はてなキーワード: 生涯賃金とは
前提条件無視して同じにしろとか言うなら、東京と沖縄の最低賃金を同じにしないといけないな。
しかし、それは、東京のほうが高いのは当たり前!沖縄が低いのは自己責任とか言うんでしょ?
この女性。そうやって、地方での格差なんか知らないとか言いながら私の給料には格差があるとか言ってる女性ばかりなんだから、
何言ってるんだかという話だが。
もう一回言うが、女性にある格差とか言うなら、結局、東京と沖縄の賃金格差も是正しろになって、東京が下がっても文句言うなよ。
健常者差別だと思いまーす!
障害者だけの町を作りたいだなんてー!
健常者差別だと思いまーす!!
なんて、大した実害もないくせにうるせえよとしか思えない
言い返せるのが嬉しくてしょうがないんだろ?
生涯賃金が健常者の半分にも満たないとか
きずついたー!かなしーい!さべつだー!!
障害者!ナニソレ?
一生やってろばーか
女性専用車両はー!
男性差別だと思いまーす!
女だけの町を作りたいだなんてー!
男性差別だと思いまーす!!
なんて、大した実害もないくせにうるせえよとしか思えない
言い返せるのが嬉しくてしょうがないんだろ?
きずついたー!かなしーい!さべつだー!!
一生やってろばーか
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追記。
むかついたまま書いて寝て起きたらなんか知らんが盛り上がっててびっくりしてる
>感情論だ
百も承知。
だが申し訳ないけど感情論で女性専用車両を殴ってるだけにしか見えない連中がいるのも事実だと思うよ。
それに反応するんじゃありません、という荒らしはスルーが一番嫌い!理論に乗る義理はない。
>差別は差別だ、間違った方法なのには変わりない、もっといい案を考えるべきだ
そうかもね。そう思うよ。
でも結局それに対する対案が「満員電車がなくなればいいのにナ」って
それ「話し合ってる」っていえんの?
そういう話になってるならともかく
>そんな態度ならもう協力なんてしない
なんでその手の「男性様」にひざまずいてご助力を乞う状況にならなあかんのだろうな
なんでやねーーーーんどこがやねーーーーーん
ずっと思ってたけど、君ら「ラディカル」って言葉の響きだけで雰囲気でフェミニズム批判をやってるよね???
好きにすれば?
「これだから女は」なんて発言する人、どうせこの記事があろうがなかろうが
そういいたくて仕方ない人でしょ
>男女対立煽ってもいみない
そのとおりだね。そう思う。
「でもそれは論理的に差別だと言えるよね(眼鏡クイ)」だとあまりに温度差がありすぎて
男女両方一切の不便なく性犯罪が撲滅されるならそれがいいよ、そりゃあね、当たり前
でもできないじゃん
その実態を無視してメガネクイクイされりゃそれは書きなぐりたくもなるわ
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「それな」と
何がくいちがってんだろうな
「差別」であればそれは錦の御旗を得て叩けるはずだと思う人と
段階的に実害をなくしていく末に平等を目指そうとする人の差なのかね
後者のその「段階」を「差別」と呼びたい派と呼びたくない派もいそうだけど
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http://b.hatena.ne.jp/entry/358289626/comment/paravola
>>(まだ悪あがきしてる人よりはよほど勘がいいかもね)差別を認めるか、対策を諦めるか/「理論に乗る義理はない」 <<
「荒らしスルー理論に乗らない」をこう抜粋するってどういう偏向報道だよ思わず笑ったわ。
大した実害のない「ふゆかいですうー」を長ったらしく言い換えてるだけの連中に限って自信満々で面白いわ。
あとこれが男全体を叩く文章に見えるんだね。
まあ読みたいように読めばいいよ、どうせなに読んでもそう見えるんだろうから。
