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映画「シャーロックホームズ」で左上に表示されるテロップに苦情殺到 #ntv #シャーロックホームズ - NAVER まとめ
↑の件について思う所がるので書きます。
個人的には、こんなテロップが出る映画放送は嫌なので観ません。
でも、高齢化が進む中で、広く開かれたメディアが、知的な能力が減退したお年寄りにも観てもらえるように作られるのは、不可避だと思います。これは反知性主義とはちょっと違う。いわば「福祉化」です。
行間を読むことや解釈をすることといった「知的な楽しみ」がなければ文化は成立しません。が、その一方で、知的な能力によって文化から排除されてしまう人が存在することや、ましてそういった層が増えていってしまうことは好ましいとは言えないでしょう。
かつて大宅壮一はテレビの登場で「一億総白痴化」なんて言って、これは典型的なニューメディア悪玉論ですが、今後「一千万認知症時代」がやってくるのは、間違いありません。大きなメディアは、より分かりやすくせざるを得ないでしう。
かつてインテリ貴族だけが独占していた「文化」なるものは、社会の変化とともに大衆化し、これから先は高齢化・福祉化していくのでしょう。私たちが望むと望まざるとに拘わらず、川は流れます。
もちろん、高齢化で、社会の構成員全部の知的な能力が減退するわけではなく、若者や、元気なお年寄りだってこの先もいっぱいいるはず。
大事なのは、選択肢が存在し多様性が確保されているということです。
ただ「選択」ということを考えると、無料で広く流れるメディアはやはり福祉化して、能力的な問題で選択肢が制限されがちな「録画もデータ放送もよく分からない認知症気味の独り暮らし」に向けた工夫をするのは妥当かもしれません。
地上波のようなメディアが、映画を(著作権者が許可する限りにおいて)分かりやすい編集で放送する一方、BSやDVDでオリジナルのものを「選べる」なら、まあいいんじゃないかと私は思います。
それに「『ちゃんとした作品』を楽しむためにはお金が必要」というのは決して間違いとは思えません。
また、この多様性の中で、作り手(著作権者)が「この作品は、分からない人には分からなくていい」として、福祉化を拒否するのも、もちろんあり。それはそれで作り手の「選択」ですね。
懸念があるとすれば、地上波のような無料のメディアがお年寄り基準で福祉化していく一方で、経済的にひっ迫している若者が有料のメディアからも疎外される傾向が出てきてしまうことかな、と。ただこれは、メディアじゃなくて政治の問題でしょう。
日本では憲法でも最低限度の「文化的な」生活が保障されているわけで、老若男女問わず、適切に文化に触れことができる状況を用意する責任が国にはあると思うんですけどねー。
バイラルメディアが問題になっていますが、そういうのは全部SNSが大衆化してしまったことに原因がある。
Twitterは5, 6年ほど前は一部のリテラシーの高い人たちが利用しており、面白い考えや情報というのを集めやすかった。しかし最近はそこらのアホなギャルも、頭の難いジジイもTwitterをやっている時代。本当に頭が悪い人が増えたことでクソリプ問題などが顕在化してしまった。
facebookも誰でもやるようになり、バイラルメディアの記事のようなリテラシーの低さを露呈するものを平気でシェアする頭の悪いというか、センスが無いというか、要するに何も考えていない人達が多くなってしまった。その結果バイラルメディアが流行してしまい、インターネットはつまらなくなった。
大雑把な言い方になるので間違いがあれば指摘していただければ有難いのですが、恋愛はもともとは宮廷の遊戯として始まったと聞きます。
それが大衆化したのが二百年ほど前。しかもその概念を日本でも知られるようになったのは明治時代。百年ほどしか経っていません。
とりあえずこれは間違い
私は異性・同性を問わず誰かを愛したことがありません。恋に落ちて有頂天になるということがどんなことなのか分からないのです。
私は来年で四十歳を迎えるのですが、恋人というものが居た試しはありません。
そして、それについては孤独感よりもむしろ解放感を抱いているところがあります。
独りぼっちで何がいけないんだろう、私がそれで満足しているのならいいんじゃないか、と。
両親にこの話をしても通じないので、「なかなかこれといった女性に出会えない」と言ってかわしています。
