はてなキーワード: 明朝体とは
お前が美しいと思うのは勝手だが、それは正しいことにはならない。
漢字ドリルに載っているのは大抵の場合筆書きに寄せた教科書体で、明朝体ではない。
文化庁は糸の4画目をはねてもはねなくても良い例として上げている。http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2017/08/10/2016022902_besshi01.pdf
私はこの判断に心から落胆し、新潮社という出版社そのものに心から失望した。
まず断っておくが、私は杉田水脈氏の記事(論文とは決して呼ばない)を一切支持しない。
一切、完全に、ただの一行たりともだ。
続く号で発表された杉田氏の擁護記事も、仮に部分的に事実があるとしても一切の論旨に賛同しない。
だが、私は『新潮45』が休刊したことについても深い憤りを覚えている。
杉田氏の記事ならびに擁護記事に批判が集まったあと、新潮社代表取締役の佐藤隆信氏は以下のようなリリースを発表した。
https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180921.html
弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。……
このリリースで佐藤氏は、『新潮45』が差別的な記事を掲載したとは一切認めていない。
まずはじめに言論の自由をうたい、《今後とも》差別には配慮する=今までも差別には配慮していた、としている。
『新潮45』の問題はあくまで「常識を逸脱した偏見」と「認識不足に満ちた表現」(不足に満ちた?)だ、ということだ。
https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180925.html
会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました。
これらのリリースから、新潮社が何を問題視して休刊に至ったのか、私にはよく読み取ることができない。
「言論の自由」を重要視するならば、「常識を逸脱した偏見」という言葉は矛盾している。
なぜなら、偏見は時に常識の顔をして生活に根付いているからだ。それに対抗しうるのは言論しかない。
「言論の自由」をうたうなら、常識から逸脱したことを謝罪するのは自殺行為だ。
「認識不足に満ちた表現」というのもよくわからない。誰の、何に対しての認識が不足していたのか不明瞭である。
(筆者の、LGBTに対する)認識が不足していたというならば、それは表現ではなく論旨そのものに直結する問題だ。
二度目のリリースの「編集体制が十分でなかった」ことから無理矢理意訳するなら、言論としての質が低かったことがもっとも重大な問題、と理解すればいいだろうか。
佐藤氏はこの問題に関して、何よりもまずはじめに言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立に言及した。
『新潮45』は、私の目には差別的・侮辱的で唾棄すべき蒙昧な文字列だったが、
佐藤氏は質が低いことは認めても、差別的であるとは最後まで言わなかった。
杉田氏の記事およびその擁護意見を、新潮社として「自由と多様性」の一部として認めるならそれでもよい、と私は思う。
だが、それが社としての意見だというならば、そして問題は「質の低さ」だというならば、少なくとも新潮社にはこの問題について「質の高い」意見を示す社会的な責任があったのではないか。
そして、「多様性」を庇護したいのならば、杉田氏および擁護意見への反論も意見として熟議し、「多様性のある」議論を展開するべきではなかったのか。
それこそが「言論の自由」を保証した、出版社としてあるべき姿だと思う。
その範を示すことが、長い歴史と信頼のある大手出版社の役割であり、代表取締役が「言論の自由」に言及した意味ではないのだろうか。
