はてなキーワード: マイノリティとは
「マイノリティの意見に耳を傾けよう」「事実だろうが場合によっては中傷になるよ」ってな時代に
「気に入らない事を表明しよう、たくさんの人間がそれをすれば役の立つ」なんて意見を恥ずかしげもなく言い出すのはネットの行儀の悪い一部の人間くらいなもんなんだよ…
あとどう考えてもブコメとタグは一緒じゃねよ、フリーフォーマットの文章だと整理分類しにくいからタグになっていったんだろ、実際pixivなんかでは実用面において感想みてえなタグは検索の邪魔になるからと嫌われてる、とはいえSNS的な側面があるから許容もされてるし、マイナスタグは尚更嫌われる
あんだけ長々とタグの便利さを書いたくせに話が脱線してると指摘されたら「補助的なもので一緒です(無根拠)」の一行でなんとかできると考える自分の意見の底の浅さを疑えよ
もっと言えばブコメやタグの機能そのものではなく、隙あらば上から目線、都合の良い方向に話を脱線させ、指摘されたらスルー、その姿勢のユーザーが間違ってるって話だよ
人類は、有史以来、男女という2つの性別を定型として社会を営んできた。
今の男女を定型とする社会設計を維持したまま非定型である性別違和を感じるマイノリティの社会包摂をするには、男とはなにか。女とはなにか。性別移行する必要がある人はどういう条件を持つ人か。という『トランスジェンダー』の定義が必要になる。
だが、例えば視床下部のホルモン値を測定して判定できる客観的指標ではない自認主義を掲げてしまうと、トランスジェンダーの定義は極めて困難だ。解釈によってはススキノ殺人事件の被害者のレイプ犯女装男も含まれる。ましてや、このTwitterで問題発言の多いアコという人がトランスジェンダーでないとする説明にはかなり無理がある。
(性同一性障害は医者による診断という一定の客観性が保たれるが、主流のトランス運動家は、性同一性障害という診断を受けた人、受けたい人への攻撃も行っており、性自認は病気ではないという主張をしている。)
一方、今のLGBTQ思想が、性は自認で時系列で変遷するものなので今の社会の男女という二元論的な区分事態を廃止しようという考えならば、二元論前提の性区分スペースの利用にこだわらず、誰でも使えるスペース等の拡充を求めるのが筋で、MtFが女性トイレに入れないのは差別だという主張は成立しない。社会認識の変遷期に、旧来の二元論で運用する社会システムと新しい考えの性自認主義で運用する社会システムは併存するものだろうが、一方が一方の存在を否定することは包摂ではない。
ただし、自分は従来の男女二元論社会システムの否定は、女性差別を透明化すると危惧している。
定型的な生物学的女性だけ、望む望まないにかかわらず、生まれつき妊娠出産授乳する機能を持っており、その能力は、物理的な腕力を持った生物学的男性から搾取され差別を正当化する理由として使われてきた。
産まないという選択をした女も、男と同じ労働時間と労働量をやってみせても、生物学的女性だからという理由で差別をされてきた。
女装しているから女言葉を使うから差別されてきたわけではない。
女性差別の緩和のため、いくつかのアフォーマティブアクションが始まったのはつい最近のことだ。
自分は、クオータ制が導入された政策決定委員会の女性枠がMtFで埋まる状態や、女性スポーツの奨学金や賞金の受賞者リストがMtFで埋まる状態を望まない。
かつ、性犯罪被害者が社会に被害を訴えてもバッシングされまともに取り扱われない状況は今も続いているのに、性被害による妊娠のリスクを抱える生物学的女性専用のスペースが減らされる状態も望まない。
いや、マリオの映画はそういう描写を押し付けがましくなく自然に出来ていたからアンチポリコレ派から好評なんでしょ
アンチポリコレもどうかと思うけれど、理解力がない事にかけてはアンチアンチポリコレも負けてねーな
