はてなキーワード: カボチャとは
判断基準は性交の有無だみたいに表現したのは雑だったかもしれない。
つまり18禁漫画はおそらく必ず「挿入」か「射精」か「(特にレズものなら)イくシーン」のいずれかを盛り込んでいる。
18禁漫画はエロでなければならない、エロとして読者が抜くにはそれらがなければ出来ないという二重の固定観念が編集側にあることによるのだと思う。
性器を克明に描写しているところ以外はストーリーなどは一般向けのそれという漫画は成立し得るはずだ。
ヌードデッサンモデルを客体する視点の主たる主人公等がそれを見ることに対して興奮しているような描写、台詞は一切ない。
ただその世界観において是とされる「より性器を美しく見せるにはどうすればいいか」という苦悩を描くうえでさまざまな性器をあらわにした姿勢をとったモデルが要所要所で描かれる。
それに読者が興奮するのは勝手だ。ただしあくまで書き手の目的はエロとは独立したところにあるストーリーを楽しませるところにある。
雑誌にグラビアアイドルを載せる人は、それを抜くのを目的として買っていく人も想定しているかもしれないが、目的自体は射精とは無縁の鑑賞をさせることにあるだろう。
このような漫画は前のブコメにもあった天原の常識改変シリーズに一見通じるところがあるように見えるかもしれないが、天原のそれはメタ的に抜いてもらうことを目的としたうえでの作者に都合のいい世界観の構築を図ったものであり、ストーリーの要請上でキャラに恥じらいなく性器を見せてもらうこととは作者のスタンスが異なっている。
ちなみに天原の作品で私が好きなのは大人のお姉さんに謎ビームを照射してロリに変身させたのち本人の意思に反して髪型を三つ編みにしてカボチャパンツを履かせるというイラストで、これもまた性器の描写はないものの抜き目的で描かれたものであることは明らかだろう。これと同じ題材でも違った目的で描けばまた違ったテイストの作品になるものだと思う。
とにかく一見同じような動機でも、スタンスが異なっていればアウトプットは異なるものであると私は信じている。また、性器の描写をなくしてはもはやストーリーが破綻してしまうような微妙なバランスの上に成り立ち得る作品も実現可能なのだと私は信じている。
ちょっとたとえとして適切ではないかもしれないがでこまん事件で裁判ではわいせつ物と認定されてしまったあの作品にしても、あれは人を欲情させることが主題ではないのにも関わらずそれでいて性器が作品のコンセプトの核になっているわけで、裁判の判決通り性器の型を無くしてしまったら、それは作品やそのコンセプトを成立させる核の一つをなくしてしまうということになるわけで、もはや本来の作品としては成立してしなくなってしまうだろう。
それと同じだ。
こういう例示に対して、所詮漫画は芸術とは異なり多少こだわりに対して手を抜いても読者に全く同じ認識や考えをもたらす作品になる、みたいな理屈も無しに芸術に対して漫画(の媒体としての繊細さ)を軽んじる考え方を私は信じないのである。
ギャグ漫画のように性器の部分に象を描いたり、弓月光のシンデレラエクスプレスのように性器に顔を描くような手法があるが、このような安易かつ強引な一般向けへの適合化を図れば作品の持ち味を壊してしまうような微妙なバランスが有り得るということだ。
かりに、そのどうにもならないはずのことを作者の最大限の工夫で上手い具合にごまかせたとしても、やはり作者が当初想定していたものとは趣が完全に同一とはなり得ないことは確かである。
なので結局作者が想定する通りのそのような漫画は一般向けにおいて居場所がないのである。
一方で18禁漫画の世界でも、性器を描いただけの漫画というのは通用しないのだ。
前述の通り、誰かしらが挿入する/されるか、絶頂するか、射精するようにしろと編集側が制約を課しているかのようだ。俳句における季語のようなものか。
なのでまんこ拓をとって生計を立てる女の気丈なヒューマンドラマなんて企画は通らないわけである。
18禁という場で描きたいなら上記のいずれかの要素を盛り込めと編集者は迫ってくるのだろう。
しかし描きたいのはヒューマンドラマであって、その小道具として今回は性器の描写が必要なのであって、いくら要請があるからといって作品にそれらの要素を盛り込んでは作品の趣というものが自分が想定していたものからどうやっても変質してしまうというということもありえないことはないだろう。
だがそんな意見をしようものなら多分「お前は18禁には向かない」と言われて追放されるのがオチだ。
かくしてこのような漫画を描きたい人はどこにも居場所がない、このような漫画はたとえ構想があっても構想段階で破棄され、日の目を見ることがないということがいえるのだ。
論理的に漫画全体を切り分ければ世の中には4種類の漫画があるといえる。