質の高い多様な意見を募るには歴史と信頼と知性の集積が必要だ。そんな出版社はそう多くはない。
けれど、新潮社ならできたんじゃないのか。
今回、新潮社は『新潮45』の廃刊という形での幕引きを図った。
批判に応答もせずに。
言論の自由をいちばんはじめにうたったはずなのに、世間の声に反応して言論の場そのものを潰すという、もっともするべきではないことをした。
しかし、新潮社は本当に、この幕引き以外選択肢はなかったのか。
新潮社でさえこんな風に逃げ出すしかないのなら、我々はいよいよ、批判を躊躇わなければならなくなる。
意見を示す出版社側は、「常識から逸脱した」意見を出すときは『新潮45』のように潰されることに怯えなければならず、
批判する消費者側は、自分自身の批判が言論の場を潰し、言論封殺の謗りを受けることに怯えなければならない。
新潮社は「質の高い」反論をすることも批判を受け止めることも投げ出して、結局真っ先に言及した「言論の自由」を蔑ろに踏みにじった。
私にはそう思える。
そして、そんな愚かな選択を、あの新潮社がしたことに心から失望している。
はじめて買った文芸誌はyomyomだった。
100%orangeのかわいい表紙に、めくると広がるとりどりの物語に心をときめかせて創刊から買い続けた。
新潮文庫の背表紙が好きだった。明朝体の文字だけのそっけなさ。
書店に行くたびあの背表紙群を眺めて、次は何を買おうと迷うのが楽しかった。読んでも読んでも読みたい本が尽きない。頼もしかった。
新書の玉石混淆さにはもう十年以上もうんざりしているけれど、それでも新潮新書には基本的に安心感を感じていたし、学生時代の論文でも、参考文献に新潮社の本を何冊も並べた。
今はただ悲しい。
名前の漢字の部首として『令』が入るんだが、その『人』の中が『、』の下に『マ』と書くのは間違っていて、『-』の下に『ア』と書くのが正しいので、二重線を引いてそのように直すよう言われた。
そこで、おそらく役所では国語の教科書や書道で習う漢字ではなく、明朝体の活字やPCで表示されるフォントの方が正しい漢字だ、との判断があるんだろうなと推測し、
「じゃあ渡辺さんとかの『辺』のしんにょうも、学校で習った書き方じゃなくて『之』みたいに書かないと書類出せないの?」と聞くと、それは「?」って顔をされた。
特に言い争いをする気もなかったので役所の言う通り書き直したが、なんだか釈然としない。
どういうルールがあるんだろ。
※前回
http://anond.hatelabo.jp/20170121220211
〜これまでのあらすじ〜
転職エージェントには見捨てられた。そう思っていた時期が私にもありました。
でも、違ったんです。
あのエージェントさんはこんな私にもたくさんの仕事を紹介してくれて…
あれ?私、卒業後のアルバイト歴は11ヶ月っていいましたよね?
これ、ココ、実務経験3年以上って書いて…ちょっと、ちょっと!!「あとはやる気アピールで頑張れ」ってちょっとー!!そりゃないですって。
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家に帰ってひとり。どうぶつの森の一番初期状態の部屋みたいな何もない部屋で、分厚さにして岩波の文庫本(薄め)ぐらいある書類の束をパラパラと眺めていた。どれもこれも、私の職務経歴では無理な気がしてならない。
困り果てた私は、担当の女性に助けを求めた。しかし、担当さんは「だぁいじょうぶですよ。とりあえず気になったものにエントリーするところからはじめましょう」と言う。
私が油なら、彼女は水だ。完全に弾かれてる。私、担当さんの表面を浮いてる。ジョイのCMのアレみたいになってる。
そこまでいうなら、エントリーしようじゃないの。
私専用の転職活動用マイページには、真っさらなグラフと棒人間のイラストが表示されていた。何件かエントリーすると棒人間が歩きはじめ、グラフが伸びた。
ほらほら。私応募したぞ。お返事は?
