はてなキーワード: まごまごとは
新人が「育たない」と嘆くやつは、想像力が無いから具体的に言わないと無駄
新人は「育てる」もんであって、勝手に「育つ」もんじゃないってのが判ってないから、具体的に理由もつけて言わないと無駄だよ。
「何故判らないの?」と詰問することはあっても、「(この新人はなんで判らなかったんだろう)」と考えないやつだから新人を育てられないとも言えるが。
「わからないことがあったら聞いてね」は、下準備あってのモノだってのが理解できてないから。
だから、それだけ禁止しても無駄だし、できるやつはそのワード使ってもちゃんと育てられるよ。
大体の場合で、新人研修だのOJTだの新人に与える仕事ってのは、ひとんちで料理をつくらせるのとほとんど同じ。
後輩が引っ込み思案で、先輩が優しく声かけしても忙しそうだから聞けなかった、みたいな特殊事例を含めたって、
この「ひとんちで料理つくれ」ってシチュエーションを考えさせると良く判る。
とか、そのへんだな。
で、最悪なのは「おいおい、この酒は料理酒じゃないから使わないって普通判るだろ」とか「これは使っちゃダメだよ」とか「後から」言う。
「聞いてくれたらよかったのになんで聞かなかったの?」とかもダメな奴ほど言うNGワードだな。
将来的に(まあ一年くらいだな)、ほっといても料理作ってもらえるようになる部下をつくりあげようと考える。
で、「んで?おまえなに作るつもりなの?ちっと手順言ってみ」と言わせる。
アクションを確認した上で、「じゃ、あとやっといて」とする。
(さらに「皮むくの下手ならピーラーここね」とか補助するのは、まあ面倒見が良いやつだったりはするだろうけどな)
ポイントは、相手の自由を奪うこと。
「酒を使うな」と言えば、「料理酒は無いんスか」とか聞きに来る。
つまり「開けてはいけない引き出し」を教えて「それ以外は開けていい」って指示する。
新人の選択肢をできるだけ狭めて、その中で出来ないことを聞いてこさせる。
これが新人の育て方が下手な奴ってのは「考えたら判るだろ」としか言わない。後から制限を付け加える。
キッチンから出るなとすら言わないから、新人は家の中をウロウロして、「なにしてんのおまえ?」とか怒ったりする。
本来は「ちっと玉子焼き作ってみ」とか同じ課題を与えて、それでキッチンに慣れさせたりするわけだ。
ボウルを使うだの菜箸はこれだの洗い物は平行してやれだの塩は素手で触るなだの、各ご家庭によってやり方は違う。
まあ、そんなに時間かけられないって状況もわかるけど、どういうステップで何するってのは、荒くても良いから確認するのが新人担当者の義務ではあるわけだ。
手順が言えれば後は不明点確認すりゃ良いわけで、「分からないことが分からない」状態は、ステップが見えてないってだけだったりする。
部長の家のリビングに連れてって、「ナンカ作っといて」って指示して1時間後にまごまごしてる新人に向かって「使えねーヤツだなー」とかいうのが、想像力がないダメな奴ってこったな。
キッチンに放置しても、ちょっとたってから寄って「なにつくるか決まった?スパゲティ?まあいいけど、鍋判んなかったら聞けよ。ザルそこな」とか「食器準備した?」とか確認しなきゃ部長に怒られんのは自分だっていう「後輩を使う先輩としての責務」の自覚がないと、何時までたっても新人の育て方が下手な奴のままだとは思うけどな。
増田は、自力歩行で移動しきれない老人。つまり手を引いたりしても助けられないから、抱えて移動するしか無い老人を
抱えて移動出来るだけの体力があるのか?
