はてなキーワード: 混同とは
女体化させて
百合らせる
理解不能!
シラフだと自分でも理解できない。だけどそこからしか得られない栄養がある。なんなんだそれは
まず女体化について考えよう。女体化は字面のごとく男性キャラを女体化させる。一時的に女体と化すのではなく、先天的に女性として生まれたとすることが多い。女性にしてしまうということは、キャラの男性としての良さは消えてしまうのか?答えはいいえで、"""良さ"""はただひたすらに盛られていく。つまり元がクールキャラなら女になってもクールキツめ美人、可愛いなら女になってもほんわか癒し系、ミステリアス、野心家、変態、いずれも女性キャラとして等価交換される。そしてそこに乳や尻も盛られていく。つまりマイナスはほとんどなく、ひたすらにプラス、プラス、プラス!!これが女体化の素晴らしさだ。
そしてプラスプラスされた盛り盛りの女体化キャラが2人、何も起きないはずはなく…そう、百合らされる。ここにおいて関係性もまた未知の味がしてくる。つまり男性同士から女性同士になることでゴツゴツ感が消えてお互いを思いやる慈しみやお肌のモチモチ感が追加される。ついでにいい匂いがしそうな感じになる。しかも女体化はどこまでいってもファンタジー、現実と混同しようもなく盛り放題、そうして元の好き✕盛りに盛った属性✕女の子同士という可愛さと柔らかさとおしとやかさの入り混じった関係性が合わさって最強になる。おお最強、最強ここにあり。
それって元のキャラじゃなくても良くね?と思った?違います。元のキャラがいてこそ夢が膨らむのです。宇宙に数多の星があり、地球よりはるかに大きい星にさえ核があることを御存知ですか?夢を膨らませるにも核がなければそれはたちまち霧散してしまうのです。そう、大きな夢には確固たる核があり、それは確かに元のキャラたちの原作での関係性にほかならないのです。
男性向けエロに関わってる切れっ端として、さすがに黙ってられなくなったので失礼ながら言うけど、それ、直球の差別だから。
現実の女子児童が可愛いからロリエロを描く、ってフェミの人らを中心に信じられてそうな理屈。
それを混同するようなチャイルドマレスター予備軍はロリコン界隈には不要だし、発覚するたびにボコられてるのを、ごく稀に見る。
昔のクイズ番組は、インテリやオタクのお遊びという感覚があった。
元々のオタク、元々の勉強マニアが、ちょっとした奇人変人パフォーマンスとして、何の準備もせずにやるからこそクイズは面白い。
クイズのためだけにクイズをやってるような連中を真面目に凄いもののように演出されたら、逆に引く。
特にオタクなキャラクターで売ってるわけでもなく、学歴もそれなりで、ただクイズのためだけにクイズを必死にやってる。
それを馬鹿馬鹿しい熱意として一歩引いて見せてるならともかく、そこからまるで識者みたいにニュースコメントなんかまでさせ出すテレビ。
クイズはクイズ。勉強とは違う。本当の知性とは違う。そんな「キャラづけ」を学識と混同させるなよと。
東大のクイズ研究部が活発なこと自体は悪いことじゃない。それこそインテリの遊びだ。
でも、ああいう番組が人気レギュラーにまでなると、まるで東大という学歴の最終ゴールが「テレビでクイズタレントをやること」みたいに見えてくる。
テレビを見る子供にそんなイメージを植え付けて欲しくない。学歴や知識は「映え」のために手に入れるものじゃない。
日本人が政治、経済、科学、文化に無関心になり、反知性と言われる風潮がある中で、クイズ番組や、クイズにのみ絡めた学識礼賛が人気となるのは、逆説的なようにも見えるがある意味順当なのだろう。
現代の日本に足りないのは「知性に対する真剣さ」。知性が現実に及ぼす影響というものを認識する誠実さだ。
娯楽化された「知識」は厳密さを要求しない。さっきの「Qさま」でも今さら「聖徳太子」が偉人として紹介されていたが、いつまでもアップデートされない知識を「そういうものだから」とクイズにし続けることは、知識の更新を妨げる障害にもなる。
勉学を通して身につけるべき本当の知性は、現実の問題に適用できてこそ初めて意味のあるものだ。
テレビやYouTube、SNSでそれっぽく見えれば良いというだけの価値観では、目立つ陰謀論との差も大してつかないだろう。
