はてなキーワード: 不可能とは
ゾーニングはしたくない
、
、
、
法規制には反対派だったけど、
ここまで話通じないなら一度法律で規制されてしまえば?と思うようになってしまった
過激なエロ表現が違法になりそうな時、おそらくもう自分は反対の声を上げない
今の戦士達が精力的に活動して進む先に待っているものはそれだということを肝に銘じてほしい
「ダメだこいつら」の先にあるのは
常に「ルールで一掃」なんですよ
わかってるか?
牛丼屋が客単価300円という前提が間違ってると思った
牛丼屋経営層が想定している客単価は実際にはもっと高い事はメニューを見ればわかる
牛丼屋の客は学生とか金ないのも想定しているが、一方で昼食時のサラリーマンや一人暮らしの社会人男もターゲットなはず
今時非チェーン店の方がチェーン店より上等というのも、全然業界の情報知らない人が妄想で喋ってそう
中央に優秀な商品企画チームを置いてメニューを設計して、スケールメリットを活かして非チェーンでは不可能な高品質材料を調達、
現象としてそういうことがありうることに異存はない。
まあ結局、言葉の定義の話だよな。個人的には、それは環境に対する解釈の不安定性の問題であって、「概念として区別不可能」と言うのは違和感がある。「ある人」にとっても「ほかの人」にとっても「黒」と「白」の違いがそれぞれの中にある(区別されてる)やん、っていう。(複雑なのは、実際には「黒でもあり白でもある」ものや、「黒でもなく白でもない」ものが存在するところだと思うけど。)
今まで出会ってきた女友達の中には破滅的な恋愛ばかり繰り返す人が何人かいる。
大抵は天真爛漫で、はきはきと話すことができ、好きなものがあって目標に向かって行動できる魅力的な子である。綺麗な顔立ちであることが多いが、どんな人にも差別することなく対等で「一軍」に属していることは少ない。服装は無難なユニクロ系でモテ系ファッションやスカートは好まない。Twitter等でよく見る「メンヘラ」のテンプレートとはかなり異なっている。
しかし、恋愛や好みの異性が絡んでくると自分軸を失いたちまちメンヘラ化してしまう。サークルクラッシャータイプは、浮気と略奪を繰り返し、属しているコミュニティを破壊する。ある程度自分の属するコミュニティを聖域として捉えるタイプは、行きずりの男と寝まくる。普通の男ではなく、2回り以上年上のオヤジ、素性の知れない外国人、明らかなDV男など通常は考えられないような男と。男と寝ることへの抵抗が小さく、困窮しているわけでもないのに風俗嬢やAV女優として働いている人もいる。
また、本人たちもそれが異常であることを理解した上で自罰的な恋愛に走る傾向がある。誠実で優しい彼氏と付き合うと可愛い性格ゆえによく愛されしばらくは精神的に安定するが、最終的には誠実でも優しくもない男への浮気に走ってしまうのである。どの場合も止めても絶対に聞いてくれることはない。セ●クスが好きで楽しいからやっちゃうだけだと言いながら、結局傷ついてよく泣いている。人間関係で自罰的行動をとるから理解しづらいが、リストカットをしている人と行動原理は同じなのかもしれない。
偶然ではないと思うのだが、彼女たちは小さいころから父親がおらず母親も男性依存気味な家庭環境で育っていることが多い。何かしらの強い不満があるときに、人間は普通その不満を直接取り除くように働きかける。しかし、自分自身にはどうしようも解決できない不満があるとき、人間は「否認」という防衛機制をとることがあるらしい。家庭環境は子供にとって解決不可能な不満の典型例で、そういうったときに子供がとる反応はいくつかあるが、一例として不安や罪悪感を生じさせた行為をやり直したり、反対の行為をとって無効にしようとすることがある。これが、恋愛体質に陥るメカニズムの一つだと思う。だから、本当に必要なのは良い男でも理解のある友達でもなく、「人間関係の不満 (生い立ち) を、同じ人間関係 (特に男女関係) で自罰的行動をとることで和らげる」以外の生き方を教えることかもしれない。恋愛の方向性で真っ当に解決しようするとか、親身になって話してあげるとかそういうレベルの話では解決することはできず、医療の力が必要になるかもしれない。
何が彼女たちにとっての救いでどうすれば自傷行為のようなセ●クスを止めてあげられるのかずっと考えていた。彼女たちはたぶんとても寂しがりやだ。でもその寂しさは私たち女性がいくら親身になっても埋められるものではないのだと思うと、どうしたらいいのかわからずとても悲しい。相手に言われるがまま避妊もしないことがあり、シングルマザーになって歴史を繰り返す可能性も高いと思っている。魅力的な女性であり、いくらでも幸せになれるチャンスがあるからこそもったいないとも思う。ただしあくまで他人の恋愛沙汰なので首をつっこんでいいのかもよくわからず悩み中である。
いやそれを言うなら「形式的な区別こそ、(本来であれば)すべきでない(場面がある)」というのが元増田の趣旨であることをまず前提にして考えてもらいたい。
「グレーゾーンが存在する」ことを「区別不可能」と表現することには確かにそれほど違和感はないけど、それは「白も黒も同じ色」という意味ではないと思う。
昨年はトランプ不正選挙騒動、今年は反ワクチンやイベルメクチンなど、陰謀論の勢いはとどまるところを知らない。
自分はTwitterで陰謀論者とレスバするという悪趣味な人間だ。陰謀論者たちと話していてわかったことをまとめたい。
陰謀論者たちは隠された真実を白日の下に晒そうと日々奮闘しているように見える。しかし、彼らの主張は数分使ってデータを調べれば完全に事実無根であることが明らかなことが多い。どう見ても陰謀論者の主張と矛盾する、信頼性の高そうなデータを見せると彼らはどう反応するのか?
