インターネット言説に巻き込まれないほうがインターネットは楽しい
こんどは話をひっくりかえして、そのような個人を含む共同体の中で言説をコントロールしていこうという話になれば、このような事例集から「肯定でも否定でも関係なく、とにかく読者から反応を引き出すことで、さらなる読者の再反応を誘発して、それによって言説の生み出した重力・運動圏に、より多くの読者を巻き込んでいく」というデザインこそが上等だ、という方法論が導き出せる。ようするに、プレイヤ側のルールは「くだらないものに反応したら負け」で、ゲームマスター側のルールは「なんでもいいから反応させれば勝ち」。インターネットのややこしいところは、このプレイヤとマスターの役割は参加者全員が兼任していて、瞬間瞬間でロールが入れ替わったりするあたりなんだが、まあ以下略。
だから、ダメな扇動手法として「これが正解だから、それに従って前進すべき」みたいなロードマップを掲げて、正しさの共有、理想へ向けた連帯で何らかの目標を達成する、みたいな方法を挙げることができる。考え方として清潔でいいかんじなんだけど、説明・理解の双方向に高いコストがかかるので、必然的に伝播範囲が限られる。インターネットには向かない。そうではなく「接触自体を拒絶しないと、自分でもコントロールできないうちに、自動的にそうなってしまう」のが理想。
http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20100327#p1より。
上記記事を読んで。
では、上記記事を引用した時点で、私は負けだし、別に負けでも良いな、と思いつつ。
なんとなく、ドイツのマルティン・ニーメラー牧師の詩を思い出した。
――ドイツでナチスが共産主義者を殺しはじめたとき、私は共産主義者ではなかったので、何も言わなかった。
――続いて、ナチスはユダヤ人を殺したが、私はユダヤ人ではなかったので、何も言わなかった。
――後に、ナチスは労働組合員を殺したが、私は労働組合員ではなかったので、何も言わなかった。
――そのあと、ナチスはカトリック教徒を殺したが、私はカトリック教徒ではなかったので、何も言わなかった。
――最後に、ナチスは私のところにやってきたが、もう誰も私のために声を上げてくれる人はいなかった。
つまり、「反応しなくても負け」というパターンだ。
上の「政治」のような例に限らず、例えばiPodでもスマートフォンでも何でも良いが、自分が何も反応しないうちに世の中の流れが取り返しのつかない方向に進む場合もある。「接触」自体を拒んでも、世の中がそうなってしまった以上、「接触」せざる得ない、というパターン。あるいは、例えば、相手が言説的にピンチになったら、「反応したら負け」の事例に話題を誘導してくる、こちらは沈黙せざるを得なくなる、という典型的な負けパターンの構築ということも考えられるし、今までのインターネットの議論でもそういったパターンの相当数の例はある。
「否定しても負け」「肯定しても負け」「反応しなくても負け」。
ではどうするか。
一つは、「”ほとんど自明の理”的な論理的な支柱を提供して、多人数で一斉攻撃し、相手の反応機能を麻痺させる(=炎上)」事に成功できれば、その相手は、その後、その「否定しても負け」「肯定しても負け」「反応しなくても負け」的言説をあまり持ち出してこなくなるだろうと思う。
要するに、一度コテンパンに叩きのめす(もちろん、自分に叩きのめす力がないとそれは出来ないが)という行為をしないと、どうにもならない面はあるかも知れないな、と思う。それでも「出る杭」ならば、本物なのだろうし、それはそれでよいような気もする。