はてなキーワード: 殲滅とは
で、悪くなかった。
確かにアラは目に付きまくるが、まあ本来2時間で終わるさらば宇宙戦艦ヤマトを、2クールで作れと言われたらあれ以上にやるのは難しいだろうな、という感はあった。
自分は「2」は見てないのでそっちとの比較はしないが、個人的には2199よりも満足感が高かった。
というか、自分は2199の随所に不満があり、そっちで期待値を爆下げしてたので、2202が意外と悪くなく感じたのだろう。
2199の何に不満を持ったかと言えば、真っ先に思い浮かぶのが「波動砲封印」。これである。
なんかイスカンダル姉妹が二人とも波動砲嫌いで、何でも昔イスカンダルが波動砲で宇宙に覇を唱えた事を悔いているからとか。
しらねえよアホ。それをやったのはイスカンダルであって地球じゃねえ。
なんでお前らの反省で地球が縛りプレイしなきゃなんねーんだよ。
波動砲封印したせいで外敵に敗れて地球が滅びたらお前責任取れんのか?
沖田艦長は何か使わない約束しちゃったけど、あれほとんど戦争終わってたからOKしただけだろ。バラン星より前にそれ言われてたらOKしたかよ。沈むぞヤマト。
まあそんなこんなで波動砲封印しちゃって、その悪影響が2202まで引きずってたわけだが、
ご存じのとおり、2202の後半なんて数百発の波動砲が飛び交う波動砲天国である。(というか、波動砲くらいしか相手に有効な攻撃が無い)
2202の冒頭では、「波動砲を使いたくない古代と、波動砲を使いたい地球連邦軍」という対比になっていたが、
「波動砲がなきゃ敵に勝てないと骨身にしみてる古代と、かすっただけでも比喩抜きで地球が木端微塵になりかねない波動砲を封印したい地球連邦」という図式の方が自然だ。
波動砲撃ちまくりになったら困るのは地球なのだ。この辺、旧作のさらばでも何も考えずに波動砲艦隊作った辺り、幾ら核兵器の比喩とはいえ扱いが雑だなあという感が強い。
まあ、それはともかく、通常兵器では殺していいけど波動砲では殺しちゃダメ、というイスカンダル姉妹の独特の価値観は、普通の空襲で死んだ人は特集しないくせに広島長崎で死んだ人は毎年特集して語り継いでる日本へのオマージュかと思われるがとにかくアホらしい。
人道を掲げるならいっそのこと「兵器は何一つ使うな」くらい言えば良いものを、そこまで言えない辺りに底の浅さがにじみ出ている。
だいたい、あの姉妹はイスカンダルの座標すら地球に教えてくれず、試練とかふざけたことを言ってて、本当に地球を救う気があるのかも怪しいのだが、
この辺の高貴なるイスカンダルの高貴なるお遊戯は旧作には出てこないわけなので、2199で追加された新設定であると思うと腹立たしさも倍率ドンである。
まあ、リメイク作品の作り手の常として、「旧作を極力リスペクトしつつ、旧作の矛盾点は解消したい」という欲があった事は想像に難くないので、「なんでイスカンダルとガミラスが二重星だと最初に言っといてくれんのや」という旧作の不満点を解消しようとしてそうなったのだろうが、
そんなちまい矛盾を解消するためにスターシャを人類に試練を課す女みたいな妙な位置づけにして世界観をぶっ壊してしまうのは本末転倒ではないのか。
旧作のひおあきら版なんて、スターシャ様はイスカンダルを爆破してガミラスを巻き添えにする烈女ぶりを見せており、そこまで献身的に助けてもらっちゃうと、さらばで地球連邦の増長ぶりに腹を据えかねた古代の怒りも理解できるのである。
イスカンダルは自分を犠牲にしてまで地球を救ってくれたのに、テレサのメッセージを他人事としてブッチするとか、地球はそこまで恩知らずかという古代の怒り、失望、そういったものも理解できるわけで、それがさらばのラストで「今度こそ地球は目覚めるだろう」という、地球文明自体の成長と、そのためのヤマトの犠牲という図式に収まるわけなのだが、
リメイク版では2199のイスカンダル女がイスカンダル価値観を押し付けてくる傲慢さを見せつけているせいで、その辺の図式がパァである。
というか、イスカンダルもガミラスも本来異星人であり、地球と理解し合える部分なんて「点と点」でしかないのが当たり前なのだが、2199では何を血迷ったのかガミラスと地球の戦いを、ガミラスが恒久平和を目指してるとか、地球側から先制攻撃したとか、お前、「戦争はどっちにも正義がある」的なDD論を持ち込もうとしてるやろというSFも糞もない地球的価値観を設定をぶち込んできたのだ。
このガミラスの地球人化は話が進むにつれてどんどん進行し、なんかドメルが良い家庭人的な扱いになってたりとか、かわいい少女宇宙人がでてきたりとか、もう目も当てられないほど地球的なガミラス像が展開されている。
旧作も最終的にそういう方向に行ってしまうのだが、少なくともデスラーが「愛」とか馬鹿な事を言い出すのは新たなる旅立ち以降の話であって、話が通じないから大砲で会話するという異文化コミュニケーションの基本は旧作の方が押さえていたと言えるだろう。
あと古代守の特攻シーンもなあ。旧作の、負け続けて逃げ続けて、負け疲れた人がとうとうブチ切れて「死んでやる」と言い出したような救い難さがなりを潜めて、皆で笑顔で軍歌を合唱しながら特攻である。戦争やった事ない人の軍人ロマンやな、という感が強い。(私も戦争やった事なんてないけど)旧作の方が「負けっぱなしの軍人が死に場所を求めた」感があって、良い感じにやるせなかったのだ。この辺は「バカめ」も同じで、あれは本来、指示を受けた通信手の方でも真意が理解できないタイプの、どんだけ負けまくっても諦めない男・沖田十三がどんな人間かを示すセリフのはずなのだが、2199では部下の方も心得顔で得意満面の返答である。スタッフにバカめと言ってやれ。