…ほらほら。
あ、きた。
「経歴が弊社の求めるものとマッチしないためホニャラララ……」
ほらほらー。ほらー。
こうなるじゃないですかー。何がマッチですか。ギンギラギンにさりげなくお祈りしてきやがってー。そいつが俺のやり方〜ってやつか。
そこから私はなにか吹っ切れた気がした。これは地獄のエントリー千本ノック。的な…(最終的に千件もエントリーはしてないけど。)
かのキリストが説いた「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」の如く。右のエントリーが落ちたら、すかさず左のエントリーを差し出す日々が続いた。
そんな中、面接まで漕ぎ着ける事ができた会社がやっと出てきた。
心ウキウキワクワクで会場に赴いたところ、何故か面接官は外国人。英語で面接を仕掛けてきた。クリアアサヒじゃなくて、肝が冷えてる。
英語が得意なんて一言も私はアピってない。「簡単な語学力テスト」があるとは聞いていたが、もしかしてこのことか。
面接官「"هدف مدرسة كيئو" فوكوزاوا يوكيتشي」←よくわからない英語
と、終始こうで、私は完全にパードゥンしか言えない壊れたオモチャ状態だったため、途中から面接官が普通に日本語を喋りはじめた。
やる気アピールなんてこれじゃ無理だ。
もちろん結果は…。
とまぁ、最初の面接でかなりブットビだったため、後々の面接はあまり緊張せず臨めたのは良かった点だったが…。
その後も、逆転裁判でしか見たことのないような四角形の謎のフォーメーションのおじ様×6に囲まれての超圧迫面接や、やる気のなさすぎる人事の面接と呼んではいけないシロモノを体験したり
キンギョを吐いたり ロウソク消したり
お店のカートで激走
ラヴィ!
でも何となく、そんな中で、自分に求められているのはあってないようなスキルの無理矢理なアピールではなく、今後の展望と今までの自分を照らし合わせてしっかり伝えていく事だと分かりはじめた。私みたいにアルバイター上がりの若者には、ハナからその点を期待して人事も面接をしていない。
そこに気づいてから、新卒の時にはなかった落ち着きを持つ事ができた。
最後の方には逆に人事を私がこっそり面接(?)するくらいの余裕まで持てて、つまるところの“モテキ(明朝体・斜体)”である。持て持て。
就活をはじめてからいくつもの面接を語り明かした はちきれるほど My Dream
リクルートバッグひとつだけで 面接会場へIn the sky
みたいな感じで、飛び回っていたら、タイトなジーンズにねじ込む私という戦うbodyがすこし減量に成功していたり…そんなこんなで上京して2ヶ月が過ぎる頃。
遂に私は最終面接というゴール地点まで到達することに成功した。
次回[5]がおそらく最終回です。
http://cropcrop01.hatenablog.com/entry/2017/01/01/210434
上記のブコメにこういう声があった。
そして、「女性向けなのでピンクを基調に…」というせりふはかなり頻繁に口にする。
配色というのは、要するに、「ターゲットを明確にする」行為だ。
女性向けならピンクやソフトなトーンの色味で、文字は丸ゴシックか細目にする。
高年齢向けの商品なら茶色などの落ち着いた色味にして明朝体にする。
少なくとも、売り場に並んでいるとき、「あ、これが自分向けのものだ」と思ってほしいからだ。
それが、かっこいいか?というとかっこいいと思ってるわけではない。
でも、少なくとも、売り場に並んだ時に「誰に向けた商品である」かは明確になる。
デザインで売るタイプの商品ならば、時間をかけて全く違うアプローチができるだろうが
デザインに金も時間もかけられないから、ともかくターゲットにリーチすることを考えて
存在することがわかっているし、だせえとはおもっていても、ダサさに則って仕事をすることはあるというだけのこと。
「ダサい定型」に、アートディレクションを用いて抵抗するほど、デザインに手数をかけていられないのだ。
だから、エロ広告がピンクや優しい色味をメインにしてるからと言って
「やっぱり女はピンクが好きなんじゃんw」などというのはばかげている。
世の中のデザインは、一部を除いて、「綿密なマーケティング」に基づいて組み立てられていない。
ただそれだけのことだ。
手書き崇拝が色濃く残る履歴書だが僕の学校も例に漏れず手書きでなければいけない。
高校生用の履歴書はどうやら志望動機の欄が大きく、10行ほどの志望動機を書かされる。まあ別にそれは良い。
でもそんな長いもの書かせるんだったら修正テープ使わせて欲しい。一文字書くたびに「これミスったら最初から」と思うと手が震えるし集中をなかなかの時間持続させなきゃいけないから辛い。
