はてなキーワード: チンパンジーとは
オスの世界 http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20070725/p2
チンパンジ-やピグミーチンパンジーの睾丸は、人類のよりもずっと大きい。
乱交形態の類人猿の場合、メス側が、一度に5~6匹の相手をすることがあるので、できるだけ多くの精子をたくさんの相手に分配しないと生殖では不利になる。
乱交の場合、睾丸は大きくなる。つまり一人の女性をシェアするような形態、3Pとか5Pとかの世界になると、精子量が多いほうが着床しやすい、って事ですかね。
「ドパー!」と沢山でた方が優位に立てそう。
逆に一夫一婦制の場合、精子量が少なくてもパートナーに着床可能ってことになる。
これは『退化』かな。ペンギンの羽が小さくなったように少ない精子量で着床できるなら低コストの方に適応していくという。
更に一夫多妻性の場合、オス観点では多数のメスを独占できるので更に少ない精子量で子孫を残すことができる。
http://blogpal.seesaa.net/article/49296795.html
1、鳥類や、他の一夫一妻制の動物では、配偶関係にあるオスがメスと子供に対して、長期間の保護や食料を与える。そのため、オス側の資源調達能力は、非常に重要になる。そのため、子供や女性への資源調達能力が優れた男性ほど、優位にたてる。
2、基本的に、一夫多妻制の動物ほどには、オス同士の争いは少ない。複数のメスを独占しているオスを倒さないと繁殖できないという事はないから。結果として、オス同士の争いが少なく、体がでかいほうが強いという事は必ずしもない。そのため一夫多妻制の動物ほどには、オス側の体がメスよりでかくなるということはない。結果として、オスとメスで、極端な体格差は現れない。
3、強力な資源調達能力をもつオスをめぐってメス同士の争いが起こりうる。これは、すなわち次の淘汰圧を意味する。つまり、オスを巡るメス同士の争いが起こった場合に、より有利な特徴をもつメスほど優位に立てるという事である。
卵子の劣化の話をしている時に、何がスイッチになるのかは分かりませんが、でも精子も劣化するよね!とか、人類史的にはここ100万年、精子は劣化しているよね!というような話をしたがる人がいます。
精子の話と卵子の話はまったく異なるのですが、男性の場合、加齢とともに精巣の精子製造能力やその品質劣化が若干生じることはあります。ただしそれはほぼ誤差の範囲内で、男性の場合生殖でより問題になるのが勃起と射精の問題です。
はっきり言って、二十三十の時に例えば十人の女性と寝てそれぞれ妊娠させたような男性は、七十八十になっても子づくりすることには精子的にはほぼ確実に問題はありません。精子は毎日製造されていますので、それ自体が劣化することはないのです。劣化しているとすれば、最初からそういう精子なのであって、精子の数が少ない人、不具合のある精子が多い人は、年齢に関係なく自然妊娠をさせる力がありません。これは加齢の問題ではなくて、個体差の問題なのです。
ヒトの精子が運動率が悪く、特に近来、減少を続けているというのは事実です。
これはY染色体が交雑しないために、エラーの修正を受けることなく、エラーが蓄積されて、「劣化」してゆくのがそもそもの原因ですが、哺乳類の多くはヒトと同じく雄ヘテロXY型の性染色体であるのに、ヒトともっとも近縁のチンパンジーでは、同じ面積であればヒトの場合、精子はまばらにしかなくしかも動きが小さかったり、そもそも動かなかったり、変な行動が見られるのに対して、チンパンジーの場合は隙間なく、健康が精子が活発に動き回っているのが見られます。これはつまり、ヒトの精子の劣化は、Y染色体のエラーの蓄積だけでは説明できない、ということです。
ヒトは子育てに膨大な労力を注ぎ込み、自然状態では子供が育ちあがるまで15年はかかり、せいぜい、3人から4人の子を育てるのが限度と言われています(農耕社会はこの数を飛躍的に増大させましたが)。哺乳類は基本的には一夫多妻制がデフォルトで、オスは子育てに関与しません。その結果、オスにかかる性淘汰圧力が激しくなり(メスがオスを選ぶので)、哺乳類のオスには異形のものが数多くあります。一夫多妻制の社会では肉体的にも生殖能力的にも優れたオスが生殖機会を独占することで、絶えずY染色体の選別が行われ、その結果、Y染色体の健全性が維持されています。
