はてなキーワード: 思想の自由とは
まずは『集団感染で集団免疫を得る』とかほざいてたカルトどもを吊るしてからにしようぜ
■ 2020-11-10 (anond:20201110102709)
アメリカのネトウヨを輸入してる日本のアホはワクチンは無意味・開発出来ないって騒いでたがな
割と日本のアホは配慮が必要な域にあると思う。ネトウヨと明確に区別してよい
見本 ↓
さすがにワクチンに期待するのはノー天気過ぎると思うが・・
■2020-06-28 anond:20200628132752
しかし副反応のないワクチンなど無いことだけ理解出来ればいいよ
[ナショジオ] MERSワクチン、開発が進まない理由
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9272/?ST=m_news
コロンビア大学メイルマン公衆衛生大学院、ジョン・スノウ冠教授で同大学院感染症・免疫学センターのディレクターを務めるW・イアン・リプキン(W. Ian Lipkin)氏は、
「もし世界中の全ての人にワクチンを接種するとしたら、ある人がワクチンに対して副作用を起こす可能性は、MERSを発症する可能性よりも高いだろう」と話す。
◆予防の鍵はラクダ
SARSのときにはウイルスを媒介する動物の駆除が制圧を早めたように、MERSのさらなる感染拡大を止めることが何より望まれるという点では誰もが一致している。
リプキン氏は、最も有効なのがラクダだと期待する。MERSの予防ワクチンを人に接種するのではなく、感染拡大の鍵を握っているらしいラクダへの接種に焦点を移した方がよい。「宿主としてのラクダを根絶すれば、MERSを抑え込む合理的な一撃になるだろう」とリプキン氏。
ラクダ用ワクチンの開発であれば、人間用ワクチンの開発よりも安く、早く、容易に実現するだろうし、人間の場合に比べて安全性の懸念も小さいとリプキン氏は話す。
anond:20210605232432 anond:20210613003020 anond:20210615130655 anond:20210615134531 anond:20210620145240 anond:20210627164730 anond:20210627165930 anond:20210722120156 anond:20210728211540 anond:20210728211832 anond:20210829112603 anond:20210829113328 anond:20210829114355
https://anond.hatelabo.jp/20210318185716
最初に言っておくと、“擁護”という言葉、muchonovさんこそが批判されているというフェイズにおいてその様に用いられる“擁護”という言葉は、ただの批判回避でしかありません。『「xx批判」に対する批判』を「xx擁護」という事にしておくと、あくまで批判されてるのはxxだけという事に出来て、「xx批判」こそが批判されてる事実を誤魔化せる、そういう小手先のテクニックです。これはその意図の有無に関わらず、です。
自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現の自由に優越する要素が確実にあると思う。だから、著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達がガチで怒ったらどうなるかわからないから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的な判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
いやいや、意味わかんないですよ、これ。
だって「発端」のブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699940658477561058/comment/muchonov)は
「好意の多寡」云々と強弁してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちが権利者の意向には簡単にゴロニャンするという構図は変わらない。自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
ですよね。
それに対してこちらが、それは“事実上の『私は「表現の自由」について全く理解していません』宣言”だよねと指摘して、そこにmuchonovさんから返ってきたブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699974732078626146/comment/muchonov)が
そうかなあ? 自分は著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える一方で、元増田は「グロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもあり」だと言ってるんですけど。
この時点で、もうだいぶ「????」なんですが、これについてこちらが『“著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える”様なmuchonovさんが“コンテンツホルダーの意向には簡単にゴロニャン”とか言っちゃうの、さすがに意味不明すぎでは。』と指摘して、それに対する応答が上の増田なわけですよね?(こちらへの応答だけのつもりではないにせよ)
日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
とか仰ってますけど、笑ったの、他ならぬmuchonovさん自身ですよね。その“笑われても構わない”って、それ「笑う側のmuchonovさん」からしたらつまりは「“表現の自由戦士”たちは、おとなしく我々に笑われてろ」の意味なわけですよね?うん、やばいですね☆
って、muchonovさんの中では、「著作権」と「表現の自由」が、かめはめ波の撃ち合いか何かみたいになっていて、「著作権」の方が勝ってる…という様なイメージなのでしょうか?