https://twitter.com/6wQC4HBl1f19712/status/1744276266831016251
@6wQC4HBl1f19712
マリオの映画、オタクから「アンチポリコレバンザイ!」みたいな持ち上げられ方してたからそういう映画なのかと思ったけど、見てみたらブルックリンに住むイタリア系アメリカ人ブルーカラー一家とかいうバチバチのマイノリティ描写があって、普通にポリコレしてたしピーチ姫が強え。
これ本当に良い時代になったなー、と思うんだけど、一部オタク層のメンタルの未成熟さが際立つ状況にあるのは過渡期にしても何とかならんもんかなとも思ってる
昔でいう「オタク」文化が社会に普及してマジョリティになり、当人たちも「もはや俺たちは多数派だ」と自認してるにも関わらず、何かと「迫害された」だの「攻撃された」だのマイノリティ的な言動をするんだよね
もはや自分たちが迫害する側に立っていて自制が求められているんだって意識が薄い
中年以降の過去に迫害された経験を持つオタクが言うなら「アップデートできてないな」と理解はできるんだけど、迫害された経験もないはずの若いオタク層が被害意識だけ拗らせてるのは何なんだろうな
近々ではせいぜい元友達を親友とか呼ぶ虚構の世界に生きる人が観測されたわ
親友の思い出
https://anond.hatelabo.jp/20230718222319#
こういう人らって自分のことフツー(マジョリティ)だと思っている節があるけど全然フツーじゃないぞ
人は自分と似たような人とつるむから自覚が持てないのかも知れんがの
結婚は自由恋愛して好きな人といっしょに暮らすがマジョリティで、
それと同じで簡単に関係が切れてしまう人を親友と呼ぶのはマイノリティだし、
暇を潰したり、体面のために、好きでもなんでも無い人と一緒にいるってマイノリティだぞ
「どう考えてもそれ知人ですよね?」という人を友人と呼んだり、家族に向ける言葉や感情として適切か疑問を覚える文章を発信したり、
爛れた性風俗の延長上にあるものを美化したり(港区女子など)、現実と乖離したお仕事や地域の話をしたり、
土地の文化や歴史に敬意を払わずに『◯◯は代官山っぽさがある』とか『東京の◯◯はXX県っぽさがある』と言ったりする、
多様性を認めることは、マイノリティを通常の枠とは別で保護するというような点で市場競争と相反するように見えるが、実は根本の原理は同じ。
マイノリティを差別しちゃダメだよ辛いなら支援するよという制度はあるが、制度の側から寄り添ってきてくれてマイノリティを保護してはくれない。保護を求める側が行動しなければ制度を利用することはできないのである。そして制度を利用するためには、制度に認めてもらうための努力をする必要がある。すると市場競争と同じように、制度に認めてもらうことを求めるマイノリティ同士で競争が生じるのである。
市場競争は、社会制度や伝統的な価値観により生産された余剰を消費していくだけで、余剰を生み出すことはなくどんどん衰退していく。多様性を認めることは市場競争と同じように競争が生じるので、衰退していくのも同じ。
タイトルではロリコン、としたが(ほとんどの日本人はロリコンとペドフィリアを同義と思っているため)
正確には「小学生以下を好む成人(主にペドフィリア)」の話をする。
青汁王子の「ロリコンに人権なんてない。心底気持ち悪い。児童への犯罪はもっと厳罰化しろよ。」ツイートがバズり、賛否をよんでいる。
・反対派の意見は主にこうだ。
「心の中で思っているだけなら自由」「一部のペドが犯罪行為しているだけ、エロ本見てるだけならいいはず」
「LGBTや他のマイノリティの性的嗜好と同じ」「普通の嗜好の男性も性的加害してるのにペドだけ迫害するのはおかしい」
結論から言うと、大衆感情的にペドフィリアが人権を得ることはまずないと思う(法律的にどうか、は置いておく)
なんでそうなるのか、
