はてなキーワード: ずんとは
女は平均よりも小柄である。手足も比例して短く、肥るとすぐにずんぐりした印象になるので、体重が増えないように気を使っている。
毎日男達がやり取りする過程で生まれる大量の書類を、送付状をかけて三つ折りにしたり、封筒に入れて宛名シールを貼ったりして得た、お小遣い程度の給与で買えるペラペラの服に身を包み、年老いただけで責任の伴う出来事を経てこなかった人間特有の、実年齢の割にのっぺりと奇妙に幼い顔にドラッグストアで買った化粧品をおざなりに塗っている。
ある日、女はふと思った。
どうしていつも私ばかり道を譲っているのだろう。
ほとんど同時に回答は出た。なめられているのだ。
女は平均よりも小柄である。手足も比例して短く、肥るとすぐにずんぐりした印象になるので、体重が増えないように気を使っている。
毎日男達がやり取りする過程で生まれる大量の書類を、送付状をかけて三つ折りにしたり、封筒に入れて宛名シールを貼ったりして得た、お小遣い程度の給与で買えるペラペラの服に身を包み、年老いただけで責任の伴う出来事を経てこなかった人間特有の、実年齢の割にのっぺりと奇妙に幼い顔にドラッグストアで買った化粧品をおざなりに塗っている。
電車の座席などに女が座っていて、二つぶんのシートを開けてまた別の乗客が座っている場合など、次の停車駅で乗り込んできた新たな客は決まって女の隣に座る。
女の隣の座席のほうが余裕があるからだ。男の客などは左右の座席にはみ出すほど股を広げていたりするが、女は一人分の指定シートの範囲にすっぽりと収まっている。
車内がやや混み合っているときなど、女の、男の客より体格が劣るぶんだけのゆとりのあるスペースを見つけた乗客は、半ばほっとしたような顔つきで尻を滑り込ませる。
同じ調子で、人々は、道をすれ違うときもごく自然に体躯のいい男を避けて女のほうに寄ってくるのだ。女はさらに彼らを避けるために、体の小ささのぶん狭い歩幅で右に左に細かく蛇行しながら道を歩く羽目になる。物心ついた頃からその繰り返しである。
道いっぱいに広がって、他の人に迷惑をかけないようにしましょう。
幼稚園だったか小学校の頃だかの「交通マナー教室」でそんなことを聞いたような気もするし、少女時代にはそれを守っている「マナーのいい」自分をどこか得意に思っている節もあったけれど、いつの間にやらそんな物分かりよく振る舞っているのは自分だけのようだった。
それどころか得意満面で横一列に肩を並べて笑いあいながら歩くのが当然である。
これは男子中学生、高校生でも、スーツ姿のビジネスマンでも、中高年になっても同じなのが女には不思議でならなかった。
「あれは群れの序列を示していて、一歩後ろに下がると集団での地位が低いと見られるので、横一列にならなくてはいけないのだ」という言説をインターネットで見かけたが、本当なのだろうか。
女は男の集団に入ったことがなかった。彼らとぶつからないようにふらふらと漂いながら机を拭いたり、ゴミを捨てたり、他の女たちと話し合ってバレンタインデーのチョコレートを買ったりしていただけだった。
自分の家族や恋人とも頑なに並んで歩こうとする男も珍しくない。
他人に道を譲る思いやりのないところを大切な人に見せつけたいというのはどういう心境だろう、それならベタベタと腕を組んで引っ付き合って道の端に寄っているほうがまだマシではないかと考えてから、実際女は交際していた男と連れ立って歩いていて、他人とすれ違うときは自分が男の後ろに下がっていたことを思い出した。
女は昨年、仕事帰りに転倒して脚を痛めた。
体のほんの一部を怪我しただけで、これまで何でもなく行ってきた日常の動作が困難になるストレスは大きく、女は半ばヤケクソのような気持ちで松葉杖をつき、歯を食いしばりながら片足を引きずって歩いた。
すると、どういうわけか、これまで当たり前に女が道を譲ることを期待して反対側から歩いてきた人々は、女の杖や引きずった脚に目を留めるとバツの悪そうな顔で避けるようになったのだ。
彼らは、怪我人を思いやる程度には善良なごく普通の人々であった。
