2016年12月04日の日記

2016-12-04

http://anond.hatelabo.jp/20161204231146

自分が愚かな大衆とは違う、日本人を裁くに値する特別存在だと確信しているはてサの皆様は

四六時中負の感情をぶちまけまくっているんだが

気が付けば、なんとなく人恋しい夜に連絡できる知人がいなくなっていた

普段一人では、ほとんどお酒は飲まないんだけど、今日はなんとなく思いたって、スーパー発泡酒を買って帰った。

飲み会ではそれなりに飲んだりするけど、一人暮らしのこの部屋で誰も相手無くお酒を飲むのは、一年ぶり位だと思う。

350mlを2本開けてほろ酔い気分になった今、ちょっと人恋しくなったりして、誰かと話したいなという気持ちになっている。

それで、こういうときになんとなく誰かに連絡をしてみようかなと思ったのだけど、そういう相手に思いを巡らしてみた結果、

誰一人として連絡する相手が思いつかなかった。

アドレス帳を一通り見ながら、「一人で飲んでたら人恋してく連絡してみたよー」って、気兼ねなく言える人が一人もいなかった。

そういう事実に気付いてすぐ、ああ、これはやばいなと思った。そういう相手がいないこと自体やばいし、それに気づいていない

自分人生の進捗状況とそれに対する意識も相当やばい

これ、いつからだろうと思って、記憶をたどったら、たぶん5年前くらいからだなと思い当たった。

それは単純に年齢的な事情で、それまでそういう時に連絡していた知人は今ではもうみんな結婚していたのだ。

同性でも異性でも、既婚者が、日曜日の夜11時に、独身酔っ払い話に好意的に付き合うことはないだろう。

その昔、みんながみんな独身だったころは、日曜の夜だって、誰かしらは暇だったし、何なら向こうから連絡があったりもしたよなと思った。

今、私のもとに誰からそうした連絡がくるだろう。飲み会の誘いはある。食事の誘いもある。仕事私生活のあれやこれやについて、相談を受けることも時にはある。

だけど、一人で過ごす夜に、ただなんとなく人恋しいなと思った誰かから連絡が来ることは、今はもうなくなった。

私だけが、その場所にいる。今でも。

そういう事実に気付いて、唖然とした。

そんな日曜日の夜です。

月曜日苦痛でたまらない人へ

絶対転職したほうがいい。断言する!

「なんだかんだ言っても、やめたらもったいない

とか

再就職先なんて簡単に見つかるわけない」

とか職場の連中はいう。

そういうやつの言うことは無視していい。

やつらは大した成果も上げず、無能で、

会社を食い物にしている。

から自分コントロールやすく、

従順によく働く人間会社から離れていくことを

全力で阻止する。

自分がサボれなくなるから

失敗を押し付けられる人間がいなくなるから

そんなゴミのような組織自分から捨てる方がいい。

私は8年間働いたゴミのような組織を捨てた。

いい職場めぐりあえて、転職でき、

毎日幸せに楽しく働いている。

無理をして、嫌な仕事を続ける必要はない。

もっといい会社無限にあるのだ。

負の感情を持つことについて

http://anond.hatelabo.jp/20161122184324

負の感情を持つの自分が何かに劣等感を抱いているからだとおもう

自分特別人間だと思っていれば人と比べないので劣等感を抱かないはず

友人、恋人、最低でも家族には特別存在だと思われているはずなのでそれだけでも自分特別人間で誰かと比べることが意味がないということに気づけるはず

anond:20161204222420

記事に書かれた、「女もヒーローって呼ばれる」の例だね。

まりフィクションに限らず女のヒーローヒロインとはまずいわないってことかあ。

http://anond.hatelabo.jp/20161203200232

バカと不真面目は濃縮するからな。

不真面目の果てに、いつも「前田仁」が産み落とされる歴史

映画艦隊これくしょん』を見た戦争経験者と非経験者の感想

「「なんでこれをアニメでできなかったのか」」

死の収容所へ 3

http://anond.hatelabo.jp/20161204230447

 様々な要因の影響を受けながら、ユダヤ人たちは強制連行を受けとめていた。彼らはもう何年ものゲットーに閉じ込められ、飢えと渇き、恐怖と苦痛さらされ続けていた。そうした人びとは既に絶望し諦め切っており、連行命令に従いがちだった。強制連行の中でナチドイツによってもたらされた恐怖はもはや抑えがたいほどに膨れ上がり、彼らは打ちのめされ、感覚を失い、脱出や抵抗への意志を打ち砕かれてしまっていたのだ。その上連行されてゆくユダヤ人たちの圧倒的多数は、自分たち労働のために移送されてゆくと、実際本気で信じていた。彼らは東方への再定住に希望を繋いでさえいた。そこには仕事もあるのだからまさか自分たちが後にするゲットーよりもひどい事はないだろうと。彼らに期待できることはもう、それしかなかったのだ。どこか知らない東の地の他には…。