性器の描写がなく性行為(やそれに関連する前戯や自慰等)がない漫画、性器の描写がなく性行為がある漫画、性器の描写があって性行為がない漫画、性器の描写があって性行為がある漫画の4つだ。
上記でその存在が危ぶまれるとつらつら語ってきたのはすなわち三番目の「性器の描写があって性行為がない漫画(やそれに関連する前戯や自慰等)」のことなのである。
現状は有り得る4種類の漫画のうちの1つの存在を否定するものであり、それだけ本来世に送り出されるはずだった表現の幅を狭めていることになるのだ。
ストーリー重視という点では一般向けが相応しいだろうが、法や倫理上の問題からそこはどうしても難しいところがあると思う。
だから18禁という分野がこのような漫画に居場所を与えるべきだと私は思う。
冒頭で少し触れたことだが、18禁だからエロでなければならないというのは固定観念であり誤謬に過ぎない。
18禁というのはなんらかの事情で一般向けでは公開できない要素が一つでも含まれるような作品全てが当てはまるはずの概念だろう。
性器が克明に描かれている漫画は一般向けとしては出せないという状況は今のところは容易には覆し得ないことなのだから、18禁がその居場所を与えてやるべきなのである。
既存の雑誌はエロを銘打っている雑誌が多いのでそこでの掲載というのは難しいかもしれない。
なので私の提案としては18禁というだけでテーマは問わない新たな雑誌を作れということである。
新たに費用がかかるので難しいところもあるだろうが、それでも法改正よりはよほど簡単なことであり、またこういうときこそ18禁というものの寛大さを見せてほしいものであると思う。
カボチャーッス
ある人から見れば人間と同じように南瓜は一つとして同じ形のものはないように思えるらしいです。
人それぞれといえども、それは人が人として尊重されるから成り立つもので、やっぱり属性別に見た方が分けて裁定する方としては楽なのでしょう。
結局、それぐらい楽ではないことをやってるし、分けたとしても後々に面倒な事がやってきてそれもそれでややこしくなるのがまたやってられないところですね。
属性がダメなら生まれでも、生まれがダメなら成果でもなかなか上手くいかないのが分別作業なのかもしれません。
なるほど、人それぞれの対処の方がちょっと楽な感じがしてきました。
ということで本日は【適切な判断よいか】でいきたいと思います。
俺ヴィーガンじゃないし今日はビーフシチュー煮込んだけど、少なくとも植物と動物を同等に捉えてる奴って少数だよね。
ヴィーガンでもヴィーガンじゃなくても、生きてる鶏の首を落とすかカボチャを包丁で真っ二つにしろってって言われたら肉食う奴でも前者は抵抗あるから後者選ぶと思うんだわ。
ヴィーガンがヴィーガンじゃない人間にヴィーガン活動を押し付けるのはエゴだけど、ヴィーガンの動物を殺す事に対する抵抗感っていうのは普通に生活してたら正しい感覚だと思うんだよな。
肉食ってて屠畜に携わってない人間が動物の殺し方に文句を言うべきじゃないのと同様に、ヴィーガンが動物を殺すことに強い抵抗を覚えて肉を食べないことに文句は言うべきじゃないんだよなぁ。
みんな0か100かで考えすぎぃ。
忙しい平日朝、自分は週5のうち月水金だけ、納豆ご飯にフリーズドライの味噌汁、抹茶黒豆玄米茶で済ます。
要は飽きないよう、連続で食べないようにしていると。
すなわち、火曜木曜だけなるべくご飯以外の食材が被らないメニューにしているのだが、これが朝からとても気分がいい。
これだと野菜が足りないので、夜は水曜以外ゴボウ→魚→カボチャの順で、買った惣菜を食べている。
案外これで満足な今日このごろ。
結論から言えば「とにかく不可食部の多い食品を選ぶ」これに尽きる。
この一行ですべてを悟った人はそのまま実践してもらえば確実に健康になっていくので、ここから先はもう読まなくても大丈夫。
で、まぁ、「痩せる」とか「ダイエット」とか言うと、カロリーがとか、PFCがとか、糖質がとか有酸素運動がなどとただでさえ薄い頭をさらにモヒカン刈りにして躍りかかってくる輩が雲霞のごとく湧いてくるんだけど、今回はそういう話ではないので自覚のある人は黙っていてほしい。特に黙ってほしいのはカロリー信者だ。「消費カロリーが摂取カロリーを超えれば痩せる」という説を今だに唱える人は、自分がホメオパシスト並の「古科学信奉者」だと認識を改めてほしい。カロリーってのは食物に含まれる脂質を単純に計算しただけのものだ。脂質を取って糖質を抜く減量方が理論を伴って存在する(その是非は置いておく)以上、カロリー信者はもはや100年単位での時代遅れと言わざるを得ない。もはやカロリー教は単なる経験主義者でしかないのだ。100年くらい前にはそれで何となくうまくいってたっぽいからそれを支持する、それだけの存在で、ぶっちゃけもはや有害でしかない。カロリー天動説から早めに脱却できることを望む。