チンパンジーの場合は、一夫多妻制ではなくて、メスが群れのあらゆるオスと交尾する乱婚制ですが、これは一夫多妻制における個体間の同性間競争がそのまま精子に置き換えられるのであって、複数のオスの精子が同時にメスの胎内にあり、精子間競争によって優秀な精子が選別されます。その結果、チンパンジーのY染色体の健全性が担保されているのです。
一夫多妻制や乱婚制の社会では子育てはメスのみが行うことになります。ヒトの場合は育児にかかる労力が桁外れに膨大なため、メスだけでは子育ては出来ず、子育てにおいてリソースが最大化される一夫一婦制を発達させてきました。哺乳類で一夫一婦制を採用している例は稀少で、鳥類等の例を見ても、基本は肉食動物、つまり育児にかかるコストがもともと大きな生物がほとんどです。
女性が一年に子供をひとり産めるとして、同じ期間に男性は原理的には何百人もの父親になることが可能です。この生産性の差が、生産性が低い方の性の不足を招き、その結果、ほとんどの種で性淘汰はメスによるオスの選別という形になるのですが、ヒトの場合は子を産ませるにしても、その後、子育てに父親も従事しなければならないので、結局、何百人産ませても育てられないわけで、この一般的な性淘汰が働きません。むしろ、メスはどのみち子育てからは逃れられないのに対して(特に哺乳類の場合は哺乳と言う育児が必ずある)、オスは本来、子育てには注がないでもいいリソースを一夫一婦制では注ぐということになりますから、オスがメスを選ぶのです。
ヒトの形態を見る限り、乳房や臀部の肥大化など、性淘汰による異形化が進んでいるのはむしろメス(女性)であって、人類においては一夫一婦制を採用したために、性淘汰圧力はむしろ女性に対してかかってきたと言えます。
一夫一婦制、つまり男が妻と子を養う体制は、生殖に関与する男性を最大化するシステムであり、生殖に関与する男性が最大化するということは同性間の性競争が極限にまで小さくなると言うことであり、男性が女性を巡って争う理由がなくなる、ということを意味します。この男性間の平和によって、男性と女性すべてを内包する社会を構築することが可能になったので、ヒトにおける社会とはそもそも男社会です。
それはともかく、ほぼすべての男性が生殖に参加するということはY染色体が淘汰されないということを意味します。その結果、ヒトにおいてはY染色体の劣化が飛躍的に加速してきたのです。
これがヒトにおいてY染色体と精子の劣化(他の近縁種と較べて)が起きているという意味です。
これは種としての問題ですから、ある特定の個人の男性が、妊娠させられないということとはまったく次元の異なる話です。そうした問題を抱えていない男性の場合、七十になっても八十になっても精子の老化は程度としては発生しないと断言してもいい、というかそうとらえておいた方がいいと思います(もちろん勃起不全など別の理由で性交渉が困難になる例は多いのですが)。
卵子の老化および個人差によって約10年の開きはありますが加齢による事実上の不妊化は無差別に発生する問題ですから、特定の女性個人の問題ではなく、女性全体が知っておくべき問題です(むろんその配偶者である男性も)。個人の特性の問題と生物としてのシステムの問題を、卵子の老化の話をする時に精子の話をしたがる女性はごっちゃにしている傾向があります。それによって何を守ろうとしているのかは分かりませんが、願望や「であるべき」論によって科学的事実の周知徹底が遅れたために、結果的に子が欲しくても妊娠出来ない女性を生み出してしまったのではないでしょうか。卵子の老化の話をしている時に、精子の話をして魂の安寧を得ようとするような女性がいるとしたら、そのマインド自体が批判されるべきだと思います。
言いたい事は分かるけど、それだと議論の舞台が「じゃあ何を以て人間に近いとするの」って所に移るだけだよ。
人間とどれだけ慣れ親しんでるか? それなら犬や猫が真っ先に挙がるだろう。
遺伝子的に人間に近い物? それだとチンパンジーを始めとした類人猿だね。
意思の疎通が出来るような知能がある物? そうなると、イルカや一部の鳥類なんかも候補になるかもしれない。
でも元増田が本来したい議論は、きっとそんな事じゃあないよね。
次のレスも同じ元増田の意見だと思ったからここに書くが、私はそもそも
>人間なら法律を守れるから、自分の行動に責任を取れるから、勤労納税して社会に貢献することができるから
この仮定に賛成していない。
話が分かろうが分かるまいが(むしろ世界的に見れば分かり合える事の方が珍しいのだし)、最低限人として扱うと言うのはこういうことだ、というラインが基本的人権なんじゃないの?