昇給やキャリアパスが望みならそれなりの規模の中小企業で役職があるようなとこ受けて面接で聞けよ
経営者と労働者数人の会社でキャリアとか生涯賃金とかなんの話だよ
面接で聞けばそんなのありませんよで終わり
それが零細企業だろ
弱者であれ強者であれ個人はミクロな存在なので、マクロから見た場合統計的にしか補足できない。
「(マクロな意味で)弱者(の総体を)救えば、(マクロな意味で)強者であるあなた(の属する強者の総体)も(一定範囲内で)利益を受ける(可能性が高い)」ってのが真実で、()の中が省略されているだけだよ。
でも個人の人生はあくまでミクロベースなので、個人レベルでの生活論で言えば上記理論に私財(生命にしろ財産にしろ自由にせよ)を投入すれば、多くの場合は不利益のほうが大きい。例えば金持ちが全財産をまるごと寄付して、即座に寄付総額よりも大きな利益を受け取れるってのはまあ、概ね間違いだ。そんな事例は検討する必要が無いほどレアだ。
どっちかって言うと確実なのは「弱者を虐待しすぎると自暴自棄になった弱者が強者をぶち殺しに来るぞ」ってことで、宗教テロにせよ経済格差テロにせよ本質的にはこれだ。強者が弱者に気を使う必要があるのは、別の、そして決定的レイヤである「物理的な暴力」で逆襲をされないようにするという一点にかかっている。
そもそも最初の「弱者を救えば強者も救われる(利益がある)」ってのにおける「強者が得る利益」ってのは「殺されない(その可能性が低下する)」って言う利益だ。文明が進んで先進国になった現在、個人間の格差はジャンルによるけれど、数十倍から数百倍にたっする。例えば資産とか、生涯賃金(稼ぐ能力)とかがそれ。先行者(富裕層)絡みて一番イヤな種類の公平はファイトクラブ的な裸で拳な暴力世界であって、その世界では彼らのアドバンテージはなくなってしまう。それはある意味とても公平ではある世界だ。そして現代社会だって一皮むけば中身は全くそのまんまなのだ。
でも「すべての人民の間には物理的暴力がある」っていうただの現実は、先進国において強者(多くの場合経済的&知的富裕層)にとっても、弱者(同じく経済的教育的貧困層)にとっても不愉快な事実だ。強者側から言えば自分たちが脅迫されうるっていうのはストレスだし、そもそも弱者側にも武器があるってことを知らせるのが不都合だ。弱者の側から言えば自分たちの要求が武力を背景にした強請りたかりであるってのは不都合な事実だし、人権だとか考えておいたほうがストレスがない。そもそもこの件をほじくり返せば共同体(この場合国家)に「分断」が発生してしまって、それが国力低下を招くのは西欧見ればあきらかだ。臭いものは蓋をしてなあなあにしておいたほうが全員にとって都合が良い。
みんなが自分の利益を最大化したいと思いつつも、自分以外の参加者を決定的に怒らせて団結を壊すのは全員の不利益であるので、なあなあでみんなが少しずつ我慢できる結果を模索する――その現場が福祉政策の政治的な合意をさぐる国会であり、今回のような選挙だよ。
いきいきママは産休育休、時短で他の社員のように働けない、自分が他の社員にフォローを求めることはあっても自分がフォローすることはない、それでも給料は変わらず、フォローした側は評価されない、報われないのは不平等だ。やがて離職につながる。
「いきいきママ」が一般的になる前は(今も?)、正社員とパート、アルバイトという形で元々立場が違い給料も責任の重さも違った。だから不満が出にくい部分もあった。ただ、いきいきママの方々にパートになれと言ってもそれを拒む人たちはいるだろう。社会保障とか生涯賃金とかを考えて、どんなに周りに迷惑をかけても仕事にしがみつく人もいるだろう。(個人的には子育てがひと段落するまでパート、ひと段落して働きたいという意思があり、周囲も能力と意欲を認めたら正社員でいいと思うのだが。)
