はてなキーワード: 時代感覚とは
教員やってるけど、思想教育なんてできないと思ってるよ。ただ、ポジティブな思想教育によって生徒が「そう思えない自分が悪い」と思って「矯正」されるというのはあるかもしれない。
辺りを見回せば、倫理観や道徳観、時代感覚まで狂った軽蔑すべき同僚や上司なんざわんさかいる。人権教育しながら生徒の人権踏みにじってる。あの人たちには迷いがないし、弱者の声は甘えやわがままに聞こえるんだろう。色々考える人は淘汰されたり自ら離れるから少ないかもしれない。つまるところ真っ当な「大人」が少ない。私も例に漏れず。
「前向きにならないと将来大変だろう」っていうのはある面では確かにそうだけど、「そもそも前向きじゃないと生きていけない社会がおかしい」って方向に持っていけない所が心苦しい。こういう処世術は一時的な処方箋でしかない。
学校は無難な一つの型に子供をはめ込むようにできているからと言い訳できるけど、実際は、集団でも個々を尊重して動けるような教育をしていかなかったつけを後回しにし続けてるだけなんだろうなとひしひし思うよ。すまない。
大学教授のニュースについて。この人は刺激的な言葉を使って人の反応を愉しむような講義をしていたし、その刺激的な言葉に面白さを感じて講義を受ける学生から人気だった。
今回のニュース、つまるところ恋の話なんじゃないかと思っている。
恋に落ちることは、悪いことなのか。自制の働かなかったことが悪いことなのか。
教授は女子学生が本当に好きで、きっとこの口説き方ならついてきてくれるんじゃないかと思ったんだろう。その時にはもう恋に落ちていて、批評家だったから、その子の文書や容姿や仕草から、自分への好意を読み切ったつもりだったんじゃなかろうか。そしてそれが誤読であって、女子学生は嫌な思いをしてしまった。
時代は変わっている。ハラスメントという言葉、考え方、配慮は当たり前で、その配慮のない人が恐ろしいとされる時代で、いままさに書いているこの言葉だって槍玉にあげられかねないくらいだし、自分でもそう思うくらいだ。
年老いた批評家はその時代感覚を読み違えたんじゃなかろうか。恋にも落ちていた。時代も変わっている。きっと自分を好きであろうと考えた目の前の相手が、本当は自分が好きなだけであったことに気づけずに口説いてしまった。
しまっただけ、ではない。その読み間違いがひとりの女性を深く傷つける至ったのは事実だ。ただ、師として尊敬していた教授が、自分への想いを誤読していたことへの失望と、いままさに時代のなかで嫌悪されているハラスメントを同時に行っていること。
そして、大学側の対応の不誠実さ。ここにも、事情はあるのだろうけれど、この教授の心を慮ったばかりに、学生へ不誠実な対応となったのじゃないか。
批評家は誰よりも客観的に、そこに立ち現れている物語の裏側をひっぺがえしてしまう人だ。言葉遣いに隠された、当の作者でさえ考えてもみなかった意味を、作用を、炙り出してしまう。読者にとってはそんなことどうでもいいよということもあれば、全く新しい思考の世界を開かせることもある。人のモノの見方をがらりと変えてしまう職業だ。
その批評家が「読み誤る」ことの恐ろしさ。それはプロとしての批評家としての失敗であり、今回に関して言えば権威の失墜であり、何より当人がことの重大さを一番にわかっているのだろう。
そしてそれを引き起こしたのが、恋だ。
問題は多々あるけれど、根幹には、人間の抱えている美しく、罪深い、この恋という厄介な性質がある、ということがこのニュースが伝えていることのひとつなんじゃなかろうか。さびしくて、かなしいニュースだ。女子学生の心がせめてきちんと、救われるような結末になるといい。
当時の常識は世界中どこもかしこも帝国主義だったという背景を理解できなければ太平洋戦争は永遠に理解できないかと。
あの時、あの時代では先進国は植民地を拡大しないことには成り立たない時代。
それをやめたら先進国を辞めるのと同じ。
お前が今日からスマホを捨ててパソコンを捨てて電気を捨てた生活をしろと言われたら納得できるか?