あとはもう、戦争やってんだか青春やってんだか分からんお前ら本当に軍人かと言いたくなるようなヤマト学園ぶり(これは2202にも引き継がれている)とか、まあ色々あって2199には大変失望させられた。
テレサの位置づけが微妙過ぎて、なんなのあの人って感が強かったのとか、なんか「一日稼げば一日分の艦隊作って持ちこたえられる」みたいな事言ってた割に、最後バルゼー艦隊が何の抵抗も受けずに地球上空を押さえちゃったの何でなのとか(なんか私が見落としたんだろうか・・・)、トランジット波動砲とかいうの、他の地球艦にも装備して2,3発撃ち込めば終わってたんじゃないのとか、斎藤の名セリフとか無理やりねじ込んでキーマンとか華々しく死なせた割に、あの特攻なんも意味ねーじゃんというかもう、そこで死なせるなら加藤と同じ場所でも良かったじゃんとか、加藤も加藤で、お前そんな選択はいくら何でも無いやろとか、お前そんな死亡フラグ立てまくる事ないやろとか、まあ、色々言いたいことはあるのだが、
旧作の海原雄山みたいな傲慢な爺さんであったズォーダーや、キャラ立ってたくせに退場シーンすら存在しないサーベラー(関係ないけど、アメリカだと古代×サーベラーのカップリングが割と鉄板だとか20年ばかし前に聞いた覚えがある)なんかに大胆な設定を付与して、旧作とは全然別物ながら「異質な異星人」として存在感出しまくってたのが大変良かった。この辺、地球人化が著しいガミラス人とは対照的である。
旧作で存在した「アンドロメダを征服した帝国が首都星一個破壊されたくらいで終わるわけないやろ」という矛盾点(これはガミラスもそうだけど)を、ゴレムとかいうシステムで解消した事とか、旧作の地球連邦艦隊のあまりにアレな負けっぷりが解消されてたのも良い。
時間断層とかいう取って付けたような設定も、当初は「一年でそんなに復興するわけないだろ」という旧作の矛盾点を解消するためだけのギミックかと思ったら、終盤ではそれをフル活用して「勝てないけど負けない」という異形の戦術を編み出す所までSFしてくれたのは意表を突かれて大満足だった。独自の設定を前提として、現実ではありえない合理性を編み出してこそSFである。小賢しいワームホールとか波動なんちゃら理論なんか幾らそれっぽいのを出そうが、そんなものはSFではない。別の合理性を構築してこそSFなのだ。
2202については、双方の戦法がデタラメである事を批判する声もあるようだが、もともと「知らない文明同士の戦争」でまともな戦法なんてあるわきゃ無いのである。とりあえず隠し玉を用意しつつ、ちまちま突っついて相手の手の内を探る以外の何ができる。相手がどんな兵器持ってるか分からないのに、陣形とか笑止である。密集陣形が良いのか、散兵戦術が良いのか、機動戦術が良いのか、野戦築城が良いのかなんて、相手がどういう兵器を持っててどんくらいの数がいるのか分からなければ、判断できるわけもないのだ。
ガミラス戦争でガミラス側が陣形を多用できたのは、ガミラスが地球側の戦力を読み切っていたからと、相手がヤマト1艦だけだったからであろう。
そもそも、地球もガトランティスもワープ持ってるのだから、先に手の内を晒した方が著しく不利なのだ。どこでもドア持ってるやつ同士の戦いで陣形が何の意味があるというのか。
有効な戦法があるとすれば、「あとどれだけ増援が来るか分からない」という状態を維持することで、相手方に全力を出させない事くらいだろう。全力攻撃で目の前の相手を殲滅しても、その隙をついた後だしジャンケン攻撃で我が方が殲滅を食らっては意味がないからだ。要するに戦力の逐次投入が最適解だ。
という事で、ガトランティスの戦法のなさっぷりは別に不満は無い。
山南も良いキャラしてて、特に前半の「イスカンダルに行った連中は浮世離れしてて・・・」みたいな発言は良かった。確かに、あの世界では銀河系の外まで行った地球人はヤマトの諸君だけであり、ほとんどの地球人は太陽系の外どころか、生まれた星の外に出た経験がある人すらどれだけいるか怪しいレベルなのだ。
そのせいで、ヤマトの諸君の感覚と、一般的な地球人の感覚にはかなりのズレがあると考えるべきで、上記の発言はその辺の地球人側の感覚を端的に表している。
だから今はその建前で話して、将来どうするかを議論しなければならない。
東浩紀がスタンスを明確にしなかったのも、これを理解していたからこそ
事件直後で今よりも情報があいまいで大勢の見るテレビ番組のホスト側の立場としてはなにひとつ公的な
個人的には、暴対法に匹敵するような、かなり強力な法整備が必要だと思ってる。
ただ、野党支持者の人にも考えてほしいんだけど、なんらかの規制をしたとしても
今の膨大な信者をどうするか、受け入れ先を用意する必要は絶対にある。
今の自民党のように(乗っ取られない程度の)適度な距離感で付き合うのはあまり良くないひとつの妥協案だ。
それがNGとなるとどうする?施設に収容する?徹底的に殲滅して改宗を迫る?投票権を取り上げる?
