利用するという「ズルさ」は必要だ。理念を旗に、しかしズルく粘り強く修正していくというパワーがないとどうにもならない。
生徒は学校に弱い<学校は保護者会に弱い<保護者会は地域の有力者に弱い<有力者は地方議員に弱い<地方議員は時流や市民や子供の声に弱い<ループ
たまにこういうのを楽しめるやつや、変えること自体に好奇心やモチベーションが高いやつが出るのさ。そういうときに理念は役に立つ。