『古くは魔素田と呼び、構成員に憎しみやルサンチマン、相互不理解などを延々と連環させ、魔なる物の養分となる負の感情を大量生産する田となったことから、この呼名がある』――増田日刊新聞社増田語事典より
エマージェンシー作業服は、日本の政治家にとって重要な正装であり、非常時にこの服装で会見を行わないと、ケジメや支持率低下につながるのだ。
どんな投稿に興奮なさるのですか?
24歳、女。
その事についての罪悪感だとか、自分の不甲斐なさだとか、そういったものが自分の中で折り合いがついていないのでここに書く。
私はそこで販売職として入社。大卒で販売職か、と思われるかもしれないが、接客が好きだし、人事もとても感じが良く、良い企業に入れたと喜んでいた。
自分で言うのもなんだが、私は同期の中では学歴が高い方だし、研修中は積極的に発言し、プレゼンもよく褒められていたし、私は人事から期待されてると思った。
50代男性。売れないと、あからさまに機嫌が悪い。他ブランドをけなしまくる。舌打ちをする。あとは特定されてしまうので詳しくは言えないが、あまりにも態度が悪すぎて、百貨店をクビになったこともあるらしい。色々問題はあるものの、大きな店の店長を任されていたのは、販売員としての実力があるからである。(いくら実力があるからとはいえ、問題のある社員を大きい店の店長にしている自体、会社のおかしさに気づくべきだった)
先輩も、ちょっと変だった。
全然接客しないし、パートさんとおしゃべりばかりしていた。商品の知識は、聞いても大体分からない。
勤務中に、定時前なのに勝手に帰ったこともある。私の事を生意気生意気言い、話を大げさにして悪口を広める。
今思えば、他の先輩も非常識だったり失礼なヤツが多かったと思う。
しかし、悪いことばかりではなく、職場では私はすごく若かったから、みんなに可愛がられたし、楽しいこともたくさんあった。
その問題ある店長も、表では怖い顔しながら、裏では私のことをすごく褒めていたりしたらしい。
私は、売上も良かった。他の先輩が、本当によく頑張ってるよね、と声をかけてくれたこともある。
店長の態度は少し良くなったが、売れないと睨むなどの威圧的な態度は変わらなかった。
50代女性も相変わらず悪口を広めるし、何か聞いても「は?」だったが、もう諦めることにした。
あと一人、嫌な人がいた。
40代女性パート。表では、私の事を可愛い可愛いいうくせに、私がミスすると鬼の首をとったかのようにみんなにミスを広める。
特に、お局的パートにすぐに言いつける。肌荒れてたり、唇が乾いてたりすると、「うわー肌荒れてるねー!」とか、「唇ガサガサだね!」とか言ってくるのもすごく嫌だった。
でも、人事には今の状況は再三言ってるし、注意もしてくれていた。
店自体は好きだし、仕事も慣れたところだし、異動する気はなかった。
上司が嫌だとか、職場に嫌なヤツがいるというのはよく聞く話だし、こんなものかと思っていた。
色々辛かったけど、「こんなもの」と思って受け入れることにした。
そして仕事のやる気も下がっていき、ほぼスッピンに近い状態で出勤したこともあった。
あと、仕事で怒られて家で泣いたり、家族に当たったりすることも多くなった。
仕事に身が入らないからミスをし、それを怒られ、また仕事に身が入らなくなるという負のスパイラルであった。
その日は体調が悪いと言って休み、次の日もいけず、これはヤバいと思い精神科に行ったら「休職しなさい」ということで、それ以来この店では働いていない。
人手不足の中、私が急にいなくなったことでどんなに迷惑しているだろうと思うと本当に死にたくなった。
2週間くらいは泣きすぎて記憶が無い。1ヶ月経って、精神科の先生に働いてOKと言われたので、異動して働く事になった。
お世話になった店に、挨拶に行ったら、お局的パートに「あんたみたいなのは異動先でも生意気なこと言って殺されるわよ」と言われた。怖い。
次のお店は、人は本当に良い人だった。
生意気だなんて、一回も言われなかった。
しかし、私はうつになりかかってしまったのか、能力が驚く程落ちてしまった。
とにかく、忘れっぽくなってしまったのである。言われた指示を、最後まで聞いて、覚えて、実行するということがさっぱりできなくなってしまった。
今度の店長はすごく良い人だったが、さすがにイライラしていた。
また、通勤中や、お店に立っている時、動悸がした。
非常に疲れやすく、駅のホームでしゃがみこんでしまうこともあった。
家に居る時も、何にもないのに涙ぐんでしまう。
お客様に笑顔を向ける、ということもすごくしんどくて、ついに感じが悪いというクレームも来てしまった。