世間では恋愛というものを美しいものとして語ります。人と人とが恋し合うことが当たり前のことのように喧伝されます。
それは私のような人間にとって酷く苦痛です。まるで恋愛をしていない人間は人間ではないと言わんばかりの風潮を感じます。
そんな風潮から逃れたい、そっとしておいて欲しい人間も居るということを忘れないで欲しいのです。
そもそもこの「恋愛を理解出来ない」という感情は子供の頃からあったように思います。中学校の修学旅行で
お決まりの「誰が好き?」という話になったのですが、私は適当な名前を挙げて誤魔化しました。
人は必ず恋愛しなくてはならないんだ、という思い込みはその当時は根強く残っていたので
名前を挙げたその女の子のことを好きになろうと努めました。しかし、結局片思い(?)のままで終わってしまいました。
以来、私の意識の中から「恋をしなくてはならない」という無言のプレッシャーを感じるようになりました。
他人を愛することが出来ない自分は人間として欠陥品なのではないかと思ったこともあります。
もっとはっきり言えば、人間としてどこかが壊れているということです。
それが、「別に恋愛なんてしなくても生きていけるんだ」と思うようになったのはつい最近のことです。
大雑把な言い方になるので間違いがあれば指摘していただければ有難いのですが、恋愛はもともとは宮廷の遊戯として始まったと聞きます。
それが大衆化したのが二百年ほど前。しかもその概念を日本でも知られるようになったのは明治時代。百年ほどしか経っていません。
これを知ってから、別に「恋愛」という概念が自明のものではないのだな、と思うようになりました。それは一種の救済でした。
これは非モテとかそういうのとは別の問題です。恋愛をするチャンスを虎視眈々と狙っているのが非モテだと思うのですが
私はそういうものを特に狙っていないのです。ひとりで居るということに解放感を感じているというのは前に書きました。
日本人にイマイチ「統合リゾート」が理解されないのは、例えばビジネスマンや研究者などが海外出張する際に、
欧米では、例えば研究者が他国の国際会議に参加する時などは、パートナー(妻、同棲相手。場合によっては同性)を連れて行く。
で、連れて来たパートナーは、会議後のレセプションパーティーに参加したりする。その為に連れて行く。
しかし、会議そのものは、研究者しか参加出来ないし、パートナーは会議の間は「ヒマ」。
だから、パートナーのヒマ潰しアイテムとして、アミューズメント施設、つまりカジノが必要になってくる
一方日本の競馬場は、オッサン一人。夫婦とかカップルはほとんどいない。
日本人はカジノと聞くと「日本のすさんだ競馬場」をイメージするが、世界的には「社交場」。
日本人的感覚だと「出張とかで、そんなに広いホテルは不要でしょ?」と感じる。
一方、欧米エグゼクティブは、出張にもパートナーを同行させる。
パートナーはアメリカの自宅並みのスペースがある客室で、自宅同様のゆったりした「生活」を東京でも要求。
「奥様向けのスパ・エステ」とか、「託児施設」なんかも必須な訳だが、そういう解説記事は見かけないなあ。
要は「ダボス会議みたいのを、ジャンジャン東京に誘致しましょう」な話で、カジノはその為の手法に過ぎない。
でも多くの日本人は、「ダボス会議って、何?」「ダボス会議を誘致する意味あるの?」レベル。
だから、カジノ賛成派は「ダボス会議とは何ぞや」とか「欧米エグゼクティブの出張は、妻子同伴が当たり前」と言うレベルから、
まずは説明をスタートさせなければならない
でも「ダボス会議とは何ぞや」とか「欧米エグゼクティブの出張は、妻子同伴が当たり前」と言うレベルから説明始めたら、
説明時間がいくらあっても足らない。説明を聞く側が我慢出来ない。
あと、変な話だが、日本では「エグゼクティブ・高額所得者ほどギャンブル嫌い、ギャンブルをしなくなって」る。
そんなことじゃ、ギャンブル慣れした世界のエグゼクティブと会話が合わせられるのか、心配。
「英語は喋ることは出来ても、ポーカーとかブリッジが出来るんですか?」と言う話。
「向こうのグローバルエリートと一緒にポーカーやブリッジが出来なきゃ、グローバルエリートコミュニティに入れないでしょ?」という話
だから、東大の教養過程の授業に「ポーカー」とか「ブリッジ」を設けるべき。
バブル期の社畜、もといエリートサラリーマンが、接待ゴルフに社会人人生をかけ、自腹でゴルフ練習場に通ったのと一緒。