そういう次元でしか「知識」の価値も感じられないような社会では、「学歴」だけが華々しく追い求められても、相反するように反知性度が高まるとしか言いようがない。真面目ぶった不真面目な世の中だ。
二子玉川の堤外地に建つマンションが高値を付けてる事に嘆いて小字地図という面白いものを公開してくれた人がいる。
でもその事をまとめたtogetterではそれに対して間違ったり不適当なツイートばかり拾ってるので指摘するよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2381841
二子玉川には堤防の切れ目があった。陸閘ともいう。閘はパナマ運河などの閘門の閘で、板で締め切って水をブロックして水位を変化させるものだ。それが陸にあるから陸閘。
https://maps.app.goo.gl/DKKV4c1kefy3BVSE9
余談だがこの道は結構重要な道で、江戸時代の矢倉沢往還(青山通り大山道)だった。真っ直ぐ行って多摩川に出たところに渡船(二子の渡し)があったのだ。川を渡って崖を上ると二子の宿場に着く。
ここは瀬田村の一部で、スレッドで指摘されている通り、瀬田村の字堤外と呼ばれる無人地帯であった。
こんな辺鄙な所だったが、渋谷からほぼ路面電車の玉川電鉄が開通し、その終点の「玉川」という駅が出来た。この路線は溝の口を目指しており道路橋の二子橋を走る事になっていたのだが、その二子橋がまだ出来ないので暫定の終点である。
すると交通が便利になったので人が訪れるようになった。そして多摩川沿いに料亭が立ち並ぶようになった。当時の料亭は料理だけじゃなくて芸者遊びとかそういうの込みの業態である。
ここは瀬田村堤外とロクな地名ではなかったので、対岸の二子と駅名の玉川をとって「二子玉川」と呼ばれるようになった。
元々瀬田の崖の下には殆ど人が住んでいなかった。出水リスクがあるからである。堤防は基本無いか、霞提である程度の出水を前提としていた。そこに人が住み始めたら危ないに決まっている。また鉄道が次々開通すると他の低地にも人が住むようになる。
そして以前から洪水危険地に住んでいた住民と新住民が「堤防を作ってくれ」という陳情をするに至り、近代的な連続堤で多摩川を封じ込める、という工事がなされる事になった。二子橋の開通が遅れたのも堤防の工事を先行させる為である。
だがこれに反対をする者も居た。その一つが二子玉川の料亭業者達で、堤防で目隠しされたら商売上がったりだ、と言うのである。
そこでここの料亭地域ではこの地域を川の中に取り残す形で堤防が築かれる事になった。
しかしそれだと料亭群に行くのにいちいち堤防上りが必要だ。そこで堤防に切れ目を入れて先のリンクの陸閘を2つ作る事にした。一か所縦のスロットが見えるが、多摩川の水位が上がる時はここに板を入れる。それだと水圧で折れてしまうので、水防活動で後ろ側に土嚢を積みまくって抵抗力にする。これを角落しと言う。
料亭だけの場合は万が一の場合は逃げれば良いし、自分たちで了承した事だし建て直しすれば良い。だが昭和に入ると戦争があり料亭どころではなく全て潰れてしまった。そして戦後の復興と経済成長で宅地不足となり、この危ない土地は売られて住宅地として転用されてしまったのである。
長らくこのままだったがもういい加減何とかすべしという事になり、あいも変わらず新堤防に反対する住民も居たが話をまとめて、住宅と川の間に新堤防を作る事になった。2008頃から事業スタートし、数年で堤防は完成した。何しろ何もない河原に堤防を作るだけなので工事は早い。
ところがだ。2019年に台風19号が暴れ狂うと、新堤防は機能していたのに一体は浸水して泥まみれになってしまったのだ!何故だ!?
https://maps.app.goo.gl/uQur4hgpRZnac7tB7
左側に囲い板が立っているが、これは慌てて工事を開始した為で、但し堤防はまだ出来ていない。右を見るとタワマンがあるが野村不動産のプライドタワーだ。幾分土地嵩上げされていてこの土地の危険性は認知しているものと思われる。
こっちに堤防が無いので、ここで泥水が自由に溢れ出し、それが駅の下側を通って堤防工事完了地帯に入り込んで浸水被害を出してしまったのだ。なんでこうなったんだ?なんで駅の北側は工事しなかったんだ?
何故駅を挟んで片方は堤防工事完了、もう他方は手つかずとなったか?
