はてなキーワード: 同性愛とは
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_62a8398de4b06594c1cd7c1b
お前らが本当にやるべきなのは「真夏の夜の淫夢」をはじめとした同性愛に関するインターネットミームを滅ぼす事だろう!?
それならお前らはドワンゴやニコニコ運営代表の栗田穣崇に対して「同性愛者への差別を助長する真夏の夜の淫夢に関する動画を全て削除せよ」とオープンレターを出す事なんじゃないのか!?
もちろんそんな事をしたらお前らはタダでは済まないだろうし
場合によっては10年近くも特定個人の人生を滅茶苦茶に破壊したハセカラを越える大変な騒ぎになって逮捕者どころか死者も出るかもしれないが(社会的な死も含む)、
お前らはお前らが信じる正しい価値観、正しい世界のためにやらなきゃいけないんじゃないのか?
やれよ。
全人類が同性愛のセックスを気持ち悪いと思うホモフォビアについて向き合えとかいうお前の方が異性愛のセックスを気持ち悪いと思う自分の心理について向かい合った方がいいと思いまーす
そういう腐が嫌いでーす
この程度の当たり前の前提知識を知見として有難がるあたり
やっぱりはてなーって何も知らないけどとりあえず同性婚は良いものだから賛成っていう馬鹿丸出しムーブのやつが多いんだな
いまだに元増田のような同性愛者はいるけど、それを多様性として決して認めない当たりが無自覚な差別主義者らしくて香ばしい限りだ
anond:20220615115818を読ませて頂き、非常に有用な知見を与えられたことに敬意と感謝を申し上げたい。
それはともかく、同性婚へ関してかねてから指摘されている「同性婚に伴う資産家による資産還流問題」というのを皆さんはご存知だろうか?
同性婚に伴う資産家による資産還流問題とは、既存のいとこ婚と同性婚制度を組み合わせて婚姻に至らなかった資産家一族の同性子女同士を同性婚させて遺産相続によって節税しつつ資産還流するという節税手法のことだ。
この手法は既存のいとこ婚でも指摘されてきたことだが、これが同性婚導入によってより広い範囲を対象とすることが可能となるのは明白で、資本の一極集中化がより進んでしまうのではないか?という懸念が一部ではなされている。
つまり既存のいとこ婚では難しかった制度上の制限が開放され、より容易に特定の一族だけに資産を還流できてしまうので資産家一族は資産家一族のままに庶民一族は庶民のままにと固定化が発生してしまう弊害があるんだ。
「そんな悪用するのは一部だけ」と言いたくなるのは心から理解できるが「一部へ資本が集中すること自体が問題視されている悪用法」なのでその一部を無視しにくいのが現状。
同性婚の容認を超えた同性婚を推進する人たちはこの辺りの弊害への懸念を尋ねられると口をつぐんでしまうことが多く、可能であれば増田のように一般以上の同性愛知識を持つ人に可能であればコメントをお願いしたいと考えています。
そして同時に有識者でなくとも資産家の資産還流問題へ「こうすると良いんじゃないか?」というアイディアが湧いた方が居るならば是非ともコメントして頂ければ、より一層の議論の発展が望めるので多少の誤りなど無視して気軽にコメントして下さい。
ゴールじゃなくて、特定の人と50年とか一緒に生活していくために
既婚者という身分と、世帯という概念やそれに付帯する制度を使って生きていきたいからね
まず手っ取り早く結婚するほど本気という証明にもなるし(同性愛って今だに「いっときの気のせい」って思われるんだよね)
結婚って税や補助金など色々と社会的なメリットがあるから、それを異性愛者は享受できて同性愛者は享受できないのは差別だ、ってことでしょ。で、その差別を一番無くせるのが同じ制度を利用すること。もちろん別の制度で税や補助金を与えてもいいのだけど、平等に扱うなら同じ制度の方が確実。
まあ、なんで結婚しただけで税や補助金などのメリットがあるかといったら、それで子供を生んで育てることが本人たちを越えて社会にメリットをもたらすという正の外部経済性があるからというのが大きいのだけど、となると異性愛者と同性愛者が同じメリットに浴すべきかを本来は考える必要がある。もはやそういう議論をすること自体がタブーだろうけどね。
いや、保守とかどうとかどうでもよく、いま現在同性愛パートナーにとって不都合な場面が多いんだよな?
