はてなキーワード: 欧米人とは
ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じであった。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができたこと、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたことを推定している[48]。
ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館や日清戦争を扱ったものは小学校や中学校、高校などの社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている[49][注釈 7]。
ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていた。子守の少女が鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されている[注釈 8]。女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」と記し[52]、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描いた。後には日本人女性と結婚している。この背景として、日本の女性がビゴーの求める日本的なものや江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記している[53]。
1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本の商売人)が歌われ[54]、離日直前に刊行した画集『1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人の不安がストレートに表現されていた。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けた。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論に同調しない数少ないフランス人でもあった[55]。
欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場するが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べている[56]。
一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記している[57]。清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さからか視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないかと推定している[57]。ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くない。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東条英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘している[58]。ビゴーが庶民をスケッチした絵では男女を問わず様々な人相・年齢・職業の人物を描き分けている。
清水勲は「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日家である」と述べている[59]。
及川茂は、帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情は日本に抱いていなかったとしている[39]。及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」という[39]。滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判の対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとする[39]。帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然で暖かい日本を自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズムの挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘している[39]。
「お子さまお断り」の飲食店が許されて「外国人お断り」の飲食店が許されないのよく分かんないんだよな。
例えば席数が少ない家族経営のラーメン屋でランチ帯に子供が来るのはかなり困ったことになると思うだよ。
食べるのに時間がかかって回転率落ちるし、取り皿が欲しい、子供用のフォークが必要、ネギは食えないから抜いてくれとか。
さらに乳幼児だと泣いたり声が大きかったりテーブルを汚したり大変じゃん。だから「お子さまお断り」は全然OKだと思うんだよね。
もちろん大人しい子供もいるし親だけ食べて出ていく客もいるだろうけどそんなの入店時に判断できないから一律お断りするわけじゃん?
じゃぁ一方で外国人はどうか。
メニューの字が読めなくて注文にもたついたり、店員にこれはどんな料理なんだ?と質問したり(欧米はテーブル担当がいるからあれこれ質問するのは普通なんだよな)
箸が使えなくて食うのが遅かったり、そして欧米人はなぜか声がでかい。
もうこれほとんど乳幼児と同じ。家族経営の小規模飲食店に外国人が来たら普通に困るわけ。
だったらもう「お子さまお断り」と同じで「外国人お断り」も許されるべきだと思うんだよ。
これがチェーン店とか高級レストランならおかしいと思うけど小規模個人店は普通に許されるべきでは?
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子供を断るのは「合理的な理由」があるからでしょ。外国人は子供と同じ理由で断れるじゃん。
数学者の岡潔の情緒論をたまたま動画で見たのですが、ところどころ自分と共通する結論に達しているところがあり、なるほどやっぱりなあと頭を何度か頷かせました。
は、やはり情報補完という技術の域をあまり出ない技術だと思いました。岡潔の言う情緒から発生する智よりもそれら技術は抽象度が低いのです。
とは言っても、欧米人が大好きな緻密な論理も、その発展物であるコンピュータも、情緒ないし直感も、相反するようで、内実それら二つの智は地続きで人の頭の中で常に相補相乗して何かしらの筋肉運動へと変換されていますから、これらの捉え方は政治における右翼や左翼といった不毛な論争をするための物差しのようであり、事を知るきっかけみたいなものでもあり、機会と思考の拡張以上でも以下でもない一種の流行的なら認識手法であると割り切って観察すれば何か穏やかな感じがします。
自分は高度な数学どころか高校生くらいの数学も、概念をチラホラと知るくらいで、まともな計算訓練をしたことがないですが、論理をカンストしたと自分で思ったタイミングがあります。論理をカンストするとは、「人間が人間である以上は習熟し得ない、もしくはまったく到達し得ない知の領域までの論理的な到達手法を発見した」というような意味で使っています。もちろん、現実的時間内での到達手法です。もしそうでないなら、無限の時間やエネルギーを想定しさえすれば誰でも簡単に論理をカンストできてしまいます。
その観点から観れば、今この社会の中を生きる多くの大人たちは、車輪の再発明を、時代と共にアップデートされた道具を使って、ちょっと違う色や形や量や時間の使い方でもって何度も再現しているだけのように観えます。これは継承という親から子へ引き継がれていく営みに対する喜びや自己満足の歩みであり、多くの場合その歩みの中に真なる野心などないということがうかがえます。本質的には、一人一人が自分の体と感覚とその時代にある新しい道具を使って先人の追体験をしているだけという場合がほとんどということです。そうした営みに対して尋常ではない対価が与えられるのが欧米人主導で生み出された現代社会です。
しかしこうした継承ないし営みは、ネタは出尽くしているから当然といえば当然であり、例えば元素の数が大きく変わったりしたわけでもなく、物理法則が変わったわけでもなく、人間のもつ感覚器の細胞の数や種類が誤差を超越して変化したわけでもありません。仮にそれらが変化したとしたら多くのこと、もしくは全てゼロからやり直しかもしれません。しかし、今のように先に進まないのであればいっそゼロにすれば良いのではないかとさえ思う時もあります。
中世という名の暗黒の時代を乗り越えた人類は現在、白黒の時代を生きています。この白黒の時代はいつまで続くのでしょうか。
制御を失った先には必ず痛みがあります。我々には身体中のあちこちに痛覚がありますが、この痛覚の上限を超えて与えられた刺激は周辺組織の量的な死と連続して繋がっています。我々は痛覚を頼りにこの死から免れて生き延びてきました。反面、代謝という緩やかな死は快楽でした。
現代社会はますます死の恐怖が増大してきているように思います。欲を与えられ、欲を満たす手段も与えられ、それに付随するように死への恐怖も増大したのです。過剰な欲は、死を過剰に恐ろしく禍々しいものへと変えます。情緒を失った人間とは実に愚かです。
どこか暖かい南の国のビーチでセクシーな水着を着た美女たちに囲まれてパフパフコンテストを開催したいです。一体どの美女が一番パフパフがうまいのでしょうか。
この世界観、設定、気軽さ、これはまさにメタバースです。メタバースなんて言ってますが、元々が人間一人一人の頭の中は小宇宙ですから、メタバース的な世界観の中を我々は生きています。最近だとイスラエルの歴史学者であるハラリさんのサピエンス全史で国家というフィクションへの言及があったようですが、共同幻想論は30年以上も前に日本人が提唱していました。そのルーツは海外かもしれませんが、そんなことは鶏卵問題の彼方でしょう。
いずれにしてもユビキタスをIoTと言ったり、真ん中分け(エロ分けとも言われた)がセンターパートとか言われたり、言葉の額面が時代や状況に合わせて最適化されていきます。不思議なことに呼び方が変わると人が肯定感をもって動き出すという事もあるようで、パフパフ コンテストにも早急に新しい名前が必要です。
殴ったのはそれはそれで悪い事だから、どっちも裁かれりゃいい。
でもクリス・ロック擁護の意見が結構多くて驚きだ。そりゃ世の中から差別なんか無くならねえ。
肌の色、瞳の色、髪の色を揶揄するのと病気を揶揄するのは違うのか?
と考えると、さすがは差別で今までやってきた国々だよなと思ってる。
白人が黒人を差別するように、健常なクリス・ロックが病気のジェイダ・ピンケット・スミスを差別する。自分が差別の対象にならないためにはもっと弱者を揶揄すりゃいい。
差別が文化として根付いてる、だから公の場だろうとアカデミー賞だろうとそんなジョークが出てくる。民衆は差別のジョークで大笑い。彼らのライフワークの一部みたいなもんなんだろうな。