それとも、どこかに元増田の言うような理由が明確に挙げられている? もしそうだったら、私が完全に間違っているので謝ります。
生憎と社会学には疎いので、基本的人権という概念の成立がどういう経緯で起こったものか、あまりよく知らないんだ。すまない。
しかし「人間にだけ付与される特別な権利」という発想は、人間中心主義的ではあるよね。元増田の拘っているのはその点?
個人的には私もそういうのは好きじゃない。他の生物だって敬愛を持って接するべきだと思う。
でも、基本的人権として考えられるような事全てを、他の生物にも適応するのは無理がある。だからどこかで線は引かなきゃいけない。
それが人間とその他の生物の間、というのは、まあ妥当なんじゃないかな。
それとも元増田が問題にしたいのは、話の通じない人間を人として扱うべきか、という点だろうか。
これも難しい話ではある。過去に同様の議論が何万回と繰り返されてるのは疑いないね。
そしてその度に、このツリーで他の人が挙げているような点(小さな子どもは? 回復するか分からない植物状態の人は? 難しい法律は分からなくても日常生活を送れる程度の知能障害は?)について、意見が交わされている筈だ。
その結果として、「人間であれば全て人として扱うべきだろう、やっぱり」というところに落ち着いているんだと思う。
一か所でも穴を作れば、エクスキューズを付けて気に食わない奴を締め上げるのは、簡単になってしまうから。
それに、そういう人達の基本的人権は尊重されるべきだが、話の分かる大人と全て同じ権利が認められている訳じゃあない。
例えば選挙権や自己決定権なんかは、日本では子供に認められてない。
子供にとっての保護者に当たる物を、意思決定に問題のある大人につけるような、成年後見人制度なんてのもある。
しかしまあ、何度でもこういう議論は起こっていいものだろう。何も考えなくなる方がよほど拙い。
この議論はどう決着するのか、見守ってみるのも面白いかもしれないね。
追記:
もし本当にそういう事が起きたら、人権の概念、いや人間の概念をもう一度ゼロから再構築する必要があるだろうね。
喧々諤々の議論が何十年も続けられるに違いない。戦争だって起きるかもしれない。
恐らく、多くの人はそれが何となく分かっているから、人間を材料とした実験には非常に慎重になるんだろう。
人間には人間の遺伝子があり、猿には猿の人間とは異なる遺伝子があるので、別種と分類されています。
ダウン症のヒトは47本です。
いうなればダウン症は人間ではないのです。ヒトの突然変異と考えたほうが妥当でしょう。
ではその人間に近い人間とは別の生物に、人権を与えるべきなのか、
チンパンジーには人権を与えなくていいのか、という議論が当然起きるべきです。
どの種族とどの種族が交配できるかというのは実際に人工的に試みるか自然状態で交雑種を発見するかしなければ確認できませんし、
トラとライオン、イルカとクジラ、イノシシと豚、狼と犬、馬とロバなど、
同属同士だと大方交配可能で、生まれたハーフが生殖能力を持つ場合も少なくなく、
実際は狐と犬など属を越えて交配する例もよく確認されているらしい。
トラとライオンの遺伝学的な差は人間とチンパンジーのそれよりも大きいそうな。
哺乳類という区分は「昆虫」とか「魚」とか「爬虫類」とかの括りと同じレベルのくくりであって、
人間とほかの哺乳動物の間の差は地球規模でみれば無きに等しいんだろうな。
おそらく人間と猿とを交配させて繁殖能力のある個体を生み出すことも技術的には可能だろう。
実際猿とやってハーフが生まれたらその子供にはどれだけ人権が認められるのだろうか。
そのまた子供には?
知的レベルで判断する?では猿以下の知的障碍者の人権はどうなる?
お盆の帰省からも帰ってきて、また明日から似たような毎日が続く
ふと帰省中の事を振り返り色々と思った事を振り返ってみる
帰省中、実妹の息子ももう3歳を目前としておりいくつかの単語をその場に応じて発するようになっていた
物の色を言ったり、見えた物の名前を言ったりと大変にぎやかであった
妹や私の母が「だめ」だとか「そんなこと言っちゃだめ」と言いだした。
その時はなんとなく心に引っかかっただけだがその時の事を思い出し
なんとなく考えているとやっぱり「なんで馬鹿と言ってはダメなんだろう?」という考えが頭の中を回転しはじめた。
そもそも馬鹿とはその昔無知な殿様が実物の鹿を見て馬だと思ってしまった事に由来すると聞くが
要は何かを間違えたり履き違えている状態に対してそれを指す言葉である事は確かであると思う
ではなぜ「馬鹿」と言ってはならないのだろうか?
