はてなキーワード: がっかりとは
デビュー作含む計9作。
マンガ好きの女子中学生か女子高校生が書いてみました的なアイタタ黒歴史って感じで、男が読むのはかなりきつい。
女向けということ抜きにしても、ごちゃごちゃしてて間の取り方が下手ですごく読みづらい。
素直にばらかもんだけ読んどけばいい。
学生時代のサークル仲間の結婚パーティで、昔の恋人・ヨシノに会った。
ヨシノと私は当時「夫婦」と揶揄されるような公認カップルで、趣味も気も合う同士だった。彼は今、後輩のシマちゃんと付き合っている。
大学を出て数年、私と別れて数か月で始まった彼らの交際は、もう七年ほどになる。
私はそれが嫌だったけれど、ヨシノは理屈のつかない「嫌だ」に配慮するタイプではなく、シマちゃんのことは当時、私たちの地雷みたいなものだった。
だから一時期、私は自分が彼らの地雷になればいいと思ってよくヨシノと遊んだ。
趣味のイベントに誘って食事して、相談に乗ったり乗られたり。もともと気が合う同士だから、ヨシノと遊ぶのは楽しかった。結局私が地雷になったのかはわからない。
それもかなり前の話で、私には今一緒に暮らす婚約者がいる。ヨシノとも友達の結婚パーティくらいでしか顔を合わせることはない。
結婚パーティはそのまま飲み屋に流れ、そこでは結婚がらみの話に花が咲いた。
「まあ考えなくはないけどね、彼女の部屋の更新が来年だからさ」とヨシノが笑う。
ああ、と皆が曖昧に納得する。シマちゃんはちょっと離れた席で別の友達と飲んでいる。
私は日本酒を自分のお猪口に注ぐ。増田、手酌はやめなさいって。ヨシノが私の手から徳利を奪い酌をする。
あの頃、ヨシノはいつもすすけたアキバ系ファッションでデートに現れた。私は自分のおしゃれを台無しにされた気がして少しがっかりした。
がっかりしながら、ヨシノの美徳はそこにはない、そういう俗っぽさに囚われないから素敵なんだと自分に言い聞かせていた。
私たちが別れる直前、ヨシノは仕事で使うかもしれないからと車の免許を取ろうとしていた。親からお金も借りていた。
でもヨシノは自動車学校に通わなくなった。私とのデートの最中に「時間がなくて通えない」とこぼした。じゃあデートじゃなくて講習行けよと私は苛立った。
ヨシノにがっかりして苛立つたびに、自分の俗物さが透けて見えるようで嫌だった。
ヨシノは話が面白くて頭の回転が速く、人望もあって皆に頼りにされて、サークルでの活動のセンスもあった。
彼がサークルでの活動を生業にしたから余計に、自分のほうが俗世側みたいに思えた。だからシマちゃんに負けた気がした。
ヨシノの身勝手に、シマちゃんも苛立ってがっかりすればいいのにと思ってた。
ヨシノは今も実家暮らしで、車の免許は結局取らず、すすけたアキバ系ファッションを着ている。仕事はそこそこ順調らしい。
好きなことには全力で取り組み、人当りもよくてマメで努力家。でもそれ以外にはまったく無頓着。それを私は美徳だと思っていたし、今でもそう思っている。
ヨシノは自分の価値観が強い。そして世間体を内面化しない。頭はいいから世間体に合わせた言動はできるけれど、最終的に自分の価値観に合わないことはしない。
三十前に実家を出ようとか、二十代の大半を一緒に過ごしたシマちゃんへの責任とか、今までも口にこそすれ行動は伴わなかった。
シマちゃんのお母さんが亡くなったときも、お父さんが引退して東京から田舎に移住したときも、ヨシノは同棲や結婚に向けて動かなかった。
そんな人が部屋の更新くらいで本気で動くだろうか。
十一時半を過ぎて私が帰ると言うと、ヨシノは「じゃあ俺も」と席を立った。シマちゃんには何の言葉もかけなかった。
深夜に昔の彼女と同じタイミングで勝手に帰るなんて、私だったら傷付くし嫌だな。
でも世の中にはそういう配慮を必要としない人もたぶん、いる。シマちゃんはそういう人なんだと、今の私は信じることにしている。
話題は次から次へと湧き出して楽しかったけれど、早く家に帰って婚約者の顔を見たいなあと考えていた。
私のおしゃれに合わせて服を選んでくれて、結婚式や結婚生活にほどよく夢を持っていて、世間体を年相応に内面化している、私と一緒に俗世を生きてくれる人に。