グローバルエリートは自腹で「ブリッジ練習場」に通うようになるかも。
ヨーロッパでは、貴族が自分の馬を自慢する場が競馬場。だから上流階級の社交場になった。
一方、日本の競馬場は、戦前は軍馬育成目的、戦後は国・自治体の財政目的。そもそもが上流階級と無縁でスタートした。
コミュニティは、一旦「金持ちのコミュニティ」になってしまうと、貧乏人は気後れして寄り付かなくなる。
一方、一旦「貧乏人のコミュニティ、もとい、溜まり場」になってしまうと、
金持ちが気持ち悪がって寄り付かなくなる。日本の競馬場がこれに該当
「出だし」で金持ちが沢山来るようになれば、自然と金持ち最適化された雰囲気になり、ますます金持ちが寄りつく。
「出だし」で貧乏人が沢山来てしまったら、貧乏人最適化されてしまい、軌道修正は極めて困難になる
だから統合リゾート、カジノを「成功」させるには、「カジノは金持ちの社交場」と言うブランディングが肝心。
上品な宣伝が必要であり、間違ってもスポーツ新聞なんかに宣伝を載せてはいけない
「金持ち志向」「専業主婦志向」「見栄っ張り志向」「お受験志向」が明白な「雑誌プレジデント」に企画記事載せればいい。
「お子さんにポーカーやブリッジを教えないと、将来グローバルエリートコミュニティに参加出来ません」な記事。
まあ、「金融資産1億円以上じゃないと来場不可」「年収1000万円以上じゃないと来場不可」みたいな仕切りにすれば、
但し、メンバーをセレクションしちゃって、売上高を達成できるか?
だから、「小さく作って、大きく育てる」ことがカジノには必要。
大衆文学を好む奴(大衆文学がターゲットにしている層)というのは、基本的に大学教授や社会からはみ出した年寄りが儲けるための社会システムである活字教に迎合して、文学の何がいいかすらわからないまま他の文化を僻みでバカにするような可哀想な子供が
大衆にも迎合してそのまま年食った、文化的には救いようのないバカだから
内容がお察しになるのは当然
一言で言えば、バカのうち社会の見えない言葉に逆らえないタイプの人が読むもの
当然そっちが儲かるからメインになるし、書き手にもそういう奴がいるから、ちゃんとした文学が隅っこにいっているわけだ
一方でラノベというのは、その活字教が支配する小・中学校の中で、生徒に現代的な芸術を楽しませるための隙間みたいなものなんだよ
現代の芸術のうちゲームシナリオやファンタジー漫画や90年代のホビーブームに基づく世界を、いかに活字媒体で表現するかというのがラノベの本懐であり基本(ラノベで育った奴や大衆文学層のうちオタクが大衆化したゆえそれっぽい空気に興味示す奴もターゲットになったから今はそうじゃないのが多いけど)
http://www.huffingtonpost.jp/yoshifumi-nakajima/obokata-hanyu-samuragochi_b_4988816.html
自分はしがない下っ端広告サラリーマンだが、この記事は解りやすかった。
メディアにとっては、どんなに崇高な理想も思いも、クリックされなきゃ、
読まれなきゃ、売れなきゃ意味が無いのだ。
もちろん炎上マーケなどではなく、ポジティブに情報が伝達していけばイイ。
でも、羽生結弦選手の話じゃないが、(羽生選手の感動的なストーリーは素敵とかいう)情報は
ポジティブだとしても、それは相手を見た話ではない。
あくまでも受けての偽善や義憤が満たされるかどうかという話。
なので、メディアはより受けてに刺激的で、チープな感情を動かすものに
必然的に動いていく。それを抗うメディアは発信者に相当に実力がなければ淘汰される。
悪いもの、質の悪いもの、単純に刺激的なものは残りやすく作りやすいのに、
さらに今では情報の配信者が大衆化・一般化したために、ますますチープな情報にあふれている。
本当に考えなければならない問題や、追求しなければならないことは何一つ広まらない。
テレビ局の話はよく分からないけれども、いじめとかに興味のある人ってどう見ても友達になんかなりたくない子にすごい時間と気力を使って構い続けてるよね。
いじめられっこがネットの森の奥深くに逃げれば逃げるほど、すごい勢いで追っかけていくのな、いじめっこって。
まるで自分がいじめられっこに見捨てられるのが怖いかのように。
何かに似てると思ったら、ネットの世界のアングラってのがどのようにして一般化するのかって話題を思い出した。