話を戻そう。
不可食部の多い食品を選ぶというのは、つまりは食物繊維をとるための具体的な方法だということになる。
ダイエットをする、痩せる、健康になるための理論がこれほどまでに世間にあふれているということは、それら方法がいかに実践し続けるのが難しいかということでもある。
油は最高に美味いし、肉最高、米無双、ハンバーガーやばい、フライドポテトはまさに麻薬。それが現生人類の大いなる現実であって、そこから楽々解脱できるメンタル強者の話は偉人伝みたいなもので、「ほえー」とはなるけど実際に自分がやれるかという話にはならない。
理論はわかってるし、モチベーションが上がって数か月続くこともあるけど、やっぱり元に戻ってしまう…。
そういう世界だ。
まぁこの辺はダイエットをちゃんと考えたことのある人ならもはや言うまでもないだろう。
具体的な方法を伝えよう。
もちろん、これが唯一の解ではない。上手く生活に取り入れるためのヒントとして活用してもらいたい。
なぜ世の中にこんなに肥満が増えたのかというと、近現代の食生活と健康が矛盾するようになってしまったからだ。
ダイエットの特効薬は食物繊維であることは様々な統計、科学的調査によって判明している(サプリで食物繊維採っても意味ないことも判明している)。
しかし、人類は「食物繊維をなるべく減らそう」として来てしまった。それはもちろん「食べやすく、美味しいから」なのだが、それが行きつくところまで行きついてしまった。
研究により「食物繊維超大事」ってわかったんだけど、世にあふれる食品は食物繊維抜きの物ばかりになってしまっている。
かといって中世の食事に戻れるはずもなく、人類単位でジレンマを抱えてしまっている。
そういう時代だ。
そこで、冒頭の「なるべく不可食部の多い食品を選ぶ」のが大事になってくる。
肉を食べるなら、スペアリブや手羽先のような骨付きの物。野菜はできるだけ皮つき、骨の多い魚など。
いわゆるホールフーズダイエットだ。丸ごと全部食べるダイエット。
極端に言えば、リンゴを丸ごと全部食べるだとか。見た目的に「ちょっと汚そうだな…」って思うリンゴの上下の部分も、芯の硬いところも、全部食べる。種はさすがに残していいけど。見た目的に抵抗がある部分でも、口に入れてしまえば別に何でもないのだ。人間はプラムの種を飲み込んでも別に問題なく排出される。自分の体を信じよう。もちろん、アレルギーには気を付けて。
クリスマスにはケーキの上にフルーツがこんもり盛られたケーキを。見た目的にも嬉しいし、食物繊維が少しでもとれる。
お酒のつまみにはゆでた枝豆を(豆の周りに薄皮が付いているから)。
ジュースは粒入りの物を。
魚介類を食べるなら、殻付きのエビを。エビは最高に美味い。頭まで食べれる。
圧力なべを使って魚の骨まで食べたり(サンマ缶や鯖缶もいい)。
焼き芋も皮と根本も全部食べる(飲み込んでしまえばいいのだ)。
特にお勧めなのはあら汁。あら汁は最高。美味しいし、食事中に何度も手が止まる(骨や鱗をよけるから)し、何より安い。あら汁に合わせてご飯を食べれば、食事時間は10分以上にはなる。食べ終えるころには自然と満腹になってくる。
デザートは果物を。桃やキウイは皮ごと食べていい。みかんもバナナもスジまで食べていい。
昔はこれらの食物繊維を取り除いて食べるのがオシャレだったが、ようやく「むしろ全部食べるのがオシャレ」になってきている。この波には乗っていい。ぜひ乗ってくれ。
皮を食べるのがどうしても抵抗がある人は、食品用の洗剤というのが売ってるから、それで洗ってもいい。
というか、普通に売ってる洗剤でもちゃんと食品や果物、野菜に使えるようになってるものもある。
少なくとも、花王のキュキュットのラベルには「用途:野菜、果物、食器」と書いてある(ただし、薄めて使うこと)。
https://www.kao.com/jp/products/kyukyutto/4901301288417/
これは、昔の野菜は回虫の卵やら泥やら砂やら小石やら肥料のウンコやらが混ざっていたので、それらを除去するためのものだったからだという。実にまっとうな用途として台所洗剤は存在している。
野菜は洗いまくって皮ごと食べよう。(ジョイには用途に食品が書いてないので、ちゃんと確認してほしい)
とにかく、「食物繊維が抜かれた環境で『食物繊維を食え』と言われる」というダブルバインド甚だしい世の中に生まれてしまったので、自衛のために日ごろの生活から意識してみてはどうだろうか、と提案してみる。
筆者自身の話をすると、ひたすら食物繊維を追い求めた結果として3年でBMIが10下がるということになった。米も肉もフライドポテトも食べている(ただし骨つき皮つき)。