当事者的な目線で語れる同性愛者の議員も殆どいないんだから現状の状態で一から作り直すのは時間がかかりすぎる
だったらとりあえず今の仕組みを使えばいいだろ?
異性愛者の場合、異性の恋人ができたら他の異性と2人で遊んじゃいけないような雰囲気がある。
同性とであれば2人で会うのも許されるのだけど、これが同性愛者だったらどうなるのだろうと常々思っている。
もし異性とも同性とも会うことを制限されるのならどれだけ孤独になるのだろう。
そもそも異性愛者の場合からして3人以上の予定と趣味や話題等々を合わせる困難さを鑑みると性別問わず2人で会うこともしたいので交際に向いていない。
共通の知人以外と会うハードルも上がるし1人で映画観に行くのもだめらしいし(アリバイ証明できないから?)。めんどくさいなあ。
LGBコミュニティでは、昔っからそういう形で同性婚を批判する議論はあります。ぶっちゃけ50年以上前からあったし、今も同じ事を言ってる人たちはいます。
まずゲイ男性の同性婚批判について。ハッテン場とかをイメージしてもらうとわかるけど、ゲイ男性界隈というのはだいたい性的な交流・交渉に対してオープンで(享楽的ともいう)、短期間に多くのパートナーを持ったり、ワンナイトだけと割り切ってたりと、特定の相手との排他的な関係(モノガミーシップ)に拘束されたがらない人達が多かった(今でも多い)です。アクティヴィストも、基本的にはこういう行動パターンを自分たちが創り上げた独自のライフスタイル(ゲイ・ライフ)、異性愛主義から解き放たれたゲイ男性独自の文化的資産とみなし、肯定的に捉えてました。
もちろんそれは、同性との持続的関係を公にしつつ生きることが難しい時代背景ゆえの事情でもあったし、一方で60年代のヒッピー文化でもフラワーパワーとかと並んで性の解放が訴えられてたという事情もあったんですけど、まあ時代の空気だったんですね。で、そういうライフスタイルが主流だったゲイ男性の多くにとっては、「同性婚」というのはあんまりピンと来ないテーマだったんですよ。俺たちがヘテロの真似してどうすんの、という。米国でも欧州でも日本でもこういう言説は根強くありましたし、当事者自身がそう書いている書き物も多く残っています。
もう一方のレズビアン界隈での同性婚批判について。こっちはこっちで、結婚制度を「男女の性役割分業を究極的に固定化する差別的な制度」という風に見る人たちが多かったんです。今よりもレズビアン・フェミニスト的な立場の人達の影響も強かったし。家父長制と結婚制度こそが世の女性たちを抑圧しているシステムなんだから、それを自分たちが模倣するなんて…という抵抗感もありました。
そもそも当時は、「同性同士が結婚する」というアイディア自体、多くの当事者にとっても突飛な、想像を超える、およそ現実的でない絵空事だったんですよね。大半のゲイやレズビアンは、そんなことが本当に実現するとは思ってもいなかったから、それを目指して社会運動したりもしなかった。そもそも「昼間の世界」でカムアウトすること自体が自殺行為みたいな時代です。同性愛という性的指向を詳らかにして堂々と同性パートナーと暮らすことすら難しかったわけですから、さらにそこに法律婚の仕組みを適用するだなんて発想を持つ人はほとんどいなかったんですね。もちろん「同性のこの人と結婚できたらいいなあ」と夢想する人達は当時もいましたけど、それは多くの場合、ロマンティックなファンタジーとして語られていた。結婚制度を同性間に拡張することで、異性カップルに認められているさまざまな社会的権利を自分たちも獲得しよう、という発想はまだ乏しかったんです。