想像力が足りない人に向けて「ペドフィリア熊理論」を唱えたい。
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人間を食べるのが大好きな熊です。
安心してください、朝昼晩ちゃんと餌用の加工人肉を食べるので基本的にはお前を食べることはありません。
ただお前の方をじっと見つめて寄ってきたり、ひっかいたりすることはあるかも。だっておいしそうなんだもん。
でも大体腕や足を食べられるだけで命まで奪われないし、熊にも人生があるので我慢してね。
もし熊に危害を加えたら、お前は犯罪者。刑務所に入れられます。
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この社会、お前は住めるか。
ペドフィリアを社会的に認めるってことは、児童は上のような暮らしを強いられるってことだ。
大衆感情的に許されないのは、マイノリティだからでも気持ち悪いからでもなく、
小学生以下の女児が性交渉がどれだけ自分の体を傷つけるか理解した上で
エロ本やエロアニメの中だと起こりうるだろうが現実にはあり得ない。
平安時代や戦前は違うかもしれないが今は令和だ。何度も言うがあり得ない。
「でもペドフィリアも心の中で思っているだけなら自由だろ」は、
「熊も一度は生きた人間を食べたいと思っている。
ただ心の中で思っているだけだから許してほしい。餌を食べるから人間は滅多に襲わない」
と言われてお前は熊と一緒の街で暮らせるか?が答えだ。
(ただ個人的には、それが一生満たされない欲望と理解した上で、本当に絶対にどう間違っても本物の児童に手を出さないなら、ひっそりとその思いを抱えていても良いとは思う)
追記:
と思っていたが、小学生レベルの煽りコメントを見ていると対話は難しいのかもしれない笑
「(児童から見るとペド全員が)言葉が通じない」「相思相愛が100%あり得ない」
論文の最後に書いてあるメッセージがマイノリティを勇気づけるものだったとしても、論理が破綻しているという理由でリジェクトしてもよいものか?
それとも、その論文の発行自体がマイノリティを勇気づけるものなら、論理が破綻していたとしても社会望ましさを評価して採択すべきなのだろうか?
追記:
非常に氷河期的なナラティブを、氷河期よりも30歳年下で全く別の体験をしてきた今のティーンに寄り添うつもりで押し付けながら、
今のティーン向けに生きづらさや克服や救済を描いたつもりでいるのがおかしいって言ってるんです。
じゃあもう見なきゃ良いじゃん。否定すりゃいいじゃん。バカかね。
あのさぁ。作品づくりってのは「ソイツの人生の中での体験」でしか作れないんだよ。
オマエみたいな甘ったれの平成キッズ(笑)の端っこが作るものが「何かを捉えられる」なんて思えないんだよ。
オマエラの世代だけだろ、それ分かるの。オマエラ人口比率でマイノリティなんだぞ。
人口の話=売上の話なんだが、オマエラはそういうとすぐに「本質じゃない!」って発狂するけどな(発狂の理由は分かってるオマエラだって多数派に勝てないって本質的に分かってるからだろ)。
人の心にリーチするには、数が必要なんだよ。「オマエだけ」なんてのがメディアであっていいわけねぇんだよ。
メディアに乗っかるコンテンツの本質は多数にリーチして、その上でマイノリティの心に刺さった上、多数派から「面白かったね!(俺の物語だ!)」って思わせることなんだから。
バカなリベサヨLGPTQ+共はすぐ「物語を簒奪するな!」って言うけど、そういうもんだよ、多数派に刺さるってのは。オマエの物語じゃねぇんだから黙ってろカス共。
さっさとオマエラの世代が作品を作って世に出せるようになるといいな。そろそろエロゲ世代(新海世代)を駆逐してやってくれ。
評論って愚痴に逃げ込む小賢しいクリエイターよりも、全世代から「バカか!死ね!」ぐらい言われるようなものを作るクリエイターを期待したい。