はてなキーワード: マルティン・ニーメラーとは
スメハラ、最初は「お前の香水クセーから辞めろや!」だったり「ジジイがエイトフォー使うんじゃねえよ!」などといった香料の使いすぎに対してのヘイト概念だった。
それがいつの間にか人間が元来持っている体臭そのものへの批判へと変わっていくまでの時間は余りにも早すぎた。
それはまさにマルティン・ニーメラーの法則そのものと言えたわけだ。
誰かが加齢臭を攻撃した時、私はそれに深くうなづき協力した。私はまだ若年層だったから。
誰かがワキガ臭を攻撃した時、私はそれに深くうなづき協力した。私の耳垢はカサカサだったから。
誰かがケトン臭を攻撃した時、私はそれに深くうなづき協力した。私はダイエットをしていないから。
誰かが私に攻撃を始めた時、私は何も出来なかった。私には私の臭いが分からなかったから。
「臭い奴は人類に仇なす犯罪者、言って聞かぬならもはや人権など存在しない」
現代においては、
加齢臭を止めることの出来ない中年は社会に存在するべきでないので死ぬべきであり、
肉体労働者は悪臭が染み付いているから職場と家を往復するだけの奴隷であるべきであり、
オフィスワーカーは発汗能力が壊れた悪臭製造機なので在宅勤務だけをするべきなのであり、
ガキは小便臭いから姿を隠すべきであり、ジジイは真にアンモニア臭いので滅びるべきなのであり、
ありとあらゆる人間が他者と一切の接触を断つべきとされているのだ。
もはや街を堂々と出歩くのは己だけは大丈夫だと信じる厚顔無恥な者共のみ。
コミケに旅立つ引きこもり、プレイスペースのカードゲーマー、山籠りを終えた自衛官、嗅覚など完全に壊れきった恥知らずだけが意気揚々と街をゆく。
これはちょっと不味いぞ。
集団の規模が単純に半分になるということは、支配や扇動の容易さが単純計算でも倍になる。
単純に半分にするのではなく、実際には「特定の属性に偏って半分になる」ということを考えるとリスクの跳ね上がりは5倍以上と考えて良い。
これはドリッヒ・ラングの言う「26%による過半数支配」の法則を思い出し貰えれば手っ取り早いだろう。
ある特定の集団が実質的には多様な価値観で分布しているほど、その集団を支配するのは容易ではなくなるということだ。
それは同時に規模が大きければ大きいほど、集団全体の中のごく一部を狙って扇動しても、それを全体に波及させるのは難しくなるということでもある。
男オタクと女オタクが分断された場合、「オタク全体」を扇動するのに比べてその難易度は大きく下がる。
たとえば男オタクをコントロールしたいなら「なぜ女性キャラクターのポスターは攻撃されるのにBLは許されるのか」を軸にすれば良く、逆に女性オタクであれば「なぜBLは気持ち悪いと扱われるのにロリコン文化は平然と根付いているのか」で騒いで見れば良い。
そしてこれらの扇動を行う者たちの最終目的は「オタク的な文化の破壊」であり、それは男オタクと女オタク双方にとって害のあるものだ。
だが男オタクと女オタクが分断されてしまえば、「攻撃されているのは男オタク(女オタク)の文化であり、女オタク(男オタク)に害が及ぶことはない」と錯覚させられる隙が生まれる。
マルティン・ニーメラーの「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」に詠われるように、特定集団への差別活動が行われた場合は、同じ論理によって自分たちが攻撃される可能性を警戒する必要がある。
だが、分断を行われるとその警戒意識が薄れるどころか、むしろ自分たちが攻撃に加わる側に回るリスクさえある。
オタクの権利を守るために最も重要なのは、あらゆるオタクが団結して巨大な一つの群体としてその他の勢力と戦えるようにすることだ。
たとえそれが悪臭を放つ者たちを含むカードゲームオタクであろうが、性暴力に目をつぶる者たちで溢れたジャニオタであろうが、迷惑行為を繰り返す者たちへの自浄作用を発揮せぬ鉄道オタクであろうが、それぞれのオタク達がそれぞれの抱える癌細胞と日夜戦っている同じ悩みを抱える同士であることを信じて団結するべきなのだ。
オタク達よ分断と戦うのだ。
切除すべきは「迷惑行為を行う一個人」「異常な思想を持つ一個人」であり、「自分の理解できない価値観を持つ特定の集団」ではない。
理解が出来ていないのならば大きなオタクの枠組として団結を続けるべきだ。
理解をした上で、犯罪行為を行っていることが確かであるならばそのときに個別に警察に突き出せば良い。
オタク達よ、今真に恐れるべきは分断されることだ。
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日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、
明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、
これに断固として異議を唱えます。
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《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが
情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。
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イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)
イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、
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菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に
理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の
一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。
学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、
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学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究と
みなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、
判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。
万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。
なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。
日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
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国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。
公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。
政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。
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古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。
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翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である
護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた
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次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、
学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、
間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)
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1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と
ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。
ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。
そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。
教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
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「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》
について自分の権限で判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解され
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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、
そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。
にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の
ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の
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私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、
国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)
と見解を示している。
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しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、
元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)
それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。
議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、
貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
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一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。
確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、
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おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。
紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。
この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。
プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、
暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。
この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。
二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。
ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。
ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。
ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。
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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される
(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。
その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、
ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。
逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、
また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。
これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。
つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。
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こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。
説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。
ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。
しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。
科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、
また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。
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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、
国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。
国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。
かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
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通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、
凱旋式があった。
(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。
将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、
自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。
例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!
あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことが
できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
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「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、
《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
例えとしてここでは公務員問題に限って話をしたい。
それは以下の理由によって無理。
マルティン・ニーメラーではないが、市職員の給与引き下げや勤務実態調査は橋下市長の府民への攻撃の第一歩なんだよ。
次は、医療保険費や交通、ゴミ処理等の費用を削り、学校への補助金や生活保護費も削られていく。
公務員やNGO、プロナマポやプロ市民が楽しく遊んでいけなくなるじゃん。
なんで、
1.市職員の給与引き下げや勤務実態調査は一切するべきではない。
なんだよ。
むしろ、橋下は虐げられた弱い人々(笑)や、平和を愛するアジアの住人(笑)に涙を流し謝罪しながら辞職するといいんだよ!
要約すると、こういう事らしいよ。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101215/1292426086
2年ほど前にネットでも盛り上がったカルデロン・のり子さんとその父母の強制退去問題だ。
この退去問題では、入国管理局に強制退去を勧告されていたフィリピン人のカルデロンさん夫妻に対し「在留特別許可」を出すかどうかでネットを二分するほどの大論戦となった。(カルデロン夫妻は偽造パスポートにて入国していた)
カルデロンさん夫妻には当時中学生になる娘さんがいて、「娘と離れたくない」という理由で在留の許可を申請していた。
(娘さんは日本で生まれ、日本での生活が長期間にわたったため在留の資格がもともとある)
もちろん偽造パスポートでの入国は違法だが、国の制度としていわば「恩赦」とも言える「在留特別許可」という制度があり、不法残留だろうが違法入国だろうが在留を許可することは出来た。
(そしてカルデロンさん一家と似たような状況で許可をもらっている前例もあった)
これに対し、「痛いニュース」に代表されるような2ちゃんねるのネット保守層の意見は「一緒に暮らしたいのであれば、娘と一緒にフィリピンに帰れ」「法は法。日本にいるなら法を守れ」という一見すると「正論」とも言える意見を数多く出していた。
カルデロンのり子さん「お父さん返して!」と父親強制収容に悲痛な叫び
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1222628.html
古舘氏「もしカルデロン一家が自分の親戚だったら、どうでしょうね?みなさん」とお涙頂戴…一方、アラン&サラの親族7名が元不法入国・滞在者と発覚
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1252493.html
上記の「法は法」の論理でいえば、条例が成立してしまった以上、粛々と守るしかないように思えるのだが、痛いニュース管理人はそのようには思わなかったようだ。
「火の鳥は近親相姦があるけど規制?」 猪瀬副知事「されません」「傑作であれば、条例なんてないも同然」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1577320.html
もちろん、記事管理を複数人でやっていることや2ちゃんねるの意見も移りゆくことは知ってはいるけれど、痛いニュースが「一貫性」というものに無頓着なのが気になったのだ。
カルデロン一家に対し数々の「正論」を打ち立てた当時の2ちゃんねらーは、「法は法。東京にいるなら条例を守れ」「エロマンガ規制が嫌なら東京から出て行けば?」などと書かれたらどのように反論するのだろうか。
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多くの人にとって一見常識のように思える「健全」というものは、たいていの場合危険である。
善意を前提としている以上歯止めが利かないし、多くの場合は反論が出来ないからだ。カルデロン一家の件で在留許可に反対した人々は「健全な日本」を守りたかったのだろう。だが、エロマンガを規制したい人たちだって「青少年の健全な育成」を守りたいのだ。
国境というゾーニングも販売規制というゾーニングも、排他的である危険性は常に含んでいる。
ましてや、「常識・正論」という衣をまとった「感情」で押し通されてしまえば、それは多くの場合「排他」であるだろう。
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』 マルティン・ニーメラー