こういう流れを一変させたのが、80年代のAIDSパニックです。若い人は知らないと思いますけど、日本でも当時はプライバシー侵害なんかガン無視した、壮絶なパニック報道がありました(参考: https://www.janpplus.jp/topic/433 )。今でこそHIVとAIDSは、発症の抑制も症状の緩和も可能な、生活態度次第では余命を全うできる病気になりましたが、発見当初は本当に不治の病だったんです。震源地のひとつとなった米国のゲイ界隈はもう本当に凄惨な状況で、各都市のコミュニティ自体が壊滅し消え去ってしまうほどのパンデミックになりました。バスハウス(ハッテン場)で活動的だった人達を中心にゲイシーン全体に感染が広がり、次々に病み、衰え、死んでいったんです。その中にはもちろん、互いに大切に思っているパートナーと長期的関係を築いていたカップルもいました。その経緯を通して、パートナーの病と死に伴う課題、つまり「パートナーの医療・看取り・相続などについて、同性愛者は全く権利がなく、法的にとても脆弱な立場にある」ということがコミュニティに深く認識されることになりました。
結婚というのは、恋・愛から始まる親密な関係に確固とした法的枠組を与えてくれるものであると同時に、人が生きていればいずれ来る病・苦・死のリスクに対して、信頼できるパートナーと共に備え、支え合うことを可能にしてくれる枠組でもあります。AIDSという歴史的な苦難は、そのことへの経験と想像をゲイ/レズビアンコミュニティ全体に与える決定的な機会になりました。「ゲイの老後」という、それまであまり語られなかったトピックが海外でも日本でも注目され始めたのこがこの頃です。多くのゲイ男性が「自由で享楽的なゲイ・ライフ」という夢の先にある、生活者としての現実をシリアスに捉えるようになった…といってもいいかもしれません。これを保守化と取るか、成熟と取るかは人によって違うでしょうが、自分は後者だと思います。
AIDSパニック以後、ゲイ/レズビアン・アクティヴィズムが一気に同性婚推進路線に舵を切ったわけではありませんが、パートナーシップに対する法的保護のニーズを求める声はじわじわと広がっていきました。そして、米国各州で一部当事者と法曹支援者が同性婚訴訟を起こして、そのうちいくつかで良い結果が出続けたことで、同性婚に対して微妙な葛藤を持っていたアクティヴィズム界隈でも「これは行けるかもしれない」という手応えがでてきて、徐々に同性婚をめぐる権利運動が主流化していきました。このあたりの経緯は、ぜひジョージ・チョーンシーの『同性婚 ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史』をお読みください。
というわけで、実は元増田の意見は割と真っ当というか、問題の芯をとらえてます。というのは、元増田が書いてることは、かつてのレズビアン/ゲイコミュニティでの典型的な同性婚批判のロジックとしっかり符合してるからです。
これは上でも書いた「異性愛前提の制度を模倣・従属すべきでない」という声。
それよりも新しく同性パートナーと生きていくのに必要なことを自分たちで決めてそれを法律に落とし込んでいく方がいい
それが多様性だろ
これは「既存の結婚制度に縛られない、よりフラットな意味合いの法律関係(シビルユニオンやPACSやパートナーシップ制度など)」を求める声。これについては、保護される権利が同等でない「まがいもの」で満足すべきではない、という批判もあったりして、結局それぞれにニーズのある人達がそれぞれの路線で運動して、結果的に両方が実現していくという流れがあります。
「恋愛のゴールとしての結婚」も、やはり異性愛主義やロマンティック・ラブ・イデオロギーの模倣とみなす批判はあります。一方で、先のチョーンシーはゲイの歴史学者で「自分は同性婚が法律化されても利用しないと思う」という立場ですが、それでも同性婚をめぐる運動が当事者を強くエンパワーしていることははっきり認めています。やっぱり法律婚って、そのパートナー関係に対する社会的承認の象徴なんですよね。その関係を行政が公的に認め、社会も追認する。そういう承認を得ることが当事者にとってどれほど心強く、報われる、喜ばしいことなのかは、想像していただければわかるのではないかと思います。