銀の匙読んでたら、自分でやってみたいこといろいろ調べて人に聞いてとにかくやっていく、という描写が多くて、
自分はそれがなかなかできないなあとやや凹む。
八軒たちみんなキラキラしててなんか、自分もなんかやってみたいって気持ちにもなるんだけどね。
社会人にもなって、自分の判断でどこまでやっていいか、の勝手をなかなかつかめない。
いちいち責任を取りたくないのか許可を求めたくなる。
教官とイチャイチャしたいけど恥ずかしくってできない!みたいなことをいうヒロイン郁ちゃん(26)に対して、
ルームメイトの柴崎が言っていたのは、親が「婚前になんてはしたない!」って口にしてたのを幼いころから聞いているから、
知らずしてその貞操観念が染み付いてる、いわば親の呪縛から解き放たれていない・・・って言ってたくだりがありまして。
自分が、責任を取りたくない、とか、人の許可をいちいち取りたくなるのも、「親の呪縛」かなあって思った。
多分なんかすぐ怒られるから、怒られないように、って機嫌とって行動してたんだろうなあ。
もしかしたら、「子供のくせに余計なこと言うな」みたいな発言をされてたのか(あんまり思い出せないけど)、
その絡みでトラウマがあるのかもしれないし。
家庭内では、ビクビクしていたわけではなく、割とお調子者キャラで、気分屋でわがままって感じのキャラだった。
上の兄弟と父母がよくギャーギャー喧嘩してた時に空気の悪さを感じていたから、道化役を担っていたのだ(と今振り返ると思う)。
そんで、その道化ってのはその時のキャラであって、親から離れた時には切り替えて手放さなくちゃいけないってのを忘れていたんだろーなー
それって親や家庭内の空気に対する顔色伺いありきのスキルじゃん。結局自分で判断しないやつじゃん。
多分家族の中にずっと居てずっとそのキャラしていれば、慣れてて楽だったし、
結局自分の判断っていっても甘い両親が慰めてくれる、っていう魂胆もあったろう。
んで、職場にいるのにまだお父さんに怒られたらどうしよう、という恐怖を抱え込んでて、
お父さんなんて居やしないのに行動しなくて、
「あ、この人にお茶出したほうがいいのかな・・・でも余計なことして怒られたらどうしよう」
で、一人問答して、そのうちに 「新人はお茶も出せないのか」 という結論になってしまう。
お茶の件は喩え話ですけど。
要は、入れたほうがいいんだろうなーでも勇気が出ないなーって思ってる自分が悔しい。
その通り行動したらきっと褒めてもらったろうに、って。
あーーーーーまた褒めてもらいたいとか顔色伺ってる。
ここでがっかりされたくない、ってのは諦めるべき執着かなあ・・・・
また、たまに突っ走っちゃって間違いを起こすとそれがすごい怖い。
完璧主義気味。
何回か人の結婚式に出たが、どんな演出や余興を考えても必ずケチをつける人ってのは出てくる。
若者のノリに立ちすぎると、友人は楽しめるけど親戚からは不評だし、
お固いスピーチばかりにすると親戚からは好評だけど、若者たちからはつまらないとの声が上がる。
「新郎新婦が幸せそうにしてればなんでもいい」なんていう聖人君子もいるのかもしれないが、親戚や職場関係など、義理や義務感で来てるような人たちは何をしたってくだらないなぁとしか思わない。
そういう人は必ずいるし、自分がそういう立場になる日だってくる。
義理で招待されたような人にとっては三万円払って高級料理を食べにいくのが楽しみなものだ。
一番喜ばれるものは美味しい食事だよ。
予算もあると思うけど、他のところ削ってでもなるべくコースの中で一番高いコースにしてほしいと思う。
ドレスが高級なのに料理がしょぼい結婚式見るとご祝儀返せと心から思う。
ドレスのランクをひとつ下げるだけで、料理のランク上げられるからね。
二回お色直しとかしてるアホ見た時はがっかりする
猫人M @Masanovski 2012年4月10日
『巨大ゲームブログのはちまさん』っておいおい。@playismJP さんははちま起稿を信用出来る情報源だと思ってるの…… はちま起稿には何度も不愉快な思いをさせられてるのに。playismに期待してるのに、こういうことはがっかりする。http://playism.blogspot.jp/2012/04/pc.html