平時でも体格のいい人間とぶつかったら、私のほうが転んだり怪我をする可能性が高いことには変わりないのに、松葉杖のようなわかりやすい目印がないときは、彼らはそんなことは気にも留めないのだ。
道端に転がっている小石や落ち葉をいちいち気にしないのと同じだ。軽んじられているのだ。なめられているのだ。
思えば、どんな場面でもそうだった。医者も、タクシーやバスの運転手も、市役所の窓口の職員も、女を見るといつもよりぞんざいで、「そんなことも知らないのか」と言わんばかりの態度で、時にはため口を利く。女は当たり前のようにそれに敬語で従ってきた。
あるときは、さほど狭くもない道で、わざととしか思えない角度で急接近してぶつかってこられたこともあった。自転車ですれ違った男が、気づくと引き返してきていて、追い抜きざまに女の胸を掴んで走り去ったこともあった。
軽んじられているのだ。どんなふうに扱ってもいい存在だと思われているのだ。
女の中で怒りがとぐろを巻いて大きくなった。
松葉杖や車いすなら道を譲るくせに。もっとわかりやすくおばあさんなら道を譲るくせに。私が男だったら道を譲るくせに。
私が女じゃなかったらそんな口を利かないくせに。ぶつかったり体を触ったりしないくせに。
どうして私には何をしてもいいと思ってるんだ。おかしいじゃないか。おかしいじゃないか。おかしいじゃないか。
そういえば、女がまだ小学生か中学生だったころ、叔母と一緒に歩いていたら対向から若者の集団が歩いてきたが、叔母はまったく道を譲ろうとしなかった。
叔母とぶつかりそうになって寸でのところで若者は避け、忌々しそうに「クソババア!」と罵ったが、叔母は涼しい顔で歩き続けた。
思い返せば、これまでにすれ違った数多の人々の中にも、決然とした目つきでまっすぐに道を歩いてくる女たちがいた。
彼女たちは「絶対に道を譲るものか」といわんばかりの、睨みつけるような顔をしていた。
叔母も、あの女たちも、ある日こんなふうに気づいたのだろうか。
「なぜかいつも私ばかり道を譲っている」と、腹を立てて、「もう道を譲るのはやめよう」と思ったのだろうか。
女は心に決めた。
私も譲られるのが当たり前みたいな顔をしている人に譲るのは、もうやめよう。
ぶつかって転んでけがをするかもしれないけど、そのときは怒ればいい。「女だからなめてんだろ」「わざとぶつかっただろ」と。
「単純なミスを二度繰り返す」
なんだか吉高由里子ちゃんの出てる映画のタイトルみたいじゃないかしら?
「ロシアより愛を込めて」に通ずる映画のサブタイトルに使ってもいいわよ。
いまなら早い者勝ち!
あーあ、
私も寝て起きたら
あのさ、
私またやってしまったわ。
私の傾向としては、
単純なミスを間隔を置かずむしろ直近にまた再び起こすってこと。
そうまた郵便局よ。
宛名間違えちゃって出しちゃって郵便局の人に探してもらいました。
さすがにこの時ばかりは
この間のようにすぐに見つからなくて、
局員の人も見つかったら連絡しますねって言ってくれたの。
凹むわー。
一応さ、
郵便も社会インフラの一部として活躍しているお手紙の用事はなんだったっけって黒ヤギさんが言うほど今じゃ欠かせないライフラインでしょ。
社会のリソースを私が申し訳ないほど10分ほど手を取らしてしまったわ。
結果的には事務所に戻ってからしばらくして電話があって郵便物見つかりましたって連絡があったから、
そっと胸をなで下ろしたところよ。
こないだ、こないだって言っても先週よ直近の先週!
一度ならぬ二度までも。
ほんと凹むわー。
私を慰めてくれるのは
中条あやみちゃんが苺イチゴしておいしいでお馴染みのハーゲンダッツイチゴ味しかないのよね、って
まだ冷凍庫から出したてでカッチカチやぞ!ってスプーンが入らないけど、
ギュッと抱きしめるか、
そのイチゴイチゴしたハーゲンダッツイチゴ味でお馴染みの中条あやみちゃんばりにそれを食べるのよ。
それが癒やし。
でもさよく考えてみると、
木べらのスプーンで挑んで戦えと!
文字通り歯が立たないわよね。
だから私は、
こういう時って日本語でどういうのかしら?
