はてなキーワード: タイポグラフィとは
ニコ動で現在開催中の無色透明祭2、簡単に言うとボカロ系の合成音声によるオリジナル曲の投稿祭です。
無色透"名"の名前の通り、投稿者は自らの名前を隠して公開するところが特色です。
名前を明かさないため、投稿者は事前に指定されたところに投稿して、本番は運営アカウントから作品が一斉投稿されます。動画のレギュレーションも厳格で、今回からはサムネも指定され、動画は歌詞の表示のみ、フォントも指定されタイポグラフィーなど曲以外で目立たされる行為は禁止です。
これはネームバリューを配して公平感をだするためのレギュレーションです。つまりネームバリューを取り払ったところで曲を楽しんでもらうという企画です。有名無名を問わず同じ土俵に全ての作品があがることで、純粋に曲のみを鑑賞してコメントを投稿して盛り上がろう、という企画です。この企画に参加したひと、あるいはリスナーにとっては非常に楽しめる企画だと思います。
それが証拠に今回の投稿祭には4800作品が集まったようです。11/2の20:00にその4800作品が一斉に投稿される予定でしたが、あまりにも膨大な作品数のためエラーが起こり実際は21時すぎくらいに一斉に投稿になったかと思います。参加者リスナーとともに盛り上がって今回も盛況の様子です。
しかし。
それは参加者に限ったこと。私はこの祭りの存在は知ってましたが、参加する気はなく開催日なども忘れてました。すっかり頭になくなった頃、私は久しぶりにオリジナル曲のアイデアが湧いて、珍しくアイデアが結実し、合成音声による曲を10月半ば頃に完成させました。とても満足できる出来になり、これはちゃんとした動画をつけなければな、とかなりの時間を費やして動画も作成、伸びることを期待して連休前になる11/2の19時を狙って予約投稿しました。19時に動画は公開され、現在は底辺P(初音ミクの極初期の頃に殿堂入りしたことはある)ではありますがそれなりに順調にいいねもコメントも広告も入り、まずまずなスタートを切りました。そう、この無色透名祭の動画が一斉に公開されるまでは。4800作品が怒涛のように私の作品を流しさりました。同じサムネが並ぶ膨大な数の曲が私の曲を押し流し、本当にぴったりと再生数も反応が止まりました。投稿から2日たった今、凪のように動きがなくなってしまった。
ネームバリューを廃した公平性にこだわるあまり、一斉投稿になったことで、本当に瞬時に私の曲は「〇〇(合成音声キャラ名)オリジナル曲」のタグの数ページ後に押し流されたのです。ニコ動は検索機能が充実してるのでマイナス検索ができる? 誰がやってるんだ。新曲は投稿者自身のツイッターから流入することがほとんどだから問題ない? 実際に押し流されからの再生数が体感できるほど減ったのに?
その公平性というのも疑問だ。実際に投稿祭のタグをみると投稿順によるソートで上に来る作品と下に来る作品があからさまに再生数があがってる。これはリスナーが順番に聴いていこうという意志が働いているせいだけど、作品数が膨大なので当然全曲チェックすることはまれで、当然先に多く聞かれた作品から話題になり、さらに伸びていくわけだ。さらにこれだけ同じサムネの動画が並ぶとニコニ広告による枠がつくことで目立てる効果も相当高いと思われる。今回投稿祭への投稿者には広告チケットが配布されたようですが「広告主の名前には気をつけてください(名前バレしないようにしてください)」と運営が念を押していた。つまりやろうと思えばネームバリューを利用した広告も可能だったのだ(やったひとがいるかは知らん。批判を受けるリスクはあるのでやった人いないと思うが)こんなまやかしの公平性だったらない方がマシだ。
祭りの参加者は楽しかろう。いつもより自分の曲が伸びたりコメントがついたりして嬉しい投稿者も数多いだろう。しかし、私のような非参加者は? 4800作品に流された私の悲しみは? 投稿祭を避けなかった私のせい? 開催期間を投稿者全員知らないとだめなの? 正直非参加者には同じサムネが膨大に並ぶのはスパム以外の何物でもなかったと思う。少なくとも私は全然楽しくない。 衰退が叫ばれるニコ動だがこのようなイベントを行うには規模が大きすぎるのだ。このイベントが続くならもう少し開催方法を考えてほしい。できれば正直もうやめてほしい。私は参加したくない。
この本読んだことないけど、ちょっとさすがに幅広過ぎて、これ読んだからグラフィックデザインのお約束が分かるタイプの本ではないと思う
ただ読んで損はなさそうなくらい面白そうだけどね
欧文書体―その背景と使い方
この小林章の三冊が入門編としてかなり読みやすくて勉強になる。
座学じゃない部分については課題を出されてデザインして講評されてって形で学んだから、独学での基礎構築をどうすればいいのかわからんすまん
ただゆるパクするときに、そのデザインがどうしてこうなってるのか考えながらやるのが大事だと思う。
あと普段街中の広告とか雑誌とか商品デザインを見ながら、それを分析するのめっちゃ大事。
色はどうだろう、ネットでカラーパレットとか調べてみたら使えそうな配色がいっぱい見つかるんじゃないかな