PLAYISM プレーイズム @playismJP
@Masanovski ソース元の調査が余りに不十分でした。以後、慎重に運営して参ります。
PLAYISM プレーイズム on Twitter: "@Masanovski ソース元の調査が余りに不十分でした。以後、慎重に運営して参ります。"
地雷ソフトってなんだ、そこまで卑下しなくても普通におもしろかったぞ
ほとんど1人で作ってこの完成度は凄い、すごすぎる、がやはり限界なのか発想に偏りがあるかな
巨乳枠が奇乳に近いので好きにはなれなかったのが残念
かといって普通・貧乳枠はおもらししちゃうので駄目な人はダメそう
最終ルート終了からの追加個別ルートは短いながらも良かったと思う
続編ではオーグメントルートがあるらしい、ついでに友人ルートも
1枚絵が衝撃的すぎるのでやってみたいが…
直前にやった何処へ行くの、あの日が素晴らしすぎてちょっと感情が入れ込めなかったな
はがない絵は嫌いじゃない、声優の演技が好評化なので素材に使えそう
楽しみ
叔母夫婦の子供は一人っ子。大人しくて色白で、真面目そうな少年だった。小さい頃から本を読むのが好きっていう、一人遊びができる子で、叔母夫婦も手が掛からない子だっていってかわいがってた。
その子は前に会ったころ、いわゆる鉄道マニアだった。遊ぶ玩具もプラレールとかで、読んでる本も電車が出てくるものばかりだった。
一回だけ、一緒に外に遊びに行ったことがあるんだけど、その子は電車が通る度に「あ、今のは○○線の○○系の電車だよ」と一々解説してくれた。知識をひけらかすようなことをしてても、五歳の子供だからちっとも煩わしさなんて感じなかったし、むしろほほえましくてたまらなかった。その子が電車を見る目はほんとうに輝いてみえたし、好きなことに夢中になって色んな知識を吸収してる様子は、いったい将来どんな人間に育つのかと期待させて、叔母夫婦が羨ましくてしょうがなかった。
電車の知識なんて全く持ってない俺は、その子の知識欲と好奇心の旺盛さに素直に感心してしまったし、こんな小さな子供が、おっさんのおれよりも、特殊な分野ではあるけれど、深い知識を持っているのをみると、これから年老いて萎びていくしかない自分よりもはるかに優秀な人間に思えたし、実際そうだったと思う。
そしてついこの間、五年ぶりにその子に会った。おれはすごくがっかりした。
その子は少し太って、むっちりとしていて、今は電車じゃなくてゲームに夢中らしい。話をしても、なんとなく愚鈍で、間の抜けた感じの返答しかしてくれなくなっていて、すっかり暗い少年になっていた。
おれはその子が五歳のころの、電車を見ながら自信満々に解説してくれた時の明敏な印象しかなかったので、それがたった五年でこんなに変わるものかと思って悲しかった。叔母夫婦の教育がわるかったのかも知れないし、学校でなにかよくない影響があったのかも知れない。そんなことはわからないけど、きっと五歳のころのその子はもっと色んな可能性があって、こんな風に暗い少年には育たない道筋だってあったはずだと思うとやりきれない。
人生経験が豊富なおっさんから言わせると、すぐ辞めない方がいいな。
辞めるのはいつでもできる。その前に、今の状況でできるだけの経験をして、できるだけの知識を吸収してから辞めた方がいいな。
最後に、
でもまあ続けてたらやりがいとか楽しさとかわかるかも~みたいな気持ちで
やってきたんですが
配属された課の仕事に向いてないと思うし、興味も持てない。失敗ばっかりで怒られてばっかり。辞めたい。
なので2,3年くらい勤めて義理を果たしたら辞めようと思っていたんだけど、
それを友達に話したら、
「これからずっとやりたくもないことをいつか辞めようと思いながら
と言われました。
一理あるのかな。
私も辞めれるもんならすぐにでも辞めたいけど、入って半年もしないうちに
辞めるのは外聞が悪いし、家族ががっかりしちゃうし、再就職先も見つからないんじゃないかなあと思う。
でもどうせ辞めるんなら今辞めればいいじゃんっていう彼女の言葉が魅力的すぎる。
皆さんはどう思いますか?