 いずれにせよ、ただユダヤ人だというだけで何の罪もない老若男女が連行され殺されるなど、誰にも予測のできようはずもなかった。 予測しようにも特定民族の完全絶滅など、未だかつて誰ひとり、経験したためしがなかった。

 連行にはナチドイツ以外の国々の警察隊も加わった。ポーランド青色警察」、オランダ緑色警察」、フランスルーマニアハンガリー警察ウクライナリトアニアラトヴィアエストニア警察その他、それはユダヤ人強制連行が行われたすべての国々に及んでいる。

 多くの非ユダヤ系住民強制連行を目撃している。玄関から歩道から、彼らは連行をただ見ていた。悲しみと同情を表わす顔もあれば、大喜びの顔もあった。だが大多数の人びとは、見知った仲の隣人が追放されてゆくこの痛ましい光景に、無関心なようだった。まるで彼らは、何も感じていないかのようだった…。

 駅に到着したユダヤ人たちは窓を塞がれた貨物列車に詰め込まれた。しばしば100名から150名、ときにはそれ以上が、その半数ほどしか収容できない1両の貨車に無理やり押し込まれた。貨車には外から錠が下ろされ、列車収容所入口に着くまでドイツ兵もしくは警官随伴した。列車は何事もなければ数時間で済む収容所までの道のりを、幾日もかかって走ることが度々あった。東方ソヴィエト戦線に向かう軍用列車が通るたびに退避線に入っては通過を待ち、再出発の許可下りるまで何時間も停車していたかである

 すし詰めの貨車の中の有様は、言語を絶していた。貨物車なので便所などひとつもなく、詰め込まれた人びとはバケツか、さもなくば床に用を足していた。換気装置も水もなく、車内の温度は夏になると水ぶくれができるほどに上がり、冬には逆に氷点下に下がった。これらの要因は収容所到着を待たずに大勢の人びとが車内で死亡する原因となった。特にポーランド領のゲットーからの便では、収容所到着時に数百名がすでに死亡していたという例もある。

 ヨーロッパ西部バルカン半島諸国での強制連行は、東欧でのやり方とは若干異なっていた。連行が決まった人びとはまず自国内の移送収容所抑留され、数週間あるいは数ヵ月後にポーランド行きの列車に乗せられた。彼らの場合ポーランド系ユダヤ人場合よりは待遇が良かったので、移送中の死亡率も低い。西ヨーロッパユダヤ人貨物列車ではなく客車移送されて行ったケースもある。もちろんそれは、労働のために移送されて行くという彼らの幻想を引き伸ばすための手段に過ぎなかったが。

 列車絶滅収容所に到着するとユダヤ人たちは貨車から降りるよう命じられた。ベウゼッツ、ソビボル、トレブリンカの各収容所に着いた人びとは、ここは移送収容所であり、ここから労働収容所へ送られることになる旨を伝えられ、そしてこう言われた−「シャワーを浴びるから衣服を脱ぐように」

脱いだ衣類は消毒に廻された。女性衛星上の理由と称して髪を切ることを告げられた。男性女性子どもたちから引き離された。荒々しい殴打と威嚇の中を、丸裸にされ運命から見放され呆然となった人びとは「シャワー」へと追い立てられて行った。それは確かに「シャワー」ではあった。ただしそれは「ガス」のシャワーだった。

 アウシュヴィッツでは、人びとがホームに降り立つと通常は「選別」が行われた。約20パーセント−若く体格の良い人びと−が強制労働のために集められ、「ガス室」送りを一時延期された。しかしそれと同時に、年齢も体調もおかまいなしに、到着するなり全員が何の選別もされずに「ガス室」に追い込まれ場合もある。一方では、稀にではあったが、到着した全員がしばらくの間ガス殺されずにいたこともあった。