色彩構成は感覚もあるけど数学的なところもあるから、色を選ぶときにちゃんとCMYKの%を確認して、その色にどんな要素が含まれてるのかを脳に学習させた方がいい
いろんな映画や実社会のパロディがそこかしこに埋め込まれて、最初から最後までただただ下品な笑いを誘う。
小学生が銭湯に浮かんでいるうんこ(実はただの垢)を見つけて、大はしゃぎするノリと思えばまったく悪くない。
ここから【ネタバレ】も含んでいるから、これから見る人は要注意だ。
エヴァの洗練されたタイポグラフィーを、わざと躍らせることで下手っぽくアレンジしたんだよね。だってパロディだから。
どうみても、蓮舫さん、菅総理、二階さん、(似てないけど)石破さんだよ。
彼らが言いそうなセリフが散りばめられているし、大臣付きの官僚の人の苦労も大変っぽさがよくでてた。
大覚アキラのミヤコ様が出てきたときは、思わず、生きとったんかいワレェ~と叫びたくなった。
この映画の中で一番カッコイイ、青島さんはハルマゲドンのハリー・スタンパーがモチーフっぽくて良かった。
ストーリー自体は、確かに尺の都合で省略されてる部分があるなと感じるけど、想像力を働かせれば、ギリギリ理解が及ぶ範囲で作られてる。
ベロチュウしてるか、唇を重ねるだけのキスをしてるかで、愛情の深さの違いを表現するとか、
いつの時代の演出テクニックなんだよと思うけれど、それがこの作品の魅力なんだよね。
カメラワークも今どき普通に撮影したらそうはならないだろう的な、
昔の自主製作映画を模した、わざと下手な動きにしてるところがところどころあるのも面白い。
大怪獣を写すのに、最初に足跡から見せるテクニックは巨大生物モノでは定番過ぎるものだし、
DVDが発売されてブログ等で解説され始めたら、このシーンはあの作品のパロディかとか分かって楽しめると思う。
余談だけど、巨大生物であるクジラの死体が腐敗して爆発するシーンをとらえた動画がこれ。
https://www.youtube.com/watch?v=d2CfYOJ5oxk
最後のほうで、黒塗りになってて劇場では見えなかった部分は、たぶんこれ
https://kinoco-zukan.net/img/kinoco_photo/kaentake_4.jpg
病状的に炎症で腫れあがって、それと見えなかったのだと思う。
具体的な日時や出来事などは言えないし、言語化する過程で失われる情報が多すぎて人にはうまく伝えられない。
何ができるかと言うと、ふんわり今後の社会動向とか、ファッションの流行の動きとか、そう言う自分の興味のあるものについて向こう5年ぐらい?の予想ができる。そして大体当たる。
一番楽なのはファッションで、言語化できない分自分で服をデザインしてみて着ていると半年から2年までに頒布されているのが気がつく。
例えばラベルのデザインやタイポグラフィ、ワッペンだらけの服だとか、ゲームやアニメのデザインを取り入れた服だとか、広告を用いたデザインだとか
自意識過剰かも知れないけど、概ね自分の思った通りに事が進んでいるので気分がいい
ただ、予知ができるだけ。こんな感じになるだろうなーで終わり。
なぜそれが発達したり流通したりするのか、それなら今後どう進んでいくのか、それを用いて自分はどうできるのか。
何もわからない。
例えばこう言うシステムの製品が今後作られて、流通するだろうとか思っていても、それを利益につなげることもできない。
ただ知る事ができるのみで、それ以外の知識も行動の選択肢も存在しない。
自分の為に使いたい特技だけど、結局のところ自分をよく知る人に、ふんわり複雑なまま伝えて推測してもらって
一瞬ではすべて読み終えられないタイポグラフィは好きになれない。
asicsよりダサいロゴってなかなか作れないと思う。あれはひとつの究極形態。
由来までダサい。https://corp.asics.com/jp/about_asics/history
アシックスの社名の由来は古代ローマの風刺作家ユベナリスの「Anima Sana In Corpore Sano」(原典ではAnimaはMens)という言葉の頭文字から。意味は「(もし神に祈るならば)健全な身体に健全な精神があれかしと祈る(べきだ)」。この言葉自体が経営理念であり、「総合スポーツ用品メーカーとして世界のスポーツ文化に貢献する」には「スポーツを通じて世界の人々が健康で幸福な生活を送ってほしい。また、私たちはそのお手伝いをしたい」という強い願いが込められている。 そのasicsのロゴはタイポグラフィーの神様と呼ばれるハーブ・ルバーリンの手によるもの。
lorem ipsum(ロレム・イプサム、略してリプサム lipsum ともいう)とは、出版、ウェブデザイン、グラフィックデザインなどの諸分野において使用されている典型的なダミーテキスト。書籍やウェブページや広告などのデザインのプロトタイプを制作したり顧客にプレゼンテーションしたりする際に、まだ正式な文章の出来上がっていないテキスト部分の書体(フォント)、タイポグラフィ、レイアウトなどといった視覚的なデザインを調整したりわかりやすく見せるために用いられる。