多摩川は青梅から下流は国土交通省が管理し、この辺は京浜河川事務所が管轄する。
ところが、駅の北側で野川が合流しているのだが、この野川の管理をするのは東京都であり、建設局第二建設事務所が管轄なのだ。そしてこの堤外地帯の駅の北側は野川に接しているのだ。
つまり、長年の懸念だった堤外地問題を解決するために住民の合意を取りつけ、国の方は急いで事業化して堤防を完成させた。それから10年近くが経つのに、東京都の方はちゃんと連携せずにほけーーとしていて事業化していなかった。そこに巨大台風が来たので野川に逆流してこんな被害が出てしまったのである。
野川沿いには堤外地を避けた旧堤防と連続する堤防がある。新堤防を延長してこの国道246の下で堤防に接続する必要があるのだが、堤防合流地点付近にはスペースが足りず、家が建つ土地を買収する必要がある場所もある。また、二子橋の橋桁は低い場所があり、https://maps.app.goo.gl/MoH89VVFBWFW7jWBA
堤防高に支障する。これはこのままだと橋桁に当たった水が横に流れて堤防を削ってしまう。そういう事どうすんの?なのだが、どうせ何もやっておらん筈だ。
余談だが二子橋は架け替えられていないのでアスファルトの下に玉電のレールが残っていると思われるよ。
堤外と言う字が付けられていた場所に住むのにリスクを考えて居ないのはマズイ、というのは確かにそう。
だが字が堤外だから住んではならないと書いている人は昔と今の治水を混同している。
昔は河川が氾濫するのは云わば当たり前だった。だから堤防を築くのだが、今と違って霞提など、切れ目があってある程度の氾濫を許容する設計が多かった。また堤防を造る際も、今のように流路を封じ込めるものではなく、流路からかなり離れた場所に造る事が多かった。河川は蛇行するのが専らなので、その蛇行の外側という離れた場所に堤防を作った。その堤防で守られていない所は全て「堤外地」だ。そこでは洪水では家も田畑も沈んでしまう。
笹目村や戸田村などの埼玉側は堤防が流路から1km程離れているのが判るだろうか?
一方、東京側は堤防そのものがない。これは東京側は台地の崖から1~2km程の所を川が流れているから、狭い地域を堤防で守るのはコスパが悪いって事でそのままなのだ。
これら全ての土地が堤外地である。洪水では田畑も沈むし、集落もなるべく作らない。家を建てる場合は微低地を選んで嵩上げもする。でもそれでも浸水は免れないし死ぬ人も居た。
二子玉川付近だと霞提もこの辺は余りなく、低地には住まない、瀬田や溝の口の高台に住み耕作地には歩いて通う、という生活様式だった筈だ。すると「堤外」と名づけられた字以外も全て堤外地である。
今この地域が危険なのは、先に説明したように堤防工事で外されてその時に堤外地となった為だ。字が付けられた時分の事ではない。だからこの堤外地の字が「堤外」であるのは偶然でもあるわけだ。大正の治水が原因で堤外の字が付けられたわけではないから。
なので話の種や潤滑剤として字 堤外の事を言うのは良いのだが、それが決定要因であるかの様に語る人は、近代とそれ以前の治水の違いや、それによる堤外地の扱い、感覚を混同している。
~~~長くなったので続く その2 https://anond.hatelabo.jp/20240612183016
理想主義と現実主義ってよく二項対立にされて、大抵はなんだかんだ言いつつ後者が大事なんだぜ、的な言われ方をしてる気がする。
別に両方大事だと思うし、もっと言えば理想と現実の双方を別軸で語って混同してる気がする。
まず目標設定として現状維持か改善か(あるいは悪化に甘んじるか)がある。この時点で「理想主義(おそらく改善を目指す姿勢を指す)」と「現実主義(おそらく現状維持)」があって、この二つを比べるのならまあ分かる。この場合の「現実主義」はあんまり賞賛を得られない気がする。
あまりに突拍子もなかったり実現の見込みが薄ければ、その原因の一つとして理想が先行しすぎている事もあるだろうし、よく言われてる「理想主義」はそれを指してるような気がする。夢想的と言ってもよさそう。
目標設定と実現方法の2段に渡って現実主義と理想主義があって、いずれにしても方法論が夢想的であればあまり検討に値しなさそう。ネットでその手の人がよく「お花畑」って言うように。
ただ目的が理想であっても方法論までもが夢想的であるとは限らないし、同じく目的が現状維持でも現実的な手段でなければ夢想的だし、その辺混同してる人が割といるような気がする。