2012-08-15

baka論

お盆帰省からも帰ってきて、また明日から似たような毎日が続く

ふと帰省中の事を振り返り色々と思った事を振り返ってみる

帰省中実妹の息子ももう3歳を目前としておりいくつかの単語をその場に応じて発するようになっていた

物の色を言ったり、見えた物の名前を言ったりと大変にぎやかであった

ある時その子が「ばか」という言葉を口にした時に

妹や私の母が「だめ」だとか「そんなこと言っちゃだめ」と言いだした。

その時はなんとなく心に引っかかっただけだがその時の事を思い出し

なんとなく考えているとやっぱり「なんで馬鹿と言ってはダメなんだろう?」という考えが頭の中を回転しはじめた。

そもそも馬鹿とはその昔無知な殿様が実物の鹿を見て馬だと思ってしまった事に由来すると聞くが

要は何かを間違えたり履き違えている状態に対してそれを指す言葉である事は確かであると思う

ではなぜ「馬鹿」と言ってはならないのだろうか?

言っていい言葉 言ってはいけない言葉

をよくよく思い起こしてみると、どうにかなる状態に対しては指摘してもOKであり

どうにもならない現状に対してその否定的な状態を告げる事はダメな事が多いように思う。

例えば、身体障害者差別する“目くら”であったり“つんぼ”であったり

どうにもならない現状を指摘してみたところでそれらはほぼ改善しようが無い

しか運動している者に対して“遅い”であったりと能力の足りてなさに対し檄を飛ばす事は

一般的にだめだとはされていないように思う。

では馬鹿はどうにもならないという事だろうか?

よく“馬鹿は死ななきゃ治らない”であるとか“馬鹿につける薬はない”などと言う言葉が語り継がれているが

もし実際にこれらの言葉に反する現実歴史の中で人々があちこちで目撃してきていたら

こういった諺などは語り継がれないのではないかと思う

ここまで読んでくれた方はどちらかというと“馬鹿”という言葉に対し否定的な側面ばかりを思い浮かべたのではないかと思うが

実際“馬鹿”という言葉は誰かを罵る時だけでなく愛のある関係間においても時たま使用される事を忘れてはならない。

例えば無茶な行動であったり危険性の高い行動を取った事によって愛する相手の事や相手の持ち物を守った時などに

愛する相手はあなたに対して「ばかっ」などと泣きながら言うかもしれない

しかしたらそういった“ばかな行動”も死ななければ治らないタイプの個人の行動特性の一つなのかもしれないと考えると

馬鹿”とは他人と比べ優れているか劣っているかに関わらず

その個人の個性をよく反映した行動に対して言う事ができるのではないだろうか

よくなにかをとても一生懸命やっている人の事を“馬鹿になってやっている”などと称するけれど

馬鹿もやはり方便

よく聞く教育論に

自分がされて嫌な事は人にもしない”

というものがありますが。

馬鹿場合は“自分が言われて嫌な事は言わない”に帰結するのではないでしょうか

でも馬鹿も方便だという事を考えるとこの教育論を自分は訂正しなければならないと思います

自分がされて嫌な事は人にもしない”が正ならば“自分がされて嫌な事でもし他人が喜ぶ事があってもしない”も正になるし

屁理屈でしょうか。でも“自分がされて嬉しい事”を人にしたのに実は迷惑だったり

自分がされて嫌じゃない事”を他人にしたら嫌がられたりという失敗は日常につきものです。

なので

“相手がされて嫌な事はしない”

自分がされて嫌な事でも人はどう思うかわからない”

自分がされて嬉しい事でも人はどう思うかわからない”

また

“相手がされて嬉しい事でもされたいかどうかはわからない”

って事も言えます

 聞く動物 人間

言う動物は沢山います。犬は吠える事で何かを伝えるし、猫も鳴く事で相手を呼ぶという事をしますが

動的に“聞く”という行動を取る動物どうでしょう

イルカカラス、象、チンパンジーボノボあたりの動物はもしかしたらそういった行動が確認できるのかもしれませんが

“察する”だけでなく“相手の意見を聞く”という行動をこれほど多くとる動物はヒトだけではないでしょうか

 人の判断基準は変化する

日常の生活の中で関わる相手の性格や行動特性を理解し予想して先回りの行動にでる事は多々あります

どのくらいの事どんな事にその人は一定の基準があって、どんな事への考えはよく変化するのかは個人差があります

例えば久しぶりに実家帰省する息子に母親は毎回息子の大好物料理して待っていたとしても

次も同じ様に準備していてくれるとは限りません。事前にきちんと言っておけば食べられるのか食べられないのかハッキリするけど

もし事前に言っておかなければ“期待はずれ”になるかもしれません

そしてもし事前にお願いする事なく“期待通り”の結果を得た場合がある危険を貴方にもたらす可能性があります

それは貴方が馬鹿になってしまう事。図らずも良い結果を得た事で次も同じ結果を期待してしま

期待はずれになってしまった時に“作ってくれなかった母”を責めてしまいかねない心理が発生します。

しかに言わなくても解ってもらえたりすることはとても強い幸福感を感じます

言えば済む事でも言わずに解ってもらえたという幸福感を求めてあえて言わないなんていう行動にもでてしまったりします。

聞くべき事、察すべき事、長い付き合いにもなればだいたいにお互いを理解して

この相手には何を聞くべきで何は察するべきなのか本能的に解ってくるのではないかと思うのですが

知り合って間もない相手だと解りあえるまでの時間がかかる人もいればあまりかからない人もいる

こんな文章をこんなところまで読んだ貴方とは

わりと早く解りあえるんじゃないかな?

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