はてなキーワード: 精神論とは
まさにその通りだし、仕事できないくせに長年居座ってるだけの奴や、仕事の遅い愚図を排除する絶好のチャンスなんだが・・・日本人、まともなマネジメントが全然できないの。
定時上がりを悪者みたいに言う馬鹿が未だにいるだろう?仕事においては能力と成果だけを見るべきなのに、相も変わらず精神論に基づいた心証評価をする。
効率化も進んでないんじゃないか?このご時世に紙の書式だの、儀式的な押印だのが残ってないか?
高い能力や高度な専門性を持つ人には、相応の高い給料を与えて、時間の自由も与えるという素晴らしい制度の筈だったんだけど。
新しい物を受け入れる事、体制が変わっていく事、生産性高く仕事をする事。こういうのができない連中が全力で足引っ張ってるな。
「
1 身近な人にこの会社の良いところをアピール(どこのマルチ商法やねん)
2 ネットで見かける悪い噂が嘘であると説明(火のないところに煙は立たないって言葉知ってる?)
3 少しでも興味がありそうな人には就活パンフを配ろう(内容の薄さと精神論の多さで騙せたはずの奴まで逃げ出すパンフレットをな)
」
いや……うん……俺もうこの会社辞めたい。
なんで出て来る結論が「とにかく数撃ちゃ当たるでうちの会社には役不足な人間が間違ってかかるのを待とうぜ」に集約されるのかと。
先ず隗より始めよって故事成語があるけどさ、あれがず~~っとず~~っと歴史に残り続けるのも分かるわ。
あれ言われてすぐ実行できる君主すげえわ。
それをスパっと言う側もすげえわ。
どっちもうちの会社じゃ無理だよ。
つまり奥さんが家事を重いと思っているわけで、増田もこれ以上家事に協力できるだけの余裕がないと思っているわけなので、食洗機とルンバを買い、食事の用意はヨシケイやパルシステムのサービスのように、メニューが決まっていてある程度下ごしらえしてあるものを利用する、あるいは買い物に行く手間だけならネットスーパーを利用する。
洗濯は、乾燥までしてもOKなものは干す手間を省くために乾燥までする。
畳んで仕舞うのも結構コストがかかるので、日々着る子供の服などは畳まず決まったカゴに投げ込むだけでOKにしておく。
精神論や家庭内でタスクを押し付け合うより、収入もあるのだから多少お金がかかっても効率化を考えてみては。
あと、それをしてもなお奥さんが子供のことを考えて欲しいというなら、夜寝る前にゆっくり子供のことを話し合う時間を作ってみては。
https://www.youtube.com/watch?v=YF1h1CQuhbQ
4年前の2014/2/25放送だそうだ。
正直この動画みただけではそんなに細貝に嫌悪感は抱かなかったが、設計してなんとか作ったものにいきなり五輪で乗ってもらえる的な妄想があったようにみえた。
改善要望のあったリアフレームも、図面どおり作ったら選手のモモに当たってあざになるとか、そりゃお前いきなり採用は無理だろって
町工場のオッサンが「設計の段階でこれがいいものだと思って信じて作っているのにどうなんだ」的なことをいうのに下ボブは精神論しかいわない。このままじゃ終われない、くやしい、大田のものづくりの心を伝えたい
でもまぁそれ含めてもそんなに嫌悪感無いんだよなこの番組自体は。ここから4年たっての一連の騒動はもう擁護できないほど酷いって感想しか抱けないが
これを実践していけば世の人はみんな恋愛上手になってもう世の中幸せ真っ盛り万々歳大勝利希望の未来へレディーゴー
…とはならない
何故か?というと結局はどのアドバイスも、肝心要のことを教えていないからである。
それは「人を好きになる方法」に他ならない。
人を好きにならなければそもそもどうしようも無い。
数多たるアドバイスも「人を好きになる」からこそ役立つのであり、
人を好きにならなければ、そもそもやる気が起きようもないのだ。
結局、ここを理論立ててアドバイスできなければ、片手落ちな恋愛論なのである。
こうなると恋愛熟練者は弱い。「人を好きにならない」人間に対する想像力が弱いのだ。
できると言うのなら是非是非言ってみてほしい。
人を育てる、研究をするには金が必要なので、その金をきちんと回るようにするのが一番だと思うがね。
とにかくバカをおだてて研究をさせれば金を一切出さない、雑用をする人間すら出さない、一方で雑用書類をいっぱい増やしても平気で大量の成果を出してくれる科学者になるという
正直苦しい状況でもなんとかぎりぎり結果をなそうと苦しんでいるのなんて日本中至る所ある。まさに精神論で耐えてるような望みどおりの状況だ。
少し前に、産科、救急が医療事故多発して、それであちこち閉鎖したのと同じような状況に日本の科学技術はあると思うね。
経済成長で言えば日本は欧米、さらに中国韓国東南アジアひっくるめて段トツで悪いから。
日本って、「失敗の本質」という本で挙げられてるように「手段が自己目的化する」という特性がある。
そこで、実際に革新的な技術が生まれるとか、メガベンチャーが生まれるという方向の修正はせずに、
細々とした書類上のミスだとか、過去不正をやらかしたのと同種のミスがやらないようにとか、そういう枝葉の不便にする方向の改悪ばかりが盛ん。
ここしばらくでもPEZYとか、iPSとかあったけど、不正は不正なんだが、「じゃあ、研究や革新ベンチャーが生まれるにはどうしたらいいか」なんて方向の修正はまずしないのが日本。
昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。
努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味で現代では「積極的に廃止すべき」だとも思う。
ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。
元増田の「人生を左右する受験に必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。
高等学校学習指導要領をスタートにするのは同意してもらえると思う。
そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。
だから、ブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、
それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。
その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。
だって、スプラトゥーンも短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。
オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーンが受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。
スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。
とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。
だから、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。
高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。
そこを無視すると「歴史はイケメンを口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの。
そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。
その観点で学習指導要領を読むと、もうブコメの効能とか的外れも良いトコだよね。
古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律の古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、
古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。
本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって
「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。
そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本で人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。
オレは要らないと思ってるからそれは後述する。
ただなあ、元増田の「古文漢文が人生を左右しかねない学力試験に必須か?」には、オレは反論できる。
元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない」って。
大学受験における入学試験、学力試験な。アレは何を計測しているの?
基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定の学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。
要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。
大学本来の学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?
知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。
「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。
だから、高校の学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学の学力試験で確認するのは、合理性がある。
さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。
保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験をベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。
正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。
古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家の伝統から来た明治の文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。
「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃からの残滓に見える、とも言える。
高い学識と深い教養を持った官僚と学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいまいか、と。
だから、高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。
高等学校卒業認定試験が学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。
(大学入学資格検定の時にはあった家庭科が廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)
高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。
元増田の主張は、「古典(古文・漢文)を受験科目に加えるな」だった。
増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力を試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。
オレの主張は、「古典を学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。
学習指導要領の古典の目標をみても(保健体育や芸術の目標に意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代の高等教育の意義からするとズレがあると思う。
最終的には、芸術や地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。
(論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史を理解するなら地理歴史だろう)
「法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領を改定するところからだろうと。
そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、
入試程度の古典の知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。
漢文の問題で法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。
もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないものが高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。
現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験を突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本でしか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)
ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?