少なくとも、子どもや女性には助けられない状況だし、男性でも重いものを持ち運び慣れてない人間がうかつに助けに行ったら、持ち上がらなくてもろともに巻き込まれるぞ。
お姫様抱っこで、人が移動できるのはあれは、抱かれる側の協力があるからだ。
まごまごして、ボタンを探せないくらい切羽詰まってる状況なら、もう時間が相当なくなってる。
普通の人が助けに行っても まず間違いなく 抱えて 重い!って思ったり、老人にびっくりして暴れられているうちに
妊娠前は深夜帰宅のそこそこ激務なIT系ブラック企業に務めていて
学生時代にはスポーツをしていたから、心身の健康にはまあまあ自信があった。
私は健康優良妊婦だった。つわりは人並みにあったものの、血液検査の結果も尿検査の結果も毎回良好、血圧も正常。
陣痛は、予定日を3日過ぎた日の夜中にはじまった。
陣痛は、私のちんけな想像をはるかに凌ぐ、ものすごい激痛だった。
痛みの感じ方には個人差があるというが、私にとっては鋭いナイフで下腹部をえぐられているかのような痛みだった。
はじめは軽い腹痛みないなものなのだが、時間経過とともにどんどん痛みが増してくる。
脂汗が全身から吹き出し、痛さからなんとか逃れようと、体が勝手にのたうちまわる。
陣痛のピーク時には、あまりの痛みに気絶し、また痛みで覚醒する、というのが数十秒〜数分ごとに数時間続く。
本当に地獄だった。
見ていた実母が言うには、私は白目をむいていたらしい。
あとから見たら自分の腕が傷だらけだった。こぶしを握っていた手のひらからは、血が滲んでいた。
永遠に続くかと思われた陣痛を超えて、分娩台に移動し、死ぬ思いで我が子を産み落とした。
でも想像してほしい。8時間もの間、一昼夜を越して不眠不休だ。
食べ物は一切口にせず、激痛に体をこわばらせ、死に物狂いでお腹から3キロの塊を出すのだ。
産んだあとは骨という骨がきしみ、体中が鉛のように重く、分娩台から上半身を起こすことさえできなかった。
どこにも力が入らないのだ。
助産師の手を借りて体を起こすと、頭がふらふらとする。
自力ではとても歩けなかったので、分娩台から長い時間をかけて車椅子に乗せてもらった。
その後、入院する部屋のベッドに寝るまでの間、トイレで二度倒れた。
猛烈に体が疲れていた。こんなに疲れたのは生まれて初めてだと思う。指一本だって動かすのがおっくうだ。
体中が汗と血でベトベト、身をよじりまくっていたおかげで、髪の毛は鳥の巣のようだった。
股間は麻酔が効いていたが、鈍い痛みが続いていて、姿勢をかえることすら一苦労だった。
前日から何も食べてないし一睡もしてないし、とにかく疲れきっていて、ゆっくり寝たかった。
だけど、産んだ直後から、母子同室で3時間おきの授乳が始まった。
分娩台で1時間休んだあとは、すぐ個室で赤ちゃんと二人きりにされた。
ゆっくり寝ることも体を休めることもできないまま、ハードな育児の始まりだ。
こんなにボロボロに疲れているのに、すぐとなりに、かよわく、自分で首一つ動かせることもできない赤ちゃんがいる。
「私はゆっくり休んではいけないんだ」という暗い事実は、くたくたの私にとって絶望だった。
この体中の疲労に身を任せた瞬間、赤ちゃんに何かがあったら。この子の命は、この精魂尽き果てた自分次第なんだ。
体中の疲労とともに、ヒリヒリするような緊張感と責任感が重くのしかかった。
産んですぐに母乳がでるお母さんは、実は少ない。
赤ちゃんに吸われることで、それが刺激となって脳内ホルモンが乳房に働きかけ、母乳が出るようになるという。
だから、でなくてもとにかく3時間おきに赤ちゃんに乳首をくわえさせなくてはいけない。
でも、産まれてすぐの赤ちゃんは吸いつく力も弱く、「吸う」こと自体がとても下手くそだ。
赤ちゃんの位置、乳首との高さの調整、手の置所、クッションや座布団をいくつも使って、位置を調整しながら、汗だくで吸わせる。
まごまごしながら右の乳首をどうにかくわえさせる。吸い付いたと思うとすぐに口から外れてしまう。またくわえさせる。また外れる。
そのうち疲れて赤ちゃんが寝るので、起こす。
今度は左右逆のおっぱいだ。
左を吸わせて、おしめを替えて…これでもう一時間だ。
体中が悲鳴をあげていて、眠たくて眠たくて頭が割れそうに痛くて、貧血でふらふらするのに、寝る時間は二時間しかない。
横になる。
すぐには寝付けない。
三十分ほどでようやく眠りにおちる。これで一時間半。
さあ、もう一時間半たった。睡眠時間一時間半で、赤ちゃんが泣く時間だ。
これが朝まで繰り返された。
初日の夜を超えた時点で私の疲労はマックスをとっくに超えてた。
授乳の合間の2時間以下の細切れ睡眠しかとっていないまま、迎えた朝。
翌朝は6時に検温があり、9時に朝食があり、合間に授乳をする。
何をするにも体中が痛くて、だるくて、眠くてたまらず、すごく時間がかかる。
12時にお昼があり、見舞いにきた実母に子を見てもらってる間に急いでシャワーを浴びて歯を磨く。また授乳。
たまった洗濯物をランドリーで洗う。戻ると検診がある。担当の看護師が交代したとかで挨拶がある。また授乳。
赤ちゃんの顔を見に見舞い客がある。相手をする。帰る。洗濯物をとりに行く。
また授乳。
昼はまとめて寝るどころか、横になる時間もろくにとれない。
ねむい、ねむい、ねむい、ねむい…