をよくよく思い起こしてみると、どうにかなる状態に対しては指摘してもOKであり
どうにもならない現状に対してその否定的な状態を告げる事はダメな事が多いように思う。
例えば、身体障害者を差別する“目くら”であったり“つんぼ”であったり
どうにもならない現状を指摘してみたところでそれらはほぼ改善しようが無い
しかし運動している者に対して“遅い”であったりと能力の足りてなさに対し檄を飛ばす事は
一般的にだめだとはされていないように思う。
では馬鹿はどうにもならないという事だろうか?
よく“馬鹿は死ななきゃ治らない”であるとか“馬鹿につける薬はない”などと言う言葉が語り継がれているが
もし実際にこれらの言葉に反する現実を歴史の中で人々があちこちで目撃してきていたら
こういった諺などは語り継がれないのではないかと思う
ここまで読んでくれた方はどちらかというと“馬鹿”という言葉に対し否定的な側面ばかりを思い浮かべたのではないかと思うが
実際“馬鹿”という言葉は誰かを罵る時だけでなく愛のある関係間においても時たま使用される事を忘れてはならない。
例えば無茶な行動であったり危険性の高い行動を取った事によって愛する相手の事や相手の持ち物を守った時などに
愛する相手はあなたに対して「ばかっ」などと泣きながら言うかもしれない
もしかしたらそういった“ばかな行動”も死ななければ治らないタイプの個人の行動特性の一つなのかもしれないと考えると
その個人の個性をよく反映した行動に対して言う事ができるのではないだろうか
よくなにかをとても一生懸命やっている人の事を“馬鹿になってやっている”などと称するけれど
馬鹿もやはり方便
よく聞く教育論に
“自分がされて嫌な事は人にもしない”
馬鹿の場合は“自分が言われて嫌な事は言わない”に帰結するのではないでしょうか
でも馬鹿も方便だという事を考えるとこの教育論を自分は訂正しなければならないと思います。
“自分がされて嫌な事は人にもしない”が正ならば“自分がされて嫌な事でもし他人が喜ぶ事があってもしない”も正になるし
屁理屈でしょうか。でも“自分がされて嬉しい事”を人にしたのに実は迷惑だったり
“自分がされて嫌じゃない事”を他人にしたら嫌がられたりという失敗は日常につきものです。
なので
“相手がされて嫌な事はしない”
また
って事も言えます。
言う動物は沢山います。犬は吠える事で何かを伝えるし、猫も鳴く事で相手を呼ぶという事をしますが
イルカ、カラス、象、チンパンジー、ボノボあたりの動物はもしかしたらそういった行動が確認できるのかもしれませんが
“察する”だけでなく“相手の意見を聞く”という行動をこれほど多くとる動物はヒトだけではないでしょうか
人の判断基準は変化する
日常の生活の中で関わる相手の性格や行動特性を理解し予想して先回りの行動にでる事は多々ありますが
どのくらいの事どんな事にその人は一定の基準があって、どんな事への考えはよく変化するのかは個人差があります
例えば久しぶりに実家に帰省する息子に母親は毎回息子の大好物を料理して待っていたとしても
次も同じ様に準備していてくれるとは限りません。事前にきちんと言っておけば食べられるのか食べられないのかハッキリするけど
もし事前に言っておかなければ“期待はずれ”になるかもしれません
そしてもし事前にお願いする事なく“期待通り”の結果を得た場合がある危険を貴方にもたらす可能性があります。
それは貴方が馬鹿になってしまう事。図らずも良い結果を得た事で次も同じ結果を期待してしまい
期待はずれになってしまった時に“作ってくれなかった母”を責めてしまいかねない心理が発生します。
たしかに言わなくても解ってもらえたりすることはとても強い幸福感を感じます。
言えば済む事でも言わずに解ってもらえたという幸福感を求めてあえて言わないなんていう行動にもでてしまったりします。
聞くべき事、察すべき事、長い付き合いにもなればだいたいにお互いを理解して
この相手には何を聞くべきで何は察するべきなのか本能的に解ってくるのではないかと思うのですが
知り合って間もない相手だと解りあえるまでの時間がかかる人もいればあまりかからない人もいる
こんな文章をこんなところまで読んだ貴方とは
わりと早く解りあえるんじゃないかな?