西側諸国と日本・ドイツが全く同じ立場だったという認識をさせてしまい、
両者には単純に勝者と敗者という関係性しかなかったことになる。
そうすると戦勝国としては都合が悪いので、負けた国が悪かった理由探しをするという教育をする。
しかし、また、開戦しないという選択肢も同じくらい有り得なかったという認識は正しくしておいたほうがいい。
岩手県一の進学校、盛岡第一高校では、男子生徒が黒塗りした裸に腰ミノをつけ、棒を持って踊る
昭和63年、女子生徒が生徒総会で、黒塗りで土人というのは差別ではないか、と問題提起し、校内
での議論・投票やメディアでの取り上げの結果、数年後に「猛者(もさ)踊り」と名称変更して赤や
(モヒカン等ネタ髪型強要など焦点のずれる問題は今回触れない。)
旧制中学からの伝統校で校歌が軍艦マーチ。「土人踊りの歌」(現「猛者踊りの歌」)も、インド
ネシア民謡を学徒出陣から帰ってきた生徒が伝えたもので、ある意味歴史遺産であろう。
3年経てば生徒が全部入れ替わる高校という場で、変更の結論が出るまでに5年かかったことを考え
れば、20年30年も現役張っているダウンタウンやとんねるず(保毛尾田保毛男)が時代感覚に即応で
きないのは仕方ないことかもしれない。が、漫才コントではないああいうバラエティは本人だけでは
なくP・D始めとしたスタッフも当然企画から関与しているわけで、公共の電波を使っている第四権力
日本人に黒人差別の意識はない、などという話は土人踊りの時にも散見された意見である。旧態の
まま存続、完全廃止、変更して存続、選択肢は3つあり、高校生は最後を選んだ。
昭和の終わりから平成初めにかけて高校生が既に出していた結論を、平成も終わろうとする時に、
土人踊りは今,どうなっているのか
http://excelact.com/Mori1/dojinnow.html
猛者踊りの歌
原曲「ノナ・マニサ」(インドネシア民謡),選曲 田村喜八(昭和22年卒)・竹原由雄(昭和25年卒)
http://www2.iwate-ed.jp/mo1-h/seitokai/song.html
https://anond.hatelabo.jp/20171023144455
俺は塾講師だから10代の奴らと話して感じるのは、これは世代やね。
何が違うのかって、戦争への時代感覚と、アジア諸国への感覚が違う訳。
30,40歳以上の世代だと爺ちゃんが戦争行ってたりするから、少しだけあの戦争へのリアリティがまだある。
ましてや50,60歳世代は親が行ってる訳でしょ。
だから戦争責任みたいな話に胸がぐっときて左翼になる人たちも当然いる。
日の丸を掲げる群衆に対する嫌悪感の教育も浸透してる。日教組が圧倒的な力を持っていた時代。
爺ちゃんが戦後生まれなのに戦争責任がと言われても圧倒的にリアリティがない。
そして、ワールドカップに日本が出場して応援するのが当たり前の世代なので
日の丸を振って一体となって応援するという経験とともに育っている
日の丸への忌避感がゼロなので、日の丸を悪者扱いしてくるリベラルな人たちの価値観がうざいだけ。
はてなで「おとな塚本幼稚園」だのなんだのと揶揄してるのがバズってたけど、
日の丸振ってるのを揶揄するのは全然今の10代に刺さらないというのははっきり言える。
うっすら「貧しいアジアの国」への哀れみの感覚があったんだと思う。本人たちは絶対認めないだろうけど。
侵略をして未だ豊かな我々は、か弱い貧しいアジアの国に謝罪し続けなければならない。
その感覚がオールドリベラル的な、9条的な価値観を支えてきたのだと思う。
日本の周りの国ではなく、日本こそが侵犯する可能性のある悪を秘めた国だから憲法で軍備を縛るべきだと考えるのも無理はない。
じゃあ、今の10代はどうだろう。
北朝鮮が拉致を認めたのが2002年だ、だから彼らは物心ついたときから北朝鮮は悪の国だ。
中国で反日デモが起きるたびに日本の店がボコボコにされたのを幼いときから見ている。
韓国はほぼ日本くらい豊かな国だし、中国は日本より経済大国だというのがデフォルトの価値観な訳だ。
彼らは哀れみの対象ではなく、むしろ恐怖の対象だ。豊かな彼らは更に豊かになり、拡大を続けている。
貧しいはずの北朝鮮は日本列島の上をガンガンミサイル飛ばしてきてる。
だから、危機に備えて憲法を改正すべきだと彼らは思う。だけどクラスにいるネトウヨみたいなのはちょっとやりすぎでダサいし、K-POPは聞くよねという感じ。
それくらいが今の10代のリアリティだと思う。
純真無垢、天真爛漫、というキャラ付は、「ギャルゲー」だと割と早く「痛いキャラ」化してる
キャラの差別化がエスカレートしていった結果、純真無垢さは「無知」「世間知らず」を経由して「世間離れ」と一体化した