それが癒やし。
でもさ、
中条あやみちゃんがもっとイチゴイチゴしてる!ってそれを越えるもっとイチゴイチゴしてる驚きを、
あのイチゴイチゴしてるのもっと苺を感じさせるものって無いのかなーって思うのよ。
最強の苺探しの旅に出たいところだけど。
じゃー一周してイチゴ狩りに行けばいいじゃん!って思ったワケなのよ。
半袖でいる人がいたら要注意よ。
意気込みが違うのよ意気込みが。
あと、
えーイチゴ狩りタイムたったの30分なのー?ってしょんぼりしなくても安心よ。
まあ
そんなわけで、
うふふ。
お腹が満たされると研ぎ澄まされる感覚が無い感じがしないかしら?
よく分からないけど、
最近は朝これ試みているところよ。
ちょっと暖かくなってきたと言えども、
いかに私たちはイキフンで言葉を巧みに使っているってことなのかもしれない、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
お前は田舎でちょっと栄えてて交通量がそこだけやたら多くなる地域の歩道を知らないからそんなことが言えるんだ。
幅40cm人がすれ違うことすら出来ない歩道が車道の端につけられ、お車様のお邪魔にならないように体を必死に壁にこすりつけながら歩くことを強いられる道をな。
東京ってのは結局電車社会だからなんだかんだで歩行者には人権がある。
犯罪をして免許を取り上げられた悪党と社会のことをなにも知らないクソガキ、そして存在価値の消え失せた老人、歩行者はそういう目で見られる。
だからお車様の邪魔を歩行者がすることなんて許されない社会なんだ。
そこのけそこのけ轢き殺されても文句は言うな。
大概の県には「天下の○○高」「○○高生にあらずんば人にあらず」と称されるようなトップ校(旧制一中を前身にもつことが多い)があって、地域政財界に強力な高校閥を作っていることが多い
子供がそうした高校を卒業すると、地域でのエスタブリッシュメントの資格を得ることになる(もちろん十分条件ではない)
また地方でも周囲より地価の高い住宅地があって、その地域の小学校中学校は落ち着いた環境で成績も優秀だ(大都市圏以外では新興の「高級住宅地」は避けた方がいいかもしれない。城下町だと昔は武家屋敷街だったりする)
江戸・明治から続く階層社会の名残は地方ほど色濃く残っており、上級な土地に住んでトップ校に子供を通わせることによって、上質な友人を作り文化資産を身につける可能性がでてくる
なぜ人は子供ができると見せびらかしたくてたまらなくなるのか。
私は独身子無しのそこそこいい歳の女だが、いないからなのか上記の気持ちが全く理解できない。
そもそも他人の子供に興味がない、それどころか基本的に子供は嫌いである。
正直、他人の子供に興味のない人間は結構いるのではないだろうか。写真を見せられてカワイイね、と毎度毎度心の底から思う人間も居ない事はないだろうけど。
そもそも子供を嫌いと言うだけですでに悪である、母性がない、女性としてどうなのか。みたいな雰囲気になるので困ってしまう。
写真を見せられると「かわいい」と言わなければならない。外人の天使ちゃんみたいな外見ならまだしも、似たり寄ったりな日本人顔の子供の顔に対して、かわいいのカツアゲが起こる。
私からすれば、「おう、子供見せてやったろ。可愛いって言えや。可愛いだろ?ああ?」みたいなチンピラに絡まれている気持ちにすらなる。
私も一応大人なので、全く思っていなくても「カワイイネ」くらい言える。
しかしそれが続いてくると嫌悪感が降り積もって、最近ではCMで赤ちゃんが出てくるだけでイライラする。今日ママになりました☆みたいなテレビのコーナーにもイライラする。
何がこんなにイライラするかって、とにかく見せられてお腹いっぱいなんですよ。特に可愛くもないずんぐりむっくりの平凡な顔に対してか~わ~い~い~っていう事に疲れているんだ。
友達同士でオンライン飲み会をすれば子供を抱いてうろうろ。はいはい、かわいいかわいい。
子供がギャン泣きでも画面の前に座らせて、当然会話は泣き声によってかき消されるわけで。分からんかな、子供の泣き声ってものすごく不快なんだけど。
泣き声繋がりで久しぶりに会った友達から「うちの子の泣き声カワイイから聞いて♡」って聞かされたんだけど、もうどういう事???状態だった。いや、普通にうるせえ。
それから「こんな事あったんだよ」っていうラインのスクショですら関係ない子供の写真までわざと入るように送ってくる。