「lorem ipsum」は様々なバリエーションがあるが、もっとも一般的なテキストは以下の通りである。
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実話であるとは言わない。
だが寓話としてこういう話もあると思って欲しい。
会社が昔から取引を続けてきた某クライアントから依頼を受け、最初の話し合いでだいたいのコンセプトを聞き現場担当者同士で話し合いラフを作ってGOサインを出してもらう。
順調にデザインが出来上がり自分なりによいできと思い、直属の上司に経過報告として先方に提出する前に確認をとる。
すると以前現場でデザインをしていたという上司が「以前この会社はこういう方を好んでいた」とダメ出しが入る。
その修正のために全て位置を作り直さないといけないくらいに(タイトル文字を横書きから縦書きにしろくらいの変更)だ。
しかし上司に相談をしてしまった以上は無視して提出するわけにいかず、朝方までかかって修正をする。
最初ほどの満足感はないがまあまあよい感じだ。
その後も細かいダメ出しを提出寸前まで言われつつも最初の案の提出納期に間に合わせる。
無事に先方の担当者さんに渡す。
数日後修正事項が戻ってくる。
先方の担当者さんは申し訳なさそうに「うちの上司がどうしてもとこだわりがあるようで」と箇条書きで10項目以上の修正点を出してくる。
これらすべての平均値をとってみんなが納得する要素を入れ込んだデザインにしなくてはいけない。
当然のことながら配色の原則も、タイポグラフィの選択もめちゃくちゃになる。
そして完成品はまるでパッチワークのような不思議なデザインとなり、最後に上司からこう評価される。
そもそも専門学校に入って学んだことはほとんどなかったように思います。
私はHTML、CSS、JSも多少はできますけど、講師に質問しても調べれば分かるよとしか言われませんでした。
制作物持って評価お願いしても真っ当な答えが返ってきたことはありませんでした。
そもそもうちの専門学校にはデザイナーをやっている講師は2人しかいませんでした。
なんかバーの店員が映像の講師やってたり、無職で何やってたのかもわからない人がグラフィックの講師でした。
嘘かと思うかもしれませんが本当です。田舎の専門学校なんてそんなもんです。
ほとんど雑誌やデザイン本買ったり、展示会に通ってデザイン学んだり、考え方?を自分なりに考察したりしてました。
タイポグラフィ表現に興味を抱いていたので書体のなりたちを独学ですけど学んで、イラストや写真は正直上手じゃないんですけど
文字だけは恥ずかしくないようにしていました。
増田です。
違う業種にいた時の経験を元に、今回の会社でも前の会社での雰囲気というかそういうものを引きずっていたのかもしれません。
練習という部分も社長からそういうつもりでまずやってみようかと言われただけです。
その言葉を鵜呑みにしたことは確かです。(あくまで私の中ではですが、だからといって軽く考えているつもりはありませんでした。当時は)
私はタイプフェイス・タイポグラフィに重点を置いて制作、勉強に励んでいたのですが、そういった部分を面接では社長は感じ取っていただき
雇ってもらったのだと思っています。
他所で書いたが消されてしまったのでまとめ直してここに書キノコす。
模倣元とされるアレが、ヤン・チヒョルト(Jan Tschichold)氏のイニシャル「J.T.」であるように、初期案の赤丸は「省略を表すピリオド」を模していると考えるのが自然。
Tに様々なキーワードの意味を込めてるとは最初から言ってるし、読点付けるデザイン自体はごくありふれたモノだから(例えば「モー娘。」)、氏の作品を見ずとも「T.」+九分割であのデザインに至る事は十分あり得ると思われる。
ところが。
以上を見るに赤丸がピリオドである可能性は自ら否定してしまっている。
しかもアルファベット一覧に赤丸の無い字もある事から、重要な要素だという説明まで否定されている。
デザイナーの言うように、素人はデザインについては詳しくない、もしくは分からない。
だがパクリが悪いという事ははっきりと分かる。
つまり一部のデザイナーが素人は黙ってろと主張したのは、パクリを最大の争点にするのをアシストしたのかもしれない。
逆に素人とじっくり議論する構えを見せていれば、デザインの良し悪しだけをずっと争っていた可能性も微レ存。
思いつくのは2つ。
共感を得に来た。
近頃のオリンピック騒動を見ていたら、論議があさっての方向ばかり向いている。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
やれパクリだの、やれパクリじゃないだの、正直そんなことが重要なわけではないと私は思っている。ってことで各論者たちにツッコミを入れに来た。まぁ見ていってほしい。
あのな、このロゴはな、タイポグラフィーを主としたデフォルメ系のロゴデザインなんだよ?どれも似通って当たり前だろ!目を覚ませ!