彼らは必ずと言っていいほど、違うトピックの陰謀論を持ち出して「ではこれはどうなんだ?」と言ってくる。
例えば、「新型コロナウイルスは存在しない」という主張に対して「ウイルスはとっくに分離されている」という情報を提示すると、「ではワクチンが大量の死者を出しているのはどう説明するのか?」といった具合だ。
たいていの陰謀論者は「陰謀論ストック」を大量に蓄えており、1つ反駁されれば別のデマを持ち出し、弾が尽きるまで撃ち続けようとする(実際は早くにブロックされることも多いが)。
真実に目覚めていると言いつつ、反論できないと判断するとその主張は一瞬で忘れ、別のデマで戦おうとする。彼らは「何が正しいか」には驚くほど無頓着なのである。
陰謀論は社会の敵だと思うが、社会から白い目で見られる陰謀論「者」のことは正直気の毒に感じてしまう。たいていの陰謀論は少数のインフルエンサー的存在が発端であり、まんまと騙されインフルエンサーの養分になっている陰謀論者たちは「被害者」でもある。
そんな彼らは、自らの主張を「デマ」と唾棄する人間に対し攻撃的になっていることが多い。社会ののけ者扱いされ、信仰ともいうべき自分の意見を嘘扱いされれば、そうなるのも無理はないだろう。
そんな彼らに、時々優しくしてみることがある。暴言を吐かれても、「ゆっくり休んでくださいね」と返してみるのだ。
そうすると、彼らはペースが狂う。それまでマシンガンのように陰謀を撒き散らしていたのに、突然黙り込んだり、困惑しつつもそれまで不可能だった人間らしいコミュニケーションが取れたりする。得体の知れないブログサイトのリンクを貼り「それならこれはどうなのだ」と延々とデマをぶつけ続ける「陰謀論エンジン」がバグるのである。
ここからは自分の勝手な推論である。人々が陰謀論にハマるきっかけとして、日常生活がうまくいかないという事情が大きいのではないか(無論、そうではないパターンもあるだろうが)。
家族・友人関係がギクシャクしている、仕事がうまくいかない、就職先が見つからないなど、現代社会で生きていれば不安なことはいろいろあるだろう。そんな心の隙間を埋め、なにか特定のコミュニティへの参加を可能にするツールとして陰謀論は広まっているのではないか。かつて話題になった「父親が定年退職し暇を持て余した結果ネトウヨになってた」みたいな話も似た構造だろう。
人生がうまくいかないときに感じる「自分は多くの人が知らないことを知っている」という優越感はさぞかし中毒的だろう。エビデンスに基づいて反論したところで、精神の安寧を求めて陰謀論を信奉している人には無力だと思うのだ。
陰謀論者の主張のほとんどは事実に反している。しかも、難解な科学上の問題ではなく、説明されれば素人でも誤りが理解できるレベルである。
しかし、大前提を見るべきだ。多くの人々は科学的に正しいとされる知識を信じる。しかし陰謀論者は究極的には科学的な正しさを求めていない。
科学的裏付けがあるかのように話しつつ、実際のところは「科学的に正しいと証明したい」ではなく「自分を認めてほしい」「自分は正しい側にいたい」という動機があったりする。
話をする上での前提が違うので、「あなたの言っていることは事実に反していますよ」という論法で責め立てても、どっぷり陰謀論に浸かった人々には全く効かないのである。むしろ、攻撃性を増すだけだったりする。
どうすればよいか。正直解決策は思いつかない。もちろんエビデンスベースの正しさは重要である。新型コロナのデマは健康の問題に関わる。アメリカ大統領選のデマは民主主義という国の根幹に対する信頼性を貶めてしまう。最近流行ったデマは実害を伴うのである。
しかし、正しい情報を提示しつつも、精神的なケアの重要性はもっと強調されるべきだ。乱暴な予想だが、仕事がうまくいき高収入で、家族や友人関係にも恵まれ、心身ともに充実した人生を送っている人が陰謀論者になることはかなり稀ではないか。
アメリカのインターンシップを日本に導入しようという流れがある。だが、アメリカにおいてもインターンシップは酷い状態にあって、とてもじゃないが日本に持ち込むのが危険だとおもわれる。これから、つらつらとインターンシップを禁止すべき根拠を書いていこうと思う。
一番の問題点は、インターンシップは無給の労働を肯定するシステムであることだ。そして、インターンシップの内容は履歴書にかけない。ほとんどが NDA を結ぶから、したことを口外できない。これの何が不味いかというと、たとえばボランティアは無給かもしれないが、履歴書に書ける。アルバイトは履歴書に書けないが、給料が貰える。そう考えると、就活に結びつかなかったインターンシップは何も残らない。つまりは、学生にとってはメリットが全然ないが、資本家にとってはタダ働きの道具だ。
アメリカではインターンシップに参加できる学生と、そうじゃない学生の差は、家庭力と言われている。まあ、日本も民間企業はそうかもしれない。だが、国家公務員のような領域でもインターンシップが馴染み、東京の私立大学が人海戦術でコネが有利になった暁には、地方の学生はもはや東京に出て旗を揚げるというのが不可能になってしまう。それは、生まれた場所で未来が決まる恐ろしい国が出来上がるのじゃないか?
弱者です宣言が自由にできるのは、むしろリベラリズムの成果だ。
良かったじゃないか。