もう何度も述べてきている事ですが
「表現の自由」で最も重要なのは『価値観の自由競争(市場)』。『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つ(もちろん重要だが)。『表現の自由度』はその結果。
です。
これは、『絶対に「正しい」とされる、そんな「思想」は存在しない。だからこそ、「思想」の媒体たる「表現」は常に「自由競争」の下にあらねばならない。』事こそが、「表現の自由」の根幹である、という話です。
また、「市場」の中で自身の「効用」を最大化する事は、個々の主体が持つ権利であるべきだから、という考えに基づくものでもあります。
ですから、もしこれを否定しようとするならば、『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明しなければなりません。完全に狂気であり、全知全能の神の召喚でも試みた方が早いレベルだと思います。
つまるところ、その根幹が「自由市場」である以上、各々の「私的所有(財産)」を認める事は「表現の自由」に織り込み済みだと考えるべきです。「表現の自由」vs「著作権」、どちらの方が“優越する”か(アクセルとブレーキ、どちらの方が強いか)みたいな話とは違います。
ですから、“日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして”も、「私的所有」を認める事に“ギャップ”はありませんし、もちろん笑われる理由も存在しません。
これはmuchonovさんに限った話ではないと思いますが、恐らく『「権利がある」というのは、「その“権利”を行使した時に不評を買わない権利がある」の意味ではない』という事を理解されていないか、もしくは失念されています。
他の言い方をすれば、『「ルール」に従うか/逆らうか』と『「ルール」を肯定するか/否定するか』は、それぞれ別の事柄だという話でもあります。
(一応言っておくと、個人的には例の“お願い”について、曖昧であり「忖度学級会」を誘発するものだとして、2018年6月時点で批判的にコメントしています。)
また、「私的所有」を認めるという事は、その是非(その「大きさ」の妥当性や、そもそもの有無等)を問わないという意味ではありません。それは「表現の自由」とは別個の問題として論じる事ですし、今回の流れで言えば、もう少し著作権に関する是非は、議論の俎上に載ってもよいだろうと考えます(個人的には著作権はもっと「小さく」していくべきだと考えていますし、むしろ逆に「大きく」なる傾向のある現状については危惧しています)。
実際、話題になった「馬名のパブリシティ権」の話は、その辺りが問われた件だとも言えるかもしれません。もちろん逆に、「せやかて、やっぱ馬名については馬主が優先的ステークホルダーであるべきやろ」と主張するのも、それはそれで一つの考えでしょう。
どうであるかと、どうあるべきかは、やはりそれも別の事柄なのですから。
muchonovさんは二者の関係を「権利者と利用者の力関係」と述べており、もちろん嘘ではないのですが、それ以前にまず「供給主体と需要主体」の関係である事を忘れてはなりません。
コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。
供給側としては、コンテンツに対する需要がなくなってしまう事こそが最も恐れる事態の一つであり、つまり(馬主のご機嫌よりもよほど)需要側のご機嫌こそを気にしなければならないわけです。趣味で製作しているアートか何かではないのですから。
恐らくは、だからこそ曖昧な“お願い”なのであり、また2018年6月20日なのでしょう(せめてアニメ放映中には冷や水を浴びせたくない、夏コミが控えてる、ゲームはしばらくリリースできそうにない…というタイミング)。
そしてもし、muchonovさんが記した様な「逆転現象」が起こるのだとしたら、それこそが「惚れた弱み」であり、正に元増田が述べていた状態そのものなのです。
「お客様は神様」と「殿様商売」との間で揺れ動く、その実に「自由市場」的な動きの中で「表現」の在り方も変動するというのは、むしろとても「表現の自由」的である、とすら言えるでしょう(元増田に、そこまでの考えがあったとは思わないし、個人的にはやはり「忖度学級会」には否定的だが)。
にもかかわらず、それを“バカみたいじゃん。”と切って捨てるmuchonovさんの発言のほうが、よっぽど“バカみたい”なのではないでしょうか。
HanPanna 価値観の自由競争というのはrag_enさんの造語なので、法学だと思わないように(もし学説があれば教えて下さい)"思想の自由市場"について知りたいならコチラのブログのが良いです。https://arecolle.hatenablog.com/entry/2021/03/06/124923
“法学”ってどこから出てきたん?というか、『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つでしかないよ(大切だけどね)って話、してありますよね?ちゃんと読んでます?