たぶん忘れてるだろうが90年代後半は語尾に「りゅん」とかつけるキャラが流行った
いわゆる葉鍵は、ギャルゲーでエキセントリック語尾祭りが華々しく打ち上げられた後
売上的には徐々に落ち込んでいく時期に差しかかった頃に流行が本格化(発売自体はもっと前)
コンシューマーギャルゲーも食っていくのが難しくなり、複雑な好感度システムで人件費かかりそうな恋愛ゲームから
「シナリオだけ書いとけばとりあえず体裁がつく」システム互換で量産可能なノベルゲーの時代に
今の視点だとギャルゲープロトタイプみたいに言われがちな葉鍵だが
シナリオも、それまでの売れに売れてた有名エロゲーやギャルゲーのアレンジやパロディの位置づけになる
(「To Heart」は「同級生」の超廉価エコノミーなゲームシステムだし)
既存のエロゲーやギャルゲーのキャラを皮肉り、過剰な方向にエスカレートさせてキャラ造形してった
ONEの頃はアリスソフトのシナリオとあまり変わらなかったと言ったら信じてもらえるだろうか
「天真爛漫な痛いキャラが人気だというなら、本当に知恵おくれ、障害のあるのキャラにしちゃる」という、けっこう毒の多いシナリオだったのである
当時の鍵の賛否両論には、この「既存のギャルゲーの感動的なヒロインを毒のある方向に皮肉る」という内容に対する
「俺の感動したシナリオをバカにしやがって」との口に出せない反発もあったりする
事情が特殊なのは、鍵がそういうパロディ的な面を評価される(エロゲーのシナリオはパロディ成分が多いのは当たり前)以上に
「感動的で泣ける、本格的な恋愛シナリオ」として評価されてしまい、ジャンル客を超えて反応が広がったことだろうか
「言動が痛いヒロインは本当に精神に色々と問題がある」という手法はギャルゲーの本流に取り込まれ、当り前になった
ever17についていえば、KIDは元々はノベルではない恋愛ゲームで色々と作っていたのが売れなくなり
ノベルゲームという廉価な仕組みに乗りかえたという流れがあって
コンシューマーギャルゲーの痛いキャラとノベルゲーの痛いキャラの両方の系譜を拾ってる上に
メインシナリオライターの文章自体がしばしばエキセントリックなので、ユーザーの時代感覚や年齢とはあまり関係なく
普遍的に痛いと言って構わない
最近流行りという、異世界に召喚されて現代の○○を駆使して云々、という作品についていけない。
そう思うのは、異世界にもその世界なりの歴史があり、そして流れがあるのであって、
それをさも現代の主人公が活躍するための踏み台のように描くのは、なんか歪んでるなーと感じるからだ。
まあ、あのジャンルも過当競争と淘汰が進んで、今はお約束に当てはまらない作品も増えているのだろうが。
朝ドラ史観では、主人公である女のやることはおおむね正しく、そして先進的というのがお約束になっている。
さらに、主人公が直面する問題は、たいてい現代日本にもある何かと相場が決まっている。
たまに見ると、あ、これは流行りの××のことが言いたいんだな、というのが鼻につく作りになっていて、
正直気持ち悪いと感じる。
当時の風潮をそのまま描いたら、場合によっては炎上しそうである。
しかし、何か主張したいことがあるのなら、歴史の手を借りるべきではない。
これはフィクションです、異世界ファンタジーですから、と断りを入れる謙虚さが必要ではないか。
昔、『少年H』を読んだ時に感じた違和感の正体も、今から思えばそれだった。
あの作品では、戦時中の奇妙な空気に対し、作中の少年たちが冷静すぎるほど冷静にツッコミを入れていた。
そこだけはっきり、時代感覚がずれていたのだ。
中高生に受けた。ファンタジーブームやTRPGブームとあいまって、時代感覚の切り取り方に優れていた。
いい年のオッサンが小難しい理屈で評論するようなものではないが、だからといってエンターテインメントとして劣っているわけではない。
オレが謝ったのは、まさにその「元増田」の書き込みについて誤解してた点だよ?
http://anond.hatelabo.jp/20081026234723
ドラえもんの時代('60から'70年代)には「勉強」つーのは宿題もひっくるめて全部だったんだ。たとえば宿題忘れたらリアルでバケツ持ちたたされとか廊下で正座とか往復ビンタとか、まあそういう時代なわけ。宿題つーのはspecialじゃなくて全部ひっくるめた「日常的な学校での学習」の一部なわけだよ。だから学校で何かを習ってる以上「宿題してない」なんてあり得ないし「宿題」だけを取り出して「した記憶ある?」なんて質問もあり得ないわけ。
そういう時代感覚で見たからこそ「元増田」の「勉強」が「狭義の家庭学習のみ」を指すなんて想像もつかなかったんだ。
だから、ごめんよ、と謝ったのさ。それ以上でも以下でもない。