まともに働けていないし、仕事を辞めたいと店長に相談したところ、人手不足なので辞めてほしくない、退職はいつでもできるから、また休職してはどうかと言われた。
2回目の休職では、休みに入った途端、色々な抑うつ症状がいきなり治ってしまった。
今まで、期待に応えなければいけない、新卒で入った会社はなるべく辞めない方がいいという考えに縛られていたが、その限りではないのではないかと思った。
見たところ、店長は色々なことが求められるわりに見返り(給料)が少ない。
最初は、私もゆくゆくは店長となり、店を引っ張って行こうと考えていたが、これは、あまり良い道ではないかもしれない。
それに、第二新卒で辞めた人は何人かまわりにいるが、みんな普通に働いている。何とかなっている。
なかなか上手くいかなかったが、私はとある企業の営業職に内定をもらい、そこに勤める事にした。
退職について話し合った人事は、私が就活のときからお世話になっていた方だった。
私が退職をしたいというと、やはり暗い顔をした。
しかし、私の意志が固いのをみると、「分かりました、また機会があれば一緒に働きましょう」といって退職を受け入れてくれた。
短い間だがお世話になった2回目のお店にも、退職になった旨をご挨拶に行った。
社員の中には、私が一人前になったら辞めようと思っていた人もいて、帰ってこなくて残念だと言っていた。
これも自分の決断なのだが、やはり、今でもこのような退職をしてしまったことについて色々思う事がある。
規則正しい生活をしているか、食事は3食しているか、先輩が私に意地悪だったのは、私にも原因があるのではないか。
日々の生活時間を書くように言われた紙を、さも規則正しく生活しているように、雑な字で出してしまった私。
一日中やることがないのに、規則正しくなんて生活できるはずがなかった。休職中は、絶賛昼夜逆転中だった。
その紙を見た人事は、絶対、嘘を書いていると見抜いていたと思う。そういう顔をしてたから。
1回目の店では、ひどいことが色々あったけど、楽しいことも色々あって、意地悪な先輩も優しいところもあって、辞めたいとは思っていなかったこと。
2回目の店では、今度こそ頑張ろうと思っていたこと。でも、ダメだったこと。
めちゃくちゃ覚えが悪かった事。そのせいで店長を顔が引きつるほどイライラさせてしまったこと。
会社の期待に沿えなかったこと。
なんでこうなっちゃったんだろうな、どうすれば良かったのかな、と、今でも思う。
しかし皮肉な事に、あれだけ企業の専門医に「規則正しい生活をしなさい」と言われていたのに、休職中はまったく規則正しい生活はできず、新しい会社に入った今、11時に寝て7時に起きる生活ができている。
そもそも、販売職は早番遅番の日があるし、規則正しい生活は難しいのではないか。
今は、なぜか実行能力も上がり、帰ったら資格の勉強なんかしてしまっている。
資格を取ったり、上に行けば行く程見返りがドンと大きい仕事をしているからである。
思えば、もっと雇用の流動性が強くて、「新卒はすぐに辞めると良い目でみられない」などの偏見がなければもっと早く辞めたのにな、と思う。
少なくとも、いきなり会社にいけなくなったりすることはなかった。
今は体調良いし仕事もまあまあ上手くいってるから順調だけど、未だ前の会社のことは1日5回以上は考えてる。
その度にああでもないこうでもない思ってる。
知恵袋を大いにさらったらとりあえずバッテリーなしでも動かせるらしい。
多分大丈夫だろう。
でもクソ高いバッテリーを買い替えないといずれ異常をきたしそう。
そんな予感がして今から戦々恐々。
ぼくは灰原哀が誰だかは知らないが、落とせない女性などはいないと思っている、所謂恋愛強者だ。
一般的に強者が弱者の力になることで社会の停滞は終わりを告げるとされる。
社会の為にも、灰原哀を落としたいあなたの力になってあげるべきだとぼくは思った。
灰原哀をネット調べてみると、wikipediaに項目があった。
なに、有名人だとしても恐れることはない。
灰原哀のwikipediaを開くと予想以上にごちゃごちゃ書かれていた。
ぼくは長い文章が苦手だ。
長いwikipediaの記事を読んでいると眠たくなってくる。
・灰原哀の嗜好
このふたつのオブジェクトを並列に記す点から推理する限り、好きな女性雑誌とはananみたいな情報誌ではなく、VOGUEやHarper’s BAZAARあたりのモード系ファッション誌とみて間違いはないだろう。
VOGUE以外のファッション雑誌において「よく買う」はありうるが、「好む一面」と第三者に見られるような行動は取るような状況は一般的に考え難いからだ。
ならば簡単だ。
こまめにセンスの高いブランド物をプレゼントして、彼女の審美眼を、センスを褒め続ければいい。
……待てよ?