パソコンでも良いではないか、なぜ手書きなのだ、と担任に聞いたところ「気持ちが伝わるから」だった。お気持ちが一番伝わるのはビデオレターなのだ、というのが周知の事実の中この理由はまあまあキツく、多分いろいろと面倒だからなんだろうな、と思った。
明朝体のテロップを入れつつも説明する気がまったくなさそうな速度で切り替わっていくカットに専門用語を早口でまくしたてるセリフ回し、そして未知の恐怖としてのゴジラ。
もーかっこいい。ヤバい。中盤ぐらいまでこれでもかと言わんばかりに詰め込まれてて眼福。
ほらシン・エヴァはこねくり回してもはやよくわかんないことになってんじゃん? だから何のしがらみもなく「ぼくのかんがえたこわかっこいいごじら」を素直にやれたからこれだけの品質になったんじゃないかな。
・ゴジラ怖え
vsシリーズを経て日本映画の顔となっていたゴジラは知己みたいなもので、恐怖の対象ではすっかりなくなっていたけれど、今回のゴジラはふつーに怖い。何してくるかわからない未知の巨大生物感がモロに出てて怖い。ほんと怖い。
このゴジラのっそのっそと歩く。人を見ても襲ってこない。てか視界に入ってない。だから食われるとかそういう怖さはないんだけど、その分どうあがいても止められない。何でいるのか何をしようとしているのかどこに向かっているのかどうやったら駆除できるのかわからない。何もわからない。
わからないって怖いこと。それを存分に教えてくれる。
劇パト2は国内でテロがあれば日本は変わるかっつーメッセージがあったけど、本ゴジラはもっと直截に3.11という国難に立ち向かった日本と政府を描いてるんで。
3.11の後はじめて核の落とし子たるゴジラを描くのにそこを無視するわけにいかんのは事実だけど、そこにフォーカスしてどーのこーのと場外乱闘してほしくはないなーと思った。
超巨大怪獣あらわれたー! プラレールどーん! を本気でやってる映画なんでね。ガキかよマジで最高だな! と俺は思った。
環境省かどっかの生物得意系女子で、いわゆるはみ出し者。この映画どの人物もだいたい早くしゃべるが、それに輪をかけて早口。優秀だけどそのぶんINT全振りみたいな感じで誰に対してもつっけどんで常に真顔。
で、この子、物語の終盤に一度だけ笑うんですよ。ゴジラが撒き散らした放射性物質が数年内に消え去る可能性があることを突き止めて。今までニコリともしなかったその子が見せた心からの笑顔がもう可愛いのなんのって。天使ですよ、マジで。これは日本中が恋に落ちる。
与えられた任務にただ忠実な優秀だけど冷たい感じの子かと思いきや、東京は甦るって知って、心の底から嬉しくなって笑うんですよ。実はぐう聖でしたってどんな大正義だよ。もう大好き。
他所で書いたが消されてしまったのでまとめ直してここに書キノコす。
模倣元とされるアレが、ヤン・チヒョルト(Jan Tschichold)氏のイニシャル「J.T.」であるように、初期案の赤丸は「省略を表すピリオド」を模していると考えるのが自然。
Tに様々なキーワードの意味を込めてるとは最初から言ってるし、読点付けるデザイン自体はごくありふれたモノだから(例えば「モー娘。」)、氏の作品を見ずとも「T.」+九分割であのデザインに至る事は十分あり得ると思われる。
ところが。
以上を見るに赤丸がピリオドである可能性は自ら否定してしまっている。
しかもアルファベット一覧に赤丸の無い字もある事から、重要な要素だという説明まで否定されている。
デザイナーの言うように、素人はデザインについては詳しくない、もしくは分からない。
だがパクリが悪いという事ははっきりと分かる。
つまり一部のデザイナーが素人は黙ってろと主張したのは、パクリを最大の争点にするのをアシストしたのかもしれない。
逆に素人とじっくり議論する構えを見せていれば、デザインの良し悪しだけをずっと争っていた可能性も微レ存。
思いつくのは2つ。
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。
茶髪にして、パンケーキ食べに行って、ディズニー行ったのに自撮りばっか載せて、せっかく受験勉強頑張ったのに1限めんどいとか楽単とか言っちゃって。大学生活を就職までのモラトリアムとしか考えてないような人達は何を考えて毎日生きてるんだろうか。
普遍的な物ばかり好きで、見た目も性格もツイッターでの話し方も似たような奴ばかり。
自分ってなんだろう?とか、死ぬってなんだろう?とか考えたことあるのかなぁ。
きっと少なからずあるんだろうけど、私には彼女達はロボットの様に見えて、何も考えずにいるようにしか見えない。
個性って一体なんだろうか?