 ナチの念の入った偽装と隠ぺいのシステムの中で、「ガス室の中で絶命する」という犠牲者たちの運命は常にあいまいにされ、彼らは最期の瞬間までそれを知り得なかった。

ナチス・ドイツが構築した排除装置は恐るべき効果を挙げた。数百万に上るユダヤ人が等しく殉難の試練を受けた。それは彼らがいまだ家庭にある時より始まり絶滅収容所ガス室をもって終わった。

死の収容所へ 2

http://anond.hatelabo.jp/20161204224426

強制連行

 全ヨーロッパユダヤ人ドイツ領ポーランド絶滅収容所移送する−これは、途方もない作戦である遂行にあたっては詳細な計画、広域にわたって組織化された設備施設、そして輸送補給宿営のための大がかりな兵站機構必要だった。連行作戦にはドイツの広範にわたる政府機関組織が巻き込まれている。ハイドリヒが作戦の指揮を執り、1942年5月の彼の暗殺後はハイドリヒの後継者帝国中央保安局エルンストカルテンブルンナーがこれにあたった。あらゆるSS機関支配地域の様々な民間権威ドイツ国防軍、そしてナチ衛星各国政府連行作戦に動員された。特にドイツ鉄道組織連行されたユダヤ人集団絶滅収容所まで輸送する手段提供し、強制連行に加担した。次のことは特筆に値するであろう。何よりも軍隊鉄道必要としていたにもかかわらず優先順位を記したナチリストによれば、ユダヤ人鉄道輸送の割り当ては、軍隊のそれよりも優先されていたのだ。

 全ヨーロッパからユダヤ人連行するということは当然、5つの絶滅収容所に彼らが到着するということでもある。列車同士のブッキングを防ぐため正確なダイヤグラム必要となった。ダイヤグラムの組み立てにあたっては、それぞれの収容所絶滅施設能力考慮に入れなければならなかった。ガス室があるといっても全員を短時間でガス殺できない収容所列車を付けるわけにはいかなかったかである

 ユダヤ人連行秘密裏に進められたので、大がかりな隠ぺいと偽装工作が行われることになった。連行される人びとに対しては、東方のどこかへ労働に行くのだという情報が流されていた。このためポーランド在住ユダヤ人ソ連領内のナチ占領地域に連れて行かれるのだろうと考え、他国ユダヤ人たちはナチポーランド労働のために送られると信じていた。ナチは、嘘がほころび連行不審感や不安感を持たれないよう、念の入ったことをした。 連行の途中あるいは収容所到着後何人かに対して、故国に残した家族あてに葉書を書くよう強要したのだ。家族が受け取ることになる葉書にはこうしたためてあった−「自分たちは元気に生きている。ここはただの労働収容所で、快適だ」− 差出人は数時間後にはもう生きてはいなかったのだが。

 強制連行の手順と方法は大体決まっていた。連行が迫っているという噂が数週間前から広まることもあったが多くの場合連行命令は予告なしに突然執行された。連行される人びとに与えられた猶予はきわめて短く、2、3時間かあるいは数分だった。まず、ユダヤ人たちは家を出て指定された場所に集合するよう命じられた。集合場所は大抵駅の近くだった。所持品は手荷物以外許されず、彼らは自分財産ほとんどを置き去りにするしかなかった。手荷物の重さは一人当り10~15キログラム制限されることもあった。荷物の中身は主に衣服、炊事用品、寝具などだったが、そこには仕事に使うための道具類も加えられていた。働きに行くだけだと信じていたかである

 重い荷物を背負い、包みを抱え、子どもも年よりも、ユダヤ人たちは駅までの何キロもののりを行進させられた。年寄り病人が荷馬車やトラックで隣村から運ばれてくることもあったが、行進は基本的には徒歩だった。行進から脱落した者はその場で射殺され、歩けない病人や隠れていた者も同様に見つかり次第射殺された。複数の小規模ゲットーで同時に連行が行われた場合、それぞれのゲットーの人びとは一つの集団にまとめられることもあった。こうした集団の隊列は長さ数キロメートルにも及んだ。天候は考慮されなかった。凍てつく冬の雨の中、焼けるような夏の太陽の下、隊列の行進は絶えることがなかった。

http://anond.hatelabo.jp/20161204224619

スカイリムが2000万本とか売れたりしてるところを見ると

日本市場けがひたすらシュリンクし続けてるだけのような・・・

そろそろもうボーネンの季節

参加したくないけど参加しなきゃいけないボーネン

一次会で帰りたいけど、帰れないボーネン

乾杯のオンドをって言われてもうまくできないボーネン

お酒をついで回る年齢でもないボーネン

グラスが空いても、タイミングよく注いでもらえないボーネン

顔がひきつる笑顔ボーネン

次の日、頭が痛くなるのをわかってるのに断れないボーネン

ボーネン ボーネン

レディボーネン

血ってなんで食っちゃだめなん?

