はてなキーワード: 敵対心とは
ヤンデレやばい、超ヤバい。リアルのヤンデレは手のつけようがない。
まず会社、体調が悪いからと無理やり引き留められる。家から出してくれない。振り切って出勤したら上司に話が回ってた。「恋人さんが体調不良らしいから帰ってやれ。電話があったぞ」。勝手に人の会社に電話する。なんなら会社の事務員の女に凄まじい敵対心をむき出しにした。「あの○○って女○○たい」。頭がおかしい。
体調もヤバい。基本的には鬱状態だけど躁転したときがかなりヤバい。平気で10万くらいの買い物する。しかもひたすらキレ続ける。20万語くらい延々も話続ける。それもツイッターの愚痴。ネットやめろ。
そして出ていかない。何を言っても出ていかない。出ていけ!といえば売り言葉に買い言葉で出ていこうとするのに「止めてよ!!」と玄関でわめく。結局出ていかない。
以前私も2ちゃんねるを利用していた。しかし辞めて2ちゃんねるを卒業した。しかしそこで、2ちゃんねるに対する敵対心が芽生えてきた。例え自分が見ていなかったとしても、あんな幼稚で暴力的な言葉が飛び交う場所が許せなくなったからだ。しかし私は学生時代から2ちゃんねるを見ており、そこで思春期を過ごしたと言っても過言ではない。そこで、2ちゃんねるに対しての感情が安定しなくなった。だからといって邪悪さは否めないし、そういう意味では復讐をすることも考えるが、長○川くんみたいになったら嫌なのでしない。でも、確かにそこで温かい言葉をかけてもらったこともあるという思いもある。そういう意味では本当に感情が安定しない。
異常な敵対心を見せる人のせいもあるよなってモヤッてたので
絵は描くのも見るのも敷居が低過ぎて悲しい書き込みが多い、ほんとそれだけだと思う
単純に知的にアレなのですぐキレるのよ
オタクを自称しているのに 何故か "知識もこだわりも求められない" "商品の購入も求められない"
アニメ・マンガ・ゲームの界隈ってほんと地獄過ぎって思ってるので、
『毎年10万円以上マンガを買ってる!』っていうの見て、ほ〜ん・・・まともなのも多少は残ってたかって一瞬安堵しかけたが、
どう見ても "毎年" "10万以上" マンガ買ってそうなの1割もいない(権利について騒ぐのだから2次創作同人誌は当然金額に含めないように)、
連載中のマンガはいつか終わる、連載継続中のマンガでも毎月は単行本出ない、雑誌のアプリ版で毎月課金しても1話150円以内に収まるのが一般的、
アメコミがメインか長期連載タイトルを重点的に開拓するとかでもない限り、"毎年" 最低100以上のタイトルを読んでるはず、
この認識すらない連中多過ぎだからな、完全に知的にアレしてますやろ
そんな人でも平等に楽しめるアクティビティだと思えばとても素敵っぽいけどほんと地獄のような界隈だ
colaboの方針への反論は全てが敵なので無限に敵がいることが明らかになって来たな。
父親がDV男だったから、男への敵対心だけは昔から人一倍強かった。なんとかしていじめてやろうと思ってた。
力では叶わないなら、別のことで。
小学生の頃はよく男の持ち物を隠していた。上履き、鉛筆、ノート、ほかなんでも。幸い私は優等生だったから、全然怪しまれなかった。
父親に暴力を振るわれた日はなんとかして男を痛い目に合わせたい衝動が強くなって、上履きに画鋲入れたりちょっと危険なこともした。
どんな男でも男が困ってるとスカッとした。
中学の頃の男の先生は気に入らなかったので友達と嵌めて退学に追い込んだ。めちゃくちゃ楽しかった。
好きだと言ってきた男は酷い噂を流して加害者に仕立て上げて振った。めちゃくちゃ楽しかった。
全部父親への怒りを他の男を不幸にすることで晴らす為だった。
脳卒中で半身不随になった。
それどころか、将来どんな酷い評判の老人ホームに入れて虐待の憂き目に合わせようかとか、睡眠薬飲ませて思考を溶けさせようとか、そんなことしか考えられない。
さっき増田読んでて思ったんだけど「睨む」ってどの程度見られたら「睨まれた!」って人は認識するんだろ。
さっき読んだ増田では散髪屋で待ってたらおじさんとギロリと見られた(睨んできた)とのことだけど、不自然に視線を向けられたというだけで「睨まれた」って感じるのかな。自分が散髪屋で髪を切られてて他の客が入ってきたら、どんな人だろうか…?と視線を向けてしまうと思うけど、それも人を「睨む」ということに含まれるのか。
今ググって知ったけど、「睨む」は別に悪い感情があるかどうかは関係なくて「じっと見る」ことなのか。今まで敵対心とか嫉妬とか悪感情を含めた視線のことを「睨む」だと思ってた。それなら視線を向けてしまうのは「睨む」に含まれるわ。
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University
” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
くるるって生主が同窓会みたいな配信をやっていて、ゲストは以下のメンツだった。
昔ニコニコ生放送をよく見ていた身としちゃ懐かしい顔ぶれで、コメント欄の無法っぷりもまた懐かしい。
ここにVtuberに関連するゲストもいたので、案の定「バチャ豚バチャ豚」と騒ぐキッズがいた。
そいつら見てると、妙にVtuberに対するライバル意識が強いんだよな。
「あいつは絵になっちまったよ」「絵なんか捨ててニコ生に戻ってこい」とかね。
わざわざ”V"を"絵"って言い直す所に、"実写"の生主に対するプライドが見え隠れしてる。
ニコ生は女が映ったら「4545454545」「えっど」とか、変な発言には「きっしょ」とか「は?」とか、
その正反対にいるのがV界隈なので、人間やっぱり全然違う人種には敵対心を持つんだろう。
そういう光景を見てると「見捨てられた」って気分になるのかもしれないな。
で、今でもヤバい連中を見捨ててないのが、もこうと加藤純一だ。
ゆゆうたも結構ヤバい配信スタイルで通ってるが、ゆゆうたですら「終わってるリスナーを見捨てないもこう先生はすごい」と言うくらいだ。
やべー奴らを手懐け、飼い慣らす手腕は並大抵の配信者は真似できない。