なにか引っかかりを感じた。
なにが引っかかっているのか。
すると、そいつは姿を現した。
ビンゴ! よーし良い子だ。
灰原哀はブランド物や女性雑誌が好きなのに、おしゃれではなかった。
それを示す画像が次々に表示された。
ブランド物と、女性雑誌を好むとする女性がなぜこんなにも女子アナみたいな(夏目三久を除く)コンサバティブなスタイルを採択しているのだろうか。
なにか理由があるに違いない。
なるほど、そうだったのか灰原哀。
わかったぞ灰原哀。
ぼくは思い出す。
彼女は言っていた。
「結局男ウケするにはコンサバなのよ」
そうなのだ。
つまり、灰原哀はこのお局さまと同じく、「本当はモードファッションでガン攻めたいけれども、男ウケを考えてコンサバに抑えている」。
従って灰原哀とはお局様同様、「彼氏募集中」だし、男に飢えている餓狼状態なのだ。
これは追い風。
いま、あなたはセンスを問われるブランド品のプレゼントを買う必要もなくなった。
なぜならば彼女は「いい男いねーかなー」よりもやや自信の低い「誰でも良いから付き合いてーなー」という状態だからだ。
ストーカーにならない距離感で、まめに存在をアピールしていれば、焦り始めるクリスマス前やバレンタイン前に落ちる。
逆に吉野家に連れて行くとかでも落ちる。
ちなみに、お局様はというと、今年のバレンタインの後、モードファッションに戻った。
バレンタインの夜は、ぼくと池袋でも一番安い「ホテル ショコラ」というラブホテルで過ごしたのだが、その後会社で会ってもLINEでもよそよそしくされている。
でもまあ、クリスマスごろにはきっと向こうからなんらかのアクションがあるだろう。そういうものだ。
ああ、いや、ぼくのことはいいんだ。
あなたが灰原哀を落として、社会の停滞に終わりを告げてくれることがいまのぼくにとっては楽しみだ。
頼んだぞ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
「ご苦労様病」だ。
数年前、テレビか何かで「お疲れ様です」は目上の相手向き、「ご苦労様です」は目下の相手向きだとかを知ってな。
まあ、そのときは「文法上、正しくてもそれが世間に浸透しているのなら気にしない方がいい。言葉とはうつろうものだ」と気にも留めなかったんだ。
だが翌日、仕事の後輩がいつもどおり何の気なしに「ご苦労様です」と言ってきたとき、発症したんだ。
私は「ああ、ご苦労様」と平成を装って返したが、錠剤が喉に引っ付いたときのような、心地の悪さを覚えたよ。
自分の理屈の上で「言葉とはうつろうもの」と言いながら、それでも気にする自分に
「ご苦労様」という言葉をふさわしくないとされる状況で使われる度に、私の免疫細胞が死んでいくのを感じた。
……のだが、最近また「お疲れ様です」と「ご苦労様です」の新解釈が出てきて、私は内心震え上がっている。
え……ああ、うん。
……今の戸惑いは、そもそも君と私の関係性をどう判断すべきか困ったからだぞ。
だが、簡単な話だったな。
そう思い込むことが、私の“民間療法”だ。
心に余裕がなくなると、発想が貧困になることはよくある。
でも、熊本みたいな田舎だと、家族みんなで県外に疎開して復旧したら戻ってくるなんてことしたら、
村八分に合うんじゃないか?