横になりたい。ゆっくり、ぐっすり寝たい。お願いだから起こさないで。辛い。辛い。辛い。
横になれない。眠れないし休めない。
昼間はろくに眠れない。寝れなかったことに猛烈に焦る。そしてまた夜が来る。
深夜の授乳は鉛のように体が重い。
赤ちゃんは相変わらず上手に吸えないのに、乳首がめちゃめちゃ痛くなってくる。
例えるなら、尖った爪で皮膚をおもいっきりつねられているような痛み。
乳首が切れて血が出てくる。
それなのにそこを吸わせなくちゃいけない。
傷口に鋭い爪がたてられるよう。
授乳のたびに歯を食いしばって、息をのむ。叫びだしそうな痛さに耐える。
出がよくないからマッサージもされる。これがまたすごくすごく痛い。
赤ちゃんがゴクゴク、と美味しそうにおっぱいを飲んでるのが見える。
幸せそうに微笑んでそれを眺めているお母さん。
我が子はおっぱいを一滴も飲めず2日目。産まれてからまだ何一つ口にしていない。
何も飲まなくても3日は胎内にいたときの栄養が残っているから大丈夫だという。
でも、赤ちゃんは日々痩せてる。お腹がすいて泣いてる。まだ産まれてたった2日しかたってないのに、飢えて泣いてる。
大人だって2日くらい食べなくたって死なないけど、すごく辛いよね。
こんな小さな我が子が空腹に耐えてると思うと、切なくて切なくてたまらない。
隣の子はお腹いっぱいで満足して寝てるのに、私の子は空腹に泣き疲れて眠ってる。辛い。眠い。
体中がふらふらして頭がぼーっとする。見舞いに来た夫や実母にひどい態度をとって、ケンカをしてしまった。
看護師が心配して「何か悩み事があったら相談してくださいね」と言う。
「ただ寝たいんです。」
と言いたかった。でも他にもたくさんのお母さんが寝ずに赤ちゃんを見ていて、そんな情けないことどうして言えるだろう。
哺乳瓶でおそるおそるあげると、手をグーにして、目を大きく見開いて、必死に飲んでる。
飲んでる姿を見て涙がとまらない。
飢えさせてごめんねという気持ち。やっとお腹を満たしてあげられるという満足感。
おっぱいが出ない敗北感と屈辱と疲労と、いろんな気持ちがないまぜになる。
4日め、私はもうボロボロだった。見舞いにきた妹に顔を見て絶句された。
赤ちゃんにはミルクを与えることになったものの、母乳への刺激をなくしてはおっぱいが出なくなってしまうため、
つまりは今までのおっぱいとの格闘に、ミルク作りがプラスされて、授乳にもっと時間がかかるようになったのだ。
その分削られるのは眠る時間。ただでさえ1時間半しか眠れないのに、もっともっと眠れなくなる。
でもふらふらで、眠さとだるさは蓄積されて楽になるどころか、いっそう辛くなる一方だった。
とにかく体がしんどくて、ほとんど何も考えられなくなっていた。拷問みたい。
ただひとつ、「ねむい」という欲求だけが、こびりついて離れない。
鏡の中の自分は、真っ青で目の下にくっきりクマができて、10は老けたように見えた。
何もしてないのに、涙が出てとまらない。赤ちゃんがなんだか恐ろしい。かわいいのに、愛しいのに、何より恐ろしくてたまらない。
だって、まだたったの4日め。長く長くいつ続くともしれない育児の、たった4日めなのだ。
このしんどい日々が延々とこれから続く。こんなに疲れてるのに、ぐっすり眠ることの許されない日々が待ってる。
5日め。私は退院を迎え、自宅に戻った。
産後は実家で1ヶ月お世話になったが、こんな調子が2週間続いた。
むしろ、病院では哺乳瓶を洗ったり消毒したりするのは病院がやってくれたから、その分の仕事が増えてますます眠れなくなった。
赤ちゃんが泣く→起きてミルクの支度をする→ミルクを人肌に冷ます間におっぱいを吸わせる→
搾乳した母乳を与える→ミルクを与える→げっぷをさせる→寝かしつける→
たとえば寝かしつけに手こずったり、オムツからウンチが漏れて着替えさせたりなど
何かアクシデントが発生すれば、眠れずに次の授乳時間になることも珍しくなかった。
日に日に、赤ちゃんを見ても可愛いより何より、ただただ、怖い気持ちが蓄積されていく。
赤ちゃんが怖いのに、離れるのはもっと怖い。何かあったらどうしよう。
30分の睡眠は、いつも悪夢を見た。赤ちゃんを落とす夢、踏んでしまう夢、誰かに連れて行かれる夢。
今思うと完全な鬱状態だった。
生まれてから14日めの夕方。
赤ちゃんと二人きりになるのが恐ろしいと、実母の前で号泣した。
陣痛のあの夜から2時間以上眠っていないこと、眠くて眠くてたまらないこと、
夜になるとまた今晩も眠れないと思って焦りと不安で動悸がしてくること、
こんなに体中がふらふらなのに赤ちゃんに何かあったらどうしようかと想像すると恐ろしいこと、
かわいいより赤ちゃんがとてもとても怖い存在に思えること・・・・
泣いて訴えながら、睡眠不足がつらくて赤ちゃんが怖いなんて、自分は母親失格だと思った。
世間のお母さんがみんなできていることができないなんて。
母親なのに、情けなくて仕方がなかった。
その夜は両親が赤ちゃんを一晩みてくれ、私にゆっくり休むよう言ってくれた。
15日目の朝は、驚くほど気持ちが落ち着いていた。
その後の日々は、私の両親はもちろん、夫も毎晩仕事帰りに車を飛ばして会いにきてくれ、手伝ってくれた。
それから、母乳マッサージに通った結果、母乳が十分量出るようになって、