何が裁判だ提訴だ。こんな曖昧なもの法廷に持ち込んでどうするんだ!?結果が出ると思ってんのか?てかそれ誰が得するの?
法廷が正義だとか思ってるの?法廷なんて政治ゲームだろ。こんなもん裁判に持ち込んだら、適当なパワーゲームになってうだうだやるだけじゃねぇか!それで結局三面記事の良いネタになってコンテンツ力を失うんだよ!
世はフラットデザイン全盛なんだよ!似通ったロゴなんていくらでもあるだろ!全部訴えろってか?
あのさぁ、言いたいことはわかるけどな、これは芸術じゃないの。クライアントが存在するデザイン業なの。わかる?わかるよね。それが仕事だもんね。
ってことでさ、デザイナが独りよがりで作ったってどうにもならないよね。
ホントはさ、リリースする前に一般人的客観的感覚で、アウトプットを精査すべきだったんじゃないかな?一般人から「これパクリじゃね?」とか「これ○○に似てるよね?」とか意見が出るの目に見えてたよね。それってまずいよね。
そういう精査をしなかったじゃん?だから叩かれてるの。クライアントの感覚置き去りでデザインが世に出ちゃったからさ。
え?「クライアントは国であって、国民の事は知るか」って?それは横暴だよ。国家的イベントであるオリンピックのロゴ制作だよ?一生名前が残るよ?すごい大仕事だよ?それはすごーーーく丁寧にやらないとダメじゃない?
ホントはさ、国民は佐野さんに唯一無二でズバッとした有無を言わさぬデザインを生み出して欲しかったんだよ。たぶん。
ここにほかの人を引き合いに出すのは良くないとは思うけどさ、岡本太郎とかすごいじゃん。唯一無二感半端無いよね。きっと国民はそういう仕事を期待してたのだと思うよ。きっとね。
みんな頭を冷やせ!冷静になれ!
お前たちの戦う相手はそいつじゃない!
ここまで燃えたんだから、みんな悪者が欲しいに決まってる。あいつが悪いって言いたいんだろ?
ってことでとっておきの敵を提供してやる。それは広告代理店だ。
そもそもロゴなんてものはシンボルだ。そいつをみたら「あぁ東京オリンピックだな」と思えるものがシンボルだ。
だからな、乱暴な言い方をするとデザインなんてどうでもいいんだよ!要は決めるプロセスが重要なんだよ!
適当なストーリーと適当な理念と演出で、B層共が適当に納得するように仕向けるプロセスが重要なんだよ!
電通だか博報堂だか知らないけど、ちゃんと仕事しろ!ネゴシエーションしろ!CM打て!適当に民放で「2020年東京五輪 期待!開催までの道のり ~本邦初公開ロゴ誕生秘話~」とか言うタイトルでそれっぽい薄っぺらいストーリーなテレビ番組作っとけ!
広告代理店が無理なら国が仕事しろ!もっと上手くやれ!旗振り役が不在なんだよ!
基本的にオリンピックってのは成功することが前提で出来てるから、成功しても成功したことに対する利益が得られねえんだよ!モチベーションが高まらないんだよ!
用意してください。
用意してください!お願いします。
割と東京オリンピックで古いインフラをリニューアルして、更に東京は住み良い街になると信じてます。なので成功させてくださいお願いします。
元の2つの主張
ステンシルによってアルファベットやら数字やら文字やらを描く手段が使われる場所といったらねぇ。
基本的に「ステンシル書体が使われる場所」ったらこんなところだろ。
「なぜそういう書体になっているのか」「かつてどういったところで使われてきたか、使われている書体なのか」
「どういうイメージを連想させる書体なのか」ということを考えもしないで
前者について「反例を出せ」って言われたからそれらしきものを挙げたまで.
http://www.horniman.ac.uk/ に使われているタイポグラフィが
「なぜそういう書体になっているのか」
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。