なんか理解されてないようですけど、その箇所への反論は「ちゃんとできるようにしてある」んですよ。つまり『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明してみせればいいだけなんです。はい、頑張ってください。
まぁ、HanPannaさんが同じ話題でやらかすの、これで3回目ですし、間違った事でも言い続ければ押し通せるみたいなの、完全にオカルトなんで勘弁してください(HanPannaさんに許可を頂ければ、過去のやりとりも晒しますよ)。
あとリンク先、よりにもよってU.G.R.R.の人かよ…ギャグで言ってるのか?ってのが正直な感想ですけど、ぶっちゃけ謎の(マジで謎の)出禁を食らってるので(とはいえ、さすがに閲覧不可は無視するが)言及は避けておきます。やさしみ。
Silica ところでこの"価値観の自由競争"の中では寛容のパラドックスはどうなるんだろう、この人の言う"SJ"的な価値観がその競争に勝利したらどうなるの?
理解不能ではあるが、まあ民主主義だし思想の自由だし、現政権を支持する人はいるのだろう。分からんが。
しかし自民党総裁たる菅さん、行政の長たる菅さんはのらりくらりとごまかすだけで、ちゃんと対処していない。
その菅さんを支持するということは不正は問題ないという支持でもある。
そうであるなら、例えば野党議員が不正していても問題ないということだ。
現下の政権は法律の恣意的運用を繰り返している。(前政権からそうだが……)
学術会議では都合の悪い人選はパージしておきながら、組織委員会では頬被り。
そんなことをする菅さんを支持するということは、法の恣意的運用を支持するということだ。
そうであるなら、例えば警察が恣意的な法律の運用をしてあなたを逮捕してきても文句言えない。
それに対して、ホウチコッカのキキだと声を上げるならダブスタだからな。
コロナ対応では後手後手すぎる。唯一、準備する期間を用意しながら一都三県の緊急事態宣言延長したのは評価できるが。
それ以外は、お粗末すぎることしかできていない。
そんなことをする菅さんを支持するということは危機対応が後手後手なことを支持するとうことだ。
最近、インターネット上のアレコレを見ていても思うことのほとんどが、人間はカスみてぇな精神しか持ちえないということに帰結してしまう。
人間のほとんどが、自らの欲望をしっかり見据えられていないし、自他区別がしっかりできていない。自由などの抽象概念の理解も出来ていない。
俺個人は、もともと近代市民社会をくそくらえと思っているが、それはひとえに人間が精神だけで存在しているわけではないし、そもそもそれは無意識という素晴らしい領域の発見を考慮していないと考えているからだ。
そうした俺個人の思想とは関係なしに見た時、所謂リベラルな先達は、そうした近代市民社会を理想として戦ってきたわけであるし、それはある程度まで効果を発揮してきたということは認めるべきことだ。
が、しかしだ。
インターネットの普及と啓蒙活動が組み合わさって出来たものが、今の醜い自称リベラルのカスどもなわけである。
彼らは、やれ人権を守れだのと言いながら、自らが嫌いだと思う思想の自由を認めない。これを差別主義者といわずして何と呼べばよいのか。
彼らは自分が嫌いだと思うものを嫌いだと言わずに、くそくだらねぇ整合性のかけらもない屁理屈をつけて排斥しようとするのだ。カスだな。
それもそのはず、彼らは社会の残酷さを減らそうとしているから、残酷さそのものである自らの嫌悪感情をそのままに表明できないのだ。性格がひねくれてる。
まぁ、近所の居酒屋で管を巻いてるなら別にいいよ。キモイ奴だなって周りの人間が離れて終わりだからな。
でもインターネット、特にSNSの発展のおかげさまで、キモイ奴がキモイ奴とめぐりあってしまったわけだ。そうなると自らの思想未満のゴミの矛盾さを人数で覆い隠すわけである。
彼らは、自分の好悪感情を善悪にすり替えているし、そのことに自覚的でない。さらには、彼らは自身の欲望もまた自覚できていない。
リベラルな先達が何よりも相手取ってきたのは抑圧だったはずなのに、彼らは抑圧を生み出さないためにと欺瞞して抑圧を欲望しているのだ。
だから、彼らは革命家になれない。彼らは根本的なところで自分と異なるものを認めない態度を保持しつづけている。表面だけをリベラル風に取り繕った差別主義者なのだ。
とはいえ、我々は皆総じてカスだ。人間精神なんてそんな上等なもんでも高機能でも、ましてや神の代わりともなることが出来ない。