ミルクをあげなくてよくなったため、深夜に哺乳瓶を洗ったり、消毒したりということから開放された。
三ヶ月たった今でも、産後からの2週間のことを思い出すと、絶望感でいっぱいになる。
あのころ本当にただただ寝たくて、寝たくて、
それなのに「もしこの子に何かあったら」ときう緊張感で常に気が張っていて、目を離すのが恐ろしくてたまらなかった。
そのうち、「もしこの子に何かあったら」「病院に入院することになれば」
「そしたら眠れるな…」と考えたことがあって、ゾッとした。
もちろん、あくまでこれは個人的な体験だ。
でも、多かれ少なかれ多くのお母さんに共感できる部分も多いはずだと思う。
もし里帰りしなかったらどうなっていたことか。
私の出産は初産の平均時間12時間より短かったけれど、精も根も尽き果てた状態で育児がスタートしたのがよくなかったと思う。
病院によっては、出産したその日はナースステーションで赤ちゃんを預かってくれるそうだ。
私も、出産後1日でいいからゆっくり眠れていたら、その後に2週間は違ったものになっていただろう。
今は、子はあやすとニコニコ笑って、母乳も順調だ。夜は相変わらず3時間で起きるけど、体が慣れた。
やっと我が子がかわいく、愛おしく見える。
でも、我が子がとても恐ろしく見えた産後2週間のことが忘れられない。
Osaka Against Racism 仲良くしようぜパレードの「仲良くしようぜ」という言葉が同化の強制と、結果として同化しないものを排除する理論だと批判され、そういう面があるとは思うけど、ちょっと違う面もあってそれを書いてみる。
入学した4月の半ば頃から担任が私ともう一人男子生徒に対して意地の悪い態度をするようになった。他の生徒の質問には答えるのに私達が聞いても聞こえないふりをする。何かの仕事をすると必ずケチをつけてそれだけでLHR一時間非難する。それでも足りないと教科の時間も潰してつるし上げられた。
忘れ物をすると生徒の名前の上に×をつける表が担任の発案で作られて、私の名前の上に身に覚えのない×を沢山書き込まれた。直して欲しいと担任に頼んでも無視された。表は毎学期作られ教室の後ろに貼られ、突出して高く積み上がった私の×印が廊下からでもよく見えたし、教科の先生はびっくりした顔をしてその忘れ物の主の名前を確認した。
中学の三年間、私は「仲良くしよう」とも「仲良くしろ」とも言われなかった。私は仲良くする必要のない生徒だった。非難され断罪され、クラスがそれでまとまる、ただその為だけの存在だった。ましてや「仲良くしよう」などと提案する相手ではなかった。何かを選択出来る権利などなかった。最初から、入学した4月からそう決まっていた。どうあがいても無駄な事はすぐ察せられた。
クラスのみんなは担任にしずかに従ったし、率先して私のアラをさがして非難する生徒もいた。
中三の三者面談の時、「成績は関係ない。おまえに良い高校は行かせない」と担任から言われた。そう言われて親が何も言えない担任の力が強い時代だった。
親の仕事で引っ越したので高校には同じ中学の生徒は居なかった。それもあるだろうけれど高校では同級生達から「仲良くしようね」などと気楽に言われてとまどった。
何年も言われた事がなかったのでどう対応したらいいかわからなかった。
まごまごしてるとこっちこっちと腕を引っ張って話の輪の中に入れてくれた。
私が一人でいると周りに集まってくれてみんなで話をしはじめてくれた。
中学では話しかけても「後でね」と言われ、話の輪には絶対に入れてもらえなかったから話をすることもうまく出来なかったけれど、それでもみんなは居てくれた。
いじめの後遺症だと思う今ならPTSD、当時はわけのわからない体調不良になって休んでばかりいたのにたまに登校すると昨日もいたかのように接してくれた。
「仲良く」は私には悪い言葉ではなく、それとは正反対の救いの言葉だった。
中学時代、別の人間がそれぞれ「仲良くしろよ」という言葉を発したことがある。
詳しくは書けないが一度は別のクラスの生徒をあげつらっていた子に向けて、もう一回はクラス全体に向けて、どちらも私の頭を通り越して発せられた。
あげつらっていた生徒は暫くブツブツ言い返そうとしていたけれどやがて黙り、クラスに向かって言われたときは、私以外のクラス全体がうつむいてしまった。
どちらの場合もその言葉によって、特定の誰かとは仲良くする気など最初から全くなかったという厳然たる事実と、その誰かに対する悪意と侮蔑が白日の下に晒され、それを認識せざるを得なかったからだと思う。それで目に見えて何かが変わったわけではなかったと思うが、言われてうつむく姿は今でも覚えている。
私が同化圧力としての「仲良く」という言葉を投げられなかったのは、いじめられた時にもう中学生だったこと、内申書問題などといわれ学級担任の力が絶対で、その担任が行ったいじめだったこともあると思う。目に見えない同調圧力を振りかざすいじめは陰湿で悲惨だと思うし、その被害者達が「仲良くしようぜ」という言葉を聞きたくない気持ちも許せない気持ちも重くて尊重しなくてはならないことだと思う。
この言葉のそういう面は認めつつも、「仲良くしよう」は私には救いの言葉であったことを伝えたくてこれを書いた。言葉は使い方だと思う。誰がどういう意図でどういう文脈で使うかが重要なのに、行動や意図が言葉で決められてしまい批判されるのはおかしい。