食っちゃだめなわけじゃないだろうけど、食いすぎるとだめなんよね

なんでだろ

栄養運んでるがんばりやさんだからそれを吸収してグワァってなればいいのに

いや、まずいのはわかるけれども

食べ過ぎたら下したり体に悪そうなのはよくわからん

気功が救ってくれた話

何度か増田に書いたんだけど、適応障害2度やって、鬱になって、表面的には普通なんだけど、心の中に闇があって、暇があれば死にたいって思うぐらいだった。

それが、短期間でかなり救われた。

色々な事をしたのでその色々が効果があったのだろうけど、一番効果があったのはアファメーションだ。

アファメーション簡単に言えば、場面場面で声を出して、プラス自己暗示をかける。朝起きた時とか、食事の開始とか、風呂に入る時とか、寝る前とか、自分肯定する言葉つぶやく

あらゆる場面でアファメーションすべきだと、とある気功のページで教えてくれた。

そしてそれをやる事で、今、かなり急激に楽なった。

しかし。

そのページを読み進めていくうちに「白い石と黒い石を入れた水を飲むとバランスが取れる」とか「ホメオパシーはいいぞ」とか出てくるようになって、途端に胡散臭くなってきた。

最初の方で記載されていた事で救われたので、全部が全部悪いとは言いにくいが、それでも、やっぱ、ダメものダメだ。

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ちなみにいい企業再就職が決まりそうだ。IT系だけどね……

http://anond.hatelabo.jp/20161129233529

それなりに見極めた上で「それでも好き」なんだから、どうしようもないんだな。

育ちの悪さはそういう所で一番出るし、連鎖する。こどもはドンマイとしか言い様がない。

http://anond.hatelabo.jp/20161204222654

每日書き込んでいるおばさんwwww

キャラクター物語の駒になっている」という批判を時々見ることがあって、

実際自分も色々な作品に触れる中でしばしばキャラクター性格と行動の乖離違和感を覚えることがあるのだが、

自分場合「何故その性格設定のキャラクターにこの行動を取らせた?」ではなく、「何故この行動を取らせるキャラクターをその性格設定にした?」となることが多い。

キャラクター基準ではなくイベント基準というか、シナリオ行基準というか、テーマ基準というか。

ぶっちゃけた話、早い段階で作品の言いたいことというか、作品を通して制作側のやりたいこと(必ずしも物語の終着点という訳ではなく)がはっきり見えてくるような作品は、

多少作中でキャラクターの行動に首をかしげることがあっても大目に見てしまう。なんかこいつ普段からは考えられないようなヘマやらかしてるけど多分作品的には意味があるんだろうと思ってしまうというか。

実際そういうぼんやりとした確信を(自分なりに)得られた作品は、大体(自分なりのだが)期待にこたえてくれる。ので好きになる。

人物設定、行動指針から世界設定に至るまで、一つのテーマに集約されてることがはっきりわかる作品はやっぱり面白い、と思う。

なので逆に物語のないキャラクターにあまり入れ込むことが出来なかったりする。

物語が薄い日常系が駄目だとか言うんじゃなくて、本当に「キャラクター」単品だったりするやつ。

イラストプロフィール台詞が数種類、良くて小さな個別エピソードしかないソシャゲガチャキャラみたいなの。

ストーリーの中での立ち位置が見えないとどうしてもあと一歩ハマることができない。

なのでガチャキャラ交えて濃いイベントストーリー作ってくれるソシャゲが増えてきたのは個人的にはありがたい傾向だったり。

やっぱりまずちゃんとした主題のあるストーリーの中でキャラクター役割を与えられて動いている姿を見たい。あくまでも自分は、だけど。

いとうせいこうトーキングセッション2014夏

2年前の敗戦の日ころにNHKラジオで流していた五木寛之さんといとうせいこうさんの対談の冒頭部分の書き起こし。

誰かフルで持っていませんかね。

作家五木寛之さんをお迎えしております

まぁ、僕はもちろん戦争体験年代ではないのですけど、五木さんは?

