はてなキーワード: ねほりんぱほりんとは
なんかブコメとかトラバでめっちゃ叩かれてるけど、わかるーー!わかりすぎるーー!!
タイトルんとこ論として筋が悪いけど、「外圧でしか変われない国」とか散々言われてるって認識が前提にあるから、「あーーそれくらい言いたくなるよねーー」ってなる。
欲望自体を抱くな、とは言わんし言えん。そんなん完全にブーメランなわけやし。
でもだからって、公共の場に挙げんでもええやんか。見せられる方はしんどいわ。しんどすぎて観ない方向に舵を切ってもこうして目に入ってくる上に「見てないくせに批判すんな」論法で殴ってくるやつもおるしな。
なんで例えば「チコちゃん」とかああいうレベルのデフォルメなビジュアルじゃあかんかったんや。ねほりんぱほりんのブタみたいな、ああいう人形劇形式とかでも良かったんちゃうか。あるいは「雲じい」みたいなガチ人外では?
なんでそこで少女のかたちで「お洋服はホログラムみたいなアレだから実質全裸みたいなもの」なんてキモすぎる設定のついたキャラクターをチョイスしちゃったの???
もう本当にキモすぎて無理なんですけど。その全裸設定要るのこのキャラ?なんでつけたの?そこ大事??そこ大事だと思う感性が作ったってことだよね???
https://anond.hatelabo.jp/20180122022613#tb
この増田だよ。正直、小室哲哉に便乗したクソ長くてとっちらかった感情の赴くまま書いた愚痴なので追記2のとこだけ見てもらえればいい。
録画してたのを流し見(じっくり見ると辛いので)して、最後に出てくる応用がほとんどできないであろう介護成功体験を見ながら、あーあって思っちゃった。
もう今さらめんどくさいから、「逃げろ」とか「やめろ」とか「尊敬してる」とか「自分には無理」とかそういう言葉はいらんので、上の増田の追記2のとこだけ読んでいただけるとめちゃくちゃ嬉しいです。長いけど。
それでは。
腐女子回に比べるとなんか物足りなかった
イケメンボイスCDをイヤホンにつないでイヤホンを鼻の穴に刺すと自分の口からイケメンの声がきこえるってのは面白かったけどそこがピークでずっと下り坂って感じ
二次元は逃げじゃないの?みたいな追い込みしやがって
脚本だとは思うけど、見ててほんといらいらいさせられた
いつもなら普通に聞き上手って感じなのに、なんかやけにつっかかるっていうか攻撃的っていうか
話を引き出すっていうんじゃなくて馬鹿にしてる感じがひどかった
その失礼な質問に対してあんまり感情を害した感じを見せずに「逃げてもいいんじゃないですか?二次元は人生のオアシス」みたいに受け答えした女オタクがマジですごいなと思った
まあ脚本なのかもだけど
なんでねほりんぱほりんはねほりんはぽりんじゃないんだろう
ねほりんぱほりんって最初にアクセントおきたいのかしらんけどきほんねほりはほりってのがあって一文字目はインぷれっしぶなんだからねほりんはぽりんにしてほしい
私も腐女子。今までああやって典型的な腐女子を客観的に観察するなんてことなかったから、驚いたことがいくつかあった。まず、彼女らのような典型的な腐女子というのは、非常に内向型で自己完結型の生き方をしていること。自己完結というワードは語り手の腐女子さんからも出ていたけど、いやほんとに、内向きで自己完結型だった……びっくりした。他に気になった点は
・職場の男性が腰が痛いと言ったのに対し、思わずえっ何で?と言ってしまう
いやこれ笑い話になってるけど糞セクハラエピソードでしょ。でも内向きで自己完結型だから自分では気づかない。男女逆だったら大炎上だよ。この腐女子さんだって男性の同僚からセックスを想定して「なんで?」って言われたら、しかもそれがネタにされてたら、どう思うんだろう。これあの悪名高きホモソーシャルってやつじゃん
女からログアウトじゃなくて、社会性や人間性からのログアウトだと思う。盗撮やプライバシーの問題といった社会的な縛りや罪悪感から逃がれ、究極の自己完結装置になりたい。それが壁でありホコリになりたいであると私は考察する
マッッジで。
……
誰もが(この言い方も怖い)、「あなたはそうでも私は違う」を持っている。例え他者から見れば誤差の範囲だろうが、一人一人自分の腐女子としての輪郭をはっきりと持っていて、その差違をないがしろにされることを嫌う。
まさにここに回収されてて笑う
ここでもねほりんぱほりんでもあなたの話はしてないんじゃないの
なんで出てきたの
なんていうか、ありがとう