なので、正社員1種、正社員2種みたいに違う扱いにして、給料も違う、仕事の負担も違う、責任も違う、昇給も違うとしてはだめなんだろうか。地域限定社員とか既にやっている企業あるし。
かつてあった総合職と一般職も似ているけど、性別で分けるのではなくて、本人の意欲と能力、環境で分けるとよいと思う。自分ではどうにもならない属性だけで分けると、必ず不満を持つ人が生まれる。実際、属性だけではその人の仕事の能力や意欲は判断できない。
子供がいる女性でも夫が子育ての大半を担い、本人が転勤や残業をいとわずに働くなら、その人を正社員1種(負担が重く責任も重いが給料が高い)、夫のほうを正社員2種にするとか。
働くのが好きで何を差し置いても働きたい人ばかりじゃないし、実際仕事の能力が低く子供がいることを利用して権利だけ主張するタイプも一定数いる。そういうレベルの人達も全員「いきいきママ」「いきいきパパ」にしようとするのが無理がある。仕事の能力が低く、意欲も低く、それでも会社にしがみつきたい人をほおっておくと会社全体の士気が下がる。そういう人はそういう人のレベルの立場で働いてもらうに限る。
元増田の会社は、時短の女性だけで回るのならそれで回して、回らないで倒産するなら倒産すればよいと思う。女性だけでちゃんと回している会社も、倒産した会社も両方知っている。
自己啓発書を読み漁ってみたり、幸福学の本を読んでみたり、瞑想をしてみたり。
客観的な幸せの指標については知ることができたが、しかし、私が知りたいのは「どうしたら私自身が幸せになれるのか」ということだ。大学生のとき「私は幸せにはなれない人間だ」と直感した。悲観的で自己肯定感が低い私は、どんなに恵まれた状況でも「幸せ」を感じることが出来ないだろうと考えたのだ。こんな私が幸せになれるには、性格から改善するしかないのではないか。とある新書によると、楽観的な性格は、幸せな人生には重要らしい。
そこで私はまた考えてしまう。満足な豚と不満足なソクラテスのたとえ話を。
楽観的な性格になること、あるいは趣味に没頭したり、スポーツで体を動かすことは、満足な豚になることではないのか。気の持ちようは大事だ。体と感情と思考はつながっているだろう。となると満足な豚は決して不幸とは言えないのではないか。ここまでくると「どう生きるべきか」という問題につながってしまう。そりゃあ倫理学的に考えると、「いい人生」とは「不満足なソクラテス」になることだろう。でもそれが決して幸せの実感とはつながらないとしたら。
私がほしいのは「べき論」ではない。じゃあ豚で満足しろよという話なのだが、しかし、そう簡単に割り切れないから悶々としているのだ。私は満足な豚にも不満足なソクラテスにもなれない、中途半端な人間だ。
前に書いたように、私は自分自身を「幸せになれない人間」であると認識している。不幸せなりに生きていくしかない、と思い、割り切って生きてきた。結婚相手を決めた理由も「この人となら一緒に不幸になっても構わない」と思ったからである。が、実際に結婚してみたところ、自分の不幸に配偶者をつきあわせるのは申し訳ないという気持ちが今さらながらに湧いてきた。私は配偶者や私たちの子供に不幸になってほしいわけでは決してない。
そして、そのうちに「もしかしたら私も幸せになれるのではないか?」といった希望までもが芽生えてきたのだ。
私も幸せになってもいいのだとしたら? 幸せになれるもんならなってみたい。
ところで、そもそも私は不幸なのか?
第三者から見れば、私は十分に幸せだろう。衣食住については満たされているし、スキルはないがいちおう働いている。家族も自分も健康だ。特別欲しいものはない。
これ以上、何を求める?
私はよく宝くじが当たればいいのに、と妄想しているのだが、もしも億単位(生涯賃金相当)の高額当選したらこの不安はなくなるのかもしれないとは思う。結局、私が求めているのは、「何があっても大丈夫」と思える人生の担保なのではないか。と考えると、結局幸せになるのに必要なのは、「私は何があっても大丈夫」と思える自己肯定感なのかもしれない。