そんなことが今の日本でできると思う?
カルトを切れという人たちは、切られたカルトの行き先ってちゃんと考えてるんかな。
統一教会だけ?創価も行っちゃう?霊波乃光は?天理は?PLは?民青も正体を隠して洗脳するから同罪?
オウムは殺人をしていたから線を引けたけど、洗脳して寄付させるのを犯罪認定するよう法改正するのは結構重たい作業だよ?
あと、山上容疑者の母親もそうだけど、全財産むしり取られるようなのは資産家信者であり、
庶民の信者にとっては優しくて本当に心の支えになる顔を持ってたりもするんだ。
そういうのを全部政治から追い出すとするじゃん?人数的にはとんでもない信者の数がいる。有権者と言い換えてもいい。
そいつらはまたこっそりと手を組んでくれる政党と繋がるんだ。意図的じゃなくても自分たちに有利な方針の政党は自然に推される。
だったら、意思決定に関わらない程度に緩く繋ぎ止めておく方がまだマシってのがこれまでの政治だった。
でも、今強い主張でカルトと完全に手を切れというのなら、その先は殲滅戦しかないという覚悟は持ってほしい。
政治と宗教を分けるなんて簡単ではない。統一教会と◯◯教と◯◯教は反社会的組織であると公式に認定して
俺はそれでもいいと思ってるけどな。
「ワレラ」と「ヤツラ」を分けて認識し、ワレラ(家族/親類縁者/同じ民族)の中では原則助け合う。ヤツラ(他人/異民族)とは原則助け合わないし、なんなら戦って殲滅する。そうして生き残って進化してきたのが、現生人類なのだ。
何らかの違いをもとに「差別」する心は、本能として深く刻まれていて、基本的に取り除くことはできないのだ。
しかしながら、差別する心を大っぴらに表明して差別的行動をとるのは、はしたない、恥ずべきこと、悪いこととされる。それは食欲性欲排泄欲睡眠欲など本能とされるものを衆人環視の中で隠さずモロダシにして行動するのと同じなのだ。
あまりよくある話でないのは、そこは小人たちの世界でその小人たちはずっと戦争をしていた。
アイツラをぶっ殺せ!って願いとともに。
俺がそこで奴らの願いを聞いて奴らの敵を殲滅すればお役御免となるのだろうが俺はそうはしなかった。
この世界はかなり広くて奴らの敵を倒しても次の敵、次の敵とキリがなさそうなのがわかったからだ。
それなのに奴らの願いをやすやすと聞いて言う通りにしていたら俺は神ではなくあっという間に奴らに使役される動物へと転落していくのは目に見えていたからだ。
だから俺は最初にひと暴れして力を示した後には働かなくなった。
そして奴らが作った神殿に引き篭もって供物(食事)だけ持ってこさせるようになった。
俺が朝飯を食って昼飯が欲しくなるあいだに奴らの時間では1年ほどの時間が経っているようだ。
だから、まあ奴らの労力としては一年掛けて集めた大量の食料を俺に捧げて労力(敵を殲滅すること)を要求するというサイクルになった。
一食ごとに人(小人でも人だ)を殺していては身体的にはともかく心体的に持たないので7日に一回程度働くことにした。
つまり21食に一度体を動かすということだ。
こうしてとりあえず食住を確保した後に問題になったのは性欲だった。
人間何もやることがないと(神様サイズの娯楽なんてないからさ)シコることしか楽しみがなくなる。
どう考えても小人とセックスするのは無理なのだがそれでもオカズにはなるな、と小人同士の美男美女を連れてこさせてセックスをさせるようになった。それを見ながら俺はシコるわけだ。
まあそんな退屈しのぎをしているとどうやら奴ら同士でもその日はなんだか淫らな行為をしてもいい日になったみたいで、つまりは祭日になったというわけだ。