ねほりんぱほりんに否定的な人が多かったのでこうやって向き合って書いてくれてありがとうございます
私は腐女子は趣味でも差別用語でもなく「一属性」だと思っていて、卑下も誇りもなくていいと思ってます
パリピ、オタク、腐女子…世の中にはたくさんの属性があり、様々な属性を持ってる方もいます
「腐女子だからBL好き」というより「BLが好きだから腐女子という属性も持ってるんだな」と思った方が楽だと思うのです
差別でも侮蔑用語でもなく「腐女子」というペルソナが浸透していけばなーと願っております
学級会はもう開催しないでほしい…
https://twitter.com/nhk_nehorin/status/951099083074056202
最後の腐女子用語辞典【解釈違い】キャラの受け取り方が自分と違うこと。イライラすることもある。例)「番組に出てた腐女子の話に納得いかない。完全に解釈違い!でもしょうがないよね、100人いたら100通りの腐女子がいるんだから・・・」ご視聴ありがとうございました🐽 #ねほりんぱほりん https://t.co/1sVh0dQNWf
マッッジで。
「男って~~だよね」「女には~~な傾向があるから」みたいな語り口で腐女子を語ろうものなら大炎上が約束される。
誰もが(この言い方も怖い)、「あなたはそうでも私は違う」を持っている。例え他者から見れば誤差の範囲だろうが、一人一人自分の腐女子としての輪郭をはっきりと持っていて、その差違をないがしろにされることを嫌う。
なんでだろうな、「男」「女」なんてカテゴリよりずっと狭いのに。
でも、もしかしたら、本来人をカテゴリで語るなんてのはこんくらいめんどくさくて然るべきなのかもしれないが。
なんで男同士に萌えるの?
と問われたとき、私にとって一番原点に近い表現をしてるのは下記の動画だ。
ここで言われているのは、端的に言って、
ホモが嫌いな女子なんていません!という平成も浅い頃の暴言があるが、
少なくとも女子の多くは、おっさん同士が無邪気になかよしだとわけもなく嬉しい。と、思う。
ヒロエさんは男性なので男性にもある程度は通じる感覚なのかもしれない。
でもまあ、人と人が仲良くしているな、と見てとれるとき、その多くは喜ばしい。
にこにこと仲良く戯れていたら、やっぱり微笑ましいしなんだかうれしい。
でも男女だと、そこに性の香りが漂うと、感想の種類はぐっとかわる。
終電前の改札前でいちゃいちゃしてる男女はまあまあ見苦しい。優しい気持ちにはならない。
でも、たとえおっさんのいちゃいちゃに喜ぶ人が世の中の何割であろうと、みんなが腐なわけではもちろんない。
だってみんなチームナックスを見ても彼らのセックスを連想しない。
(腐女子が全員セックスを連想しているかというとそうも言い切れないが…ここはややこしいがとりあえず話を進める)
そもそも前述の通り、人と人が仲良くしてるのは微笑ましくても、性的な要素は多くの人にとって微笑ましくない。
腐女子は微笑ましいものにわざわざ性の要素を見いだそうとする。
ようやくねほりんぱほりんの話をするが、あの30分間で一番私の心に刺さったのはこの言葉だった。
この、能天気な、使い古されたみたいな言い回しは、けれども「腐」というものの一面をとらえてるんじゃないかと私は思う。
そうなのだ。腐の世界は、すべての感情を、行動を、あるいは状態を、愛によるものだと意図的に読み違えることで成り立っているのだ。
だから、友情にもコンビにも兄弟にも愛を見いだすし、天井と壁にも愛を見いだす。
(ここでいう「愛」は「恋」である必要はないのだが、その辺は後述する)
そして、ここが重要なのだが、性欲とは愛に対して従であると、腐は思っている。
終電前の改札でいちゃいちゃしているカップルはあんまり微笑ましくないと書いた。
見知らぬ人たちが、泊まるか泊まらないかやるかやらないかの駆け引きをしているのを見るのは、何ならちょっと不快だ。
でも、それは、通りすがりの私の目には彼らの性欲しか見えないからだ。
彼らが「心から愛し合っているのだ」と認識したとき、その感想は変わる。
「逃げ恥」のじれじれしたベッド回りのあれこれを見たとき、あれを不愉快に思う人は多くなかったのではないか。
そこに愛を認識できれば、他者のものであっても性欲は不快なものではなくなる。
私もそう思う。
腐の妄想世界のなかでは、人は酸素を吸うように愛を吸っている。
話すのも食べるのも、笑うのも泣くのも、生きるのも、死ぬのも、すべて愛のためだ。