「仲良くしようぜパレード」を主催した人達に同化を強いる気や支配する気があったとは彼ら彼女らの行動を見る限り思えない。ただヘイトを止めさせたかったし、酷い言葉を投げつけられたり差別されたりしている人達の苦しみが少しでも減ってくれたらと考えていたと思う。そんな行動は単語一つで否定できるほど簡単なものだとは私には思えない。
常々、高稼働の現場を目にするに当たり、自分だけは社畜になるものかと奮闘してきた。
しかし、今年に入ってから、複数人いる現場のメンバーを取りまとめるリーダーの不在がいろいろな方面に波紋をよぶため、そろそろ誰かやらないかと、上司から通達があった。実質プレイングマネジャーのため、相当の才覚と忍耐力が必要だ。
当然、私も例え失敗してもいいから今後の昇進を見据えて実績は欲しいところだが、ちょうどメンタルを患っていた時期で、その話に飛びつく自信がなかった。自分の作業はもちろん、日常を安定した気持ちで過ごすだけでも大変なのに、これは相当な負荷だ。
そのため、まごまごしているうちに別の人間が手をあげ、その任を引き受けたため、私自身は仕事に対するモチベーションを極限まで減らし、とにかく自分の身を守るので精一杯という時期をこの3月まで過ごしていた。
しかし、何かやるせない。不甲斐ない気持ちで心は充満していた。そのため、とにかくまともな神経に戻そうとメンタルを改善し、体力をつけてから再戦と考えていた矢先、下に人がつくなど、とにかく実績を作る足がかりができた。
ついた人間は開発経験5年くらいなので、ある程度の説明と現場のナレッジを与えれば自然と動いてくれる。しかし、そうはいってもまだ不明なことや未経験なことが多いこの業界で、当然提供すべき情報やサポートが日々発生している。
それにしっかりと彼を育てたいと思っているので、相当の時間が自分の作業以外にかかる。だが、うちの会社は専らのトップダウンな社風のせいか、「稼働=コスト」としか捉えておらず、当然ながら結果の数字しか判断しない。年収も頭打ちの私は、実績を作りつつも稼働を上げない、言わば製造業なら当たり前の「安いコストで良いもの(サービス)を作る」というジレンマに陥ってしまった。
俄然お客にも自社にも良くする法などなさそうなので、現実として(サービス)残業をしてでも結果を残そうと決意したが、年齢のせいか思うように連日の残業は続かず、体調を崩すだけなのが判明した。そこで、朝ならばと就業前の1時間を準備や瑣末な作業、確認や整理の時間に割り振り、極力残業せずに業務時間内の成果を最大化するよう自分をし向けた。
ある程度効果があったため、月次の報告書に「就業前時間を有効に使って作業効率ができました」との自己アピールを書いたのだが、リーダー決定の時に名乗り出た者がこれを削除した。私的には人の自助努力を無にする隠蔽工作かと訝ったのだが、その後リーダーではないがベテランかつリーダー経験者との話し合いが持たれ、その結果、私の予想を覆した。
彼らの示した要点は以下の通り。
・サービス残業を実質していて、稼働が抑えられたからと言って、本当に作業効率が向上したといえるのか?
・就業前時間を作業に当てているのなら、稼働として報告し、その分の対価を得たらどうか? こちら(そのお二人)としては、仕事に対する(私の)モチベーションの高さが感じられる。
・社のトップが早朝残業や生活残業を許さないタイプのため、大っぴらに問題提起はできない(逆に作業するなという締め付けがなされる可能性の方が断然高い)
正直、1点目は私の認識の甘さを露呈させてしまったが、2点目に関しては、見識のある妥協点でもあるし、思ってもいない評価だと思いありがたくて感激してしまった。ただ、やはり残念なのはおそらく日本の多くの企業がまだ良解を出せないでいる問題と全くシンクロしていたことだ。
ただでさえ、一部大企業は年収アップを決定しているし、成果主義も年々常識化してるはず。そんな中、現場では理解されても、上層から評価を得なければ末端エンジニアは這い上がれないという構図はどうにかならないのかというのが、この時感じた疑問である。
おれはフランチェスコさんのことを個人的には全然好きじゃないんだけど、
そらのーとだの非モテなんだののデタラメ会社をとっちめるにはうってつけの人材だよな。
常識外れに執念深くて絶対うやむやでは終わらせない根性がある。
フランチェスコさん以外の人間だったらとっくに嫌になって適当に済ませちゃってるとこだもんな。
そういう意味で、
最悪に相性が悪いジョーカーをよくまあスパッと引き当てたもの。
駄目なほうにクジ運がある。
「なんか見込みと違うヤバい相手だ」と気づいてるにも拘らず
プライドが邪魔してフォロワーや交友に「俺が勝ってる」「楽勝」と言わざるを得なかった。
更に、彼のフォロワーや交友は○○揃いでメガネさんの性格も理解してなかったから
「彼は勝ち戦だと言ってるけど実際は違うんじゃないか」と疑う慎重さがなかった。
もうやめたほうがいい戦端を拡大する方向にメガネさんを煽り、迂闊なそらのーとがそれに乗ってしまった。
そらのーとにしてみれば
実際の獲物はものすげえタタリ神だわ、
最初に石を撃ってタタリ作った当事者があっさり撃破されて逃亡を図るわ、