http://www.facebook.com/#!/awaikumo
マニュアルが指示を誤認させるような書き方だった
投げっぱなしジャーマン
数日前にいきなり大量のデータと簡素なマニュアルだけを渡し即現場投入
「簡単だから」とだけいってろくに説明しないままだった
説明を求めても答えがはっきりせず要領を得ない
マニュアルだけ渡しておけばいいと勘違いしている(マニュアルに書いてある
行動がどうして必要なのか説明しない)
人を育てる仕事には向いていない
その人の処理能力を超えた大量の指示を一度に与える(これ昔横増田がやってしまった失敗)
自分の能力と他人の能力は同等かそれ以上で当然と思いあがっている
横増田なら一日の仕事の流れをフローチャート式でその横に作業のチェックリストのマスを書いておく。
妻や息子に信頼されないのに会社で部下には信頼されている人がいるからといって、自分も部下に信頼されるとは限らない。なので信頼されないからといって不満に思うのはウマシカだ。というかそもそもそんな事に不満に思う様だから信頼されない。卵が先か鶏が先かという話しではない。ではなぜ自分はそういう連中に不満を感じるのか?、人は知らない事は認識できないという論理に基づくのならば、自分は不満を知っているという事になる。そうだ。元来の欲求とはなんだろう?、そして不満の起源とは何だろう? 何かを得なければ失うという事もない。そう、私達は得てしまった。得てしまったという事に端を発しているとは考えられないだろうか? 一体何を得たのか? メモリー?記憶? 知? 知を知覚してしまったが故に 何かを忘れるということも発生する。 なんだよ くそ どうしてだ。 どうしても自分ばっかりいい思い良い人生を送っているように感じてしまい申し訳ない。この申し訳ないという気持ちは相手にとってもマイナスなのではないだろうか? 例えば自分は蛙を見ると優越感と同時に申し訳ない気持ちになる。おれってずるいよね・・・・って何の努力もせずこんなに幸せで、楽しくて様々な事が豊かだ。その上、悩む事さえどこか楽しんでいる自分がいる。そして社会に貢献もした上で報酬まであるのだから、ん、まてよ。人生そのものが報酬じゃないか! 蛙さんの気持ちになってみろ!神はとっくに死んだし輪廻は無いはずだけど、次が人間ね!って言われたらそれが報酬だという事になるので蛙はなにかをがんばるかもしれない。ん。ん。まてよ。報酬とかいうと対価みたいじゃないか? かといって世の不運不幸を忘れたからと言って、また発生するだろう。僕は悩む。みんなが何も考えず寝ている間にみんなの事をなんとかもっとよくならないかと悩む。悩んでしまうのは下手に今までだいたいの事が運良く成功し上手くいってきたからだ。どうしてもなんとかなるんじゃないかって思ってしまう。赤ん坊を食べてしまうチンパンジーを見てもなんとかしなきゃと思ってしまう。悲しいと思う事だとしても節理として受け止めれば悲しくなくなるけど、無駄に感情を制御コントロールできるので平気でそのほう助手伝いができてしまう。互いに矛盾する事なのでどうしても同時に思考すると行動は止まる。時系列で配分すれば、どっちの思考も行動として体感に上げる事は可能だが、何の意味がある。こんな日記。本当は、普段の人生が楽しすぎるからただ単に悲しみにふけりたいだけそういう時も欲しいだけ。遊びなのかもしれない。ただ・・・あまりにも論理的に考えすぎると、全ての事はどっちでもいいじゃんというかどっちともとれるよねってなってしまうので。結局なにもかも自分の思った通りになってしまう。なんなんだろうこの楽しいと悲しいの混ざった感情。わかる?わかる人は惹かれあう?