所謂サブカル女子とかも、マッシュルームカットにアラレちゃん眼鏡、奇抜なシャツとかが軽くテンプレートになっている。松本大洋と大友克洋好き!とかね。サブカル女子は周りと被りたくない気持ちが強いから、好きな作家とかは変動ありそう。
イラストが趣味の人だって、先述のサブカル女子なんかは明朝体を駆使しながら似通ったものを描く。腐女子は三白眼の女っぽい顔した刀剣男子を描く。
量産型大学生を小馬鹿にしてる層の人達だって、ジャンル毎に似ているようにしか見えない。
そんなことを考えると、こんなこと言ってる私だって、きっとどこかの量産型⚪︎⚪︎なのかもしれないと思う。
私はサブカル趣味じゃないし、BLは嫌いだ。パンケーキもInstagramもFacebookも自撮りも皆嫌いだ。
毎日似たような人しか居なくて辟易しているただの大学生である。
そんな自分って一体なんだろう?
たまに増田に書いてるメンヘラです。前に書いたやつのブクマとかトラバ、はてなーのことだからきっと「メンヘラ死ね」とか書かれてるんだろうなと思って読んでませんが。不採用通知が届きましたので全文引用したいと思います。
この度は小社の社員募集に際し、ご応募いただきましてありがとうございました。
だそうです。
ぼくがハロワで紹介状をもらったとき、36人が応募して31人が不採用、5人が結果待ちという状況でした。ちなみに、採用人数は5人で、紹介期限は1月31日です。その紹介期限ももともとは12月31日だったんです。その紹介期限がすぎて採用人数が0人だったから1ヶ月伸びたみたいです。
採用する気あるんでしょうか。結局身体障害しか受けつけてないんですよね。ハロワの求人の段階で身体障害に限定してしまうと差別になるので、「障害者」ということで身体障害、知的障害、精神障害のすべてを受けつけてるという体にしてるんでしょうね。
でも正直言ってそういうのめんどくさいです。履歴書送るのもタダじゃないんですよ。メンヘラは受けつけてないって明示してくれればこっちも助かるのに。
あと、こっちは14日に出してるのに、なんで書類選考に1週間以上かかるのか意味がわかりません。書類ではねるかどうかなんて30秒でわかるんだから、次の日に不採用通知出してくれればいいのに。
あと、腹が立つのは、妙なフォントで印刷されてるってこと。普通に、MS明朝でいいんですよ。なんですか、このフォントは。たしかに明朝体の一種ではあるけれど、なんだか必要以上に厳かな雰囲気を出そうとして、なんかもうアホかと思いますよ。そのくせ社名はゴシック体の太字。ふざけてるんですか?
辞書編集者の飯間氏が指摘したのは「PCで使用されるようなフォント丸出しの字体を大河ドラマで使うのはどうなの?」ということなのだが、その反応を見るといくつか誤解しているコメントが見られる。
1.「幕末に明朝体って……」→明朝体は当時にもあった。指摘されているのは当時なかった字体(花燃ゆで使用されたのは小塚明朝と言われている)が使われていたということ。
2.「小道具の古書の題字がフォントを打ち出して印刷しただけって…」→そうではない。ドラマのキャプチャー画像と小塚明朝で打ち出した「海防臆測」を見比べれば分かるが、ところどころ異なっている。ハッキリ分かるのは「防」の4画目。小塚明朝を参考にして綻びを入れながら美術が書いたと思われる。ハム速のコメント欄には字体の違いからハッキリ「小塚明朝ではない」という意見もあるが。
どんな字体なら文句でなかった?