黒いモジャモジャ全部ひっかぶってアシタカ状態。
選挙のお知らせを受付のおばさんに見せたら、名簿みたいなのをチェックされた。
有権者なんて日本中にたくさんいて、私はその中の一人でしかなのに、全部ちゃんと把握されてるんだ、となんとなく不思議な感じだった。
投票用紙がういーんって小さな機械から出てくるのをみて、投票用紙は手で配られるわけじゃないんだ、と感心した。
テレビとか、ポストに投げ込まれてるチラシとかで、立候補者のことを下調べしていたつもりだったけれど、
いざ仕切られた小さな記入スペースで鉛筆を持った時、すごく戸惑った。
なんとか一つの名前を書いて後ろを振り返ったら、投票箱が二つあってどっちに入れたらいいのか悩んでしまった。
選挙区、の方に入れた。
そしたら次は比例?とか言われてまた投票用紙がういーん。
「政党名か候補者名を書いて下さい」と言われたので、小さな名前の並ぶリストにあった、前からちょっと気になってた名前を選んで書いた。
さっきとは違う投票箱へ入れた。
私の初めての選挙は終わった。
帰り道、家族に「どうだった?」と聞かれた。
正直、よく分からなかった。銀色の箱に入れた紙きれは、あまりにも軽く音も立てず落ちていったから。
でも、軽いささやかな一票だけど、これがたくさんあつまって、自分達の生きる国の未来に関わっていくのかな?と思った。
夜に選挙特番を見ていたら、私が投票した人は二人とも落選したようだった。
少し悲しかった。
肉がお好きで、卒寿を超えてもステーキとフォアグラを一度に頼んでいたという。脚本家の倉本聰さんが「存在そのものがすでに演技」と惜しむ森繁久弥さん、96歳。後輩のために弔辞を読む役回りを退き、いよいよ聞く番となった▼人も芸も軽妙だった。TBSの生放送ドラマ「七人の孫」で、お手伝いさん役の新人女優をいたく気に入った森繁さん、放送当日、急坂のラーメン屋台という妙な場面を注文する。台本なしの本番。屋台の丸いすに座ったご隠居は、即興で横のお手伝いにすり寄った▼新人がうぶに押しのける。屋台は坂をずり始め、2人は抱き合って倒れ込んだ。このわるさ、配役を任された久世光彦(くぜ・てるひこ)さんが『今さらながら大遺言書』(新潮社)で明かしている。相手は後の樹木希林さんだ▼女性を愛し、映画でも尻や胸によく手が伸びた。パシッとやられて退散する流れがおちゃめで、いやらしさはない。座談の色話には軽(かろ)みが漂い、エロというより、小さな字で助平と書きたいおかしみがあった▼大阪人のサービス精神に、大御所の威厳がいい案配で重なる。銀幕の盛りはチョビひげ、晩年は白いあごひげの相を大衆の記憶に刻んだ。お座敷でのドジョウすくいと文化勲章。どちらもはまる自在の人だった▼勝新太郎さんや芦田伸介さんら、仲間に先立たれる思いを「朝寝坊でロケバスに乗り遅れた私だけがまごまごしている」と記している。「生きているやつはみんな哀れなんだ」と。久世さんも、最愛の妻子も待つ次の現場に向かって、悠然とバスに消えた。
※なお、以下はフィクションです。
http://slashdot.jp/~GetSet/journal/490564
クロネコヤマトの信じがたい最悪な対応の話 - GetSet の日記
とは何の関係もないただのネタです。
――――――――――
あたしさ、とある宅急便やさん(って書くとどこかわかっちゃうか・笑)に派遣でつとめてるんだけど、この間さ。
あたしの仕事は事務兼電話番みたいなもんで、出先の営業とかからのデータの照会とかそう言う仕事をしてる。かかってくる電話は専用番号で、いつもは社内の人からしか電話かかってこないんだけど、そこに突然変な男から電話があったの。
え?なんでこの番号に外の人から電話が?って思って驚きつつ対応すると、
「携帯を拾った」
と言うのよ。なんだかぼそぼそ早口でよく聞き取れなかったけど、苦労して理解すると、どうもそう言う話だった。
そんで、とりあえず一般の人からかかってくるはずのない番号だったからあわててしまってまごまごしていたら、なんかぼそぼそ聞き取りにくい声で、なんだか趣旨がよく分からないことを早口で喋るわけ。
ほとんど聞き取れなかったけど、コンビニが数軒あるとか、繁華街だとかなんとか言うんだけど肝心なことを言わず一方的にまくし立ててきて、もうあたしどうしようと思って、ほっとくといつまでもまだぼそぼそ続きそうだったので、かろうじてお待ちくださいと言って、上司を呼んだの。
すると上司は
「いたずらなじゃないのか?」
なんて言うわけ。確かに上司の言うことは分かるよ。前もさ、どこからか番号が漏れて、結構なイタ電がかかってきて業務が麻痺したことだってあったし。(その後番号かえた)そもそも携帯の持ち主情報に登録された番号じゃなくて、こんな番号にかけてくるのが怪しいって。
だけどそんなことはもちろん言っちゃ駄目。オキャクサマハカミサマですから。
電話の相手は何故か遠いこんな所に電話をかけてきたから直接対応もできないし、とりあえず近くの営業に対応してもらうように依頼しろって事になった。その時点でいたずらかどうかもわかるし、などと上司。
それであたしは指示通り電話に出たの。
「そこから近所の営業を紹介しますので、そちらに連絡してください」今から営業から電話をかけさせますので、と、続けようとしたらいきなりその男