@awaikumo
今年の4月から就職なんだけど、就活は全然苦労しないでNASDAQ企業に内定した。
別に帰国子女とかでもないしTOEICも600点台後半で普通。
一番イケてない奴でもサイバーエージェント。
外銀とか狙わなきゃそんな大変じゃないと思う。
まともな大学出てて、まじめに受け答え出来れば受かるでしょ。
大変っていうのはTVが作ってるだけじゃないかと思う。
たしかに合同説明会とか行けば、『あーこいつ就職できなそう、ていうか人間としてどうよ』って人は大勢いる。
MARCH以下の大学だと、WordもExcelも使えない学生が大量にいる。
パソコン持ってない奴や、持ってても1週間に1度くらいしか起動しない人も結構な頻度で居る。
ABCがまともに書けない人も、Be動詞が危うい人も大勢いる。
ホントに大学生?って思うかもしれないけど、これが世の中の現実だと思う。
実際、学生の目から見ても、今の大学生はこれだけTVとかで煽られてるのに、目先の楽しいこと優先。
でも、そういう人って本来はドカタとか肉体労働やってたはずなのが
何かの間違いで大学に来ちゃって、何かの間違いでホワイトカラーになろうとしてるだけだと思う。
そりゃチンパンジーに外科医は出来ないだろうし、犬が料理人も無理だろう。
起業だ起業だといろいろ言う割にサラリーマンになる奴がこれほど多いのはなぜ? 人はなぜツレとつるむの? DQNはなぜ集団でウンコ座りなの? なんでヒキコモリは心を病むの? それは全部同じことで人間が社会的生物だからという答えに帰着する。
チンパンジーの生態を研究していたある学者「そもそも『一匹のチンパンジー』はチンパンジーではない」。「チンパンジー」のチンパンジー性は集団の中でしか見られなくて、一匹だと消えるということらしい。一匹だけ隔離したチンパンジーを観察すると、およそチンパンジーと思えないような行動しか示さないのだそうだ。
ゴリラも、群れの中で非常に複雑な社会をつくることで知られているが、人間・ゴリラ・チンパンジーは、猿の仲間の中でも遺伝子的にきわめて近縁である。人間社会もまた「驚くほど複雑」で、「そもそも『一人の人間』は人間とはいえない」かもしれない。集団の中にいる人間は、ただ一人でいるときと違う「何かの力」を得ることができる。あるサイトに集う人間の数が一定量を超えると、そこに不思議な万能感が漂うこともよく知られている(増田であれ2ちゃんであれ)。
さて、その集団の中には自然発生的に「序列」が生まれるが、これが生まれる理由は集団の生まれる理由と同じと考えるのが自然だ。つまり「集団」の中には、「集団」から得られる「力(あるいは恩恵)」を得やすいポジションとそうでないポジションがあり、そのポジションの奪い合いが「序列」という形で現れることになる、という感じ。たとえば、目に見える敵からじぶんを守ろうと思うと、「最前線」よりは「中心」にいる方が集団の恩恵が得られる。もちろん、だからといってみんなが「最前線」を避け「中心」を奪い合うと、集団は崩壊する。だから、集団を維持するために、たいていの集団は「『最前線』でがんばったものが『中心』にいけるのだ」というシステム(あるいはそういう幻想)をつくることになる。最前線に犠牲だけを強いる集団は遠からず崩壊する。前者は「出世」システムのある会社、後者はいじめの起こっている教室などだ。
3 任意の集団で「トップ」の得るパワーは「最下層」の得られるパワーとはケタ違いである。
同じような目的をもった集団は、複数存在する。従って集団にも序列が生まれる(たとえば「学校」の序列など)。上位集団Aのトップが得るパワーは、下位集団Bのトップが得るパワーより大きく、集団Aの下位が得るパワーは集団Bの下位が得るパワーより大きい。当然ながら、上位集団Aに属するために必要なコストも、下位集団Bに属するために必要なコストより大きい。
だが、下位集団Bの上位層と上位集団Aの下位層では、その関係が逆転するということも、非常に重要なポイントである。なぜそのようなことが起こるかというと、上で述べるように、上位層の得るパワーは等比的でなくケタ違いに(相乗的に)増大していくから。小さな会社の役員が得る満足感や能力や結果としての成長度合いは、大会社の使い捨て層が得られる満足感、能力、成長を大きく凌駕することが多い。
「いや、そんなことはない、大会社だからこそ、巨大なプロジェクトに関わったり、普通では会えない大物とのコネクションが生まれたりするのだ。『田舎の学問より京の昼寝』ということわざもある。」という意見もあろう。確かにそう感じるときもあるだろうが、果たしてその「巨大プロジェクト」や「大物」から見たとき、どうなのか。「巨大プロジェクト」はその人がいなければ動かないのか? 「大物」はプロジェクトの使い捨て要員の一人をいちいち覚えているのだろうか? そのような状態を優位に利用してそこから抜き出ることができる人は、単にもともとすごい能力をもっている人なのではないだろうか。京(都会)で昼寝してる人間と、田舎で学問をしている人間。「田舎」にもチャンスがごろごろ転がっていて、「田舎」でも成長が期待できる、いや、情報化の結果「田舎」という概念自体が大きく変化しているのが現代という時代ではないだろうか。