はいっても、戦場体験は、もう3つくらい上になるとあるんですけど

少年飛行兵とか

僕らの世代は、ちょっと前で、終戦ときは、中学1年生でしたか

平壌の一中に通ってました。

で、引き上げていらっしゃって

戦争体験にもいろいろありましてね。

大本営とか通信部とか

丸々太って引き揚げてきて、村の人が

出ていってときと別人のようでなんて人もいた。

インパール作戦とか

いろんな悲惨体験した人もいるし、

僕は国に対して、万斛の恨みがあるんですけど

荒廃した国土に何百万って人が帰ってきたら迷惑なんですよ

から当時の内閣閣議決定でね

海外にいる残留日本人たちは、

そのままにしておきたい

シベリア復員兵もひっくるめて

方針があったみたいですね

僕なんかは、引き上げというよりも脱北ですね

38度線を徒歩で越えた口ですから

脱北者として、逃亡してきた

から70年になりますから、引き上げ者といってもピンとこない

あっ、帰国子女ですかと言われたりするんで、

棄民のようなかたち?

完全な棄民ですね。

捨てられてしまたかたち

内地のほうで、迎える日本の側でも

ほんとにあの時期に勝手外地に行って

戦争の真っ最中日本では麦のカスを食べていたとき

平壌では、チョコレートがあったそうじゃないかみたいなかたちでね

上海では、ジャズバンドもあって、ダンスホールもやってましたか

そういう裏返しも、恨みみたいなものがあるから、余計なものが帰ってきてということで、

引揚者って言葉は、当時は差別語でした。

そのことみたいなものだんだんだんだん、伝えられなくなって

粗雑なお話になって、

あるいは美しい物語になってね

アカシア大連なんてね。うらやましいなと思って

かつての植民地いたことを懐かしいと思える先輩たちのね

五木さんはそうではなかった

僕なんかまだいいほうでね

北朝鮮の北のほうの豆満国境ソ連

近くに入植した人たちが、軍に見捨てられて

デマが流れて、ピョンヤンに来ると列車があるらしいということで、

見るも無残な行列

避難民か引揚者かと同情しながら見てたんですけど

その人たちは、ありとあらゆる戦争の愚行というもの惨禍を受けてね

ボロボロになって、やってきてるんですから

引き揚げにしても戦争体験にしても千差万別ですよ

ひとことには絶対いえないですよ

それがもう伝わらなくなってきている

帰国子女だという人がいるということ

五木さんに今このお話を伺うことは、とても大きなことなのではないか

今、話すのは無駄だと思っているんですよ。

虚無感というかむなしさの中で

沖縄戦のいろんなことを語り部として、修学旅行の生徒に語って聞かせるようなガイドの人たちは、もうだめだ。やめようと。

早くやめろとかね。その間みんなスマホを見ている、ぜんぜん聞こうとしない

昭和史のかんどうさんも歴史を人は学ばない

僕は伝わらないと思う

言っても言ってもね、実感というのは伝わらない

僕はもう半ば諦めている

その人が

そうなるまでは、

体験というものは美化して伝わる

物語化して伝わったり

そういうクッションを経て伝わるんだ

と、悪いんですけど、嘆いているんですよ

しかし、まぁ、それが実感なのだろうと

マンツーマンで向かってお話をしていればね

なんとなく、口ごもる

話の中にもその人が語りたくない

っていう感じが伝わってくるでしょ

本当のことは語りたくないわけでしょ

引き揚げ体験にしても戦争体験にしても

本当の自分に対してやましさを持っている人たちは

語りたくないんですよ

から、僕も本当のことは語らない

ずっと今日までね、引き上げをテーマにした小説は書かなかった。

そんなもの書いてね、おーなかなかい作品だねなんて

言われたら、とてもじゃないけど、申し訳ない

確かにそうですね。

以上の内容から読み取れることは、戦争体験千差万別であること。

修学旅行原爆資料館に行ったら、呉の軍港も見て、岩国基地も見て、バランスをとっておくべき。

沖縄にいったら、ひめゆりの塔に行ったら、米軍基地も見ておきたい。

空爆でやられたところとそうでないところ。日本都市部がなぜか軍需工場扱いされていた事実

やられなかったところは、当時の日常の延長なんだよ。

赤紙がきて、動員された人。上を目指して、半島大陸に渡った人もいた。

そういう事実の積み重ねの上、生き残った人が今を作っている。ただ、それだけ。

http://anond.hatelabo.jp/20161204184643

とりあえず書いてみた

最近はてブしり匿名ダイアリーかいてみたいと思い、やってみる。

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