金額は関係ない。
100円でも、1000円でも、1万円でも、同じように「もっと欲しい!」とせがむ。
おかわり要求に2回も応えてあげた後でも、最後に願いを断ると、彼らはがっかりする。
失望の表情で見上げる。
「ケチ!」「それだけか!」と言われている気がする。
平均よりも稼いでいるほうだし、施しをするのは本来嫌いではない。
経済的に貧しい人と触れ合うのは構わないが、心が貧しい人に触れるのには苦痛が伴う。
ところで経済的に豊かな日本でも我々はそのような心性の持ち主を見ることができる。
彼らは優しくされると「もっと!」とすがり、セックスまでやらせてもらえなければ「女はクソだ」みたいなことをわめくのである。
外付けHDDがTB単位で必要だから、予備のHDDを買うだけでも結構な出費と荷物になる。
今はバックアップをひとつもとってないからせめて2重にはしておきたいもんだけど。
バックアップのバックアップを考えだすとキリないのはわかってるんだけども。
なんつーか、ぶっちゃけ消えたら消えたでショック受けてがっかりはするけど、まあしゃーないなであきらめられるレベルのもんばっかだし。
いっそ開き直ったほうがいいかな。
ものによると思うけど、10年近く前の320GBの外付けHDDのデータもまだ消えてないしなあ。
当時は250GBが普通で320GBがちょっと多いくらいだったのに今や3TBが普通だもんなあ・・・
320GBのを18kくらいで買った思い出。値段下落すごいわ。
ウシジマくんの折り返しなりあとがきなりに作者のかっちょつけたコメントなりちょっと笑える取材裏話とかあったら、本編のインパクトを少なからず下げていたと思う。
ジョジョで作者コメントがなかったら、コアなファンによる妄想という解釈のひとり歩きがもっと加速していたと思う。
EDENで作者コメントがなかったら、もうちびっと本編の評価があがってたと思う(オールラウンダー廻はその点英断)。
幽遊白書で作者コメントがなかったら作者の面白さを知ることができなくなるので、本編プラスアルファの楽しみがなくなって少しがっかりすると思う。
森薫作品であとがきマンガがないのには耐えられない。あれ本編だから。
基本的にあったほうがオトクだしうれしいもんなんだけど、ものによってはないほうがケチつかなくてよかったのになあというものもたくさんある。
昼に食い放題の店に入った
この店、何年か前に来た時は、結構美味しいおかずが置いてあったと記憶してたんだけど、久々にいってみたら、むっちゃおかずのラインナップがしょぼくなってた
いくら食べ放題とはいえ、こんだけラインナップがしょぼいんじゃどうしようもないなと、これなら、同じ額で、普通に量の決まった美味しいお店入った方が良かったわと思った
食い放題は、沢山食べる人もいるし、客の入りが日によってマチマチだったりして、リスクを減らすことを考えた結果料理がしょぼくなってしまったんだろうと思うんだけど
個人的には、数種類のおかずから4品選んで1000円という無印カフェみたいな形態の店の方が集客も見込めるし利益も出せるのではないかと思う
増田に垂れ流すのもどうかと思うけど、何やら溢れてくるので。
最近、自分結婚できるのか、と思う。かつて長い付き合いだった女性がいて、でも自分としては一旦仕事をストップして大学院でしっかり勉強したかった。大学院の2年が終わったら結婚しようって言って、その時は喜んでくれたんだけど、そのあとやっぱり我慢できなくなったみたいでフラレてしまった。彼女には心から感謝してるし、幸せになってほしい。むしろ相手の気持ちはすごく理解できるから、こちらが申し訳なかったなぁ、と責任感じてたりもする。
ただそれはそれとして、やっぱ適齢期の女性ってだいたい結婚を考えてる彼氏がいるんだよね。ふとしたことから仲良くなっても、そういう人がいるって話になると応援したいと思うと同時に少しがっかりしたり。んでそんなこと思ってる自分が嫌になって自己嫌悪に陥ったり。(寝たら治るからいいんだけど)
女性は勿論だけど、男性にとっても年齢って結構リスクだと思う(当方男性)。やっぱり狙う的が小さくなるし、顔も良いわけでなければ就職後もそんなに給料があるわけでもない男としてはちょっと辛いものがあるな、と。