もちろん現実はそんなわきゃない。人は嫌うし憎むし見下すし嫉む。
でも、妄想世界のなかで、それらもみんな愛だと誤認する。意図的にする。
そこまでしてはじめて、恋について語れるし、性欲について語れる。
恋と性が大好きなわけではない。むしろ恋も性も汚い側面を有していることをよく知っている。
だからこそ、「この世のすべての感情は愛」な妄想世界にトリップしてやっとようやく、恋と性について語れるのではないか。
なんでだろうね。
天井と床の間に、唐揚げとレモンの間に、電車と駅の間に愛を見いだすとして、
どうして男女でもなく女同士でもなく男同士にたとえてしまうんだろう。
少なくとも私は、腐以外でこの手の「愛を見いだす遊び」をしている人たちを知らない。
「私とは違うなにか」でありかつ「同質に並び立つ二人(ふたつ)」が重要なのかもしれない。
私という現実の人間は愛じゃなくて酸素吸って生きてるので私に近い要素は必要なく、
彼岸の愛の世界で生きている人たちは同じ愛を吸う同じ種類の生き物だと思うのかもしれない。
やっぱ苦しいな。単にちんこすきなだけ!っていう清々しい腐のみなさんが一定数いることは書き添えておく。
ねほりんぱほりんでは、一人の出演者が男性にしつこく付きまとわれた過去を話した。
それがマジとか嘘とかマウンティングとか違うとかはどーーでもよいのだが、
ただ、そうなのだ。腐という趣味はその人の性的経験としばしば関連付けて語られる。
本人も、「私はなぜ腐女子なのか」と考えるとき、自身と男性との関係性について考えてしまう。
では、愛でくるまなければ恋も性も語れないというこの増田は、一体男性にどんなトラウマがあるというのか…!????
私は、そんなの聞かれなくていいし考えなくていいと思っている。
なぜ好きなのか?を考えて、趣味と過去の経験を結びつける必要はないのだ。ましてネガティブなものとなんてぜんぜんいらない。
何が好きなのか、どんなところが好きなのか、そんなことを考える方がずっといい。
でもなーーしちゃうんだよな!なんでだろうな!!
ねほりんぱほりんの三人の腐女子たちが自分はどんな人間かを語っているとき、私にとって目新しい言葉はひとつもなかった。
彼女たちの自己分析は、ネットに転がっている腐女子「たち」の語りの集大成のようだった。
どっかで見たことばっかだった。
腐女子は、「100人いれば100通り」であるにも関わらず、どこかで「私たち腐女子」という自意識を持っている気がする。
誰かの自己分析は私の自己分析で、自分について語る言葉は際限もなく膨れ上がる。
「私たち」は常に語らなければならないと思っている。
養老孟司が「いわゆるオカマの人は頭をよく使う」ということを言っていた。
マツコは「そうかもしれない」と応じた。「だってアタシ、トイレ入るときだって、自分はどっちなのか考えるもの。」
「私は何者なのか?」を考えてしまうのがマイノリティなんだと思う。
人はじぶんがマイノリティの側であると思ったとき、「私はなぜこうであるのか?」を考えずにはいられない。
腐女子もそうなんだと思う。「私はなぜこうであるのか?」それを語るために、「私たち」は「私たち」を語る言葉を溜めていく。
100人いれば100通りのはずの私たちは、似たような言葉を使って自分を語り、共感し、それでいていっしょくたにされることを嫌う。
私は何者であるのか。
私について私が語るとき、私は自分が女であることより、30代であることより、会社員であることより、腐女子であることを語るだろう。
「私たち」は問われ続けるし語りつづける。でもいつか、自分のネガティブな経験と腐を繋げて語る人がいなくなるかもしれない、と思う。
ネットでたまに見かける「強制徴収した受信料で作られた番組なんか観るもんか!」ってタイプじゃなくて、なんかNHKはダサいみたいに信じ込んでいてチャンネルの選択肢から外してる人っているよね
というか、昨日まで実家で一緒に過ごしてた俺の兄妹たちがまさにそれだったんだけど
兄(30代半ば)も妹(20代後半)もそれぞれ民放バラエティーがまだ広く人気だった時代に育ったせいか、“NHKを観る”という発想がそもそもない感じ
でもなぜか紅白だけは観ていた
俺はNHKをよく観ていて、2355で1日を締めくくるような生活を送っている
年越しに2355スペシャルを観ていた俺を兄妹たちは「NHKなんて見るんだ……」と奇異の目で見つめていた
そのあとに続けて放送されたねほりんぱほりんスペシャルも、兄妹たちはそういう番組があることさえ知らなかったようだ