とにかく見せて可愛いって言われないと気が済まないのかな。
子供の写真なんて年に1回くらい見せてくれりゃそれで良いんだ。逐一成長を見たいなんて思うのは両親とジジババくらいなものだろう。
ここまで書いて何となくわかった。
何がイライラするかって、何も言わず見せてきて(連れてきて)可愛いって言って(チラッチラッ)が嫌なんだ。
わざと見切れさせたり、そういう姑息な手を使ってカワイイをカツアゲしてくるやつらが嫌だったのかもしれない。
かと言ってみんなで集まるときに当たり前に子供を連れてこられるのも嫌だけど。
今の世の中で一つだけ救われるとすれば、コロナ渦で人に会えないという事。
誘われても保菌してたら大変だから!とかなんとか言って会わなくていいのでちょっと精神的にも余裕がでてきた。
因みにこういう話をすると嫉妬乙、みたいな話になるんだけど、友達から鬱陶しいと思われている人のどこに嫉妬すればいんだろう。
今まで増田にしんどいとか書いてきたけど、10年目くらいにして躁側に来たのでメモっておく。
もうしんどいのは10年くらい続いてて、ストレスを感じると、ずんと胸が重くなって、苦しくなって「うーあー」ってなってた。
昨日、何か違和感があって、浴槽で気付いた。これ、躁ってやつだ。
胸がぽっかり空いたように軽い。苦しくない。頭はぼんやりしてるけど。
何日も前からあれ?って事はあった。頭が回ってないはずなのに、アイデアがポンポン出てくるし、色んな事に敏感で色んなことが色鮮やかに見えてくるし、ネットの書き込みも増えた。今ならなんでも出来る気がする。
あと、自分が乗っ取られる気がする。自分の延長なんだけど、勢いとか考え方に慎重さがなくなる。発達障害だから慎重さなんて元々ないんだけど、その場の勢いでやる。大抵悪いことも。
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自分語りをすれば2回休職したことがあって、感情ぶっ壊れて、1回目は泣きが入って止めた。2回目はブチ切れして、次に泣きが入った。
多分、ちょっとずつ耐性ついてるのかな笑
で、今回。相変わらず、ストレスにさらされてて、良いことが0.5だったら、ちょっとでも嫌なことが100は感じるようになった。
仕事は頭が回らなかったりしてミスばかりで、同じミスを何回もした。多分、発達障害と鬱のミックスかな。いくつもある「出来て当然」「やって当然」ができない。
まぁ、そんなんどうでもいいや。
元々自分はストレスがあると自分を苦しめるタイプで、人が心配すればするほどムキになって仕事していた。
ヤケクソというしっくりくる言葉が思い浮かんだのは昨日、降ってくる仕事をわーってなりながらやってて(そして、どこかでポカをしているだろう)、Excelが固まる度にPCにマウスを投げつけていた。
今まではストレスを溜め込んでいたが、最近はすぐモノに当たるようになっていた。投げたり、蹴ったり。タガが外れると人にも危害が加わるんだろうな。
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さて、以上。
これを増田に書いたのは助けて欲しいから。誰かに止めて欲しいから。
素直に自分の気持ちを書いているのは躁っぽくなって、先が怖くなったから。今はまだいいけど、多分今の自分が大嫌いな自分になる気がする。
俺はアラフォーなんだけど、多分メンタルはガキなんだと思う。5歳とか。ムキになってるんだけど、本当は止めて欲しいし、気づいて欲しい、助けて欲しい。
でも、みんな今が精一杯だし、人間だから自分が望む形にはならない。
それがもどかしくて辛かった。
心療内科も当たり障りのない事を言うし(自分から言わないと、そう受け取ってくれない)、カウンセラーはマインドを変えさせようとするけど、それはずっと先の話。小手先の話はない。
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ああ、ここまで書いて思い出した。これを書こうと思ったのは精神科でおかしくなった奴はこういう経路を辿ったんだろうなってこと。
良いことがあっても0.5しかないんだけど、些細な嫌なこと(メールが返ってこない、Amazonの配送が遅れる、一番相談したいときに誰もいない)が100になっている。
完全に世界を恨んでいる。
それを伝えようと思って増田に書いたんだった。