PCで使用できるフォントでも当時使用されていたような楷書体だったり康煕字典体があったりするので、それを元に小道具の書物を作れば良かった。
保健医の先生が言った。先生の長い黒髪がさらり、と肩に落ち、羽織った白衣に黒い曲線を描いた。白衣の下に紫のセーターが覗いている。先生は続けた。
「それを好んで買い集めるものもいれば、嫌うものもいる。それを嫌う彼らにとっては、ライトノベルは生理的に受け付けないのかも知れないな」
ストーブに乗ったヤカンがシューシューと音を立てている。保健室の窓から覗く外は、もう暗かった。
「面白いと思わないか?ライトノベルを嫌う彼らは『自分はライトノベルが嫌いだ』と言って回るんだ。ネットにそう書き込んだりしてね」
先生の声は女性にしては、少し低い。でもそれは、先生の口調とよく合っているように思えた。
「でもね、本当にライトノベルに興味が無いのだったら、ただ無視すればいい。私にとっては駅前の『富士そば』が視界に入らないのと同じだよ。だが彼らは違う。ライトノベルは気持ち悪い、低俗なゴミクズだ、と声高に叫ぶんだ。いや、『叫ばずにはいられない』んだ」 先生の丸眼鏡から覗く瞳が、ぎらり、と光った。目の錯覚か、片方の瞳が赤色に輝いたように感じられた。
ザアッ、と強い風が吹き、窓から見える木が大きく揺れた。黄色味を帯びた年代物の蛍光灯がチチチ、と点滅し、そして消えた。保健室は真っ暗になった。
「やれやれ、これだから田舎は」蛍光灯の紐を二度、ガチャ、ガチャ、と引っ張る音が聞こえた。
たっぷり5秒の間を置いて、蛍光灯が、ききき、きーん、と小さな音を立てた。蛍光灯が部屋を照らした。
『何か』だった。
人のような形をしたその『何か』は、細い、黒いハリガネのようなものの塊だった。うねうねと蠢くハリガネに目を凝らすと、各々が形を持っているのがわかった。『保険医』 『黒髪』 『白衣』 ---- ハリガネの一つ一つが、文字を形作っている。文字記号の塊が集まって、人の形をして動いているのだった。馬鹿げたことに、文字記号はどれも明朝体のフォントで書かれていた。
『ハスキーボイス』 『男口調』 『紫の縦縞セーター』 …塊から覗く、どこかで見たことのある記号たち。記号が集まり人形となって、人のフリをして動いていることが急におぞましく感じられた。全身の毛がぞわり、と総毛立った。
「おい、どうかしたのか?」 塊が言った。動くたびに、がちゃ、がちゃ、と音が鳴った。塊がぐるり、とこちらを向いた。頭らしき場所にある『丸眼鏡』と『灼眼』の二つの文字がぶつかり、ギギギィ、と耳障りな音を立てた。
「顔が青いぞ。大丈夫か?」 塊の右腕らしきものがこちらに伸びてくる。腕には『実は主人公の事が好き』の文字が見えた。限界だった。もうやめてくれ、と叫ばずにはいられなかった。腕を振り払い、塊を突き飛ばした。塊は尻餅をついた。その拍子にぶつかったヤカンから、熱湯が飛び散った。
「やれやれ」
塊が言った。
「君はきっと『大丈夫』だと思ったんだが」 さほど驚いた様子もなく、塊は続けた。
「『視えて』しまうんだろう。私の姿が。残念なことだ」 塊は立ち上がり、ぱん、ぱん、と掛かった熱湯を払う。