孫さんとコネクトするために必要なのは、大会社の社員という身分よりも、たったひとつの興味深いつぶやきであったりするように。
4 結論
「むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ(小集団のトップであるのがよい、大きな集団の最下層となるよりは)」。
無理をして入った進学校でオチこぼれになるのと、無理なく入った下位校でトップクラスになってみんなにすごいすごい言われる状況と、どちらが人間の成長によい環境だろうか。集団のトップ(あるいは上位層)になることから得られるパワーは、本当にケタ違いに大きい。そのことの意味を、何度でもかみしめるべきだ。起業家が起業しろしろ言うことの本当の意味はそこにある。分不相応に大きな集団の中で挫折しそうになってる人は、本当にもったいないと思う。その間違ったスケールメリットへの信仰を捨て、もう一度小さな集団の中に帰れば、あなたにはまだまだ驚くほどの可能性があり、それを後押しする環境、あなたを評価する人々がいて、輝ける賞賛に満ちた人生があるのに。
技術は戦争の手段であって、それもかなり遠い手段だ。「技術革新のための」戦争というのは本末転倒だと思う。
戦争(というか外交のすべて)は「私の属する所属集団を、守り、食わせるため」「私の属していない所属集団を、脅威とみなし、排除するため」だと思うよ。チンパンジーもそう。
技術は学問畑の科学者と工業畑の設計技師が組んで生まれるもので、戦争を目的とすることもあれば、そうでない民生利用のためのこともある。
概して軍事利用の技術を民生利用に転用することには困難が付きまとうから、技術の民生利用のために軍事外交を行うのはあんまり巧くないのではないかと愚考します。
http://anond.hatelabo.jp/20100731075251 を書いた者です。
http://anond.hatelabo.jp/20100731111129
実を言うと、あれを書いたのは、グローバル信者の英語ブログを見つけてものすごく腹が立ったからなんだよね。自分はグローバルに活躍する勝ち組みたいなことを言っておいてその英語は日本人の俺でもまともに読む気をなくすレベルだった。お前、それでネイティブと戦おうなんて竹槍突撃もいいところじゃないかと。それで気になって調べてみると、「英語ができるだけで収入が2倍になる」とか言ってる某自己啓発教祖の英語だってブロークンもブロークン、俺の方がマシじゃないかってレベルだった。もう腹が立って腹が立って。要するにこいつらの「英語」は、日本のガラパゴス猿共のコンプを煽るためのものでしかないわけよ。ネイティブから「天才チンパンジーのアイちゃん」程度に扱われればそれでボクチャン名誉白人、満足ですぅってことなんだろとしか思えなかった。
日本においては、英語はコンプレックス産業だからね。アメリカのように、移民たちにどう英語を習得してもらうか、という現実の必要性もないわけで、そうなると耳障りのよい宣伝文句のほうがウケてしまうんだろう。日本で発売されてる英語教材には「今日は良い天気でした。」というのんびりしたものが多いが、英米圏の教材では仕事に関する生々しいシチュエーションがたくさん出てくるしね。
元増田のエントリーにさまざまなコメントが寄せられてたけども、それらを見ていても似たようなことを感じたよ。以下のような視点からのコメントが多かったね。
1.「英語は国際語だ。」
地球の人口の3割近くが英語を話すとも言われてるけども、それでもたったの3割だよ。また、傲慢なアメリカ人が同じことを言うならばまだしも、日本人にとって英語は外国語でしかないのに、このような意見に易々と同調するのは実に不思議だね。
2.「簡単な英語でいいんだ。」
シングリッシュを引き合いに出してた人がいたね。シンガポールである程度の教育を受けた人たちがシングリッシュをフォーマルな場で使うことなんてあり得ないよ。そういった人たちはやはりイギリス英語をお手本にして英語を学んでいる。そして、元増田が指摘してたように英米圏においては簡易英語はネタ的に扱われている。それは最近、話題になっているGlobishなども同じこと。
「簡単な英語でいいんだ」と主張する人たちのうち、どれくらいの割合が実際にその「簡単な英語」について書かれた英米圏の記事を読んだのだろう。「簡単な英語」なんてものは英米圏において「英語が危ない」というネタとして消費されてるだけだよ。