「ハァぁ!? ワタシは単に し、しし親切心から、ひひひ拾い物の連絡をしただけで、さささらに連絡をワタシにやれ*・だふぁうぇえf」
とかっていきなり怒りはじめて、あっ、と思ったらもう遅い。要注意系だったかと思ったけど後の祭り。なんて言うかはっきり喋らないから何をいっているかわからないけど、早口でガタガタ「お礼がない」とかって。
あー、まさかお礼クレクレ系か……?。
とりあえずここは配送センターで、ここからでは対応できないから営業が対応すると説明しようにも全く話が通じない。上司を上目遣いで見ながら変わろうと「お待ちください」と言おうとするけどもはや人の話なんて聞いてないみたいで、一方的に言うわけ。もう全くどうしようもない。
あげくの果てに男は
「じじじ自分たちで勝手に拾いに行け!!」って勝手にキレて「ささささっさとこないと、だだ誰に拾われるか、しししれたものじゃない」
なんて言って一方的に電話を切るの。
それからが大変。だって不審な男が一方的に電話をきって、あの雰囲気じゃ何をやらかすかわかんないわけで。一瞬呆然としちゃったけど電話機自体はすぐに営業に連絡を取ってもらって、壊されることもなく無事回収できたのでまだよかった。
だけど本当に大変だったのはその後。
その男、ホームページからいきなり苦情送ったらしいのよ。それもそのすぐ後。
信じられる?それから本当にすぐ後だよ。
そのすごい手慣れたクレームの入れ方に、これは明らかにクレーマーだって事になったらしくって、本社からクレーマー対応の専門の人たちまで出てきて、すぐに飛んできて事情を聞かれた。
クレーマー処理の人たちに言わせると、
とかで、クレーマーの典型的なパターンにはまっているんだとか。
こういうのはもう相手は話しが通じないので、徹底的に謝って、携帯には重要な情報が入ってなかったとか事実はどうあれ、相手の気が済むまで反論しないことしかないんだ、って言ってセンター長まで出てきてさ。
その後上司共々しかられに行ってきたんだけど……。その男、結構すごいことを一方的に書き散らかしてあったらしくて、あること無いこと。だからもうはじめはセンター長かなりお怒りで。もうそんときは、この仕事わりと好きだったのに、もうクビだよねぇなんてもう思っちゃってさ。
だけど上司がきちんと事情を話したら今度は逆に同情してくれて、泣き笑いしててさ。センター長、怒って悪かったって、私もその時はそうするしかないだろうって、ご苦労さま、こういう事もあるけど仕事がんばってくれなんて言ってくれてさ。
そうしたらなんか悲しくなって来ちゃって……。
どうすればよかったんだろうね。確かにあたし馬鹿だからあんまり上手いこと言えないし、自覚あるからお客さんと接しない所で働いてたのに、いきなり変な男から電話かかってくるし。
同僚は「あの人はお礼を言ってほしい寂しい人だったんだよ」って慰めてくれたし、上司は「止まっている配送車も鍵をかけるよう徹底するようにしないとな」って意味深なことを言ってたりしながら慰めてくれたし。センター長の取りなしでクビにならずにすんだけどさ。
確かに言っていることは筋が通ってるみたいだし、あたしがとっさに、かかってくるはずのないこれはオキャクサマって分かったときにつけいられないようにきちんと対応できなかったのが原因っぽいからさ、どうしたらいいのかな……。
でもさ、完璧じゃないとつけいられてクレームつけてくる相手にどう対応すればいいの?
書いてたらまた憂鬱になってきた。あー、もうわかんなくなっちゃった……。
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※なお、以上はフィクションです。
http://slashdot.jp/~GetSet/journal/490564
クロネコヤマトの信じがたい最悪な対応の話 - GetSet の日記
とは何の関係もありませんただのネタです。
全部読んだうえで言ってるんだよ。
でもまあ、たしかに3行以内に要約できる文章を随分まごまごと書いている。
君は随分若そうだな。
最近の悩み。
ゴムを付けてのセックスが出来ない。ゴムを着けようとすると萎えてしまう。
ちなみに初めてセックスをしてからの5年程、いつも生だった。期間だけ言うより回数を言った方がいいんだろうけど、覚えてない。長く付き合っていた彼女と生でしていたのが殆どを占めている。
最近ゴムを着けてするようになった。"なった"と言っても成功してないんだけどさ。
萎える理由はふたつある。
ゴムに慣れない自分は付け方がどうも下手糞なのかもしれない。そしてどうやらサイズが合わない。窮屈だ。まごまごしていると萎える。
それに気付きLサイズを買ってみた。けれど、やはりスムーズに着けられない。やはり着け方が下手なんだろうか、そして相変わらず窮屈な感じがする。ゴムとはそういうものなんだろうか。今度LLサイズを買ってみようと思う。それでも窮屈だとしたら着け方が下手なんだろうな。
着け方が下手だと言ってるが、着け方というか、なんて言えばいいんだろう。カリの所を通過した後、そこから下に下げるのに苦労する。なかなか下がらない。成功した時も何度かある。その時は勢いにまかせて一気に下まで下がった。どうやら一度カリの下で止まるとなかなか下がらないらしい。他の人もそうなんだろうか?