みんなが崩れた家から被災者を救うために一生懸命捜索活動してるのに、
そんなのほったらかして、勝手に疎開して悠々自適な避難生活していたら、非難の的になりかねない。
そんなきがしてならんのよ。
金曜日の夜寝ていて気がつかなかったからか、土曜の夕方頃に動き出して数時間で300件近いリツイート
地元以外の人は普通にしていればいいという発言をリツイートしてるのに
お前関東に住んでるだろうが。
震度6の揺れが来たこともあった。
4/14の最初の地震があった時点では、震源地の益城とその近くでは大変な被害があったけど、その他の地域への影響は限定的だった。
一部地域で水道水が濁ったり断水になったりというライフラインへの影響と、スーパー・コンビニから水とパンが消えたというのが主な被害だった。
余震は続いたが、本震は過ぎたことだし、徐々におさまってまた日常が戻ってくるだろうというのが大半の人の考えだったに違いない。僕もそう思っていた。
そして、その不意を突くように、4/16未明、あの大地震が起きた。
南阿蘇村を中心に大きな被害があったことは周知のことだと思う。
この地震以降、僕の周りでも状況の深刻さの度合いが変わった。
ほとんどの店がクローズしており、営業している店を見つける方が難しくなった。当然、営業している店には長蛇の列。
炊き出しや給水場などが増え、そこでお世話になることが普通になった。ああ、ここは被災地で、僕も被災者なんだなと実感した。
事態が完全に回復することの見通しが立たない中、これじゃ生活がままならないなと思った僕は県外の実家に一時的に帰ることにした。幸いにも僕の実家は熊本からそう遠くない。
僕の友人にもそうする人はいたし、テレビでもそういう人たちのことが写されていた。
高速道路が一部閉鎖されたりと多少の交通規制はあったが、通常の1.3倍程度の運転時間で実家に帰りつくことができた。
実家では、スイッチを押せば電気が点いたし、蛇口をひねれば水もお湯も出た。
快適だ。僕はあっさりと快適な生活を取り戻すことができた。
こんなにも簡単に元の生活を取り戻すことができたことに、僕は言いようのない違和感を覚えていた。
そしてその違和感が、熊本に漂っていた雰囲気としての深刻さと、そこから簡単に抜け出すことができたこととのギャップだということに気づいた。
もちろん、阿蘇大橋が落ちて身動きがとれない阿蘇の人達や家が倒壊するなどの大きな被害を受けた人達を始めとした「どうしようもない理由」を抱え、支援に頼らざるを得ない人達はいる。
だがそれ以外の人達は、案外簡単にこの状況から脱することができるんじゃないか。
僕は実家に帰ったが、友達の家でも、親戚の家でもいいし、宛がないならしばらくビジネスホテルに泊まるでもいい。
緊急事態だし、ゴールデンウィークの代わりの旅行とでも思えば出費のことは我慢できるだろう。
熊本は車社会だから大半の人は自家用車を持っている。車を使えば簡単にこの被災地から抜け出すことができるのだ。
仕事は、電気が来てないんだから大半の職場では休業だろう。僕の会社も数日間は臨時休業となった。有給をとってもいいだろう。
地震が起きたのは土曜日の未明だから、土日の間だけでも避難するという選択肢もある。
もちろん県外に出ることを強要することはできないが、何かそこにとどまらなければいけないという思い込みがあるような気がする。閉じ込められたという勘違いがあるような気がする。
ライフラインが機能しない状況では、金銭的に余裕がある人でもその場所に留まる限り、支援に頼らざるを得ない。
余裕がある人は、県外へと出て、自分が支援を受けなくてよい状態にすることが、「本当に支援に頼らざるを得ない人」を助けることにならないだろうか?
その方が、不自由がないからその人自身も時間を有効に使えるし、win-winな結果になると思うのだが。
[追記]
ついにエコノミークラス症候群で死者が出た。
熊本を出さえすれば、あっけないほどに、いつも通りの生活を送ることができるのに。
原発止める止めるなの論争と一時止めたという結果の論争の中に
ロシアからガスを融通されて北方領土問題の立場が明らかに悪くなった(実際にロシアが基地の設置検討とか、いつの間にか「妥協案」という物が日露の間で共通認識になっている)
という対外の話が全く絡んでこないのは何なのかな?って思う