インターネット言説に巻き込まれないほうがインターネットは楽しい
こんどは話をひっくりかえして、そのような個人を含む共同体の中で言説をコントロールしていこうという話になれば、このような事例集から「肯定でも否定でも関係なく、とにかく読者から反応を引き出すことで、さらなる読者の再反応を誘発して、それによって言説の生み出した重力・運動圏に、より多くの読者を巻き込んでいく」というデザインこそが上等だ、という方法論が導き出せる。ようするに、プレイヤ側のルールは「くだらないものに反応したら負け」で、ゲームマスター側のルールは「なんでもいいから反応させれば勝ち」。インターネットのややこしいところは、このプレイヤとマスターの役割は参加者全員が兼任していて、瞬間瞬間でロールが入れ替わったりするあたりなんだが、まあ以下略。
だから、ダメな扇動手法として「これが正解だから、それに従って前進すべき」みたいなロードマップを掲げて、正しさの共有、理想へ向けた連帯で何らかの目標を達成する、みたいな方法を挙げることができる。考え方として清潔でいいかんじなんだけど、説明・理解の双方向に高いコストがかかるので、必然的に伝播範囲が限られる。インターネットには向かない。そうではなく「接触自体を拒絶しないと、自分でもコントロールできないうちに、自動的にそうなってしまう」のが理想。
http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20100327#p1より。
上記記事を読んで。
では、上記記事を引用した時点で、私は負けだし、別に負けでも良いな、と思いつつ。
なんとなく、ドイツのマルティン・ニーメラー牧師の詩を思い出した。
――ドイツでナチスが共産主義者を殺しはじめたとき、私は共産主義者ではなかったので、何も言わなかった。
――続いて、ナチスはユダヤ人を殺したが、私はユダヤ人ではなかったので、何も言わなかった。
――後に、ナチスは労働組合員を殺したが、私は労働組合員ではなかったので、何も言わなかった。
――そのあと、ナチスはカトリック教徒を殺したが、私はカトリック教徒ではなかったので、何も言わなかった。
――最後に、ナチスは私のところにやってきたが、もう誰も私のために声を上げてくれる人はいなかった。
つまり、「反応しなくても負け」というパターンだ。
上の「政治」のような例に限らず、例えばiPodでもスマートフォンでも何でも良いが、自分が何も反応しないうちに世の中の流れが取り返しのつかない方向に進む場合もある。「接触」自体を拒んでも、世の中がそうなってしまった以上、「接触」せざる得ない、というパターン。あるいは、例えば、相手が言説的にピンチになったら、「反応したら負け」の事例に話題を誘導してくる、こちらは沈黙せざるを得なくなる、という典型的な負けパターンの構築ということも考えられるし、今までのインターネットの議論でもそういったパターンの相当数の例はある。
「否定しても負け」「肯定しても負け」「反応しなくても負け」。
ではどうするか。
一つは、「”ほとんど自明の理”的な論理的な支柱を提供して、多人数で一斉攻撃し、相手の反応機能を麻痺させる(=炎上)」事に成功できれば、その相手は、その後、その「否定しても負け」「肯定しても負け」「反応しなくても負け」的言説をあまり持ち出してこなくなるだろうと思う。
要するに、一度コテンパンに叩きのめす(もちろん、自分に叩きのめす力がないとそれは出来ないが)という行為をしないと、どうにもならない面はあるかも知れないな、と思う。それでも「出る杭」ならば、本物なのだろうし、それはそれでよいような気もする。
http://mainichi.jp/select/today/news/20091222k0000m040104000c.html
この人の言っている内容には反対だけれど、
「世の中に切り捨てていい人なんていない」と博愛主義で反対する人達に、言いようのない嫉妬を感じる。
そうか、あなたの人生に、殺したくなるようなクズは存在しなかったのか?
もしかしたら不幸なのかも知れないけれど、それを乗り越えられる強さがあるんですね。
妬ましい。
そう感じたことはないのですね?
別に死んだって構わないと、生きていても死んでいても関係のないと、
虫けらのような扱いを受けたことはないのですね?
そんな甘い博愛主義で反対する程度には、身の危険を感じたことがないんですね?
妬ましい。
みんな仲良くしましょうという輩に、余計に自体を悪化させられた経験がないんですね?
俺は、短絡的な感情論で言えば、死んで欲しい・刈り取りたい人間なんて山ほどいる。
だけど、マルティン・ニーメラー牧師の言葉よろしく、自分の番が回ってくるのが怖いから反対なんだ。
デスノートが他人のものになったら、権力者の物になったら、自分の名前を書かれかねないほど
自分の存在に自信がないから反対するんだ。