視界に入るもの全てが、目にとって刺激が強すぎて、というか情報過多だった。
ポスターの字やプリントの題字も、全てが意味を訴えかけてくる。
耳に入ってくる音もそうだ。人の言葉はどれも、バラバラの文法を使ってつむぐ文章であり、頭の中で適切な漢字変換までする必要がある。
学校の先生は、黒板に字を書きながら喋る。私は人の言葉と字として書かれた文章の情報を同時に処理することができなかったので、どちらかを捨てる必要があった。
私は黒板の字を選択した。自分のノートに、自分のペースで、書き写す。チョークの色を変えられたら、こっちも色を変える。筆箱の中にはチョークと同じ色のペンが揃っていた。ただ黄色は紙に書くと見えにくいので、蛍光ペンで書いてから鉛筆でなぞっていた。鉛筆で書いてから蛍光ペンを重ねると滲んでしまうのでそうしていた。
たまに、喋るのがメインで、黒板にはキーワードのみを書く先生がいた。そういうとき、私は、キーワードのみをノートに書いた。話はあまり聞いていなかった気がする。
音に関してもそうだった。全てが耳に入る、ここまではいいとして、それを頭が次々に処理しようとする。
たまたま絶対音感を持っていた私は、例えばクラシックのような音楽は聞くに耐えなかった。これは絶対音感を持っていない人には伝わりにくいのだけれど、絶対音感を持っていると、五線譜に載るようなわかりやすい音の場合、それが「ド」「レ」「ミ」といった風に、言葉として頭が処理をする。つまりクラシック音楽を聞いていると、複数の人が同時に別々の言葉を喋っているように聞こえるのだ。
「ファーミーレードー」「ミラソファー」「レドシラソファミレ」「ラファソラーファソラ」「ソシラソドレミ」こんな感じに。もう、全然落ち着かない。
それから、食事に関しての興味が大変に薄かった。というよりも、周囲の食事に対する興味と、自分の食事に対する興味のギャップがひどすぎて、これには大変に苦労した。
まず、給食の時間になると、周りの児童たちはとても楽しそうにする。献立を気にして、好きなものを多くとる。楽しそうに話をしながら食べて、おかわりまでする子もいた。
一方私は、「食事をする」という行為がそもそも、例えば注射が苦手な子供にとっての注射のように、その度に緊張して、ドキドキして、というかできれば避けたかった。
何も口にできなかったわけではないけれど、周囲がその食事に盛り上がれば盛り上がるほど、自分の食事に対する嫌悪感のようなものが浮き彫りになって、余計に辛かった。
だって、なんだかよくわからないけど食べ物として扱われているその物体を、あろうことか口の中に突っ込んで、歯で噛み砕き、それぞれの味や食感が口の中いっぱいで、それからここが大変なところなんだけれど、飲み込まなければならない。喉を異物が通るという恐怖。嚥下してしまえば、胃という体内の臓器にそれが収まっていく。気持ち悪い。もうこれを元に戻すには嘔吐するしかない。嘔吐はとても怖い。喉をいわゆる汚物が逆流するのだ。胃にこれが残っている限りはその可能性に怯え続けなければならない。なんでこんなことしなきゃいけないの?
そういう私をよそめに、学校の先生は「残さず食べましょう」なんて標語?を掲げたりする。勉強なら、できない子がいても、どうすればいいか教えてくれるのに。体育だって、跳び箱の飛び方とか、鉄棒のつかみ方とか、教えてくれるのに。なんで給食は無条件に「食べれるでしょ?なにさぼってるの?大事なことでしょ?当たり前でしょ?」みたいな顔してくるの。
家では親が「ちゃんと食べなさい」と言う。私は「おなかが痛い」と言って食事を残す。母はがっかりした顔をしたり、呆れた顔をしたりする。結局私の茶碗は、中学に入るまで、幼稚園児サイズだったし、よそわれるご飯もその半分だった。
当時、このように言葉にできたかどうかはわからない。でも、今でもあの感覚は覚えているし、こうして文章に書き起こすことができる。というか、今でもその感覚に陥ることがあるのだけれど、場合によってはなんとか自己暗示をかけて回避する、という術を身につけたので、幾分マシである。
先日ある人にこういうことをなんとなく語ったら、興味深そうにしていたから、文書化してみた。