元増田のような問いを受け止めつつ、それでも諸々の紆余曲折を経て、同性婚の実現による法的権利と社会的承認の獲得に向かって前進してきたのが、今のレズビアン/ゲイコミュニティだと思います。
欧米が同性婚を重視するのは、「カップル文化」というものがあるから。
パーティに出たり食事をしたりするときに一人で出席すると、「何この人・・・」みたいな奇異の目で見られる同調圧力がある。
それに対して日本ではカップル文化がなく、ぼっち飯でも特に気にされない。
だから日本の同性愛者の場合、同性との恋愛などはプライベートの話だから権利獲得の活動にあまり興味がないという人は一定数いる。
かつてのアメリカ副大統領が自分に課している、いわゆるペンス・ルール。
これが日本でもそれなりに支持を集めていて、はてなブックマークでも話題になっていた。
当時、私は考えていた。男性としての正しい振る舞いを。
エレベーターを利用していて、一時的に男女が二人きりになる状況がある。
差別の教科書は通常の状況では統計的な差異に捉われず、コミュニケーションを取ることで相手の安全性・危険性を確認せよ、と説く。しかしエレベーターに乗り合わせた、ごく短時間の突発的な状況でそれは空虚な理想論として響く。現実的に不可能だ。
そんな状況が生じたとき、男性は女性にエレベーターを譲ってただちに降りる。
あるいは、女性の方が先行して譲ったりするのもよい。とにかく二人きりになるのを避ける。
決して男性がコントロールパネルの前に立ってエレベーターの主導権を握ってはならない。
コントロールパネルの前に立っている女性の背後に立つのも良くない。女性から動きが見える位置に移動するべきだ。
この新しいモラルを提示しようと思いついた当初は、半ば冗談のつもりで書く気だった。
行き過ぎた品行方正を参考にできるくらいの善人は、早々いないだろうとタカを括っていた。
だから、数年後に実際にこの紳士的態度を取っている男性が現れ、女性たちもその態度を求めている、そんな話がバズってると知ったとき、椅子から飛び上がるくらい驚いたんだ。
さらに月日が経って、当時気にしていなかった疑問が浮かび上がってきた。
レズビアンやホモセクシャルがいるのに、女性同士・男性同士で同衾状態を避けようとしないのはなんでだろう。確率的に低いとはいえ、密室で女性が女性に襲いかかったり、それを怖れたりする可能性はあるじゃないか。レイプののち妊娠が発生しない事は安心の材料になるんだろうか。この思索は温泉で男児が女湯に入ってくるのを女性が怖れる話に繋がる。どうして暴力のあり得ない、生殖どころか性欲さえ芽生えていない男児を、大人の女性が恐怖するのか。ひょっとすると疑問の答えは、Vtuber 女性が男性とコラボするのを忌み嫌うファンが、女性同士のコラボは許してしまう理由にもつながっているかも知れない。恐怖や嫉妬で考慮の外に置き去りにされる同性愛。
「婚活」という言葉が使われ始めてからもう二十年近く経ってると思うんだけど
婚活なんてするのは男女ともに売れ残りだの「普通の人」は婚活なんてしないだの何だの…
でも実際、学生時代以外だと「自然な出会い」でパートナーを見付けるのって難しくない?
「社会人」になると職場は同性ばかりだったり既婚者ばかりだったりして職場恋愛なんて到底望めない事も多いし
趣味の場での出会いや友人からの紹介なんてのが必ずしも機能するとは限らない
仮に学生時代に恋人がいても結婚まで行かずに別れる事だってある訳だし
婚活しないと恋人や結婚相手が見付けられないってのがそこまで異常な事だとは到底思えないんだけど…
性格も容姿も収入も問題なくとも日常生活で出会いがない人なんて、男女問わずいるでしょう普通に。なんでそこまで異常扱い?
一方これが同性愛者だと何故かそうでもなくて、マッチングアプリを始めハッテン場だのレズビアンバーだのと
交際相手との出会いそのものを目的とした場所での出会いは当たり前になっていて