そして、そういった英米圏の抵抗を現実的に打ち負かすほどの力が、それらの簡易英語に備わっているとは思えない。それは政治的にも、言語の仕組みとしても。
ともあれ、こういった「英語は国際語で、しかも、簡単な英語でいいのだ」という発想は、実に日本人的なものだと思うよ。日本人は日本国内においては日本語だけを使っていればいいけども、それと同じように「簡単な英語」で「世界のどこでも」乗り切れればいいな、という願望があるのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/atq/20100801
元増田 2010/08/02 00:34
もしかして、あなたやその他の私に反論されている方は、言語とは「英語」と「その他大勢」しかないという見方をされているのでしょうか。
ここらへんがキモじゃないかと思うね。元増田に反発する人たちは、日本語のモノリンガル環境(=日本)を英語に置き換えて考えてるだけなんだろう。「「英語」と「その他大勢」しかないという見方」とは、まさにそのことじゃないかという気がした。
しかしながら、シングリッシュのようなクレオール言語で「世界のどこでも」乗り切っていくのは不可能だ。多少ブロークンな英語でノンネイティブ同士がやりとりすることはあるけども、それはクレオール言語やピジン言語ではない。minor errorを含んでるだけであって、あくまでもモデルは英米圏の英語だ。
そういった前提に立てば、同一語族に属していない日本語の話者がいかに不利か、気付かされるし、元増田が主張していたような「絶望」という感情も生まれてくるのだろう。そして、「簡単な英語でいい」などと無責任に煽ったりするブロガーを見れば、「所詮、こいつら「言語」ってものを舐めすぎだと思うんだよ。」という感想を抱くのも自然なことだろう。
思うに、「言語」を「舐めすぎ」るというのは、ある意味で居心地のよい日本語に甘えているということなのかもしれないね。そして、日本語と同じように「苦労せずに習得できるレベル」の英語を用いて、海外でコミュニケーションを取りたい、という違う甘えも生み出しているのかもしれない。もっとも、日本語を習得するのだって、ほんとうは大変だったはずなんだけどね。子供の頃から漢字の書き取りを行い、長いあいだテレビなどで標準語の言い回しを見聞きして、いろんな人と話すことでようやく習得できたはず。
本来であれば、安易に「英語、英語」と喧伝するまえに、外国人向けの「簡単な日本語」を策定して国際機関の公用語に押し上げる、くらいの発想も必要じゃないかな。もし、そこで「日本語は外国人には理解できない」という日本特殊論に落ち込むとしたら、それもある意味では日本語に甘えているということなんだろう。
元増田の人は煽りをふんだんに詰め込んであの増田を書いたけども、細部をきちんと見ていけば、実に丁寧に言語と付き合ってる人だとわかる。なので、反発していた人たちも英語の勉強が進んだら、もう一度読み返してみれば少なからず得るものがあるだろう。もしかしたら、元増田と似たような思いを抱くかもしれない。学歴コンプや日本特殊論などの仕掛けを用いなくとも、そういった言語についてのお話が読まれるようになり、日本人がもっと積極的に自らの意見を発信できるようになれればいいね。
元増田です。あなた鋭いね。
確かに学歴云々は思い切り意図的に煽った。ただそれは注目を集めるというよりグローバル信者にはそれぐらい言わないと伝わらないからでもある。「日本人が英語でネイティブと戦えるわけないだろ」とか書けば「負け組乙、コンプ乙www」とpgrされて終わるのは目に見えてるからね。システム全体の善し悪しの議論を「自己責任」にすり替えて受け付けないのは奴らの得意技だから、まずは奴らの脳内優位を崩すところから始めなきゃいけない。それでああいうことをわざわざ露悪的に書いてみたわけよ。
実を言うと、あれを書いたのは、グローバル信者の英語ブログを見つけてものすごく腹が立ったからなんだよね。自分はグローバルに活躍する勝ち組みたいなことを言っておいてその英語は日本人の俺でもまともに読む気をなくすレベルだった。お前、それでネイティブと戦おうなんて竹槍突撃もいいところじゃないかと。それで気になって調べてみると、「英語ができるだけで収入が2倍になる」とか言ってる某自己啓発教祖の英語だってブロークンもブロークン、俺の方がマシじゃないかってレベルだった。もう腹が立って腹が立って。要するにこいつらの「英語」は、日本のガラパゴス猿共のコンプを煽るためのものでしかないわけよ。ネイティブから「天才チンパンジーのアイちゃん」程度に扱われればそれでボクチャン名誉白人、満足ですぅってことなんだろとしか思えなかった。
あえて日本人論的なことを言うと、こういう奴隷根性こそが日本的なものなんだろうなって思う(言う必要ないと思うけど単なる皮肉)。