萎える理由のもうひとつは、やはりゴムを付けるというタイムロスというか、一旦中断が萎えさせているんだと思う。「枕元に置き、すぐに着ける。この間、約5秒。」という具合に一連の動作の練習をするしかないのか……。それともこの一旦中断で萎えるような性欲がいけないんだろうか。
まてよ、枕元に置くという行為が前提になるのは困る。彼女でなければそれはおかしい。今日はこれからやるつもりだよ!って言ってるようなもんだ。そして自分はどうやらサイズが大きいようなので持参してこなければいけない。ホテルで枕元に予め置いてあるゴムは使えないって事だ。ポケットや鞄からゴムを出し枕元において置く……滑稽だ。
僕がはてなを利用しはじめたのは、はてなブックマークがきっかけだった。
ソーシャルブックマークというものを初めて使った僕は、
その便利さにいたく感動した。
自分のブックマークは非公開にした。
もしも仕事の資料にしているページから身元がバレたら
なので、コメントはいつも付けなかった。
やがて、僕は他人のコメントに興味を持ち始めるようになった。
「このサイトに対して、他のみんなはどういった感想を持っているんだろう」とか
「この記事は結局何が言いたいのだろう」といったことを知りたいとき、
たいていは誰かのコメントが答えを示してくれた。
そしてその内、彼らのコメントにはさまざまな意志が込められていることに気づいた。
ある人は、心ない誹謗中傷をしたり、
ある人は、記事を誤読したまま非難したりしていた。
最近では、そういったコメントが特に多くなってきたように感じ始めた。
ある時は、そのコメントを諫めるコメントを書くためにブックマークを公開にしようかとも思った。
僕がまごまごしている間に、他の誰かが諫めたりしていた。
諫められた相手は、たいていの場合、コメントを変えることはなかった。
無視しているというより、気づいていないように見えた。
普通の人は、誰かの指摘を受けてコメントを書き加えたりしていたけれど、
たいていの場合、通り過ぎていっただけだった。
彼らは、他人のコメントを見ないのだろうか。
あるいは、ブクマしたページすら見返さないんじゃないだろうか。
書かれた相手は、きっといくらか傷ついているのに。
はてなブックマークで悪口を書いたり、
よく読まずに非難するような人がいなくなれば、
ネットイナゴなんて言われることもなくなるんじゃないかな。
近所のカレーやさんに行った。
店内に入ると、例によって店員がいない。キッチンで作業音。
先客は一組。幼児、嫁、姑の組み合わせのようだ。嫁はちょっとぽやぽやっとした感じ。姑はちょっと品の良いおばさまである。
席を確保し一瞬躊躇する。いくら何度も来ている店でいつもカリーバイキングしか頼まないからといって、いきなり無言で皿を手にとって盛りはじめるのはまずくないだろうか。いつもは店員にちょっと挨拶して始めるのだが。
おばさまが店員を呼ぶ。
「おきゃくさまよぅ」
笑いの混じった、明るい声だ。
バイトの店員が一瞬出てきていらっしゃいませを言ってひっこむ。ひっこんでどうする。
とりあえずトイレに行って手を洗う。出てきて水を自分で勝手に用意して飲んで、落ち着いたところで「カレーバイキング食わせてもらいますよー」とキッチンに声をかけて盛り始める。おばさまが「もらうってー」と復唱する。
私はまずキーマカリーから始める。
甘みのあるカリーを食べていると視界の隅に幼児に対してカリーを食べさせようとしているのが見えた。
舌をつけるかつけないかで顔を引いてしまい、「んべっ」と舌を突き出す。
何度か挑戦していたが、食べてくれない。
母親が食べてみせた。
幼児が食べるようになった。
食べていると青年が入ってきた。店員がいないのでちょっとまごまご。
「またおきゃくさんよー」とおばさま。青年はレジに行き、キッチンを覗き込む。
ようやく店主が出てきた。
「あらいらっしゃい。こっちは初めてだっけ?」「ええ。お金先ですか?」「あとあと」
そうか、彼は向こうの店の常連なのだな。
このカレーやさんは東京のある大学の近くにも店舗があるお店で、こっちに店舗ができたときに「東京の名店がやってきた」とちょっとうわさになったのだ。
店主と青年がしばらく大学と昔の東京の店に関するトーク。カレーに関する歴戦の勇士といった感じである。
大学の話におばさまも絡んでほのぼの高学歴ゾーンを形成していた。いやみがないのがいやみという感じ。
聞いているだけで笑みがこぼれてしまう。
おばさまがピッチャーを持ってきて水を注いでくれた。
私はコップを取りに行き、青年の水を注いだ。
世の中はお互い様だ。
野菜カレーを食べ終わり、千円払っておばさま方と青年に挨拶して帰った。
長々と書いたのに読んでくれてありがとう。